Gitanの趣味

ひたすら趣味の道を走っています(ニヤリ)

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赤裸々な嘘 2 

 さて、問題は赤裸々な魂の告白をどこまで信じられるかだ。この種の告白はつねにどこか、嘘くささがつきまとう。別にへそ曲がりなわけではなく(多少はそれもあるが)、実体験を書いたといっても、現実そのままを書き写せるわけがないとぼくは考える。
 体験を書くということは、体験を整理して、枝葉を切り捨て、その核心になる部分を書くのだと素人ながら考えている。つまりは自分というフィルターを通して、ある事象を文字(言葉)で書き記すわけだ。文字にした時点で、それは物語になっている。
 小説が基本的(あくまでも基本的に)に過去形で書かれるものとすれば、自分がかつて体験したことを書いている――という体裁をとっているともいえる。フィクション、ノンフィクションを問わず、みんな自分の体験を書いている。絶対的な客観性などあるはずがない。

 特殊な体験は興味を引く。それは間違いない。以前、永六輔さんの著作で、こんな一文をよ読んだ。アメリカの芸能界にはギャングに歌わせ勇気がある。アメリカ人は犯罪者であろうがなかろうが、才能には敬意を払うらしい。本当にそうなのかどうかは知らない。しかし、そういうことで話をすすめる。
 当然、アルコールとドラッグに溺れた人生だって、語れば耳を傾けてくれるだろう。もちろん、上手に語ればという前提はあるが、ギャングに歌わせる勇気がある国なら、アルコールとドラッグに溺れる人生など何ほどのこともない。
 ジエイムス・フレイに『こなごなに壊れて』てという作品がある。彼は麻薬と酒に溺れていた。それこそ溺死寸前だった。破滅の淵から彼は生還した。その実体験を書いたというのが触れ込みだった。彼の作品はベストセラーになった。
 が、この作品は実体験をモチーフにしていたが、実体験そのものではなかった。作品の核となる部分に創作が含まれていた。訴訟騒ぎにまで発展した。結局、実体験をもとにした小説ということで落ち着いたようだ。これがすべて実体験なら現代のウィリアム・バロウズだ。事実、そういう評価も当初あったようだ。
 小説であれ実体験であれ他人のことだと思えば興味がわく。物見だかいは人の常だ(物見高いは江戸の常?)。特殊な体験をして、しかも表現する才能があり、いくばくかの運が味方をしてくれれば、あるいは――と考えるかもしれない。
 文才に限らず、表現者としての才能は嘘つきの才能と紙一重だ。いや、言い換えよう。嘘をつく才能が表現者としての才能だといえなくもない。優秀なセールスマンと詐欺師は紙一重だと、世の中に出て間もないころ先輩にいわれたことがある。
 ずいぶん偏った意見だし、不快に思われる方もいるかもしれないが、先輩を見ていると確かにそう思えなくもなかった。表現者についても同じことがいえるのではないか。ただ、最初から嘘ですといっていれば問題はないが、これは実体験だといってしまうのは確かに罪作りかもしれない。
 しかし、声を大にしていいたいのだが、本当のことは面白くないことが多い。たとえば政治である。与野党を問わず、自分たちがやれば政治が変わるとさんざんきかされたが、あまり変わりばえのしない世の中でぼくたちはのたうちまわっている。
 明晰な物言いは、たしかにすっきりとして心地よいが、複雑に絡み合った世の中の利害関係が、たったひとつのパスワードで解けるはずもないことは、たぶんみんなが知っている。それでも、
「××をすれば△△になります」
 と、言われればついその気になるから厄介なのだ。世の中が物語のように変わることなどありえないと思いつつ、それの望むのは自分で自分を騙していることかもしれない。真実には残酷で無慈悲な側面がある。独断と偏見でいえば、人は嘘を求めているようなところがある。
 ぼくは嘘が好きだ。ただし、条件がある。人を傷つけないことと、悪意をもたないこと、そして、最初からこれは嘘ですと宣言しておくこと、これが絶対条件だ。赤裸々な嘘もときにはいいかなと思ったりもする。
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Posted on 2011/02/25 Fri. 09:18    TB: 0    CM: 2

