Gitanの趣味

ひたすら趣味の道を走っています(ニヤリ)

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はたしてカスバに雨は降るのか 

 いったいどれくらいの人が覚えていてくれるのかわからないが『カスバの女』という歌謡曲がある。『夜の銀狐』に並ぶほどの名曲としてぼくの中では位置づけられている。
 余計な告白かもしれないがぼくはめったにカラオケに行かない。というかほぼいかない。自分から行くということはまずない。世間のしがらみで、もはやどうにも拒否することができないというそのときにだけ行くことにしている。そんなとき、歌うのはほぼ決まって『夜の銀狐』である。
 もちろんぼくのカラオケ嫌いにはちゃんとした理由がある。下手でも一応楽器は弾くから音楽的な素養はあるほうだと思っている(笑)。が、歌となるともういけない。音痴ではないと自分では思っているが、悪声なのだ。それほどでもないといってくれる人もいるが、どうもお世辞かはたまた同情から発せられた言葉のようで、その言葉だけは信じられない。人前で歌うことにぼくは臆病である。カラオケ全盛の時代にこういう可憐な人間がいてもいいはずだ(笑)。
 個人的な問題はさておくとして、『カスバの女』に話を戻す。この曲を隠れた名曲といっていいのかどうかわからないが、『夜の銀狐』と並びある世代の人たちの間ではよく歌われている曲――と思っている。カラオケ事情にとんと疎く、実際にはどうなのかわからないのだが、ぼくのなかではおじさんたちの愛唱歌みたいな位置づけであるのはまちがいない。もしかするとおじいさんに近づきつつあるおじさんたちかもしれないが。
 いつだったか中村中さんがこの曲をライブのオープニングにアカペラで歌ったことがあるときいたことがある。それは見事なものだったとあちこちで読んだ。聴いてみたかったと思っている。
 この曲は――

 涙じゃないのよ 浮気な雨に
 ちょっぴりこの頬 濡らしただけさ

 という歌い出しである。実はこれが気になって仕方がなかった。アルジェリアといえば条件反射的に砂漠を思いうかべてしまうのである。
 ――そんなところに雨は降るのだろうか。
 と、いうのが素朴な疑問だった。少し調べればわかりそうなものなのだが、実生活にさほど影響を及ぼすことでもないし(というか全く影響がない)、そのまま放置しておいた。
 もうひとつ気になっていたことは、最初にこの曲を歌った方のことである。エト邦枝という名前を見てどういう人だろうと興味津々だった。ご両親のどちらかが海外の方かと思わせる名前だが、フランク永井とかジェームス三木とかいう芸名と同じだろうと思っていた。ジェームス三木さんはあの脚本家のジェームス三木さんである。脚本家としては一風変わったペンネームだが、歌手時代の名前をそのまま使っているということだった。
 当時、こういった――なんというか外国風の芸名がわりと流行っていたとテレビで仰っていたのをきいたことがある。。
 驚いたのはエト邦枝だという方が、帝国音楽学校出身だったということを知ったときだった。藤原歌劇団に所属していたこともあるというから、クラッシクの勉強をされた方だったのだ。
 驚いたと書いたが、当時の歌手の方はこういった経歴の方が多い。あのブルースの女王淡谷のり子さんも、クラッシクをしっかりと学んだ方だったというのは、誰でも知っている話である。十年に一人のソプラノ歌手と呼ばれたそうだから、その実力のほどはわかろうというものだ。
 エト邦枝さんの歌声はYouTubeでも聴くことができる。ぼくが見た映像は当時の盛り場の映像にエトさんの歌声が流れるというものだった。白黒の映像をみていると、この歌が発表されたのは昭和三十年だが、それ以前の時代――『麻雀放浪記』のころを思い出してしまう。
 エト邦枝さんは、ヒット曲にも恵まれず、不遇なまま歌手生活を終えられたようである。このあたりはネットでいくらでも拾える情報だから詳しく書かないが、晩年は観光バスガイドさんの指導をされ、自宅でカラオケ教室を開いておられたということだった。
 ここまで『カスバの女』について書いてきて、いまさらという感じもしないではないが、ぼくはこの曲が大好きである。
 もちろんカラオケにめったに行かないぼくが歌うことはないし、よんどころない事情があってカラオケに行くときは初めに書いた通り『夜の銀狐』を歌うことにしている(笑)。
 なぜ『カスバの女』が好きなのか。この曲をきいて思い浮かべる映画があるからだ。それも二本ある。
 ひとつはもちろんあの『モロッコ』だ。これはまあ、しかし、至極当然なことでこの曲自体があの名作をモチーフに書かれたのではないかと思えるほどイメージがダブっている。勝手な想像だが、おそらくそう外していないと思っている。
『モロッコ』のラストはあまりにも有名だ。ヒロイン=マレーネ・ディートリッヒが恋人を追って、裸足で砂漠を走っていく。
 しかし、当地モロッコの人々はあの場面を見て笑ったそうである。炎天下の砂漠を裸足で歩けるわけがないというのがその理由らしい。いったことがないのでわからないが炎天下の砂漠というのはものすごく熱いらしい。これは淀川長治さんの著作で読んだ記憶がある。
 あれはもちろん映画的表現で、現実の砂漠とは異なるものだろう。映画的現実、あるいはヒロインの心情を映像的に表現したもの、というところか。たとえば『椿三十郎』の有名なラストにしても現実的ではないと赤川次郎氏は書いていた。仮に心臓を斬ってもあんなふうに血が飛ぶことは、心拍との関係でまずないというのがその理由だ。
 ただ『モロッコ』の製作スタッフがほんとうの砂漠を知っていたかどうかは微妙だという気がする。
 現地の、実際の砂漠を知っているモロッコの人々から見れば、それはやはり滑稽な場面だったのだろう。『ラストサムライ』を見てぼくが、
「これ、なんか日本じゃないよね」
 と、思うことと同じだ。
 さて、もうひとつ思い出す映画は『望郷』である。ペペ・ル・モコだ。この記憶は曖昧で間違いがあるかもしれないが、それを承知で書く。このブログはいってみれば個人的な日記(のようなもの)であるから間違いや記憶違いがあっても許してもらえるだろう――と、長々と言い訳を並べておいて――
『望郷』のなかのある場面にそれを感じる。酒場の場面かあるいは安いホテルだったかよく覚えていないのだが、豊かな肉体の老いた女性が見事な歌を聴かせる場面がある。彼女の背後の壁には写真が一枚張り付けてある。その写真は小さくてよく見えないのだが、もしかすると彼女が若いころ、華やかな舞台で歌っている写真ではないかと思わせるのだ。そこに『カスバの女』の二番の歌詞が、ぼくの場合かぶるわけである。

