Gitanの趣味

ひたすら趣味の道を走っています(ニヤリ)

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家政婦を見た 

 われながら実にあざといタイトルをつけたものだと、いささか忸怩たる思いがある。元ネタが見えみえだ(笑)。
 しかしそれをいえば元ネタの『家政婦のミタ』だって同じだ。タイトルだけをみれば『家政婦は見た』のパロディだ。もしかするとあのドラマは、タイトルから先に生まれたのかもしれない。
 笑われるのを承知で書くと、あのドラマ――『家政婦のミタ』をはじめて見たとき、これはSFドラマだと確信した。本当の話しである。松嶋さん演じるあの家政婦は未来からきた猫型ロボット――ではない家政婦型ロボットに違いないと信じていた。あの無表情、抑揚のない話し方、声の調子はいつも同じ、
「やりすぎだよ、松嶋さん」
 と、思わず突っ込みをいれたくなるほどにアンドロイド的だった。このドラマの松嶋さんを見ていると、美人の構成要素のなかの表情という項目は、かなり大きな比重を占めているのだとわかる。
 あの物語は色々な見方ができるが、ようするに『ドラえもん』である。のび太君はもちろん長谷川さん演じるあのダメおやじだ。家政婦型ロボットのミタさんは四次元ポケットのようなドクターズバックから、みんな(この場合は家族)が欲しがるものを何でも取り出してくれる。しかし、ただひとつ彼女にも取り出せないものがある。それは家族の絆――なんて勝手に想像していた。
 しかし、夜の十時台に『ドラえもん』を持ってくるというのはどうだろうと、観ている方としてはいささか心配していた。SFドラマである。あの時間帯に未来からやってきた家政婦型ロボットが活躍するドラマを放送して視聴率など稼げるはずがない……。
 ぼくは馬鹿である。さすがにそれはないだろうと思いつつ、しかし、半ばそういう落ちがあるのではないかと本気で考えていた。
 たしかに馬鹿ではあるが、そう思えるほどに、あの家政婦は人間離れしている。ドラマが面白くないとは決していわないが、彼女が人智を超えた存在であることはまちがいない。デフォルメされた人間像――というにも強烈過ぎて、また、
「やりすぎだよ、松嶋さん」
 と、苦笑が浮かぶ。
 ある種のスーパー家政婦さんが活躍する物語といえば、幸田文さんの『流れる』がある。もちろんこちらは小説的日常の中の住人なので、さすがに四次元ドクターズバックはもっていないが、それでも厄介な家にやってきて山積する問題をてきぱきと片づけていくあたりは、どうしてどうしてミタさんに負けない見事な家政婦ぶりである。
 こう考えてみよう。家政婦のミタさんは、ある種の理想だ。その昔、レイモンド・チャンドラーは自身が産みだしたヒーローであるフィリップ・マーローについて、存在したこともなければ存在することもできない、彼はある種の可能性であり理想である――とか、たしかそんなことを語っていた気がする。ようするに理想にトレンチコートを着せてみたといっているわけだ。理想にエプロンをつけさせたのがミタさん、そう割り切れば、家事から物真似まで何でもこなすスーパー家政婦ぶりにも納得がいく。
 理想的な家庭の裏側を描いた傑作といえば、山田太一さんの『岸辺のアルバム』を思いだす。こちらはリアリティ満載だった。ある種の理想を擬人化するような真似はせず、ひたすら生々しく崩壊していく家庭を描き切った。
 これも時代の変化だろう。ホームドラマを描いてすら、いまのドラマはどこかにSFの匂いがする。どこかに非現実の匂いがするのだ。あんな人間がいるはずがない。そう思えてしまう登場人物が少なからず登場する。
 もちろん、それが悪いといっているのではない。それはそれで結構面白い。ドラマは結局、時代のものである。たぶん、いまのドラマが一番いい(ちなみにこれは、淀川さんのパクリである)。
 あのドラマのなかで、おっさんのぼくが一番共感できるのは、やはり、長谷川博己さん演じる《のび太君》親父である。あの情けなさはぼくに通じる。そして、好きなキャラクターは《うららちゃん》だ。

カテゴリ: テレビドラマ

テーマ: テレビドラマ - ジャンル: テレビ・ラジオ

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Posted on 2011/12/03 Sat. 20:29    TB: 0    CM: 0

