Gitanの趣味

ひたすら趣味の道を走っています(ニヤリ)

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秘剣美少女 

 美女北川景子についていつか批判的な記事を書いたので、今回はもっと好意的に彼女を眺めてみたいと思う。先日は『LADY』が好みに合わなかったために、どうしても美女北川景子に対しても点数が辛くなってしまった部分があったように思う。
 余談だが、ぼくの友だちに美女北川景子の大ファンだという女性がいる。彼女曰く、
「今度生まれ変わるなら、絶対に北川景子」
 と、いうことらしい。ぼくなどからみると彼女はそのままでも十分美しいと思うのだが、本人はなにがなんでも《目指せ! 北川景子》ということらしい。たしかに北川景子は美しいと思う。ただ、ぼくから見るとやや表情に乏しいような気がする。
 北川景子というひとはたしか明治大学の商学部商学科の卒業で、数理的理論に相当強いらしい。ようするに理系的センスを持った女優さんということなのだろう。好意的にいえば理知的な美貌の持ち主である。
 もしかするとサイボーグとかアンドロイドとかそういった役が似合うタイプの人かもしれないと、ふと思ったりもした。だからたとえば平井和正の『アンドロイドお雪』とか、そういった非人間的な美女を演じればきっともっと輝くのではないかという気がする。日本版『バイオニック・ジェミー』あたりも狙い目かもしれない。
 もちろんこれは素人の目からみた美女北川景子のキャラクターであって、実際の彼女がどういう人か全く知らない。実際の彼女は関西弁を使う《おもろい姉ちゃん》だという話もあるが、見た目の印象は才色兼備で近寄りがたい雰囲気がある(少なくともぼくにはある)。
 WOWOWで『花のあと』が放送されたとき、実はあまり期待しないで観た。暇だからぼんやり眺めていたというのが本当のところで、この映画を製作された多くの方々には誠に申し訳ないと思う。
 ただ、古い時代劇を観て育ったぼくにとって、最近の時代劇はどこか時代劇らしくない。何が原因でそう感じるのか、いろいろと思い当たるところもあるのだが、ひとつは体形の問題が大きいのではないかと思う。
 よくいわれることだが、着物というのは胴長短足だったかつての日本人に似合うもので、最近の人は女性も男性もすらりと背が高く、小顔で、これが着物を着たときのバラスンを悪くしているような感じがある。
 違和感があるのだ。江戸時代を観ている気分になれない。映画『戦国自衛隊』を見たときにも感じたのだが、自衛隊が過去にタイムスリップしたのではなく、過去が現代にやってきたような印象になってしまう。だからいっそ『必殺シリーズ』のように時代考証を大胆に無視した方が、違和感なく受け入れられたりする。
 考えてみると昭和三十年代から四十年代ごろまで、日本人の体形はいまの基準からすれば、ずいぶんかっこ悪かった。が、だからこそ江戸の昔を再現した場合、違和感が少なかった。演者が過去の遺伝子をまだ濃厚に持っていたからだ。
 今回観た『花のあと』も違和感がまったくなかったわけではない。が、それでも藤沢周平の物語が持っている力で、そこそこ見ることはできた。美女北川景子の表情の乏しい整った顔も、武家の娘の、しかも剣術の達人である娘の、忍耐力であるとか慎み深さに見えて、それなりに様になっていた。
 江戸時代、女性で剣の達人という人が実際にいたのかどうかわからないが、もしいたならばこんな感じだったかもしれないと、若干ながら思わせてくれた。その殺陣は、たとえば松山容子さんあたりと比べると遜色はあったが、それでもよく頑張っていたと思う。それなりにかっこよく決めていた。
 しかし、これまで竹刀しか手にしたことのない女性が、重い日本刀を持ち、はじめて真剣勝負をするわけだから、ああは鮮やかに行くまい。そこは映画であるといっても、観客を納得させるために、一工夫あってもよかったような気がする。
『無用ノ介』という劇画のなかに心形刀流の達人が登場する回があった。その達人は道場剣法の達人ではあったが実際に人を斬ったことがなく、実戦の呼吸を知るために無用ノ介と果し合いをする前に、墓場に巣食う野良犬を斬る。動物愛護の時代に野良犬といえどもやたらと殺すのは問題があるにせよ、そうした場面を入れてもよかった気がする。
 それからもうひとつ、この物語を支えていたのは、その脇役たちである。特に美女北川景子の許嫁である甲本雅裕さんが秀逸だった。フィクションとしての大石内蔵助をモデルにしたのかと思わせる見事な《昼行燈》ぶりが抜群にかっこよいのである。
 切れすぎる頭脳を頼りない外見に隠し、必ずしも自分に好意を持ってくれているわけではない美女北川景子を優しく支えるというのは、いかにも日本人好み、というか時代劇好みのキャラクターである。ほんとうはこういう人間は怖いのである。
 それと悪役を演じた市川亀治郎さん。これがよかった。着物姿の立ち居振る舞いの美しさはさすがに歌舞伎の人である。またその悪役顔の作り方が感動ものだった。歌舞伎のことはよくわからないのだが、役柄による表情の作り方のようなものがあるのだろうか。いかにも腹黒い悪党といった顔で登場してくる。
『花のあと』という作品を名作とか傑作とかいう気はさすがにないが、それでもそこそこ楽しめる作品だった。美女北川景子がテレビで観るよりずっとよかったのは、やはり映画がテレビよりも手間暇をかけて作られているからかもしれない。

