Gitanの趣味

ひたすら趣味の道を走っています(ニヤリ)

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新しい器 

 原作をそのまま映像化することはもはや不可能だということはわかっていた。小説『砂の器』のもっとも重要な部分を映像化できたのは、松竹映画『砂の器』だけだった。以後の映像化はすべて物語の核ともいうべき部分にアレンジを加え映像化している。時代が変わったということもあるだろう。古典落語と同じだ。『砂の器』をそのまま映像化しても、理解できない人が今ならいるかもしれない。
 しかし、そういったこととは別に原作をそのまま映像化することで不快な思いをする人たちがいる。そんなことは鈍感なぼくでも察しがつく。表現には常に責任がつきまとう。表現の自由はもちろん大切で基本的にはどんなことを表現してもよいとは思う。が、その一方でどんなことにも限界があるような気がする。
 悪意はなくとも人を傷つけることがある。それが善意から、あるいは現状を変えたいと願う思いから出た言葉であっても、人を傷づけることがある。物語の核となる部分を変更するのは原作権を持つ松本家の意向でもあったという。
 田村正和さんが犯人を演じた『砂の器』では放浪の理由を父親が心を病んだためとしていた。1991年版は観ていない。2004年と今回の作品は親子の放浪の理由を犯罪、もしくは冤罪に求めていた。それはそれでもっともなことだと思いつつも、『砂の器』が『砂の器』である理由を放棄していることも事実だ。これは決して批判ではない。断っておくがぼくは松本家の姿勢を全面的に支持している。
 ただ――『砂の器』の映像化は諦めた方がいいのではないだろうか。映像化したくなる魅力を持つ原作ではあるが、物語を描ききれないと最初からわかっているのであれば、手を出さないほうが賢明だ。
 今回の『砂の器』を一言でいってしまえば『野良犬』である。もちろん、これはぼくの勝手な思い込みで、
「え? 違うだろう」
 と、思う人がいても別にかまわない(笑)。
『野良犬』はいうまでもなく黒澤明の名作刑事ドラマである。あのドラマの骨格はその後の刑事ドラマに大きな影響を与えた。というか日本の刑事ドラマはあの映画がはじまりだったという気さえする。ちょうど『酔いどれ天使』がその後の実録系やくざ映画に影響を与えたようなものだ。思えば黒澤明はほんとうに偉大だった。
 同じような境遇で育ったふたりが別々の人生を歩み、やがて刑事と犯罪者となって出会う。『野良犬』においてそれは復員兵だった。復員時に荷物を盗まれた二人の男がひとりは刑事になりひとりは犯罪者になる。正反対の人生を歩むのである。
 今回の『砂の器』ではそれが戦災孤児だった。
 厳密にいえばひとりは戦災孤児とは言えない。だが、幼少期に辛酸を舐めて育った二人の男の葛藤が物語の核になっていた。まさに『野良犬』の設定だ。