カレーをめぐる冒険 

 食べ物のことは取り上げないといいつつ、またも食べ物の話題である(笑)。節操がないと謗られそうだが、なんとなく頭に浮かんだもので、書いてみることにする。
 まず、我が家のカレーの作り方から――。
 用意するのは、インスタントのカレールウ(あのチョコレートみたいなやつ、メーカーは問わない)、玉ねぎ、生姜、にんにく、鶏肉、トマトの水煮缶、ヨーグルト、ガラムマサラ、そのくらいである。
 まず大量の油で玉ねぎと生姜とにんにくを炒める。ものの本にはよく、玉ねぎは茶色く小さくなるまでじっくり時間をかけて炒めると書いてあるが、特に時間をかけなくても行けるという感じはする。柔らかくなる程度でもぼく的には十分美味しくできると思うが、このあたりは好みでどうぞ――という感じである。
 とにかく玉ねぎと生姜とにんにくを大量の油で炒め、そこにカレールウを砕いて入れて一緒に炒める。そして、水煮のトマトを加える。さらにヨーグルトを加える。最後に鶏肉を入れて、水を加え煮込む。出来上がるちょっと前にガラムマサラを加えれば、一応、インド風のカレーが出来上がるというわけである。一晩じっくり煮込む必要性は、この場合ない。それから塩は多めに加えた方がいいと思う。
 かなり前になるが、とあるドラマで今は亡き谷啓さんがカレー屋さんのご主人を演じていたことがある。そのときカレーの作り方について、
「カレー作りのコツは塩を多めに入れることだ。塩は入れすぎると後で薄めることができないので、ついつい臆病になるが、勇気をもって大目に入れると美味しいカレーができるんだ」
 と、話していた。ドラマは若い二人の恋愛模様と料理を絡ませたものだった。だからカレーだけではなくイタリア料理や他の料理も登場していた。タイトルが思い出せないのだが、若いころの麻生祐未さんが出ていたはずだ。
 普通のカレールウを使ったインド風カレーの作り方は、インド料理店のコックさん(インド人です)から教えてもらった。もちろん、味は曖昧なものだし、好みもあるから、万人受けするとはいわないが、ぼくは好きである。
 余談だが香辛料というやつは種類が増えるほどにマイルドになるらしい。鋭い香辛料の味わいがほしいのなら香辛料の種類を少なくするといいのだという。インドの一般的なチキンカレーに使われている香辛料は、クミン、コリアンダー、カイエイペッパー、フェネグリーク、胡椒、ターメリックくらいだと読んだことがある。もっと少ない香辛料で作るレシピも目にしたことがある。一度、香辛料を買い揃えて作ってみたが、たしかにそれっぽい味になった。

 本場インドにはカレーという料理はないなどと野暮なことはいわない。厳密にいえばそれは正しいのだろうが、ここは一応カレーということで統一する。
 意外にもインドで暮らすインドの人たちの中にも、日本のカレーが美味しいといった方がいるそうである。日本のカレーを美味しいといってくれたインド人家族の親戚がアメリカで暮らしていて、日本のカレールウを送ってもらったのだそうだ。食べてみて病みつきになり、ずっと送ってもらっているということだった。
 いったい日本のカレーを食べているインド人がインドにどれくらいいるのかわからないが、とにかくそういった人たちがいるということはまことに心強い。超がつくほどの少数派だろうが、とにかくカレーの本場であるインドの人のなかに、その味を認めてくれる人がいるのである。別にカレールウ製造元の株を持っているわけではないが、これだって十分日本人の誇りではないか。うれしくないわけがない。
 そのインドへは、若いころにいったことがある。仕事ではなく私的な用事、ようするにカレー、というかインド料理を食べに行った。いや、そればかりが目的ではなかったが、本場のインドカレーを現地で食べるという目的が大きなウエイトを占めていたのは否定できない。
 結論からいうと三日で音を上げた。
 まず、油である。あの大量の油を使った料理を食べ続けるということは、日本人のぼくには相当きつかった。さらに強烈な香辛料の味付け、たまに食べるなら、
「ああ、なんて美味しいんだ」
 と、いうことになるが、毎日食べるとなるとあれほどきついとは、それこそ夢にも思わなかった。味噌、醤油といった大豆発酵食品のうまみを基本にした料理の体系をもつ日本料理と香辛料を基本とした体系を持つ彼の地の料理は、まるで違うものだと身に染みて――いや、胃袋にしみて理解した。もちろん、ヨーグルトという発酵食品を使う場合もあるし、南インドの方に行けばカツオの内臓を発酵させたもの――酒盗のようなものを隠し味で使う場合もあるときいたが、基本的に発酵食品が味の基本になっている料理ではないのだ。
 香辛料の強烈さや素晴らしい香りはあっても、ぼくのDNAに刻みつけられた、ある種の深みのようなものはやはりない。断っておくが深み云々はあくまでもものの喩で、インド料理の底が浅いなどとは間違ってもいっていない。長い年月をかけて作り上げられたインドの料理はまことに奥が深く、精妙な香辛料のブレンドは日本人の及ぶところではない。
 人間、やはり食べなれたものが一番おいしいという当たり前のことを、ぼくは回りくどくいっているだけのことである。

