Gitanの趣味

ひたすら趣味の道を走っています(ニヤリ)

10« 1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.»12
 

スポンサーサイト 

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

カテゴリ: スポンサー広告

[edit]

Posted on --/--/-- --. --:--    TB: --    CM: --

グロテスク 

 ブロンクス動物園の鏡の間は『世界で最も危険な動物』というあの言葉とともにけっこう有名なのではないかと思う。山崎豊子さんの『沈まぬ太陽』にも登場するが、ぼくが一番最初に知ったのは、石ノ森章太郎さんの作品『大侵略』だった。
 と、その前に、個人的に石ノ森章太郎という名前はぼくのなかで座りが悪い。だから昔の石森正太郎という表記に統一する。あの頃、つまり『大侵略』を書いたころ長編読み切りをずいぶん書いていた印象がある。『スカルマン』もそうだった。
 ひとつ、気になっていることがある。『青い獣』という作品もあったような気がする。カンガルーの出産シーンが印象に残っているのだが、これが石森正太郎さんの作品のどこを探しても出てこないのである。石森プロ公式サイトの全作品データベースで検索をかけてみても出てこない。勘違いだろうか。
 それはさておき、ぼくは石森作品が好きである。あの手塚治虫が嫉妬したという才能は、物凄いの一言に尽きる。したがって、これから書くことは決して批判ではない。正当な評価でもない。ぼくが個人的に感じることである。
 石森作品は大好きだが、ある種の物足りなさを感じることがある。それは最近のことではなくずっと昔からそうだった。石森作品はずいぶん読んだ。『怪人同盟』やら『キングアラジン』といったところも読んだことがあるが、どの作品もそのうまさに感心しながらも、やはり何か物足りないものを感じることがある。
 象徴的に石森正太郎さんの名前をうっかり出してしまって誤解を受けそうで怖ないのだが、実はほかにもそういった作家(漫画家、映画監督も含めて)はたくさんいる。関心も感動もするが、ある種の衝撃を受けない作品といえばいいのだろうか。
 何度もいうが、これはぼくの個人的な感覚の問題だ。普遍的な評価軸にはなりえないもので、
「あんたの言っていることは間違いだ」
 といわれても、一切反論はしない(笑)。すみませんと謝るだけである。ただ個人的な好みであるだけに、どんなに批判され、馬鹿にされても、こればかりは変えようもないし、変わりようもない。映画『シェーン』のラストで、
「人間は変われないものだ」
 と、主人公シェーンが少年にいうが、ぼくはその意見を支持する(笑)。ぼくも人間は変わらないものだと思っている。ま、そのことはどうでもいい。ただぼくの人間観と作品観は似ている。と、いうかそっくりである。ぼくはある作品を見るとき、いつもそれを描いた人間を想像する。
 ぼくが種類を問わず表現に対して求めるものは、《グロテスク》だ。それは生理的な嫌悪を催すようなものが描かれているかどうということではない。感覚の問題である。その作家の持っている感覚のなかにグロテスクなものを感じられるかどうかによる。
 だからどんなに美しい物語であっても、その背後に、グロテスクを感じる作品はぼくの場合ある。たとえば、手塚治虫からはグロテスクを感じる。黒澤明からも感じる。溝口健二はもちろんである。あの小津安二郎でさえそれを感じることがある。大友克弘はグロテスクの塊である(笑)。楳図かずおは表現も感覚も見事にグロテスクだ。
 たとえばゾンビが出てきて人間を食べる場面をいかにそれっぽく描いても、それはたんに残酷なだけで、ひとつまちがえれば滑稽である。そんな残酷映画よりもたとえばパゾリーニの作品に激しくグロテスクを感じる。
 ぼくがいうグロテスクとは何を描いたかではない。作家のなかにある制御不能な何かである。描いているうちに過剰になっていくなにかだ。この人は決定的に変だと感じるものを、気がつくと作品に求めている。
スポンサーサイト

カテゴリ: 日記

テーマ: 日記 - ジャンル: 日記

[edit]