 ――追伸――
 記事のタイトルに使わせていただいた『秘剣美少女』はアニメ『紅三四郎』の最終回のタイトルです。
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カテゴリ: 映画

テーマ: 日本映画 - ジャンル: 映画

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Posted on 2011/05/22 Sun. 12:34    TB: 0    CM: 0

映画ではなく、酒と薔薇の日々 

 たとえばある本を読んでいて自分が知っている歌手やその歌手が歌った曲の名前を見つけるのはけっこう楽しい。懐かし友だちと予想もしていなかったときにばったり再会したような気持ちになる。
 と、まあちょっと気取って書いてみたが、考えてみると偏屈なぼくは友だちが少なく、懐かしい誰かとの再会というのは、現実的にはあまり起きそうもない(笑)。ただ、観念の上において確かにそういう気分になることはある。
 具体的に誰のことを書いているかといえば、クロード・フランソワのことである。正直に言うとこの名前を知ったのはそう昔のことではない。だから、旧友再会にことをたとえるのはいかがなものかという気持ちがしないでもないが、まあいいだろう。
 とにかく、最近読んだ本のなかに、ぼくはこの名前を見つけた。あっと驚いたが、考えてみるとそれも当然、読んでいたのは『サガン――失踪する生』という、フランソワーズ・サガンの伝記だ。
 その前に冒頭から名前を散々出したクロード・フランソワだが、この人はあの『マイ・ウェイ』の原曲『コムダビチュード』を歌った方である。すでに故人ではあるがフランスではいまでもスーパースターらしい。
 長谷川きよしさんのアルバム『40年。まだこれがベストではない』に収録されている。『コムダビチュード――いつも通り』というこの曲はテレビ番組『誰も知らない泣ける歌』でも放送されたことがあるのでご存知の方もいらっしゃるのではないか。

