Gitanの趣味

ひたすら趣味の道を走っています(ニヤリ)

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声の劇場 

 密かな趣味は一人称で書かれた小説を読むことです(笑)――と、冗談のように書いてみたが、これは本当の話しである。一人称で書かれた小説が好きか嫌いか、好みの別れるところだという気もするが、ぼくは大好きである。
 なんでも昨今の懸賞小説の応募作品は一人称の作品が増えているそうだが、なんとなくわかる気がする。作家の室井佑月さんが以前テレビで小説を書くことについて、
「ようするに嘘の日記を書けばいいんだと思った」
 と、いうようなことを仰っていた。なるほどと思わず膝をたたいた。室井さんの、それが小説作法なのかと感心した覚えがある。ぼくなどはとてもそういった発想ができない。やはり作家にでもなろうかという人は違うものだと思ったことを覚えている。
 この話をもう少し詳しく書くと、室井さんがサービス業で働いておられたころ、お客さんに対して嘘ばかりついていたということだった。架空の身の上話を語って聞かせていたらしい。ならばいっそ、嘘の日記を書いてやれと思って小説を書きはじめたのだいう。作家のいうことだからどこまで本当なのかわからないが、確かにそういう部分はあったのかもしれない。
 一人称の小説というのは、ようするに嘘の日記、もしくは偽りの体験として書けるようなところがあり、その意味では自分を強く投影できる表現形式のように思える。架空の体験を綴るということは、どこか過去の体験を綴ることと似ているような気がするのだ。過去と未来は、いってみれば個人の頭の中にあるという点で、似ているような気がするときがある。
 自身の体験がはたしどこまで信用できるのか、自分では絶対にそうだと思っていても客観的事実はまた別のところにある可能性がある。思い違いも勘違いも、常に影のようにぼくたちに付きまとっている。
 ――と、考えれば、架空の体験もいってみれば自分の体験である。一人称で書くということが、過去であれ未来であれ、自分の体験を綴ることならば、書きやすいと感じることがあってもいいような気がする。もっともこのあたりはぼくの勝手な想像で、実作者の方に、
「そんな簡単なものじゃないよ!」
 と、お叱りを受けるかもしれない――が、お叱りを覚悟で続ける。一人称で書くということは、省略がふんだんに使える。そのことも、違和感のない日本語になりやすく、わりと書きやすい印象につながるのかもしれない。
 たとえばこのブログは、当たり前だが一人称で書いている。《ぼく》という主語はできるだけ使わないように心掛けている。これが日本語の凄いところで、主語(日本語にそんなものがあるかないかという議論は別にして)を削っても、行為者が誰かは明々白々であり、そこそこ意味の通った文章になる。主語を削れば日本語はぐんとよくなると井上ひさしさんも書いておられたことだし、この説はそう間違っていないと思っている。ぼくが主張しているのではなく、知の巨人井上ひさしさんが書いておられるのだ(笑)。絶対にまちがいない。
 主語を省略した、つまりぎくしゃくした日本語にならずにすむ点も書きやすさに通じるのだろう(正確にいえば、書きやすそうに見える)。
 こんな理屈はともかく一人称で書かれた作品は好きである。何でもかんでもいいというわけではないが、好きな作品が多い。いつかもこのブログで取り上げたジェイムス・フレイの『こなごなに壊れて』も一人称で書かれた作品だったし、大岡昇平の『野火』も一人称で書かれた作品だった。『不夜城』も《おれ》という一人称で書かれた作品だった。
 しかし、大岡作品やそのほかの優れた一人称作品を読んでいると、書きやすいと思うのは実はとんでもない幻想ではないかと思えてくる。確かに書きやすそうに見えるのかもしれないが、その実、これはそうとう厄介な表現形式ではないかという気もする。

 よくいわれることだが一人称という形式は感情表現に向いているし、物語の軸がぶれにくいという利点がある。が、その反面物語を多くの視点から語ることができない。また主人公の知らないことは基本書けないという制約もある。けっこう縛りの多い表現形式なのだ。
 しかし、ある種の不自由さはあってもその不利を補ってあまりあるほどの美質もあるようにぼくには思える。このあたりは個人の好みと関係している部分でもあり、あの自己陶酔のような独白調がたまらなく嫌だと感じる人がいても少しもかまわない。
 いまさら言うまでもないことだが、ある人物の視点を通して語られる物語というのは、ぼくたちが世界を認識する方法とおなじだ。だから、優れた一人称の小説を読んでいると、あたかもそれが作者の世界観と共通しているのではないかと強く思えるときがある。
 それは三人称で書かれた小説でもそうなのだろうが、しかし、一人称のすぐれた作品は全く架空の世界――未来とか宇宙とか超能力者とか――を描いてさえ、ある種の私小説を読んでいるような気持ちになることがある。
 一人称で書かれた物語は、物語がわき道にそれにくく、豊かな感情表現が可能である。だとすると、それは主人公の主観に満ちた世界、主観しかない世界だともいえる。つまり独断と偏見の世界である。したがって、きわめて不愉快な思いをさせられる場合も当然ある。
 しかし、たかが小説である。たとえば現実の政治を動かす人間が独断と偏見で動かれてはたまらないが、小説の登場人物が、偏向した世界観を持っていても少しもかまわない。むしろ極端に歪んだ考えかたを持った主人公が赤裸々に内面を語れば、自分のなかにもある差別や偏見、はたまた破壊衝動など、あまり見つめたくない自分に気づかされることもあり、それはそれで十分意味のあることだと思える。
 一人称という表現形式は語りのようなものだと思うことがある。誰かが話す、誰かの物語に耳を傾けるなら、語りが巧みであるにこしたことはない。印刷された、あるいはデジタル処理された言葉のなかからでも、その人の肉声が聞こえてくるような作品に出合えればとても幸運だと思っている。

※ タイトルに使わせていただいた『声の劇場』は、たしか山田太一さんの『路上のボールペン』のなかにあった言葉だと記憶しています。間違っていたらすみません。
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Posted on 2011/08/08 Mon. 21:07    TB: 0    CM: 0

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