 花はマロニエ シャンゼリゼ 
 赤い風車の踊り子の
 いまさら帰らぬ 身の上を

 というあれである。「赤い風車」というのはもちろん《ムーランルージュ》だ。映画『望郷』のあの女性の過去とはちがうが、それでも華やかな過去を持つ誰かが、流れ流れて地の果てに行き着いたというのは昔から変わらぬ映画的設定だ。この種の設定は洋の東西を問わず悲しみの感情を喚起する力がある。今はどうか知らないが、そんな時代があったのはまちがいない。
 そんな感じで、自分がマイクを持って歌うことはまずないが『カスバの女』は、ぼくにいろいろなイメージを喚起させてくれるという点で間違いなく名曲である。
 ちなみにアルジェリアの降水量だが、東に行くにつれて多くなるらしい。場所によっては1000㎜近くになるところもあるらしいから、かつての踊り子の頬を濡らす雨が降ることも、まあありかなという気がする。
 ついでのことに、1971年から2000年にかけての日本の年平均の降水量を書いておくと、世界平均のほぼ二倍1718㎜だそうである。
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カテゴリ: 音楽

テーマ: 雑記 - ジャンル: 小説・文学

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Posted on 2011/08/26 Fri. 20:12    TB: 0    CM: 0

声の劇場 

 密かな趣味は一人称で書かれた小説を読むことです(笑)――と、冗談のように書いてみたが、これは本当の話しである。一人称で書かれた小説が好きか嫌いか、好みの別れるところだという気もするが、ぼくは大好きである。
 なんでも昨今の懸賞小説の応募作品は一人称の作品が増えているそうだが、なんとなくわかる気がする。作家の室井佑月さんが以前テレビで小説を書くことについて、
「ようするに嘘の日記を書けばいいんだと思った」
 と、いうようなことを仰っていた。なるほどと思わず膝をたたいた。室井さんの、それが小説作法なのかと感心した覚えがある。ぼくなどはとてもそういった発想ができない。やはり作家にでもなろうかという人は違うものだと思ったことを覚えている。
 この話をもう少し詳しく書くと、室井さんがサービス業で働いておられたころ、お客さんに対して嘘ばかりついていたということだった。架空の身の上話を語って聞かせていたらしい。ならばいっそ、嘘の日記を書いてやれと思って小説を書きはじめたのだいう。作家のいうことだからどこまで本当なのかわからないが、確かにそういう部分はあったのかもしれない。
 一人称の小説というのは、ようするに嘘の日記、もしくは偽りの体験として書けるようなところがあり、その意味では自分を強く投影できる表現形式のように思える。架空の体験を綴るということは、どこか過去の体験を綴ることと似ているような気がするのだ。過去と未来は、いってみれば個人の頭の中にあるという点で、似ているような気がするときがある。
 自身の体験がはたしどこまで信用できるのか、自分では絶対にそうだと思っていても客観的事実はまた別のところにある可能性がある。思い違いも勘違いも、常に影のようにぼくたちに付きまとっている。
 ――と、考えれば、架空の体験もいってみれば自分の体験である。一人称で書くということが、過去であれ未来であれ、自分の体験を綴ることならば、書きやすいと感じることがあってもいいような気がする。もっともこのあたりはぼくの勝手な想像で、実作者の方に、
「そんな簡単なものじゃないよ!」
 と、お叱りを受けるかもしれない――が、お叱りを覚悟で続ける。一人称で書くということは、省略がふんだんに使える。そのことも、違和感のない日本語になりやすく、わりと書きやすい印象につながるのかもしれない。