 カレーを印象的に使った小説がある。
『ブロードウエイの戦車』という作品である。矢作俊彦、司城志朗両氏の共著になる作品で、引退寸前の傭兵の一種の復讐劇とでもいえばいいのだろうか。
 主人公のブルドックのような頬を持った傭兵の隊長――ブッラクエースのジョーこと、ジョウ・ラミレル・モルテスは戦いに赴く前にカレーライスを食べる。インド人の傭兵仲間に日本風のカレーを作らせるのである。ジョーはもちろん、日本人なのだ。
 この作品には名場面がいくつも登場するが、カレーの場面がとても好きである。

 最後に、名古屋に《幸》――ゆきと読む――というカレー屋さんがある。あの世界のイチローが卒業した名電高校の近くにあるカレー屋だが、ここのカレーは美味しい。もし名古屋に行くことがあれば、立ち寄ってみることをお勧めします。

カテゴリ: 日記

テーマ: 料理 - ジャンル: 趣味・実用

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Posted on 2011/11/12 Sat. 08:53    TB: 0    CM: 0

私的時代劇考 

 ラ・ペッシュのモンブランについて書いているとき筆の滑りで思わず時代劇について書いてしまった。
 いまさらいうのもどうかと思うが、ぼくは時代劇が大好きである。
 だから最近テレビで時代劇が見られなくなってとても悲しい。たまに特別番組で『鬼平犯科帳』を放送することがあるが、慰めはそれくらいである。
 現実の江戸時代は性病が蔓延する、いまの感覚でいうととんでもないところだったようだが、池波正太郎さんの描く江戸は、人情があり情緒があり、なんとなくだが、
「いいなあ」
 と、しみじみと思える時代である。もちろん、その時代に戻って暮らしたいとは絶対に思わない。遠くから眺めて心をほっこりとさせるという意味の、いいなあである。
 もうひとつの時代劇といえば『必殺シリーズ』がある。しかし、あれはぼくのなかで時代劇の範疇に入っていない。以前、特番枠で仕掛人シリーズを放送していたことがあるが、あれは立派に時代劇していた。必殺ではなく、より原作に忠実な梅安さんが出てくるあれだ。
 もちろん、必殺シリーズが嫌いというわけではない。それどころか相当好きである。ただあれを時代劇と呼ぶことに抵抗があるだけだ。あれは現代劇である。もしくは、異なる次元にある日本の江戸時代を描いた物語だ、それ以外にありえない(笑)。
 他に時代劇といえば大河ドラマがある。が、あれを時代劇と呼ぶことにもいくらか抵抗を感じる。いや、かなり感じる。最近の大河ドラマは時代考証を最初から無視したおちゃらけたものもあるが、時代劇とは本質的に違う、何かが決定的に違うという気がする。
 いまさらいうまでもないことだが、黒澤時代劇が時代劇に与えた影響の大きさは計り知れない。『三匹の侍』の惨殺音。あらゆる時代劇――というか刀を振り回す場面がある映画ならそのほとんどで使われている飛び散る血飛沫は黒澤明の発明だった。さらに劇画の『無用ノ介』である。そのオープニングは、強い風が吹く宿場町に用無し犬こと無用ノ介がやってくるところから始まる。あの場面などはもろに黒澤時代劇である。はっきり言ってしまえば『無用ノ介』は『用心棒』を真似たのだと思っている。
 東映チャンバラ映画の息の根を止めたのは黒澤時代劇だったというような記述をどこかで読んだ記憶がある。歌舞伎調の東映時代劇をリアリティの黒澤時代劇が駆逐したような論調はよく見かける。黒澤以前と黒澤以後で時代劇は劇的に変わった。黒澤時代劇は東映時代劇を追い詰め、東映時代劇が変わらざるを得なくなった。確かにそういった面はあったように思う。
