Gitanの趣味

ひたすら趣味の道を走っています(ニヤリ)

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赤裸々な嘘 

 わたしの母は狂死した、と書いた劇作家がいる。それから、わたしは母に捨てられた、としょっちゅう書いていた詩人を知っている。読んだ時はなんと劇的な人生だろうと思った。二人が生み出す作品の毒々しさの背景には、なるほどそういう人生があったのかと若かったぼくは感動とともに読んだ。
 もちろん、二人の母親は当時健在だった。劇作家の母親は彼の子ども、つまり彼女にとっては孫の面倒を見ていたらしい。母親が狂死したという劇作家の話を信じたのは、田舎の純朴な少年だけではなかった。とある評論家も信じたらしく、彼の作品について書くたびに、この話を枕に持ってきた。
 なんとも罪作りな話である。この話は、その劇作家の戯曲『吸血姫』のあとがきで読んだ記憶がある。もうずいぶん古い話で、そのあたりの記憶は曖昧だ。まちがいがあるかもしれないので、このあたりは割り引いて読んでいただきたい。
 それから母親に捨てられた詩人だが、これも真っ赤な大嘘である。どういう企画だったのか知らないが、この詩人は母親に化粧をして、色っぽい服を着せて写真を撮り、そこに自分は母親に捨てられたと書いたらしい。仰天したのは母親である。息子のために働いたことはあっても、捨てたことなどなかった。
「わたしがいつお前を捨てた」
 母親は息子である詩人に詰め寄ったらしい。息子(詩人)がどんな言い訳をしたのか、少し書いてあったが、それはここでは書かない。好意的な見方をすれば、詩人の感受性で眺めると、それもまたひとつの現実ではあったのかもしれない。真実と現実は違うということだ。
 ただ、一般的な言葉でいえば、この二人は嘘つきである。その辺のおっさんがつく嘘とはちがい、一流の表現者がつく嘘である。ごつごつとした現実よりもすんなり入ってくるから始末が悪い。阿部譲二さんが何かで話していた。
「政治家と作家のいうことなんか信じちゃいけない」
 まさにその通りだった(笑)。

 自己を赤裸々に語るというのはどこかいかがわしいイメージがある。自己を語るのは、いってみれば自己申告だ。プラスの方向にもマイナスの方向にも、飾り立てて語ってしまう。意識的にする場合もあるし、無意識のうちにそれをする場合もあるだろう。
 たとえば一人の人間の人生を物語として眺めれば、十分起伏にとんだ物語だ。山も谷もないような平凡な人生であっても、その時々の心理までも含めて描くことができれば、読み応えのある物語になるのではないか。
 不謹慎な言い方だが、他人の人生は面白い。小説とかドラマは、いってみれば他人の人生を眺めて楽しむようなものだ。他人の不幸は蜜の味というが、それに近いことをぼくはしている。
 しかし、平凡な人生であっても面白いというのは、客観性を保ちつつ眺めた場合だ。自分で自分を語ることはかなり難しい。ぼくにはできない(笑)。悪意なく真実でないことを話してしまうことがある。言い訳をすると、たぶんそれはぼくだけのことではなく、多かれ少なかれ誰にでもあることではないだろうか。
 時々、自分の体験を小説に書いてベストセラーになることがある。特殊な体験をした人で、なおかつ表現者としての才能を持つ人であれば、そういうことも十分考えられる。それは別にかまわない。
 問題は得難い体験をどこまで信じられるかだ。自分の体験が商売になるという可能性があるとわかれば、得難い体験をでっち上げてでも書いてやろうという気持ちになるかもしれない。でっちあげないまでも、針小棒大にすることで、お話として面白くしてやろうとい気分になることもあるだろう。
(続く……)
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Posted on 2011/01/31 Mon. 10:45    TB: 0    CM: 2

主人公の価値 2 

 この前の続きである。が、それについて語る前に、お詫びと訂正である。前のブログで「輝ける2012年」と、うっかり書いてしまったが、とんでもない。今年はまだ2011年である。お恥ずかしい限りだ。前の記事は訂正しておきました。おバカな奴と笑ってください。