Posted on 2010/11/20 Sat. 22:05    TB: 0    CM: 0

声の美男子 

 最初にその声を聴いたのは、おそらく『0011ナポレオン・ソロ』のイリヤ・クリヤキン(デヴィッド・マッカラム)の声だったと思う。強く意識したのは、それよりもずっと後、日曜洋画劇場で『怒りの荒野』をみたときだった。主演のジュリアーノ・ジェンマだった。
 虐げられて育った青年が、鍛えられてガンマンに成長していくという物語は、今思えば、安っぽい浪花節的ストーリーだったと思う。ようするにご都合主義とお涙ちょうだいの物語というわけだ。
 しかし、決して嫌いではない。どころか、もう一度見てみたいと思う。ただし条件がある。日本語吹き替え版でジュリアーノ・ジェンマは野沢那智さん、リー・ヴァン・クリーフは納谷悟朗さんでなければならない。
 したがってぼくの野沢那智さんのイメージは、アラン・ドロンよりもジュリアーノ・ジェンマが先行している。あるいはイリヤ・クリヤキンである。マカロニウエスタンの安っぽい物語に、説得力を与えたのは、野沢那智さんや納谷悟朗さんの声の演技力だと、全面的にではないが思っている。
 野沢那智さんをぼくたちは『ノザワナチ』と読んでいるが、実際は『のざわやすとも』さんらしい。訃報が流れたとき、「本名=やすとも」と書いてある記事を目にしたが、知ったのはずっと前、『パックインミュージック』の中だった。
 TBSの深夜放送だった『パック……』のナッチャコパックは大好きでよく聞いていた。愛川欽也さんもパーソナリティを担当していた。その愛川さんが何かの事情で番組を休んだ時、野沢那智さんと白石冬実さんがピンチヒッターでパーソナリティを務めたことがあった。
 その時に、野沢那智さんが自分史を話された。「やすとも」という読み方もそのときにされていた。たいていの人は「ナチ」と読むらしいが、たった一人、学生時代の部活か何かの先輩が、
「これ、《やすとも》と読むのか」
 と、訊ねられたらしい。名前を正しく読んでくれたのは、その人だけだったと野沢那智さん自身が話していた。驚いたのは、野沢那智さんが疎開体験者だったということだ。そんな年の方だったのだとびっくりした覚えがある。当時も晩年も声は若々しく、年齢不詳みたいなところがあった。
 抱腹絶倒だったのは、不良だったころの話だ。当時の不良はマンボズボンをはいていたという発言からすでに時代を感じさせた。不良の仲間と喫茶店でからんだアベックが実は警察官で、補導された話はなんともおまぬけで、今の時代の不良とはずいぶん違う。
 怖かったのはベースを弾いているときにみたというジャズミュージシャンの話だった。愛川欽也さんはドラムがうまかった。野沢那智さんもベースを弾いていた時代があったらしい。その時に目撃した当時のミュージシャンの話は不気味で恐ろしかった。
 ヒロポンが流行したころだった。ヒロポンの買える連中はヒロポンを買うが、それを買うことができない連中は、どぶの水を注射していたという。どぶの水が効くという噂話が広がってそんなことをしたらしい。その姿を見たとき、ミュージシャンの世界から抜けようと思ったと話していた。
 他にもおもいっきり貧乏だった演劇青年時代のこと、離婚したころのこと、あるいはオーディションが苦手でよく落ちていた話など、いろいろと話していた。『もうひとつの別の広場』というパックインミュージック関連の書籍にも興味深い話が書かれていた。
 いずれにしても、もう野沢那智さんの声を聴くことはできない。仕方のないこととは思いつつも、残念で仕方がない。

カテゴリ: 日記

テーマ: 日記 - ジャンル: 日記

[edit]