 ただ、黒澤時代劇――この場合は『用心棒』と『椿三十郎』――を指してリアル時代劇という見方は、いかがなものかと思う。時代考証などについてはリアルであったかもしれないが、お話自体は決してリアルでも陰惨でもなかった。陰惨どころか、秀逸なユーモア満載で、ほとんど喜劇映画という構造を持っていた。黒澤明は物語の肝のようなものをよく理解していた。あんな話は真面目にやってはいけないのである。
 東映チャンバラ映画の息の根を止めたと先にうっかり書いてしまったが、絶滅したわけではなかった。その後テレビで復活した。『水戸黄門』も『暴れん坊将軍』も、みな東映チャンバラ映画の末裔だ。
 しかし、そのテレビ時代劇もいよいよ終焉の時を迎えようとしている。
 あの『水戸黄門』がついに、本当の最終回を迎える。
 時代劇がかくも不人気になった理由をぼくなりに考えると、いまテレビを観る主流の人たちが時代劇に慣れていないということもあるような気がする。もちろん、これはまったく素人考えである。
 素人考えを続ける。
 この場合の時代劇というのは歴史劇ではなくチャンバラである。時代劇には歌舞伎のようなある種の決まりごとがあり、それを理解したうえで見ないことには、面白さがわからないようなところがある。平たく言ってしまえば型から入っていく物語の構造を持っている(ように思える)。
 そしてこの型というやつを理解するには、トレーニング――というか見慣れているということが重要になってくる。これまで時代劇を支えてきた世代は時代劇というジャンルの勘所を理解できる環境で育った人たちだった。子どものころから時代劇を観て、親しみ、片岡千恵蔵さん、市川右太衛門さん、近衛十四郎さん、市川雷蔵さんらの殺陣をうっとりとして眺めた経験があった人たちといってもいいだろう。
 時代劇における殺陣の重要性はいまさら言うまでもないことだが、殺陣のうまさ、美しさ、斬新さなどは興味のない者にとってただの大人のチャンバラごっこである。黒澤時代劇の殺陣の凄さ、新しさはそれ以前の時代劇の殺陣を知っている者にしか理解できない。
 そういう世代が表舞台から去って行こうとしているのかもしれない。
 やはり時代劇は消滅していくジャンルなのだろうか。何かと話題の市川海老蔵さんを主演にして「切腹」をリメイクしたりと、劇場では時代劇が上映されているが、テレビでは完全に息絶えたか、息絶えようとしている。
 今度こそ、ほんとうにおしまいかもしれない。
 なにせ、あの『水戸黄門』が本当の最終回を迎えるのだ。
 時代劇復権のためになにが必要なのか素人のぼくには分からない。
 いつかとんでもない天才が現れて、時代劇の型を残しつつ、しかも斬新で、複雑な人間像を描きつつ、しかもエンターテイメントしている、そんな時代劇を創ってももらいたいものだと切に願っている。

カテゴリ: 時代劇

テーマ: 日記 - ジャンル: 日記

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Posted on 2011/11/02 Wed. 19:17    TB: 0    CM: 2

秋の味覚――ラ・ペッシュのモンブラン 

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 味について語ることは虚しい努力だという気がするのでこれまで食に関することは可能な限り書かなかった。が、今回だけは特別である。
 写真は奈良県吉野郡にある《ラ・ペッシュ》のモンブランだ。あまりにもおいしかったので禁を破ってついに食べ物について書くことにした(笑)。

