Gitanの趣味

ひたすら趣味の道を走っています(ニヤリ)

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むきだしの引鉄 

『スペック』というドラマの最終回で、戸田恵梨香が銃の用心鉄を外す場面があった。思い出したのが『続荒野の用心棒』だ。物語のラスト、両手を潰されたジャンゴは銃の用心鉄を外し、引鉄を十字架にかけて六人を撃つ。
 十字架に拳銃をひっかける、つまり神聖なものを人殺しの道具として利用するというのは、彼の国ではどうだったのだろう。『続荒野の用心棒』はいわずとしれたマカロニウエスタンである。イタリアといえばカトリックの国だ。宗教上のシンボルに対してあんな不敬なことをしても許されるのだろうか。
『スペック』で戸田恵梨香が銃の用心鉄をはずと書いたが、正確にいえばその姿は画面には出てこない。ペンチだがプライアーだかを持ってごそごそやっている後姿が映し出されるだけである。
 ラスト、それまで包帯にくるまれていた女刑事の左手が露になると、引鉄部分に改造が加えられた拳銃が握られている――と、いう展開である。手首には手術縫合の跡がある。切断された左手の秘密も同時に明らかになるというわけである。あの左手はニノマエの左手だったのだろうか?
 ドラマのほうは、最初から最後まで見てしまった。最初は刑事ドラマだと思っていたが、驚いた。これはSFアクションドラマだった。ミュータント対旧人類の激烈な死闘を描いたドラマだ(笑)。
 しかし、これほど壮大(ほんとならとんでもなく壮大な話のはずだ)なドラマなのに、当麻ちゃんと瀬文君のふたりがうろうろしているだけで、これで旧人類にとっての絶望的な危機を乗り越えられるのかと、いささか不安になった。
 観ていて思ったのは、このドラマにおけるテーマとか設定とかは、つまるところあの画面をつくるための小道具として必要だったのではないかということだ。主客が逆転しているような気がしてならない。
『マトリックス』で使われバレットタイム風の撮影が随所に使われていた。あれを使うために、時間の流れを変える能力を持つ少年を登場させた。そんな気がしてならない。余談ながら、時間を止めるといえば手塚治虫の『ふしぎな少年』かテレビアニメ『スーパージェッター』のタイムストッパーだ。
 それはまあいいが、ほかにも街並みを真上から撮影したり、蛍光灯の光を強調した打ちっぱなしのコンクリートの部屋とか、ああいったやや神経症的な画面が次々と登場する。演出家はあれをやりたくて、あのストーリーを選んだ。と、いささか穿った見方をしてしまう。
 エンディングに流れる音楽も画面も、とにかくかっこよくという感じである。なんとなく、かっこいい小道具(あくまでも作者がそう感じる)並べてみせた。主人公ふたりのある種のだささも、裏返しのかっこよさだ。これをかっこいいと思うかあざといと見るか、人それぞれだ。
『スペック』が悪いとは思わない。そういう作り方があってもそれはそれでいい。時々思うのだが、映像作品というのは、物語の流れというよりもひとつひとつの画面の積み重ねみたいなところがある。
 名監督の逸話などを読んでいると、ひとつの場面を撮影するために一日、二日、どころか一週間でもねばったという話がよく出てくる。流れるような物語というが、実際のところはひとつひとつの画面の力が物語を引っ張っていく。つまらないと感じる物語は、この画面の力が弱いのだと思っている。
 さて、『スペック』である。これを面白いといった人間が身近に何人かいる。ぼく的には狙いすぎていて、ちょっとね――と、いったところだ。こういうことをいうと、『スペック』ファンの知人に、
「わからないやつだ」
 と、いわれそうでおっかないが、こればかりは好みの問題なので仕方がない。物語そのものがかかえていた一種の矛盾は、許容できる。矛盾があっても面白い物語はいくらでもある。ただ自分はおじさんになりすぎて、このかっこよさについていけなかった。
 ぼくがかっこいいと思うものはいくつもあるが、いまぱっと思い浮かんだのは、市川崑だ。《かっこいい》を端的に表している作品がある。長くはない。すぐにみることができる。忘れもしないサントリーレッドのCM。あれはかっこいい。いまでも色褪せない。
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カテゴリ: テレビドラマ