 さて、歌のお話はこれくらいにしてサガンである。フランソワーズ・サガンという作家は『悲しみよこんにちは』くらいしか知らないし、知っているといっても作品そのものを知っているわけではない。
 情報としてサガンは18歳でこの作品を書き、処女作で一気に名声を得たと知っていたがどうも殺伐好みのぼくの嗜好とは異なるような気がして、読んでみようという気になれなかった。サガンの伝記を読んだいまでも特に読みたいという気持ちにはならない。
 ただその作品は読んだことがなくても、サガンというひとがどういう人生を送ったか、おおよそのところは知っていた。作品を読んだことがない者でも作者について知っているというのは、作家冥利につきるのか。それとも、
「わたし自身じゃなくて、作品そのものを評価してよ」
 と、お叱りを受けるのか、そのあたりは微妙なところだと思うが、ぼくは作家冥利に尽きるのではないかと思う。その人の生み出す作品は結局、その人自身だという立場をぼくはとる。基本的に人間は自分について語りたくて仕方のない生き物だという思いは不動である。
 自分自身について語る、自分とは何かを知ってもらう、という立場に立てば、その作品を読んだことのない者にまで知られたということは、人生における目論見が大成功だったという証ではないだろうか……ちがうのかな(笑)。
 サガンという人の人生をひとことでいえば《破天荒》である。むちゃくちゃな人生だ。刹那にかけるという言葉があるが、この人の生き方はまさにそんな感じである。たしかにその生き方はある人間たちにとっては楽しかったかもしれない。しかし、我慢できないと思う人間もいたはずである。
 記事に『酒と薔薇の日々』というブレイク・エドワーズの名作映画のタイトルを拝借したのは、サガンの狂乱のどんちゃんさわぎのような人生を読んでいて、そんなイメージが浮かんだからである。
 ことわっておくがこれはあくまでも『酒とバラの日々』――映画のタイトルのバラは漢字ではなかったと記憶している――という語感からイメージされる華やかだが退廃的な人生を思い描いたからに過ぎない。
 映画『酒とバラの日々』はアルコールに溺れていく夫婦ものの話だった。サガンも酒に溺れ、薬に溺れた。サガンの薔薇はドラッグの香りを放っていた。この伝記の作者マリー=ドミニク・ルリエーブルはサガンのことを、
「我慢できない子どものようなものだった」
 と、書いている。サガンは頭の回転が速く、インタビューを行った誰もが、あんなに頭のいい人はいなかったと語っている。故人を悪く言うはずもないとは思うが、たしかに特殊な人ではあったのだろう。でなければ18歳であれだけの成功を収められるとは思えない。
 ただ、若くして成功したことが破滅的な生き方の引き金になったのも事実だ。若くして成功し、富と名声を得て、才能に溺れ、人生を破滅の方向に向かって舵を切る。よくある話といえばよくある話である。サガンという人はようするに『フランソワーズ・サガン』という作品を書いていたわけだ。
 何事も我慢できない子どものようだったサガン(ようするに甘やかされて育ったということなのかとも思うが)は、大酒を飲み、薬を常用し、ギャンブルに入れあげ、スポーツカーで法規を無視した速度で走り、
「あの美しい言葉は本当に素敵だった」
 と、言わせる作品を書いた。どんな欠点も覆い隠してしまえるだけの、言葉を操る才能を与えられていた。言葉を巧みに操る才能というのは、七難を隠すものかもしれないと、ときに思う。仮に、内実が伴っていなくても、お利口さんに見えてしまう場合が、あるいは、あるのかもしれない。もちろんこれは意地の悪い見方だ。
 知恵というのは平たく言ってしまえば状況判断のことではないかと思う。驚異的な記憶力で知識を蓄え、巧みな言葉で蓄えた知識を再構成して見せ、ときに数学的正確さで状況分析を行うことができても、自分の行為が周りに与える影響や、そのことによって起きる結果が見えていないのなら、世間は狭くなる一方だ。
 サガンは才能があった。それも並みの才能ではない。天才的な言葉の才能に恵まれていた。しかし、その代償のように経済観念がなく、倫理観が希薄で、堪え性がなく、衝動的だった。才能の部分を取り除けば、ようするにダメ人間と呼ばれそうな人である。
 サガンはその才能によって巨万の富を得る。しかし、晩年は住む家さえないような貧窮のうちに人生を終える。美しい箱を作り続けたアメリカの芸術家ジョゼフ・コーネルは伝記を読むのが大好きだったらしいが、その気持ちはわかるような気がする。
 サガンの伝記は非常に面白かった。ありふれた物語のようといえば、たしかにその通りなのだが、そこに現実の人間がいたということが、ありふれた物語に重みを与えている。物語(あえてそう呼ぶが)の最後の方、姪のセシルの言葉が印象に残っている。

「どこまでもエレガントに。それから、ユーモアのセンスも必要。晩年になっても、フランソワーズは、ずっと知的な言葉遊びを考えていた。でも昼間だけね。夜は苦痛に泣き叫んでいたわ」

カテゴリ: 読書

テーマ: 雑記 - ジャンル: 小説・文学

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Posted on 2011/05/21 Sat. 09:29    TB: 0    CM: 0