「味というのは曖昧なものだ」
 と、いう言葉が出てくるのは小池・小島コンビの傑作『首切り朝』である。首切り役人としても有名な山田朝右衛門を主人公にした物語だった。ぼくたちがよく目にするのは山田浅右衛門という表記だが、「浅」の一字を「朝」に変えた人も実際にいたそうである。山田浅右衛門というのは歌舞伎の名跡のようなもので、代々引き継がれていくものだったらしい。このあたりのことはネットでいくらでも拾える情報だからくだくだ書かないが、とにかくこの劇画は、時代劇というジャンルのある究極を描いたようなところがあった。
 どこが究極なのか――極端なことをいえば時代劇は斬る者と斬られる者のドラマである。浪人とやくざ者が斬りあうのもそうなら、渡世人対渡世人、剣豪対剣豪も、煎じ詰めれば斬る者と斬られる者だ。あの『忠臣蔵』でも黒澤時代劇でも斬る者と斬られる者のドラマのバリエーションだといえる。だから、《首切りに役人=斬る側》と《罪人=斬られる側》を描いたこのドラマを時代劇の一種の究極だと感じたわけである。
 で、『首切り朝』のなかのひとつに味を題材にしたストーリーがあった。
 名前をはっきりと覚えていないのだが、《頭巾かぶり》だったか、そんな名前の料理が出てくる。絵で見るかぎり納豆のような食べ物だった。その味が美味いか不味いかで口論となり、殺人事件が起きる。犯人は斬首の刑になる。
 斬首の刑が決まったあと、犯人は役人に喧嘩の原因となった食べ物が美味いのか不味いのか確かめてくれというのである。
 役人は困ってしまう。実際に食べてみても美味いといえば美味いし、不味いといえば不味い。困った役人は山田朝右衛門に相談に行く。そこで出てくるのが、
「味というのは曖昧なものであろう」
 と、いう一言である。これは目から鱗だった。味の本質をついていると思う。味は千差万別である。ようするに口にあうかあわないかという一点につきる。
 もっともそれをいいだせば、創作物(料理も含めて)はすべて、最後の最後は好きか嫌いかである。だからこのブログで映画や文学、マンガ、音楽等々について語ることは虚しい努力かもしくは自己満足ということなのだが、それでもそういったジャンルは料理に比べれば、その美味しさ(面白さ)を表現しやすいように思う。

 味はほんとうに曖昧で語ることが難しい。「まったり」として「こく」があったり、「えもいわれぬ舌触り」だったりしても、それは実に個人的なことで他人も同じように味わってくれるとは限らない。
 しかし、今回はあえていいます。
 写真のモンブランはものすごく美味しい。本当においしい。味は曖昧なものかもしれないが、このモンブランにかんしていえばまちがいなく美味である(笑)。
 ものを書く人間は筆舌に尽くしがたいことを、筆舌を尽くして書くべきだといったのは開高健さんだったと思うが、それはプロに対していったことで当方はアマチュアだから、あっさりと白旗を上げる。ただ美味しいとしかいえないものがこの世の中には確かに存在するのだ。
 もし、奈良県に行く機会があれば立ち寄ってみることをお勧めします。モンブランは期間限定です。

カテゴリ: 日記

テーマ: 日記 - ジャンル: 日記

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Posted on 2011/10/03 Mon. 21:26    TB: 0    CM: 0