 さて、ぼくがおバカなのは年が変わっても変わらないこととして、主人公である。前回は、『スタートレック』のカーク船長についてあれこれ考えてみた。凡庸というより、多くの欠点を抱えすぎるほど抱えていた。マイナスの手札ばかりを集めた結果、すべてがプラスに転じたようなものである。
 一種の化学変化だ。欠点は個性だともいえる。強烈な欠点は印象に残る。もしただ一点、愛嬌のようなものがあればすべてが許されるようなところがある。フーテンの寅さんもこのパターンだ。
 かなり強引だが、主人公をふたつのタイプに分けてみることにする。アマデウスタイプとサリエリタイプだ。奇行をものともせず突き進む天才とその天才に振り回されて苦悩する凡人だ。どちらも魅力的だが、共感できるのは、ぼくの場合、やはり苦悩する凡人の方だ。
 最近のドラマ、特に若い女の子を主役に据えた刑事ドラマはアマデウスタイプが圧倒的に多い気がする。この種のドラマの場合、犯人もアマデウスタイプだ。天才的頭脳を持っている。ハッキングなどは当たり前で、何でもできてしまう。見ていてうらやましくなる。
 犯罪者を見てコンプレックスを感じるというのはどうかと思うが、本当にそんな気持ちになってくるから困ったものだ。天才的犯罪者で真っ先に思い浮かぶのは、人喰いレクターだが、テレビに登場するレクタータイプの犯罪者はテレビサイズである。レクターの重厚さは残念がらない。
 アマデウスタイプとサリエリタイプに話を戻すと主人公に厚みがあるのは圧倒的にサリエリタイプだと思う。あくまでも映画『アマデウス』を題材にしていえば、天才モーツァルトの奇行にはついていけない気がするが、サリエリの嫉妬と苦悩は理解できる。
 テレビドラマに登場する不思議ちゃん系のキャラにいまひとつ共感(あくまでもぼくが)できないのは、そばにサリエリがいないからではないだろうか。奇人変人(もしくは天才)というのは、普通の人間をそばに置き、普通というフィルターを通して眺めることで、初めて生きてくるキャラクターだという気がする。
 最近のシャーロック・ホームズ映画はそのあたりが実にうまくできていた。ホームズはつまり奇人変人の代表格である。ホームズひとりでは円滑な人間関係を結べないだろう。つまり浮いた存在だ。
 ワトソン君がいてはじめて、際どくはあるが社会と接点を持てる。ホームズという奇人変人にはワトソンという頼りになる凡人が必要なのだ。それは物語の設定上のことだけではなく、見る側にホームズを近づける機能もあるのだという気がする。
 テレビに登場するアマデウスタイプには、そばにサリエリタイプがいないという印象がある。似たような二人を並べているような気がしてならないのだがどうだろう。奇人変人を二人並べてみても浮き上がるばかりで、社会との接点が持てない。物語につかみどころがなくなるような気がする。
 たとえばマイケル・コルレオーネだ。犯罪組織のボスでずいぶん恐ろしい男だが、この人物に浮ついたところは少しもなかった。大物だが、普通の人間だった。天才的な頭脳はないが、努力と経験によって得た知性があった。同時に利害損得の方程式さえ解くことができれば、実の兄でも殺せる冷酷さも持っていた。
 普通というのは時に恐ろしいということがこの人物像を見ていればわかる。自分を天才だと思い込んでいる誇大妄想狂の犯罪者などよりもはるかに恐ろしい。マイケルの悪は地に足がついている。
 所詮絵空事である。映画も小説もドラマも、別にむきになることはない。しかし、好みはいってもいいだろう。現実離れした主人公も現実そのものの主人公も、宇宙人がいてもかまわない。ただ、ひとつ当たったからといって、にたりよったりの主人公ばかりでは飽きてくるというものだ。

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Posted on 2011/01/18 Tue. 00:56    TB: 0    CM: 2