 物語は昭和三十五年、もう戦後とはいえないが、戦争を知っている世代がまだ現役だった時代だ。もう戦後とはいえないと書いたが、2011年――平成23年の今から見ればあの時代はまだ十分戦後である。敗戦から数えてたった十五年しか経っていない。戦後の混乱期を舞台に描いた刑事ドラマ『野良犬』の影が、物語全体に色濃く落ちているように見えてもさほど不思議ではないのかもしれない。
 どんな物語でも大きな物語の一部だというが、今回の『砂の器』を見ているとその言葉の正しさを実感する。その気になれば、どんな物語でも融合可能なのだ。既存の物語を組み合わせて、新しい物語を生み出すこともできる。というか多くの作家がそれをしている。そうやって生み出された新しい物語も、すでにある物語だ。しかし、だからこそ見る者を刺激し、感動させ、何かを気づかせ、作者が巧妙に隠したテーマを発見させる喜びを、読者や観客に与えることができる――と、そんな気がする。
『砂の器』の脚本を書くにあたってシナリオライターの頭の隅に『野良犬』があったのかどうか。
 それはわからないが、少なくともこれまで何度も映像化されてきた『砂の器』を映像化するにあたって、皆と同じことはしたくなかったのだろう。
 若くてイケメンの玉木宏さんが出演することもあり、彼をメインでという製作者側の意向もあったのかもしれない。
 背景などはぼくに窺い知る由もないが、原作では脇役だった若い刑事に人生を語らせることで、物語に強い陰影を与えようとしたのだろうか。
 それが成功したのかどうか、素人のぼくにはわからない。
 その作品が面白いかどうか、好きか嫌いかは、結局個人の好みによるところが大きい。
 松本清張という人の作品は淡々としている。どんな事件を描いても、無用に人の感情を煽り立てるような書き方をしない。小説を読んでいてもドキュメンタリー風というか、あたかも自分が足を使って調べた事実だけを書いているかのように、静かに筆を進めていく。
「好みの問題ではない、それが事実なら受け入れるしかないだろう」
 といわんばかりの、突き放した文体だ。諦観が漂っているような文体だともいえる。
 現実は劇的ではない。自分の日常を考えてみてもそれはわかる。生きるということはいってみれば一種の惰性で、であるからこそ、心穏やかに生きていられるともいえる。
 前にも同じことを書いたがもう一度――年齢がばれそうで怖いが、ぼくの周りには戦争にいって、銃をとって戦ったという人たちがたくさんいた。いまもいる。
 その人たちは特別な人間ではい。戦争という悲惨な体験をしたからといってドラマチックな人間になるとは限らない。戦争という究極の暴力行為に参加した人々でさえ、誰でもランボーになるわけではないのだ。実感としてぼくはそう思う。
 おそらく多くの人間は、たとえ刑事になったとしても取調室で自分の悲惨な人生を犯人相手に披瀝したりするとは思えないし、そういった人物像は松本清張さんの好みではないような気がするのである。普通であることを面白いドラマにする。そこに松本清張さんの真骨頂があるように思える。
 今後、何度『砂の器』は映像化されるのか、大変興味がある。ただ、何度映像化されても松竹映画『砂の器』のインパクトは超えられないような気がする。何度も映像化されるルパンⅢが、結局『カリオストロの城』の呪縛から逃れられないのと同じことだ。