感傷と諦観 

 どんな種類の小説でも、小説を読むことは大好きだ。しかし、漠然とした好みのようなものは、人間だからやはりあるわけで、感傷過多の小説は好みではない。人間がひねくれているせいかもしれないが、殺伐とした空気が濃厚な作品が大好きである。
 だから、たとえば幼少期の体験を流麗な筆致で飾り立てた(ちょっと悪意を感じさせる表現だが)きらめくような作品よりも、素っ気ない文章で残酷な現実を、冷徹に描いた作品に心惹かれる。
 だから、笹沢佐保さんの『木枯し紋次郎』は好きだった。救いのない人間の姿がエンターテイメント的誇張はあるものの、そこには描かれていた。あれはきっと笹沢佐保という人の人生観だったのだろう。
『詩人の家』だったと思うが、笹沢さんの自伝的な作品がある。もうずいぶん前に図書館で読んだもので記憶もあいまいだが、たしかその中に、自分は運命論者だというような記述があったよう気がする。
 運命論者というのをどう定義するかはともかくとして、笹沢氏の生み出しヒーロー木枯し紋次郎は究極の運命論者だった。かれは生まれてすぐ殺されかけた。生き残れたのは自分の力ではなかった。死のうが生きようがどうでもいいと言い切れるのは、ようするに成行きにすべてを任せているということだ。
 笹沢佐保という人のなかにはおそらくそういった諦観が常にあったのだろう。と、こう書くこともぼくの嫌いな感傷である(笑)。深い諦観が心にあると大見得を切っても、どこかに夢や希望をもっているのが人間だろう。世は無常と悟り顔で呟いてみても、

 捨て果てて身儚きものと思いしも 雪の降る日は寒くこそあれ

 と西行法師も読んでいる。流れ者だって洗面用具は必要だ。流れ者に女はいらねえ、女と一緒じゃ歩けねえ、といったのは渡哲也さんだったが、かれ以外の人間はたいてい異性が必要なのだと矢作俊彦さんがその原作を書いた『気分はもう戦争』のなかで呟いている。

 感傷を嫌った、というか感傷と無縁の小説を書いたダシール・ハメットという作家について小鷹信光さんは、かれが抱えていた深い諦観について、
「なんという人生だ」
 と、つぶやいて筆を折ったと著作の中で書いていた。ハメットには、自分が望んだ人生はこんなものではなかったという思いがあったのだという。実際に、ハメットがそんなつぶやきを洩らしたのかどうかはわからない。
 ハメットはある時点を境に小説を書かなくなった。かれが筆を折ったのは悟ったからでも人生の本質を掴んだからでもないと思う。みもふたもなくいってしまえば、生涯遊んで暮らせるだけの金を『マルタの鷹』を含む作品群の成功によって手にしたからだと思う。
 ハメットの晩年を共にしたリリアン・ヘルマンがそのようなことを書いていたはずだ。かれが書いたのはあふれ出る創作への情熱に背中を押されたからではなく、金のためだったと。その金がおそらく生涯にわたり入ってくるとわかったとき書かなくなった。
 作家という人種がどういうものか、身近にいないのでわからないが、書くということに憑りつかれた人だというイメージがあった。お金はもちろん必要だろうが、
「金のために書いているのさ」
 と、いうのは一種の気取りだろうと思っていた。書かずにはいられないから書いているのであって、仮に世に出られなくてもかれ(あるいは彼女)は書き続けていたはずだ、と信じて疑わなかった。
 しかし、実際に生涯の収入が保証されるらしいと知ったとき、筆を折った作家がこの世界に存在したというのは驚きである。実際にそうであったのかどうかわからないが、そう感じさせるほどにハメットという作家の持っていた異質な何かには惹きつけられる(現実にはハメットの目論見は外れ晩年は困窮する)。
 とはいうものの、人間は複雑なものでひとつの要素だけで成り立つはずもないことは、一応理解しているつもりだ。感傷も諦観もそれ自体がひとつのフィクションだろうということも、薄々ながら理解しているつもりだが……。

カテゴリ: 日記

テーマ: 日記 - ジャンル: 日記

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Posted on 2011/05/15 Sun. 07:35    TB: 0    CM: 0