主人公の価値 

 新年あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。

 さて、輝ける2011年の年頭の話題は主人公である。最近のテレビドラマを見ていて気になることがある。同じようなタイプの女の子が主人公であることが多いような気がしてならない。
 どんなタイプかといえば美人で(これはまあ仕方がない)頭は良いが、どこかおまぬけで憎めないところがあり、性格的にぶっ飛んでいる。一言でいえばエキセントリック、不思議ちゃんである。意地の悪い見方をすれば、頭が極端にいい無神経な若い娘だ。
 そんな彼女にぶっきらぼうだが、秘めた優しさを持った頼りにならないようで頼りになる男性をパートナーにつければ、最近のテレビドラマの主人公ふたりが出来上がる。ヒロインを支える男性は、ある意味ヒロイン以上にエキセントリックなところがある。ようするに変わり者の二人である。
 特にヒロインはよく似ていると思う。細かく眺めれば差異はあるが、基本的なところで彼女たちは似ている。もちろん、これは演じている女優さんのことではない。彼女たちはもちろん常識人だろう。ヒロインのキャラクターのお話だ。
 それが悪いとはいわないが、どうしてなんだろうと思う。どうしてこうも同じようなヒロインばかりが登場するのだろう。ときどき、あまり風変わりな女の子ばかりを見せられていると、これが最近の女性の主流なのか思えてくるから恐ろしい。そんなことはないと信じている。
 主人公に求められる資質について、以前、ディーン・R・クーンツがこんなことを書いていた。主人公は高いビルを飛び越す必要もなければ、弾丸を素手で受け止める必要もない。だが、善悪の判断がつき、子どもが好きで、毎日歯を磨いてもイメージは損なわれない。
 だいたいこんなところだったと思う。言わんとするところを理解していただければ幸いだ。ようするに、主人公が不思議ちゃんである必要はないのだ。普通でいい。しかし、この普通というのが実は難しい。普通という言葉がカバーする範囲は案外広い。
 こういう言い方もできる。普通というのは、つまり欠点だらけの人間ということだ。時々、自分は案外凄いんじゃないかと自惚れ、翌日になるとおれ(わたし)は最低だと落ち込む。
 つまりその他大勢である。この世界を本当の意味で支えている人々だといってもいい。無神経な天才ではなく、色々と気を遣いつつも失敗を重ねる普通の人々だ。普通の人間では主人公になれないのだろうか。
 普通だからドラマが生まれないということは絶対にないはずだ。普通の人間が波乱万丈を乗り越えてこそドラマが生まれるのであって、最初から普通でないヒロインでは、波乱万丈も、まあ仕方がないかと思えてくる。

 ぼくには主人公というと常に浮かんでくるキャラクターがある。あのカーク船長である。もちろん『スタートレック』だ。ヒロインは普通でいいといいながら、これほど日常からかけ離れた世界の住人を引き合いにだすのは、いささか気が引けるが、とにかく先を続ける。
 思えばカーク船長というのは得難いキャラクターだった。欠点だらけの主人公だった。彼は理性よりも直感で動くタイプだった。しかもうぬぼれが強かった。だからことあるごとに副船長のミスタースッポクに、
「船長、それは非論理的です」
 と、窘められていた。当然である。何百人もの人命を預かる船長が、勘や思いつきで、行動されてはたまったものではない。命がいくつあっても足りない。船長の命ではない。乗組員の命の話だ。
 しかも、この船長は過度に女性が好きである。毎週登場する美女にいつも心を奪われ、にやけた顔で近づこうとしていた。いやはやである。さらにすぐに感情的になる。急に怒り出したりするから始末が悪い。まちがいなく、カーク船長は欠点だらけの人間だった。
 特別な性格というのではなく、その辺にいる普通のおっさんの一人だ。ミニ独裁者のような側面もあった。脚本家はちゃんとそのあたりのことを理解していた。転送装置の故障で船長が二人に分裂し、独裁者のような船長が登場したエピソードもあった。
 自分の周りを見回せば、こんな性格の人間は結構いる。凄いのはどんなに失敗してもくじけないことだ。ただ、これも立派というよりも多くの人間に共通していることのように思える。案外、人間は厚かましくて鈍感なところがある。
 対照的なのは副長のミスタースポックである。全体の90%が機械でできているような、間違いが恐ろしく少ない生物だった。心憎いことに、時たま隠れていた感情が顔をだし、ほほえましい失敗をしでかすことがあった。多くの意味で副長は欠点だらけの船長の行動を修正するコンピューターのようだった。
 こういう言い方もできるかもしれない。船長と副長は二人でひとりの完全な人格だった。現実的に考えれば、あの船長はおそらく船長としての職務を全うできないだろう。乗組員を危険にする可能性が大である。
 ただ、ドラマのなかで見る分には、愛すべきキャラクターだった。次郎長一家における灰神楽の三太郎のようなものだった。エキセントリックな天才もたまにはいいが、失敗を重ねてくじけそうになりながらも、前に進もうとする凡庸な主人公というのはかなりいい。

                                      ……続く

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Posted on 2011/01/15 Sat. 06:58    TB: 0    CM: 0

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