 たとえばこのブログは、当たり前だが一人称で書いている。《ぼく》という主語はできるだけ使わないように心掛けている。これが日本語の凄いところで、主語(日本語にそんなものがあるかないかという議論は別にして)を削っても、行為者が誰かは明々白々であり、そこそこ意味の通った文章になる。主語を削れば日本語はぐんとよくなると井上ひさしさんも書いておられたことだし、この説はそう間違っていないと思っている。ぼくが主張しているのではなく、知の巨人井上ひさしさんが書いておられるのだ(笑)。絶対にまちがいない。
 主語を省略した、つまりぎくしゃくした日本語にならずにすむ点も書きやすさに通じるのだろう(正確にいえば、書きやすそうに見える)。
 こんな理屈はともかく一人称で書かれた作品は好きである。何でもかんでもいいというわけではないが、好きな作品が多い。いつかもこのブログで取り上げたジェイムス・フレイの『こなごなに壊れて』も一人称で書かれた作品だったし、大岡昇平の『野火』も一人称で書かれた作品だった。『不夜城』も《おれ》という一人称で書かれた作品だった。
 しかし、大岡作品やそのほかの優れた一人称作品を読んでいると、書きやすいと思うのは実はとんでもない幻想ではないかと思えてくる。確かに書きやすそうに見えるのかもしれないが、その実、これはそうとう厄介な表現形式ではないかという気もする。

 よくいわれることだが一人称という形式は感情表現に向いているし、物語の軸がぶれにくいという利点がある。が、その反面物語を多くの視点から語ることができない。また主人公の知らないことは基本書けないという制約もある。けっこう縛りの多い表現形式なのだ。
 しかし、ある種の不自由さはあってもその不利を補ってあまりあるほどの美質もあるようにぼくには思える。このあたりは個人の好みと関係している部分でもあり、あの自己陶酔のような独白調がたまらなく嫌だと感じる人がいても少しもかまわない。
 いまさら言うまでもないことだが、ある人物の視点を通して語られる物語というのは、ぼくたちが世界を認識する方法とおなじだ。だから、優れた一人称の小説を読んでいると、あたかもそれが作者の世界観と共通しているのではないかと強く思えるときがある。
 それは三人称で書かれた小説でもそうなのだろうが、しかし、一人称のすぐれた作品は全く架空の世界――未来とか宇宙とか超能力者とか――を描いてさえ、ある種の私小説を読んでいるような気持ちになることがある。
 一人称で書かれた物語は、物語がわき道にそれにくく、豊かな感情表現が可能である。だとすると、それは主人公の主観に満ちた世界、主観しかない世界だともいえる。つまり独断と偏見の世界である。したがって、きわめて不愉快な思いをさせられる場合も当然ある。
 しかし、たかが小説である。たとえば現実の政治を動かす人間が独断と偏見で動かれてはたまらないが、小説の登場人物が、偏向した世界観を持っていても少しもかまわない。むしろ極端に歪んだ考えかたを持った主人公が赤裸々に内面を語れば、自分のなかにもある差別や偏見、はたまた破壊衝動など、あまり見つめたくない自分に気づかされることもあり、それはそれで十分意味のあることだと思える。
 一人称という表現形式は語りのようなものだと思うことがある。誰かが話す、誰かの物語に耳を傾けるなら、語りが巧みであるにこしたことはない。印刷された、あるいはデジタル処理された言葉のなかからでも、その人の肉声が聞こえてくるような作品に出合えればとても幸運だと思っている。

※ タイトルに使わせていただいた『声の劇場』は、たしか山田太一さんの『路上のボールペン』のなかにあった言葉だと記憶しています。間違っていたらすみません。

カテゴリ: 日記

テーマ: 日記 - ジャンル: 日記

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Posted on 2011/08/08 Mon. 21:07    TB: 0    CM: 0

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