Gitanの趣味

ひたすら趣味の道を走っています(ニヤリ)

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最強の意味 

 ポスターには『最強』の二文字が躍っていた。それを見たとき、ああこの人はやっぱりわかっているんだと思った。何の話か? 今話題の座頭市である。しかし、香取君の座頭市ではなく、北野版『座頭市』である。
 今回の『座頭市 The Last』だが、申し訳ないがぼくは見たいと思わない。ぼくのなかで座頭市はとうに終焉を迎えている。座頭市の物語は、勝新太郎という天才がこの世を去ったときに終わっていたのだと思っている。切なすぎる愛に散った男なんかではない。一閃の居合で浪人を倒したあの瞬間に終わった。
「抜いたのは、そっちが先だぜ」
 市の最後のセリフだ。
 1989年、勝新太郎最後の座頭市映画が製作された。映画のラスト、向こうから浪人が近づいてくる。市がこちらから歩いていく。二人の距離が縮まり、それぞれの間合いに入った瞬間、浪人は刀を抜く。市も仕込みを抜く。一瞬だけ市のほうが早い。
 最後の市は、逆手ではなく順手で仕込み杖を抜いた。仕込み杖を肩に担ぐように持ち、身体を沈めながら順手で神速の居合を見せる。そして浪人を倒し、あのセリフである。抜いたのは、そっちが先だぜ。浪人を倒した市は遠くに去って行く。
 勝新太郎、最後の座頭市については批判的な批評も目にしたことがある。確かに最後の座頭市はそれまで作られた座頭市映画の、ダイジェストのような感じもあった。かつて座頭市映画で使われたストーリーやアイデアが随所にちりばめられていた。もしかすると、勝新太郎には、これが最後の座頭市だという意識がどこかにあったのかもしれない。

 話を『最強』に戻すと、座頭市という主人公は、多くの娯楽作品の主人公がそうであったように、基本的に過去も未来もない男なのだ。そもそも人生や愛を語らせるような人物ではない。テーマは常にひとつである。『最強』であること、そこに尽きる。それ以外、何も必要はない。
 丹下左膳が隻眼隻手でありながら最強であるように、盲目だが神業の居合を使うという座頭市の、その設定自体にドラマがあるのだと思っている。そこから想像させる彼の過去や未来がすでにドラマになっているわけで、わざわざ切なすぎる愛などを声高に語られても、こちらは白けるばかりだ。少なくともぼくは白ける。
『最強』以外の何かを描こうとすることは、愚かな試みだと思う。綾瀬はるかの『ICHI』が少しも魅力的でなかったのは、あの女性版座頭市が最強でなかったからだ。座頭市映画を見て、人生や愛を感じるのは見る側にある。作り手が、過剰にそれを訴えることをぼくは好まない。
 座頭市という物語は、盲目だが、しかし最強の男を描いた物語であって、それ以上でもそれ以下でもない。他のことはすべて見る側が感じればいいことなのである。そのあたりの割り切りが中途半端だと、どっちつかずの、フラストレーションだけがたまる作品になる。
 ポスターに『最強』の文字を入れ、石灯籠を叩き斬って、その向こうにいる敵を斬る場面を入れた北野武はそのあたりのことをよくわかっていた。物語の本質のようなものを大掴みにつかめる才能の持ち主なのだ。黒澤明が監督北野武を絶賛していた理由がわかるというものだ。

 巨人黒澤明はビートたけしで座頭市を撮ってみたといっていたらしい。テレビのインタビューで黒澤監督の娘さんが話していた。ビートたけしを座頭市にと考えたのは、さすが黒澤である。もし、監督黒澤明、主演ビートたけしで『座頭市』が作られていれば、それはとんでもない作品になったと思う。
 それでも勝新太郎の座頭市には及ばなかっただろうとも思う。勝新太郎亡き後、座頭市は二本作られている。香取版をいれれば三本だ。香取版を見ていないので何とも言えないが、北野武版『座頭市』は出色のできだった。だが、大いなる番外編だった。クールでモダンな座頭市だった(古いね、どうも)。
 いったい、どうして皆、余計なことを語りたがるのだろう。最強以外ない男を描くのにどうして切なすぎる愛が必要なのか。物語を語り切る自信がないから、抒情に逃げているのかといいたくなる。
 ぼくは、表現は思想に優先するという立場をとる。優れた表現者であれば、たとえ洗濯バサミを延々と映しても、立派なエンターテイメントに仕立てることができるはずだし、深遠な哲学を語ることもできるはずだと信じて疑わない。

