Gitanの趣味

ひたすら趣味の道を走っています(ニヤリ)

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徒然なるままに、いくつかの場面…… 

 映画のなかで忘れられない場面がある。映画『ガンジー』だ。最近はガンディーと表記するのかもしれないが、ここではガンジーということで話をすすめる。ヒンドゥー教徒とムスリム教徒との対立が激化し、そのことに心を痛めたガンジーは命をかけた断食に入る。
 そこにひとりの男がやってくる。そして食べ物をガンジーにさしだし、
「食べろ」
 と、いう。あんたを死なせたくない。それが食べ物を持ってきた理由である。自分の子どもをムスリムに殺された。だからムスリムの子どもを殺した。おれは地獄に落ちるという。すでに地獄に彼はいる。
「地獄から抜け出す方法を教えよう」
 と、ガンジーはいう。子どもを育てるのだという。両親をなくした子どもだ。ただし、その子どもはムスリムの子どもだ。ムスリムの子どもとして育てるのだ。断食を続け、痩せ衰えたガンジーが弱々しい声でそう男に告げる。この場面はたしかアカデミー賞授賞式のなかでも使われたはずである。
 あれは大好きな場面である。断っておくが、ぼくは凡俗の代表である。わが身を振り返ってみるとガンジーのような高貴な生き方とは対極にある実に情けない生き方をしている。『アマデウス』のラスト、サリエリが自分は凡庸なるものの王だといっているが、ぼくなどはさしずめ俗物の王にもなれない、その他大勢である。
 ではあるが、この場面はなぜか胸を熱くした。先に自分のことを情けない奴と書いたが、あまり変わりたいとは思わない。いまさら変えられないということもあるが、とにかく自分は自分のままで行くのがいい(笑)。
 それから『ガンジー』の高貴な場面とは別の意味で忘れられない場面もある。なんというか人間の奥に潜むおっかないものをたった一言のセリフで表現した場面だ。『復讐するは我にあり』という今村昌平の名作の中で清川虹子がいう――
「榎津、殺すなよ」
 あれは凄い。もともと今村昌平という監督は好きな監督だった。というか好きな作品と嫌いな作品があるというべきかもしれないが……まあ、それはいいとして、あれは清川虹子さんの貫録勝ちである。同じ画面のなかには稀代の名優緒方拳が映っていたが、あの場面の主役はまちがいなく清川さんだった。
 ああいった場面を見ていると、映画というのはつくづく感覚の芸術だと思う。筋や理屈ではない。その瞬間に人間のあらゆる面を描き出して見せる。ぼくの映画の評価軸はたったひとつである。心に残る場面があるかどうか。この作品は、名場面満載だが、このひとつの場面だけでも、ぼく的に十分名作である。
 黒澤明の『八月の狂詩曲』はたぶん失敗作だと思うが、ラスト、嵐に向かって壊れてしまった傘を持って進んでいく老女の場面だけでも見る価値があると思っている。あれはいったいなんだろうと思うことがある。黒澤作品にしてはどうもなあと思っていたところにあれである。参ったなあというのが感想である。
 決して好きではないサム・ペキンパーという監督の『戦争のはらわた』のオープニングも好きである。ぼくたちが『蝶々』という名前で知っている童謡がながれ、そこに記録フィルムが映し出される。戦時中のドイツだ。ヒトラーももちろん登場する。あのセンスは好きだ。
 この映画はラストもいい。ドイツ兵を演じた主演のジェームズ・コバーンの哄笑が響きわたるラストがいいのだ。戦争の愚劣さを思いっきり笑い飛ばしたようなラストである。そもそもがアナーキーな人間なので、メッセージ性のある場面はあまり好きではないが、例外的にこの場面は好きである。
 いつかもこのブログで書いたが、『ダーティハリー』なら夜空に向かってカメラが引いていくあの場面だ。この映画の監督ドン・シーゲルは大好きだ。好きな場面というテーマからは少し外れるが、どの作品も非常に乾いている。感傷と縁遠い殺伐とした作風が大好きである。
 バイオレンスといいつつ感傷過多なペキンパーよりも断然いい。この人の作品はB級映画の雰囲気――というかB級映画そのものみたいなところがあるが、それでもこの人は一流だと思う。 
 これはどうかなと思う作品が、たったひとつの場面で感動作に変わる瞬間が、ぼくの場合はある。だから観るのが苦痛な作品であってもついついつきあってしまう。それで結局、だめだったということも多いわけだ(笑)。
 最近の映画では『ハートロッカー』という作品のなかの狙撃兵同士の戦いの場面が印象に残っている。スコープを覗く兵士の目に虫が入っていく場面は、あれを耐えた役者の役者根性に感激である。
 遥かな距離を置いて敵と対峙し、砂漠の太陽にじりじりと焼かれ、砂まみれになりながら一撃必殺の瞬間を狙う。戦争に英雄はいないということがよくわかる場面だ。忍耐力を支えるものは恐怖だけかもしれない。
 遠方の敵に弾丸が着弾した瞬間に血が飛び散る。砂漠の静寂のなかで、ときおりひびく銃声だけがほんとうに不気味である。実際の戦争ではああいった場面がいたるところで繰り返されているのだろう。
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Posted on 2011/04/22 Fri. 21:13    TB: 0    CM: 0

