Gitanの趣味

ひたすら趣味の道を走っています(ニヤリ)

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カレーをめぐる冒険 

 食べ物のことは取り上げないといいつつ、またも食べ物の話題である(笑)。節操がないと謗られそうだが、なんとなく頭に浮かんだもので、書いてみることにする。
 まず、我が家のカレーの作り方から――。
 用意するのは、インスタントのカレールウ(あのチョコレートみたいなやつ、メーカーは問わない)、玉ねぎ、生姜、にんにく、鶏肉、トマトの水煮缶、ヨーグルト、ガラムマサラ、そのくらいである。
 まず大量の油で玉ねぎと生姜とにんにくを炒める。ものの本にはよく、玉ねぎは茶色く小さくなるまでじっくり時間をかけて炒めると書いてあるが、特に時間をかけなくても行けるという感じはする。柔らかくなる程度でもぼく的には十分美味しくできると思うが、このあたりは好みでどうぞ――という感じである。
 とにかく玉ねぎと生姜とにんにくを大量の油で炒め、そこにカレールウを砕いて入れて一緒に炒める。そして、水煮のトマトを加える。さらにヨーグルトを加える。最後に鶏肉を入れて、水を加え煮込む。出来上がるちょっと前にガラムマサラを加えれば、一応、インド風のカレーが出来上がるというわけである。一晩じっくり煮込む必要性は、この場合ない。それから塩は多めに加えた方がいいと思う。
 かなり前になるが、とあるドラマで今は亡き谷啓さんがカレー屋さんのご主人を演じていたことがある。そのときカレーの作り方について、
「カレー作りのコツは塩を多めに入れることだ。塩は入れすぎると後で薄めることができないので、ついつい臆病になるが、勇気をもって大目に入れると美味しいカレーができるんだ」
 と、話していた。ドラマは若い二人の恋愛模様と料理を絡ませたものだった。だからカレーだけではなくイタリア料理や他の料理も登場していた。タイトルが思い出せないのだが、若いころの麻生祐未さんが出ていたはずだ。
 普通のカレールウを使ったインド風カレーの作り方は、インド料理店のコックさん(インド人です)から教えてもらった。もちろん、味は曖昧なものだし、好みもあるから、万人受けするとはいわないが、ぼくは好きである。
 余談だが香辛料というやつは種類が増えるほどにマイルドになるらしい。鋭い香辛料の味わいがほしいのなら香辛料の種類を少なくするといいのだという。インドの一般的なチキンカレーに使われている香辛料は、クミン、コリアンダー、カイエイペッパー、フェネグリーク、胡椒、ターメリックくらいだと読んだことがある。もっと少ない香辛料で作るレシピも目にしたことがある。一度、香辛料を買い揃えて作ってみたが、たしかにそれっぽい味になった。

 本場インドにはカレーという料理はないなどと野暮なことはいわない。厳密にいえばそれは正しいのだろうが、ここは一応カレーということで統一する。
 意外にもインドで暮らすインドの人たちの中にも、日本のカレーが美味しいといった方がいるそうである。日本のカレーを美味しいといってくれたインド人家族の親戚がアメリカで暮らしていて、日本のカレールウを送ってもらったのだそうだ。食べてみて病みつきになり、ずっと送ってもらっているということだった。
 いったい日本のカレーを食べているインド人がインドにどれくらいいるのかわからないが、とにかくそういった人たちがいるということはまことに心強い。超がつくほどの少数派だろうが、とにかくカレーの本場であるインドの人のなかに、その味を認めてくれる人がいるのである。別にカレールウ製造元の株を持っているわけではないが、これだって十分日本人の誇りではないか。うれしくないわけがない。
 そのインドへは、若いころにいったことがある。仕事ではなく私的な用事、ようするにカレー、というかインド料理を食べに行った。いや、そればかりが目的ではなかったが、本場のインドカレーを現地で食べるという目的が大きなウエイトを占めていたのは否定できない。
 結論からいうと三日で音を上げた。
 まず、油である。あの大量の油を使った料理を食べ続けるということは、日本人のぼくには相当きつかった。さらに強烈な香辛料の味付け、たまに食べるなら、
「ああ、なんて美味しいんだ」
 と、いうことになるが、毎日食べるとなるとあれほどきついとは、それこそ夢にも思わなかった。味噌、醤油といった大豆発酵食品のうまみを基本にした料理の体系をもつ日本料理と香辛料を基本とした体系を持つ彼の地の料理は、まるで違うものだと身に染みて――いや、胃袋にしみて理解した。もちろん、ヨーグルトという発酵食品を使う場合もあるし、南インドの方に行けばカツオの内臓を発酵させたもの――酒盗のようなものを隠し味で使う場合もあるときいたが、基本的に発酵食品が味の基本になっている料理ではないのだ。
 香辛料の強烈さや素晴らしい香りはあっても、ぼくのDNAに刻みつけられた、ある種の深みのようなものはやはりない。断っておくが深み云々はあくまでもものの喩で、インド料理の底が浅いなどとは間違ってもいっていない。長い年月をかけて作り上げられたインドの料理はまことに奥が深く、精妙な香辛料のブレンドは日本人の及ぶところではない。
 人間、やはり食べなれたものが一番おいしいという当たり前のことを、ぼくは回りくどくいっているだけのことである。