※ 女性記者についてはなにもいいません。中谷美紀さんは好きな女優さんですから(笑)。
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カテゴリ: テレビドラマ

テーマ: 雑記 - ジャンル: 小説・文学

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Posted on 2011/09/17 Sat. 07:42    TB: 0    CM: 2

真夜中の十字路 

 真夜中の十字路でロバート・ジョンソンは悪魔に魂を売り渡して卓越したギターテクニックを手に入れたという。いわるゆ『クロスロード伝説』だ。この伝説をモチーフにした映画も造られた。観たことはあるが、面白いかどうかは微妙だった。
 ロバート・ジョンソンはLPを持っている。CDではない、LPである。若いころにちょいとかっこうをつけて、ブルースなんぞをわかるつもりで聴いていた(笑)。もちろんブルースは素晴らしい音楽である。一流の演奏は、ジャンルを超えて聴く者に感動を与える。
 ブルースについていえば、ロバート・ジョンソンだけではなくライトニン・ホプキンスだとかスリーピー・ジョン・エスティスだとかあの辺りを聴いていた。BB・キングは『ジャングル』だったと思うが、一枚だけアルバムを持っている。が、ちょっと好みとはちがう。ゲイトマウス・ブラウンは文句なくかっこいいと思った。
 好きと書いたがこのあたりは微妙である。ぼくの趣味はどちらかといえばラテン系の音楽で、ブルースについては何となく自分を偽って聴いていたようなところがある。当時、つまりぼくが若かったころ、周囲にはブルースがかっこいい、ブルースが好きだという連中がけっこういた。そのなかでひとりフラメンコが好きだ、サンバが好きだと頑張っていたわけだが、多少は世間に合わせることも必要だと判断したわけだ(笑)。
 ロバート・ジョンソンのアルバムを手に入れようと思ったのは、『ブルースギター入門(だったと思う)』という教則本の中で紹介されていたからだった。
 いま手元にその本がなく著者が誰であったかわからないのだが、当時ブルーヘブンのギタリストだった吾妻光良さんの名前が出てきたことは覚えている。
 著者は失念してしまったが、これは並みのギター教則本ではなかった。なんというか読み物としてそうとう面白かった。その本の中でロバート・ジョンソンは単にアメリカにおける黒人音楽の創始者のひとりというだけではなく、ブルースにおけるいまに続くギター奏法の創始者というような位置づけで紹介されていた。
 つまり、人類史上稀に現れる天才のひとりであるということだ。彼が残した二枚のアルバムはアメリカの文化遺産ということは当然のこととして、さらにその上、人類の文化遺産として位置づけられてもおかしくない――と絶賛されていた。いや、そこまでは褒めていなかったかもしれないが。
 とにかく、そこまで書かれるほどのミュージシャンとはいかなるものか。はたまたそのテクニックはそれほど凄いのか。
 当時はまだロバート・ジョソンの写真はないと言われていた。ちなみに写真については現在でも本人だと確認されたものは2枚だけらしい。
 写真もなく、天才的なギターテクニックとソングライティングの才能に恵まれ、人妻との不倫の果てに29歳で毒殺されたという噂をきけばそれは聴きたくなって当然というものだ。しかもクロスロード伝説である。
 ロバート・ジョンソンはその後写真も発見され、死因は毒殺でも射殺でもなく病死(妹の証言)だったということで落ちつたらしいが、伝説と神秘に包まれたミュージシャンの遺した音楽を聴いてみたくないわけがない。好奇心を激しく刺激される存在なのだ。
 で、聴いた。
 驚いた。たしかにそれは歴史的遺産だった。ようするに古い録音だった。雑音が多く、ギターの音もボーカルもくぐもったようで、こちらのセンスの問題が大きいのだろうが、凄いのかどうかよくわからなかった。
 ひとつにはぼくにブルースを理解する心が欠けていたこともあるとは思う。ただそれにしても古いことは古かった。人類史上初めて――なのかどうかわらかならいがとにかく最初に近い時点で――ウォーキングベースとメロディを同時に弾きこなした人物、あるいはそれを録音した人物という意味での重要性は大いに納得できても、聴いて楽しめるかといわれると、ぼくの場合――
「……?」
 と、なってしまう。ブルース好きの人には誠に申し訳なく思うのだが、これはもう好みの世界の話しなのでご勘弁いただくしかない。
『Love In Vain』はあのローリングストーンズも、クラプトンも歌っているくらいだから名曲なのだろうとは思う。ただ、ブルースのメロディというのは、ぼくにはいまひとつよくわからないところがあり、評価できるほどの耳がない。
 ぼくの能力の問題はさておき、ロバート・ジョンソンという人は、つまりそういう曲――時を超えて評価され歌い継がれる曲を書くことのできる人だったのだ。中途半端な聴き手であるぼくなどの理解を超えた存在――キリコ・キュービーではないが時たま人類のなかに現れる異能者か、はたまた天才だったのだろう。
 才能にあこがれるのは人間の常だと思うが、才能は一種の毒気でもある。司馬遼太郎さんがゴッホについてそんなことを書いている。ロバート・ジョンソンについて考えるとき、確かにそうなのかなと思ったりもする。ロバート・ジョンソン伝説は、あたかも彼が才能によって殺されたといっているようにきこえる。
 真夜中の十字路で悪魔と取引をしてでも手に入れたいものが才能だが、天才であったり異能者であったりすることの代償は高くつくものかもしれない。
 ちなみに一番好きなブルースマンは、ぼくの場合、アルバート・コリンズである。

カテゴリ: 音楽

テーマ: 雑記 - ジャンル: 小説・文学

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Posted on 2011/09/10 Sat. 20:10    TB: 0    CM: 0

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