Gitanの趣味

ひたすら趣味の道を走っています(ニヤリ)

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円月殺法の美学 

「冥途の土産に円月殺法、御覧にいれよう」
 と、いうのはもちろんあの眠狂四郎の決め台詞である。秘剣だとかなんとか殺法というのは時代劇関係のドラマや小説にはよく登場するが、やはり群を抜いているのは円月殺法だと個人的には考えている。とはいえ、この剣の技は冷静に考えてみると、効果のほどは相当怪しい。ようするに下段に構えてそこからゆっくりと切っ先で円を描いて行くというわけだが、これでどうして人が斬れるのか。
 もちろん、小説的現実の中ではその原理は細かく説明されている。ようするにこの剣術は一種の催眠術――いや、完全な催眠術で、名刀夢想正宗が描く円によって、相手の意識を拡散させ、吸い寄せるようにして斬る、ということらしい。
 眠狂四郎はこの秘剣を自分自身で会得したということになっている。自分の出生の秘密を探るために訪れた長崎(だったと思うが)からの帰路、嵐に遭遇して瀬戸内海の孤島に漂着、そこにいた一刀流の流れを汲む老剣客から剣術を習っていた際に、編み出した――そんな話だったと記憶している。何分読んだのが中学生時分のことで記憶を頼りに書いていて、細部についてはあるいは間違っているかもしれない。細部どころか、全体に大きくまちがっているかもしれない。
 とにかく狂四郎はそのとき小舟の上にいたはずである。剣の師匠から極意に関するなにか宿題のようなものを出されていたのではなかっただろうか。それを考えながら、船の上に寝そべり太陽を見ていた。そこに師匠が現れて、いきなり立会いということになる。ところがである。太陽を見つめていた狂四郎の瞳孔は窄まっていて、師匠の姿は見えない。が、師匠の乗っている船は見えた。そこで狂四郎は師匠がいそうなあたりを確かめるために切っ先で円を描き、えい! やあ! と、斬りかかった。で、師匠はこの必殺の一撃を受け止め、
「できたな」
 と、言うわけである。確か小説では鳥居の型で受け止めたとなっていたような気がするが、これはまちがいかもしれない。何度も断るあたり自信のなさのあらわれだが、本当にこうだったかどうかはかなり怪しいが、ぼくの記憶のなかでは、円月殺法誕生にはこういう経緯があったことになっている。
 どうしてこの結果が、催眠剣法である円月殺法につながるのかわからないが、もっともらしく描かれていれば何でもありだ。
 円月殺法の原理については、何でもありということで脇に置いておくとして、この作品はぼくにとって常に映像とセットになっている。正直、原作と映画の間にはやや開きがあるように思える。原作の方が、どういえばいいのか――からっとした印象があるようにも思う。言いかえると映画の方が毒々しい印象が強いのだ。
 そして、映画といえば絶対に市川雷蔵演じる眠狂四郎である。もちろん、ほかにも演じた人がいるが、やはり眠狂四郎は市川雷蔵意外にいないと思っている。西洋人との混血の剣士という設定なら、市川さんは純日本風の方で、原作とはちがうのかなと思いつつも、もうこの人以外の眠狂四郎はこの世に存在しないという印象さえぼくにはある。
 勝新太郎さんが、眠狂四郎を演じるとき、市川雷蔵の顔の相が変わるというようなことを発言していたらしい。どう変わるかと言えば、鼻の下が少し伸びる。それはつまり死相なのだという。ほんとうにそうなのかどうか知らないが、たしかに眠狂四郎というのは、名前からして不吉で、そういう演技をあの市川雷蔵ならしたのかもしれないと思ったりもする。
 市川雷蔵主演の眠狂四郎は12本ほどあるようだが、ほぼ全作観たような気もする。好きな作品は『勝負』と『魔性の肌』あたりだ。このふたつは、円月殺法の表現方法が違っていた。『勝負』のときはただ刀をまわしていただけだったが、『魔性の肌』ではストロボ撮影を駆使し、円月殺法の眩惑的な雰囲気を巧みに演出していた。円月殺法をストロボ撮影で行うようになったのは、第四作の『女妖剣』からだったらしいが、ぼくが最初に見たのは『魔性の肌』で、印象に残っているのはそのあたりのことも関係しているのかもしれない。
 やりようによっては、いくらでも深く描くことのできる作品だと思うが、なかにはちゃちな感じのするものもたしかにあった。ある作品のなかでキリスト教の宣教師を棄教させるために、女性をあてがうという場面があった。宣教師は己の肉欲に負けて女性と関係を持ち、その宣教師の首を狂四郎が馬上から撥ねる。なんともむちゃくちゃな話で、あれは観ていて凄く嫌な気がした。ぼくは別にクリスチャンではないが、遠藤周作の『沈黙』と自分のなかでどうしても比較してしまうのである。万里の波頭を越えて、キリスト教が禁止されている日本に布教にやってくるような宣教師が、こんなことで己が信ずる神を捨てるだろうか。誠にキリスト教に対して失礼なことをしていると感じた。何も宣教師が全員聖人君子だなどと言っているのではない。しかし、棄教という宣教師の人生に関わる問題を描くにあたり、その表現が安っぽかったことに憤っているだけだ。市川雷蔵さんの存在感――いかなる場合にも凛としたあの立ち居振る舞い――が安っぽい表現をずいぶん救っていたように思う。
 眠狂四郎は一歩間違えればエロ映画――最近の一般映画の方がよほどこの点は凄いが――になりかねないものもあったように思うが、市川雷蔵さんの品の良さが作品全体の格を上げていたように思えるのである。
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カテゴリ: 時代劇