 カレーを印象的に使った小説がある。
『ブロードウエイの戦車』という作品である。矢作俊彦、司城志朗両氏の共著になる作品で、引退寸前の傭兵の一種の復讐劇とでもいえばいいのだろうか。
 主人公のブルドックのような頬を持った傭兵の隊長――ブッラクエースのジョーこと、ジョウ・ラミレル・モルテスは戦いに赴く前にカレーライスを食べる。インド人の傭兵仲間に日本風のカレーを作らせるのである。ジョーはもちろん、日本人なのだ。
 この作品には名場面がいくつも登場するが、カレーの場面がとても好きである。

 最後に、名古屋に《幸》――ゆきと読む――というカレー屋さんがある。あの世界のイチローが卒業した名電高校の近くにあるカレー屋だが、ここのカレーは美味しい。もし名古屋に行くことがあれば、立ち寄ってみることをお勧めします。
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カテゴリ: 日記

テーマ: 料理 - ジャンル: 趣味・実用

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Posted on 2011/11/12 Sat. 08:53    TB: 0    CM: 0

私的時代劇考 

 ラ・ペッシュのモンブランについて書いているとき筆の滑りで思わず時代劇について書いてしまった。
 いまさらいうのもどうかと思うが、ぼくは時代劇が大好きである。
 だから最近テレビで時代劇が見られなくなってとても悲しい。たまに特別番組で『鬼平犯科帳』を放送することがあるが、慰めはそれくらいである。
 現実の江戸時代は性病が蔓延する、いまの感覚でいうととんでもないところだったようだが、池波正太郎さんの描く江戸は、人情があり情緒があり、なんとなくだが、
「いいなあ」
 と、しみじみと思える時代である。もちろん、その時代に戻って暮らしたいとは絶対に思わない。遠くから眺めて心をほっこりとさせるという意味の、いいなあである。
 もうひとつの時代劇といえば『必殺シリーズ』がある。しかし、あれはぼくのなかで時代劇の範疇に入っていない。以前、特番枠で仕掛人シリーズを放送していたことがあるが、あれは立派に時代劇していた。必殺ではなく、より原作に忠実な梅安さんが出てくるあれだ。
 もちろん、必殺シリーズが嫌いというわけではない。それどころか相当好きである。ただあれを時代劇と呼ぶことに抵抗があるだけだ。あれは現代劇である。もしくは、異なる次元にある日本の江戸時代を描いた物語だ、それ以外にありえない(笑)。
 他に時代劇といえば大河ドラマがある。が、あれを時代劇と呼ぶことにもいくらか抵抗を感じる。いや、かなり感じる。最近の大河ドラマは時代考証を最初から無視したおちゃらけたものもあるが、時代劇とは本質的に違う、何かが決定的に違うという気がする。
 いまさらいうまでもないことだが、黒澤時代劇が時代劇に与えた影響の大きさは計り知れない。『三匹の侍』の惨殺音。あらゆる時代劇――というか刀を振り回す場面がある映画ならそのほとんどで使われている飛び散る血飛沫は黒澤明の発明だった。さらに劇画の『無用ノ介』である。そのオープニングは、強い風が吹く宿場町に用無し犬こと無用ノ介がやってくるところから始まる。あの場面などはもろに黒澤時代劇である。はっきり言ってしまえば『無用ノ介』は『用心棒』を真似たのだと思っている。