血の匂いと文学 

 いってみれば方法論の勝利だろう。重厚な語りで荒々しい暴力を描いている。哲学的な言葉で暴力を包み込んでいるともいえる。だからといって全編を貫く暴力描写がぬるくなっているなどということはまったくない。稀代の筆力を持った著者のことだ。荒々しく残酷な暴力を、容赦なく描ききっている。
 いま話しているのはコーマック・マッカーシーの『ブラッド・メリディアン』についてである。内容には詳しく触れない。日本風に作品を分類すれば、なるほどこの作品は純文学である。が、同時にこの作品は西部劇でもある。それ以上でも以下でもない。
 開拓時代のアメリカの現実はすでに『ソルジャー・ブルー』のなかで描かれている。アメリカがその開拓史の中で先住民になにをしたのか。まともな神経の持ち主なら気が滅入る。たぶん滅入ると思う。
『ブラッド・メリディアン』は『ソルジャー・ブルー』の延長線上にある作品ではあると思うが、個人的にはあの傑作西部劇よりも『ワイルドバンチ』に近い位置にあると思う。つまりこの作品は、開拓時代の西部に生きた荒々しい人間たちの物語だ。集団時代劇ならぬ集団西部劇である。ぼくたちは工藤栄一を思い出そう。
 ありふれた西部劇のストーリーに乗せて深遠な哲学を語る。そういったところではないか。うまいやり方だと思う。思い出すのは『薔薇の名前』だ。探偵小説風の物語に、ヨーロッパにおけるキリスト教の暗黒面を描いたあの物語も、考えてみると同じ構造を持っていた。
 つくづくコーマック・マッカーシーはうまいと思う。たとえば『血と暴力の国』は犯罪小説風の純文学、あるいは純文学風の犯罪小説だった。『ザ・ロード』はSF小説と高度な純文学の合体だった。『マッドマックス』と『子連れ狼』を不条理に合体させたような物語といえなくもない。
 そして、これ『ブラッド・メリディアン』である。サム・ペキンパーが好んで描きそうな開拓時代の西部に生きた男たちの戦いの記録といった趣だ。ただ、ここにはペキンパー好みの感傷はない。殺伐とした暴力が狂ったように吹き荒れる荒野があるだけだ。
 余談だが、ペキンパーはあのブラッドベリの傑作『何かが道をやってくる』を映画化したがっていたときいたことがある。もしこの作品に出会っていれば映画化したがったのではないか。残念ながらペキンパーはこの作品が世にでる一年前、1984年に亡くなっている。
 それはさておき、売れる小説というのはさすがだと思う。作者にそういう下心があったかどうはわからないが、少なくともある程度の販売部数がなければ作家は生活していけない。どれほど重大なテーマを扱っていても、それが読者を無視したか、ひどく未熟なものならば、誰も読んでくれない。読んでくれなければただの自己満足だ。
『ゴッド・ファーザー』を書く前のマリオ・プーゾォは親戚知人に生活費を借りて、売れない小説を書き続けていたという。いくら専門家に評価されても、生活が成り立たなくては仕方がない。
 エンターテイメント大国アメリカはさすがである。純文学といえども単なる自己満足ではお話にならないようで、映画化されて、客が喜ぶ程度の物語性はどこかで保証されていなければならないのだろう。
 こういう姿勢は大好きである。売れるものが一番いいなどというつもりはさらさらないし、売れなかったからだめだなどとはさすがにいわない。ただ、ひとつの評価軸として、多くの読者を獲得し、映像作家にある種の刺激を与える作品があり、そういった作品は個人的な好みとは別に、やはり認めるべきだと思っている。
 映像作家云々と書いたが、『ブラッド・メリディアン』はその点も実にうまく、見事に絵になるように書いている。映画化の話があるらしいが、1985年の作品なら20世紀の終わりに映画化されていてもよかったような気がする。
 原文を読めるほどの語学力がないので、この文章のほんとうの味わいを知ることができないのが、まことに残念ではあるが、ひどく読みにくい文章であるにも関わらず、絵が浮かんでくるから大したものである。
 この作品を日本語で書きなおした黒原さんの筆力には脱帽である。まちがいなくこれは傑作である。

カテゴリ: 読書

テーマ: 雑記 - ジャンル: 小説・文学

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Posted on 2011/05/02 Mon. 21:37    TB: 0    CM: 0

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