《追記》
 勝新太郎の座頭市映画では何度か市の過去に触れられている。兄や剣の師匠が登場したこともあった。しかし、それもこれもプログラムピクチャー的御都合主義に彩られた代物で、それ自体によりかかった物語ではなかったと記憶している。
 今回をもって座頭市映画が作られることはもうないと宣言している。ほんとうだろうかと思う。何年か経ち、ふたたび座頭市が撮られる日が来るような気がしてならない。余計な理屈をこねない座頭市が戻ってくることを期待したい。
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カテゴリ: 時代劇

テーマ: ひとりごとのようなもの - ジャンル: 日記

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Posted on 2010/05/31 Mon. 10:13    TB: 0    CM: 2

この記事に対するコメント

お久しぶりです。

「座頭市」はどれも未見なので、わからないままですみません。

> いったい、どうして皆、余計なことを語りたがるのだろう。最強以外ない男を描くのにどうして切なすぎる愛が必要なのか。物語を語り切る自信がないから、抒情に逃げているのかといいたくなる。

同感です。
本質的な魅力さえしっかりしていれば、過剰なお情けは必要ないと思います。
ファンはそういう飾りを期待していないと思います。

紋次郎を引き合いに出して申し訳ないのですが、「紋次郎には歩き続けてもらいたい。」と思っています。
極端ですが、街道を急ぐ紋次郎の後ろ姿がはじめから終わりまで続いていても、私は多分見続けるでしょう。

「座頭市」は勝新太郎、「木枯し紋次郎」は中村敦夫しかいないと、私は思っています。

URL | お夕 #wikz35BA

2010/06/01 21:23 * 編集 *

 お夕さん、お久しぶりです。

 本質的な魅力が明確に描かれていれば、名前だっていらない、と乱暴なことを考えたりすることがあります。実際、そういう主人公は存在します。D・ハメットの『血の収穫』の主人公には名前がありません。関川夏央さんは『名探偵に名前はいらない』というマンガの原作を書いているくらいです。

 黒澤明の『用心棒』がハメットの『血の収穫』と『ガラスの鍵』をもとに作られたことは有名な話です。そのことは黒澤自身も認めています。用心棒である素浪人が適当な名前を名乗る、つまり名前すらない主人公であるということは明らかに『血の収穫』が元ネタになっているからだろうと思います。

 名前も、経歴も、湿っぽい事情などなくても、主人公になれるのだと先人たちは教えてくれているみたいですね(笑)。北野版『座頭市』にも主人公に関する詳しい説明はありませんでした。そもそも座頭市の座頭は江戸期における視覚障害者の方々の階級のひとつですから、『座頭市』という名前そのものが、名無しのようなものです。
 
 さて、紋次郎ですが、ぼくも紋次郎の歩く場面は大好きです。ただ歩くだけではあの感じは出ないと思います。悲哀と絶望を背負ってあるく足取りを表現しなければならないわけですから、大変な演技力を要求されると思います。

 木枯し紋次郎のオープニングで峠の向こうから紋次郎があらわれる場面がありますが、あそこは絶品だと思います。中村敦夫氏の大股でしっかりと、早く歩きながら、しかもばたつかない足取りは、もしかすると中村敦夫さんにしかできなかったかもしれません。仰る通り紋次郎は「中村敦夫さん」座頭市は「勝新さん」以外考えられません。

URL | le_gitan #-

2010/06/02 13:50 * 編集 *

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