 東映チャンバラ映画の息の根を止めたのは黒澤時代劇だったというような記述をどこかで読んだ記憶がある。歌舞伎調の東映時代劇をリアリティの黒澤時代劇が駆逐したような論調はよく見かける。黒澤以前と黒澤以後で時代劇は劇的に変わった。黒澤時代劇は東映時代劇を追い詰め、東映時代劇が変わらざるを得なくなった。確かにそういった面はあったように思う。
 ただ、黒澤時代劇――この場合は『用心棒』と『椿三十郎』――を指してリアル時代劇という見方は、いかがなものかと思う。時代考証などについてはリアルであったかもしれないが、お話自体は決してリアルでも陰惨でもなかった。陰惨どころか、秀逸なユーモア満載で、ほとんど喜劇映画という構造を持っていた。黒澤明は物語の肝のようなものをよく理解していた。あんな話は真面目にやってはいけないのである。
 東映チャンバラ映画の息の根を止めたと先にうっかり書いてしまったが、絶滅したわけではなかった。その後テレビで復活した。『水戸黄門』も『暴れん坊将軍』も、みな東映チャンバラ映画の末裔だ。
 しかし、そのテレビ時代劇もいよいよ終焉の時を迎えようとしている。
 あの『水戸黄門』がついに、本当の最終回を迎える。
 時代劇がかくも不人気になった理由をぼくなりに考えると、いまテレビを観る主流の人たちが時代劇に慣れていないということもあるような気がする。もちろん、これはまったく素人考えである。
 素人考えを続ける。
 この場合の時代劇というのは歴史劇ではなくチャンバラである。時代劇には歌舞伎のようなある種の決まりごとがあり、それを理解したうえで見ないことには、面白さがわからないようなところがある。平たく言ってしまえば型から入っていく物語の構造を持っている(ように思える)。
 そしてこの型というやつを理解するには、トレーニング――というか見慣れているということが重要になってくる。これまで時代劇を支えてきた世代は時代劇というジャンルの勘所を理解できる環境で育った人たちだった。子どものころから時代劇を観て、親しみ、片岡千恵蔵さん、市川右太衛門さん、近衛十四郎さん、市川雷蔵さんらの殺陣をうっとりとして眺めた経験があった人たちといってもいいだろう。
 時代劇における殺陣の重要性はいまさら言うまでもないことだが、殺陣のうまさ、美しさ、斬新さなどは興味のない者にとってただの大人のチャンバラごっこである。黒澤時代劇の殺陣の凄さ、新しさはそれ以前の時代劇の殺陣を知っている者にしか理解できない。
 そういう世代が表舞台から去って行こうとしているのかもしれない。
 やはり時代劇は消滅していくジャンルなのだろうか。何かと話題の市川海老蔵さんを主演にして「切腹」をリメイクしたりと、劇場では時代劇が上映されているが、テレビでは完全に息絶えたか、息絶えようとしている。
 今度こそ、ほんとうにおしまいかもしれない。
 なにせ、あの『水戸黄門』が本当の最終回を迎えるのだ。
 時代劇復権のためになにが必要なのか素人のぼくには分からない。
 いつかとんでもない天才が現れて、時代劇の型を残しつつ、しかも斬新で、複雑な人間像を描きつつ、しかもエンターテイメントしている、そんな時代劇を創ってももらいたいものだと切に願っている。

カテゴリ: 時代劇

テーマ: 日記 - ジャンル: 日記

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Posted on 2011/11/02 Wed. 19:17    TB: 0    CM: 2

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