テーマ: 映画感想 - ジャンル: 映画

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Posted on 2012/02/24 Fri. 17:38    TB: 0    CM: 1

リアルと追跡 

 映画『勇気ある追跡』の中でジョン・ウェインは馬にのり、手綱を口にくわえ、右手にライフル左手に拳銃という離れ業で、一直線に敵に向かっていった。あの四対一の戦いに今の感覚で言うところのリアリティはなかったと思う。が、それでも映画的迫力に満ちていた。颯爽としたジョン・ウェインがそこにいた。いろいろと物議をかもす発言もあったが、ぼくはジョン・ウェインが好きだった。今も好きである。
『トゥルー・グリット』と名を変えた『勇気ある追跡』は、実際にあの時代がそうであったかのような画面の中で、実際にあの時代を生きていたようなならず者たち(犯罪者も保安官も)が戦いを繰り広げていた。しかし、颯爽としたジョン・ウェインの入り込む余地はそこにはなかったように思う。今は西部劇といえども絵空事は描きにくい時代になったのだろう。ジョン・ウェインが演じたルースター・コグバーンは酔いどれの中年男というわりには、いま思い返してみるとずいぶんまともに見えた。少なくとも風呂には――毎日ではないにしても週に一回くらいは、入っていそうな初老の男だった。今回、ジェフ・ブリッジスが演じたルースター・コグバーンは、ただただ薄汚く、ろくに風呂にも入らず歯も磨かない、匂ってきそうなどうしようもない酔いどれおやじだった。どちらがよりリアルか、比べるまでもない。
 映画は大好きなコーエン兄弟の作品ということもあり、しっかり楽しむことができた。
 ついでのことに原作も読んでみた。恥ずかしながらウェスタン小説にはこれまでとんと縁がなくずいぶん昔にジャック・シェーファーの『シェーン』を読んだきりだった。そもそも日本にはウェスタン小説というジャンルそのものがあまり入ってきていない印象がある。あくまでもぼくの個人的な印象で、
「いや、そんなことはない、けっこう入ってきている」
 と、いわれれば、反論のしようもないが、とにかくウェスタン小説はあまり入ってきていないということで、話をすすめることにする。
 ウェスタン小説の輸入は少ない。これを事実としても、事情はわからないでもない。たとえば時代劇小説だ。名作傑作数多あるが、日本という国の過去を描いているという点で万人受けするとはさすがに思えない。時代劇と西部劇、どちらがより広く世界に認知されているかとなると、やはりアメリカというスーパーパワーを背負った西部劇の方に軍配が上がるのだろう。とはいえ、今から百年以上前の他国の過去の物語に、人々がそれほど熱狂するとは思えない。
 しかし、今回『トゥルー・グリット』を読んでみて、ずいぶん印象が変わった。なんというか思っていたほど古くないのである。何が? 物語の背景となる時代がである。
 いつかも書いたことがあるが、西部劇の時代を日本の時代に置き換えると、天保時代のイメージがある。木枯し紋次郎や座頭市がいた時代だ。が、実際は明治の頃で、法制度もそれなりに整っていたし、警察機構もそれなりに整備されていた。開拓時代というと荒っぽいイメージがあるし、実際に荒っぽかったのだろうとは思う。とはいえ日本から比べればよほどアメリカの方が文明国だった。これもまた事実だろう。それに荒っぽいという点を誰もが銃をもって、いつどこで銃撃戦がはじまっても不思議ではないという点にだけ求めれば、アメリカは今も昔もそれほど変わっていないということになってしまいそうだ。
 たとえばこの小説の舞台を1880年代とすると明治13年ごろだ。わが日本では文明開化を寿いでいたころだ。わずか13年前はまだ立派な江戸時代だった。山田浅右衛門の九代目、山田吉亮が最後に斬首を行ったのは明治12年だったと記憶している。
 日本で斬首の刑が執行されていたころ、アメリカでは弁護士のつく裁判が当然のように開かれ、法的な駆け引きがあり、すでに麻薬を取り締まる法律まであった。民主党と共和党の対立まであったのだ。西部劇というのは実はそんなに昔のお話ではないのだということがよくわかった。
 日本人の目から見れば『トゥルー・グリット』は遠い昔の少女の復讐劇などではなく、つい最近――というのはいくらなんでも言い過ぎだが――とにかく、今の時代と地続きの時代におきた犯罪者の追跡劇という感じさえしてくる。ジョン・ウェインの入り込む余地は、原作にもなさそうな気がするのが残念だ。

カテゴリ: 映画

テーマ: 洋画 - ジャンル: 映画

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Posted on 2012/02/08 Wed. 21:31    TB: 0    CM: 2

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