テーマ: SPEC~警視庁公安部公安第五課 未詳事件特別対策係事件簿~ - ジャンル: テレビ・ラジオ

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Posted on 2010/12/19 Sun. 07:09    TB: 0    CM: 2

タランティーノの文法 

 ストーリーなんてあるのだろうか。タランティーノの作品を見るたびにそう思う。だから面白くないというわけではない。むしろその逆だ。ある作品が面白いか面白くないか。結局、ストーリーというのはあまり関係ないのかもしれない。
 タランティーノという人は変である(笑)。ぼく的にいえば彼は変人のチャンピオンだ。思い出すのはアカデミー賞の授賞式である。『パルプ・フィクション』はカンヌではパルムドールを取ったが、アカデミー賞では7部門にノミネートされたものの、とれたのは脚本賞だけだった。
 それでもずいぶん名誉なことだと思うが、タランティーノは不満だったのだろう。スピーチの壇上で、
「言いたいことはやまほどあるが、いまはいわない。ありがとう」
 みたいなことをいったように記憶している。その前にたぶん賞は取れないだろうみたいなことをいった記憶がある。が、このあたりは曖昧だ。間違いがあるかもしれない。とにかくそのときの印象は、まるで場違いなやつが紛れ込んでいるなあというものだった。猛烈にインディーズ的だった。
 ストーリーについて話を戻すと、最近観たタランティーノ作品、『イングロリアス・バスターズ』にはストーリーらしいストーリーはなかった。いってみれば断片の集積のようなもので、その意味では流れるようにスムーズなスジ運びとは対極に位置するような物語だった。
 しかし、面白かった。『パルプ・フィクション』も時系列シャッフルを使ってはいたが、お話自体は特に目新しいものはなかった。先に断片の集積と書いたが、言い直そう。意味のないお喋りの集合体のようだった。
 何を描いたかではなく、どう描いたかだとよくいわれるが、ほんとうにそうだ。物語を支えているのは、どんなスジ運びかではなく、その場面がどんな風に作られているのか、そちらの方がよっぽど重要だという気がする。つまり、どう描いたかということだ。
 どんなに凝ったストーリーを考えても、だから面白くなるということはない。すくなくともぼくは面白くない。凝ったストーリーと書いたが、そんなに斬新な物語があるはずがない。皆同じ物語を繰り返し描いている。斬新なのはいつも表現なのだ。
 シェークスピアの悲劇も、昼メロが描くどろどろも、さらにいえば自らを冤罪に陥れた者たちに復讐する美女も、思えば同じ場所に立っている。表現が斬新か、類型的か、その違いが見る者にちがう印象を与えている。つまりそういうことだと、ぼくは考えている。
『イングロリアス・バスターズ』について話せば、この作品は、マカロニウエスタン調の戦争映画だった。よく新しい発想を呼び起こすには、異質なものを結びつけよという。ながらくそれを物語のスジの発想について言われた言葉だと思っていた。
 しかし、どうやらそうではなかったらしい。いや、ストーリーを考えることも含めて、表現全般についていっている言葉ではないかと最近になってようやく気づいた。マカロニウエスタンの感覚で、戦争映画を撮るという発想だ。《戦争》+《マカロニウエスタン》=『イングロリアス・バスターズ』と、いうわけである。
 そういうことを考えること自体、思えば、タランティーノは変である。どう描くか。これは難しい。考えてできることではない。いや、考えることはもちろん必要だ。しかし、それだけでは不可能ではないかという不安を感じる。自分だけの感覚を持っていなければならない。
 すると、結局自分と向き合うしかないという結論に達する。生まれたときから自分と向き合っている人もいるだろうし、艱難辛苦の末にようやく自分と向き合える人もいる。自分を信じるしかない。
 そういえば、タランティーノは絶対に自分を疑ったりしないような感じの人物である。

カテゴリ: 映画

テーマ: 映画 - ジャンル: 映画

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Posted on 2010/12/05 Sun. 19:22    TB: 0    CM: 0

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