闇から響く言葉 

 自伝、ルポルタージュ、ノンフィクション、小説、その他諸々――『わが母なる暗黒』という作品が、いずれの範疇に含まれるのかよくわからない。ある痛ましい体験をもとに書かれたことは、おそらく事実だろうから、その意味でいえばこれはノンフィクションであり、一種の自伝であるともいえるのだろう。
 内容については詳しく触れないが、一読して非常に奇妙な印象を受けた。あるいはある種の読みにくさを感じた。理由は、ほとんどすべてが地の文で構成されているからだ。膨大な量の新聞記事を読んでいるような気分になってくる。
 作者がこの手法を選んだのは、ここに書かれたことがあくまでも、遠い過去と比較的近い過去で起きた事実の記録であるということを明確にしたかったからかもしれない。物語になってしまいそうな部分をすべて削り取ろうとした、作者の意志のあらわれだったと勝手に解釈している。
 地の文に会話文を紛れ込ませ、登場人物の立ち位置をはっきりさせることで、読み物としての形を整えるよりも、あくまでも事実を冷徹に積み重ねていこうとした。客観性の保持を最優先させるという目的がこの方法を選ばせたのかもしれない。

 ジェイムズ・エルロイという作家は好きか嫌いか――実に微妙だ。この作家の持っている歪んだ何かに惹かれるのは事実だ。たとえば彼は10歳の時に母親を殺されている。この事件は未解決だ。そして、17歳のとき生活破綻者のような父親と死別している。以後、酒とドラッグに溺れ、警察の厄介になったことも一度ならずある。
 これらは巷間伝えられるジェイムズ・エルロイ伝説である。この来歴を読んだとき、唐突ながらS・キングの『ダークハーフ』を思い出した。あの小説に登場するジョージ・スタークを思い出す。『ダークハーフ』を読んだ方ならわかると思うが、ジョージ・スタークは純文学作家サド・ボーモンの別名である。
 もう少し詳しく説明すると、売れない純文学作家のサド・ボーモンはジョージ・スターク名義で犯罪小説を書きベストセラー作家になる。それはサド・ボーモンにとっては不本意なことではあったが、売れることは売れた。
 サド・ボーモンが生み出した架空の作家、ジョージ・スタークはたしか元犯罪者だという設定だったと思う。元犯罪者が刑務所で才能を開花させ、ベストセラー小説を書く。だから、ジョージ・スタークはキーボードを扱えない。それを学ぶ時間がなかったのだ。だから彼の原稿はすべて手書きである。
 もちろんこれはフィクションである。しかし、ジェイムズ・エルロイも犯罪者まがいの人生を送り作家となった。そして、彼も手書きで原稿を書いていると何かで読んだことがある。送られてきた原稿は異様にかさばる紙の束で、赤いインクを使って、大きな文字で書かれていたという。
 ジェイムズ・エルロイが架空の存在だとは思わない。彼は現実の作家で、かなり特殊な犯罪小説を今も書き続けている。どこかの売れない純文学作家の別名などとは考えない。ただ、その人生はあまりにも劇的で、猜疑心の塊であるぼくは、
「ほんまかいな」
 と、不埒なことを考えてしまう。特殊な犯罪小説と書いたが、特に『ホワイト・ジャズ』以降の作品は、電文体というらしいが、いったい何が書いてあるのかわからない独自の文体で、最初から最後まで喚き散らしているような作品である。
 これが素晴らしいという人もいるし、ついていけないと思うひとももちろんいるだろう。ぼくの評価はとりあえず脇においておく(笑)。ただひとつ思っていることは、小説は何をどう書いてもかまわないものだということで、この信念は確固としたものだ。
 誰かが読んでわからなくてもいっこうにかまわない。物理の法則でもなければ、宇宙を書き表す言葉、数学でもない。芸術表現なのだ。鶏が空を飛び、ある人物の正面の顔と横顔が同時に描かれていても、それが誰かの心を打つのであれば存在価値はある。
 いや、誰の心を打たなくても少しもかまわない。自分が満足できれば、それでかまわない。まあ、それでは少しさびしいだろうし、生活の糧を得ることもできないわけで、その点はつらいかもしれないが、とにかくまず自分を納得させなければお話にならない。
 心という自分自身でもコントロール不可能なものを描こうというのだ。形にとらわれていては表現しきれない。狂気の犯罪者を描こうが、恋人だか友だちだか判然としない彼女を失った深い喪失感を描こうが、結局は自分にあった表現方法を見つけるしかない。そもそも自分にあった表現方法でしか描けないものなのだろう。
 ジェイムズ・エルロイは彼だけにしかできない表現方法で彼にしか描けない世界を描き続けている。それは小説を書いても自伝を書いても変わらない。受け入れられるかどうかはこちらの問題ということだ。彼が好きなのか嫌いなのか、まだ答えは出ない。

カテゴリ: 読書

テーマ: 感想 - ジャンル: 小説・文学

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Posted on 2011/04/12 Tue. 04:59    TB: 0    CM: 0

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