ふたつの怪物 

 最近とんでもない勘違いに気づき、大いに恥じ入っている。何かといえば韓国映画の『グエムル 漢江の怪物』である。2006年に公開されているから、かれこれ5年前の映画だ。すでにご覧になった方もいると思う。
 公開当初からこの映画は日本のアニメ映画の剽窃であるという噂があった。怪物の造形を見たときぼくもそう思った。ストーリーがどうのという前に、物語の核となる怪物がどこかで見たとことがあると感じさせたのは、剽窃の噂を立てられる原因になったと思う。
 最初にとんでもない勘違いだったと書いたが、やや弁解すればこちらが勘違いしても致し方ないほど、両作品の怪物の造形は似ていた。その点についてだけいえば、剽窃の噂がたっても仕方がないかなと今でも思っている。なぜあれほど似てしまったのか、よくわからない。
 とにかく第一印象というのは恐ろしいもので、怪物が似ていたばかりに、《日本アニメ映画剽窃説》を頭から信じてしまった。最近になって、この作品を見る機会を得た。驚いた。これは『パトレイバー』とは全く別物である。
 確かに怪物の造形は似ていたかもしれない。だが、映画としては全くの別物、あるいは仮に似ている部分があったとしても、それを認めてさえ、この映画をぼくは支持する。回りくどい言い方はやめよう。ようするに、
「ぼくはこの映画が好きだ」
 と、いうことだ。これは非常に面白い映画だ。きわめてユニークなギャグ映画だ。すでに観られた方もいるかと思うが、ストーリーに触れることは極力避けることにする。とにかく、これは怪獣映画であると同時に、家族映画である。それも相当歪な家族映画だ(さらにいえば反米映画でもある)。
 ある日、漢江から怪物が現れる。その怪物の誕生には米軍が関わっている。怪物はひとりの娘を連れ去る。奪われた娘を取り戻そうとする家族と怪物の壮絶な闘い――ではない。滑稽な悪あがき。
 怪物誕生にかかわった米軍が、事実を隠ぺいしようとして政府にも圧力をかける。この家族は一種のドン・キホーテだ。巨大な権力に戦いを挑むといっても、この家族には戦いを支える実力などどこにもない。窮鼠猫を噛むというやつで、追いつめられ、一種の狂乱状態になっているのだ。
 この構図はよくあるパターンでもある。孤立無援で巨大な敵に挑むという物語は、目をつむって石を投げても当たるくらいたくさんある(笑)。やりようによってはどんな活劇にでもできたはずなのだ。観客に感動の涙を流させることもできたはずだった。
 が、この監督ポン・ジュノはそれをしなかった。では何をしたか。驚いたことにベタなギャグ満載で描き切ったのである。しかも凄いことにこのギャグがまったく笑えない。滑りっぱなしだ。笑えないギャグほど惨いものはない。空気がしんしんと冷えていく。
 滑るギャグの惨さは、そのまま米軍が生み出した怪物に孤立無援で闘いを挑む家族の運命の惨さに通じる。少なくともぼくにはそのように見えた。さらにこの物語に登場する出演者たちの顔が凄い。
 韓流といえば美男美女が相場だが、この映画に登場するのは美男美女とは程遠い風采の上がらない男女である。女の子は普通っぽい可愛らしさがあるが、男性陣は全滅である(笑)。いや、これも好みによるかもしれない。とにかく絶対的な美男美女でないことはまちがいない。
 たぶん、この映画は好みが分かれると思う。芸術作品はどんなものであれ、最終的には好きか嫌いかだ。この作品を認めないという方がいてもそれはそれでかまわない。ぼくは大好きだというだけのことだ。
 笑えないギャグをちりばめつつ、怪物と壮絶なのか愚かなのかわからない戦いを繰り広げ、その行き着く先に、恐ろしく苦い結末が待ち受けている。あの結末を用意しなければならなかった必然性が監督にはあったのだろうか。ぼくにはわからない。ただ、あのラストを選んだ監督のセンスはただ事ではないと思う。
 それともうひとつ、この監督は人間の顔を並べるのが好きなのだろうか。そう感じる画面がところどこに見られた。とにかく『グエムル 漢江の怪物』は、みるべき価値が十分にある作品だと思っている。

カテゴリ: 映画

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Posted on 2011/02/10 Thu. 23:12    TB: 0    CM: 0

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