Posted on 2010/11/12 Fri. 16:07    TB: 0    CM: 2

退廃の香り 

 一番腹が立って悲しい状況というのもを考えてみる。食事に関する侮辱ではないかと思う。CW・ニコルさんの著作などを読んでいると、供された食事を拒否することは、場所によっては命の危険も覚悟しなければならない場合があるという。
 映画『太陽がいっぱい』のなかでアラン・ドロンが魚を食べている。マナーを知らない彼を、モーリス・ロネ演じるフィリップが小馬鹿にする。あれは実にいやな場面で、見ているこちらが馬鹿にされているような気分になった。
 貧しく育った青年が友人からすべてを奪い取ってやろうと考え、友人を殺害する。計画は成功するかに見えたが、やはり失敗する。実にわかりやすいストーリーだ。あの映画はアラン・ドロンという役者がいてはじめて成立する物語だった。
 映画全体に漂っている濃厚な同性愛の匂いも、つまりはアラン・ドロンがいてこそというわけだ。今風の言い方をすればBL風犯罪物語ということになるのだろうか。美青年同士の嫉妬と欲望の物語で、そういう物語を成立させるためには、やはり妖艶な気配を持つアラン・ドロンが必要だったのだと思う。
 たとえばアメリカの美男は美丈夫である。良くも悪くも健全で、善であれ悪であれ、一直線という印象がある。ところがヨーロッパの美男というのはどこかに退廃の香りがある。アラン・ドロン、ヘルムート・バーガー、モーリス・ロネ、ジェラール・フィリップ、ジャン・マレー等々、男前だが、どこか一筋縄ではいかない曲者というイメージだ。
 自分の美しさが女性ばかりか時に男性をも惑わすということを知っている感じだ。色事も秘事も、スポーツじみているアメリカでは逆立ちしてもかなわない玄人の凝った楽しみだ。こういうものにも歴史的背景が必要なのかもしれない。
 谷崎純一郎の『春琴抄』の裏側になにが潜んでいるのか。献身や愛だけでは片づけられない淫靡な欲望が見え隠れするようなものである。鍵穴を覗く趣味といってもいい。この『春琴抄』を剥き出しの形で見せたのが、新藤兼人の『賛歌』だが、この新藤作品を見てはじめて『春琴抄』が何であるのか理解した。
 つまり、これである。妙な喩だが、アラン・ドロンには『春琴抄』における夜の世界を連想させるような淫靡さがある。ヨーロッパのある時期の映画にもそれがあった。秘すれば花とはよくいったものである。

 アラン・ドロンは20歳で外人部隊を除隊し、その後、アメリカ、メキシコを放浪した――と、いうことになっている。しかし、別の話しも伝わっている。その頃、アラン・ドロンはパリを裸足で歩いていたという証言があるらしい。
 個人的にはこの話を信じたい気がする。というのも、アラン・ドロンがアメリカ進出に失敗したのは、英語がまるで駄目だったかららしい。アメリカ、メキシコを放浪していたころもフランス語で押し切ったのだろうか。
 アラン・ドロンがパリを裸足で歩いていたという話は、淀川長治氏の著作に出ている。淀川氏は、
「もし、その話がほんとうなら、アラン・ドロンは陰惨な生活をしていたか、それとも思いっきり自由な暮らしをしていたのでしょうね」
 と、書いていた。さらに、アラン・ドロンという俳優は死後伝記映画を製作されるタイプの役者だとも書いていた。自分でも悪趣味と思いつつ、いつかアラン・ドロンの真実を見てみたいと思う。
 たとえば、パリを裸足で歩いていた時期があったのか? ルキノ・ヴィスコンティとの関係は? マルコビッチ事件の真相は? 興味が尽きない。


 アラン・ドロンについて思いつくままに書いたのは、野沢那智さんの訃報を聞いたからだ。実際のアラン・ドロンの声と野沢さんの声はちがうのだが、ぼくの頭のなかでアラン・ドロンはいまも野沢さんの声で話している。

カテゴリ: 映画

テーマ: 映画 - ジャンル: 映画

[edit]

Posted on 2010/11/08 Mon. 21:06    TB: 0    CM: 0

プロフィール

最近の記事

月別アーカイブ

最近のコメント

最近のトラックバック

カテゴリー

FC2カウンター

メールフォーム

ブロとも申請フォーム

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。