新しい器 

 原作をそのまま映像化することはもはや不可能だということはわかっていた。小説『砂の器』のもっとも重要な部分を映像化できたのは、松竹映画『砂の器』だけだった。以後の映像化はすべて物語の核ともいうべき部分にアレンジを加え映像化している。時代が変わったということもあるだろう。古典落語と同じだ。『砂の器』をそのまま映像化しても、理解できない人が今ならいるかもしれない。
 しかし、そういったこととは別に原作をそのまま映像化することで不快な思いをする人たちがいる。そんなことは鈍感なぼくでも察しがつく。表現には常に責任がつきまとう。表現の自由はもちろん大切で基本的にはどんなことを表現してもよいとは思う。が、その一方でどんなことにも限界があるような気がする。
 悪意はなくとも人を傷つけることがある。それが善意から、あるいは現状を変えたいと願う思いから出た言葉であっても、人を傷づけることがある。物語の核となる部分を変更するのは原作権を持つ松本家の意向でもあったという。
 田村正和さんが犯人を演じた『砂の器』では放浪の理由を父親が心を病んだためとしていた。1991年版は観ていない。2004年と今回の作品は親子の放浪の理由を犯罪、もしくは冤罪に求めていた。それはそれでもっともなことだと思いつつも、『砂の器』が『砂の器』である理由を放棄していることも事実だ。これは決して批判ではない。断っておくがぼくは松本家の姿勢を全面的に支持している。
 ただ――『砂の器』の映像化は諦めた方がいいのではないだろうか。映像化したくなる魅力を持つ原作ではあるが、物語を描ききれないと最初からわかっているのであれば、手を出さないほうが賢明だ。
 今回の『砂の器』を一言でいってしまえば『野良犬』である。もちろん、これはぼくの勝手な思い込みで、
「え? 違うだろう」
 と、思う人がいても別にかまわない(笑)。
『野良犬』はいうまでもなく黒澤明の名作刑事ドラマである。あのドラマの骨格はその後の刑事ドラマに大きな影響を与えた。というか日本の刑事ドラマはあの映画がはじまりだったという気さえする。ちょうど『酔いどれ天使』がその後の実録系やくざ映画に影響を与えたようなものだ。思えば黒澤明はほんとうに偉大だった。
 同じような境遇で育ったふたりが別々の人生を歩み、やがて刑事と犯罪者となって出会う。『野良犬』においてそれは復員兵だった。復員時に荷物を盗まれた二人の男がひとりは刑事になりひとりは犯罪者になる。正反対の人生を歩むのである。
 今回の『砂の器』ではそれが戦災孤児だった。
 厳密にいえばひとりは戦災孤児とは言えない。だが、幼少期に辛酸を舐めて育った二人の男の葛藤が物語の核になっていた。まさに『野良犬』の設定だ。
 物語は昭和三十五年、もう戦後とはいえないが、戦争を知っている世代がまだ現役だった時代だ。もう戦後とはいえないと書いたが、2011年――平成23年の今から見ればあの時代はまだ十分戦後である。敗戦から数えてたった十五年しか経っていない。戦後の混乱期を舞台に描いた刑事ドラマ『野良犬』の影が、物語全体に色濃く落ちているように見えてもさほど不思議ではないのかもしれない。
 どんな物語でも大きな物語の一部だというが、今回の『砂の器』を見ているとその言葉の正しさを実感する。その気になれば、どんな物語でも融合可能なのだ。既存の物語を組み合わせて、新しい物語を生み出すこともできる。というか多くの作家がそれをしている。そうやって生み出された新しい物語も、すでにある物語だ。しかし、だからこそ見る者を刺激し、感動させ、何かを気づかせ、作者が巧妙に隠したテーマを発見させる喜びを、読者や観客に与えることができる――と、そんな気がする。
『砂の器』の脚本を書くにあたってシナリオライターの頭の隅に『野良犬』があったのかどうか。
 それはわからないが、少なくともこれまで何度も映像化されてきた『砂の器』を映像化するにあたって、皆と同じことはしたくなかったのだろう。
 若くてイケメンの玉木宏さんが出演することもあり、彼をメインでという製作者側の意向もあったのかもしれない。
 背景などはぼくに窺い知る由もないが、原作では脇役だった若い刑事に人生を語らせることで、物語に強い陰影を与えようとしたのだろうか。
 それが成功したのかどうか、素人のぼくにはわからない。
 その作品が面白いかどうか、好きか嫌いかは、結局個人の好みによるところが大きい。
 松本清張という人の作品は淡々としている。どんな事件を描いても、無用に人の感情を煽り立てるような書き方をしない。小説を読んでいてもドキュメンタリー風というか、あたかも自分が足を使って調べた事実だけを書いているかのように、静かに筆を進めていく。
「好みの問題ではない、それが事実なら受け入れるしかないだろう」
 といわんばかりの、突き放した文体だ。諦観が漂っているような文体だともいえる。
 現実は劇的ではない。自分の日常を考えてみてもそれはわかる。生きるということはいってみれば一種の惰性で、であるからこそ、心穏やかに生きていられるともいえる。
 前にも同じことを書いたがもう一度――年齢がばれそうで怖いが、ぼくの周りには戦争にいって、銃をとって戦ったという人たちがたくさんいた。いまもいる。
 その人たちは特別な人間ではい。戦争という悲惨な体験をしたからといってドラマチックな人間になるとは限らない。戦争という究極の暴力行為に参加した人々でさえ、誰でもランボーになるわけではないのだ。実感としてぼくはそう思う。
 おそらく多くの人間は、たとえ刑事になったとしても取調室で自分の悲惨な人生を犯人相手に披瀝したりするとは思えないし、そういった人物像は松本清張さんの好みではないような気がするのである。普通であることを面白いドラマにする。そこに松本清張さんの真骨頂があるように思える。
 今後、何度『砂の器』は映像化されるのか、大変興味がある。ただ、何度映像化されても松竹映画『砂の器』のインパクトは超えられないような気がする。何度も映像化されるルパンⅢが、結局『カリオストロの城』の呪縛から逃れられないのと同じことだ。

※ 女性記者についてはなにもいいません。中谷美紀さんは好きな女優さんですから(笑)。

カテゴリ: テレビドラマ

テーマ: 雑記 - ジャンル: 小説・文学

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Posted on 2011/09/17 Sat. 07:42    TB: 0    CM: 2

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