Gitanの趣味

ひたすら趣味の道を走っています(ニヤリ)

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月下の門 

 僧は推す月下の門

 僧は敲く月下の門

 月下の門は推すか敲くかである。昔からそういうことに決まっている。読みを書くと《おす》と《たたく》だ。この字を見てぴんとくる人はもう少なくなっているのかもしれない。何のことかといえば、つまり推敲である。
 ワープロ、パソコンが登場して以来、文章に手を入れる推敲という作業は劇的に変化した。書いているそばから気にいらなければなおしていくことが可能になったからだ。それも推敲といえば推敲だが、少しイメージがちがうような気がする。これはあくまでも感覚の問題だ。そんなことは思わないという人がいても少しもかまわない。
 推敲と聞くと、四百字詰原稿用紙(もしくは二百字詰原稿用紙)の枠の外にある細長い空白に細かい文字を書き込むというイメージだ。かつて小説家の生原稿などを見ていると個性的な文字と、余白へのこれでもかという書き込みを目にして、文章を書くというのは大変なことなんだなあと慄いた覚えがある。
 ああいった生原稿を見るのも良し悪しだ。文章に取り組む人間の苦労を目の当たりにして、作文が嫌いになった。よく知っている日本語を、なんでそこまで苦労して書かなければならないのか。大いに疑問を感じたものだ。
 ちなみにぼくがこういった文章を書くようになったのは、ワープロ登場以降である。これはほんとうの話だ。今でもそうだが、手書きで文章を書くと悲惨なことになる。文章の体をなさなくなる。
 思いきり構えてしまうのだ。これから文章を書かねばならないと思うと、緊張して筆が少しも進まなくなる。これがワープロ、パソコンになるとがらりと変わる。まず、好きなところから書きはじめることができる。気にいらなければいくらでも書きなおすことができる。文章を組み換え、削り、書き加える、いずれも思いのままだ。
 おかげで文章を書くという緊張感から解放された。気軽に、それこそ軽いお喋りでもする感覚で書けるようになった。断わっておくが気軽に書けるようになったからといって、内容がともなうわけではない。それとこれとは話しが別だ。
 ただ、こちらは文章を書くことで生計を立てているわけではないので、駄文であろうが悪文であろうがかまわない。その時々の自分の言いたいことを書けるほうが、ぼくにとっては重要である。とにかく、子供のころにワープロ、パソコンがあれば、あれほど作文で苦労することとはなかったはずだ。

 猛烈な推敲で有名なのは、オノレ・ド・バルザックだ。御存知の方も多いと思う。フランス文学に『ナニワ金融道』の感覚を持ち込んだ革命的作家である。もちろん、『人間喜劇』のほうが『ナニワ金融道』よりもずっと早く書かれているから、この表現は正しくない(笑)。
 これも有名な話だから御存知の方も多いと思うが、バルザックは夜を徹して憑かれたように小説を書いた。その段階では文章のできがわからなかったらしい。いったん印刷されたものを見てはじめて文章が見えてきた。
 そこから、怒濤の推敲がはじまる。余白がなくなるほどの書き込みを行い、それを印刷し、ふたたび推敲し……ということを繰り返した。従ってバルザックの校正刷りは、余白をたっぷりと取った紙に印刷されていた。最高、十六回これを繰り返したというから驚きである。印刷所はたまったものではなかったろう。
 しかし、バルザックはどれほど不利益をこうむっても絶対に推敲を止めなかった。膨大な借金返済のために小説を書いたといわれるが、やはり止むに止まれぬ思いがあったのだろう。自分の納得するものを書きたいという表現者としての欲求だ。
 ワープロ、パソコンがもしあれば、バルザックは狂喜乱舞したことだろう。もしかするとその作品群はさらに巨大になっていたかもしれない。
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Posted on 2010/09/30 Thu. 20:35    TB: 0    CM: 5

彼女について――2 

 彼女はいつも何かを書いている。とはいっても彼女はプロのライターではない。仕事は持っているが、書くこととは何の関係もない仕事だ。さらにいえば、彼女には将来筆で身を立てようという野心は、見る限り少しもなさそうだ。
 他に言いようがないからそういうが、彼女が書くのはそれが趣味だからだ。音楽を除けば、彼女には趣味らしい趣味がない。彼女は変わり者である。友人も少なく、孤独である。ただ本人は孤独であることを少しも苦痛と思っていない。
 以前、『人間交差点』という漫画があり、そのなかに、ひたすら書き続ける作家の物語があった。作家は戦時中辛い体験をしていた。その体験が、膨大な作品群を作家に書かせた。ある日、作家の妻がどうしてそんなに書き続けるのか、少し休んではどうかという。すると、
「書いていないと気が狂う」
 と、原稿用紙にペンを走らせながら作家はぽつりと応える。書き続ける彼女を見て、その漫画を思い出した。書かなければ気が狂うほどの苦悩を彼女が抱えているとは思えないが、どうしても書かずにはいられない焦燥感のようなものを感じることがある。彼女は書き続けることで、心のバランスを保っているのかもしれない。
 彼女は無口ではない。それどころか非常な多弁である。彼女の書く文章は彼女の話し言葉に似ている。おそらく彼女にとって話すことと書くことに、大きなちがいはないのだろう。彼女には、自分の内部にあるあらゆることを語りつくさなければいられない一種の不健康さを感じる。
 書き続ける彼女を支えているひとつの柱は、その膨大な知識だ。いったい頭の中のどこにそれだけの知識が詰まっているのかと、驚嘆させられるほどの博学である。想像するに、彼女の頭の中にある膨大な情報は常に出口を求めて蠢いている。
 彼女の記憶は映像的である。彼女の頭のなかでは様々な映像が絶え間なく映し出され、尽きることがない。それを何らかの形で表現しないことには、心が安定しないのだろう。バランスを保つというのは、つまりそういうことである。
 彼女の書くものは様々だ。日記のような、エッセイのような、身辺雑記風のものから小説風のもの、読んだ本や見たドラマや映画の感想等々……あらゆるジャンルにわたっている。しかし、そこにあるのは、常に隠しようもなく彼女自身である。彼女は自分自身について語り続けている。
 決定的に何かが変だと、彼女を見ていて感じることがある。彼女は人づきあいが悪い。こだわりが強く、時に人を傷つけるようなことを平然と口にする。ひどく意地悪になることもある。誰といても、どこかが少しだけずれている。
 彼女が見ている世界は連続体ではない。虹のように、緩やかな変化の上に七つの色が浮かんでいるわけではない。彼女の虹は色がくっきりと分かれていなければならない。彼女にとって世界は、小さなパーツが組み合わされてできているパズルのようなものであるらしい。
 いつだったか忘れたが、書くというのはどういうことか、彼女に訊ねたことがある。目的も終着点もなく、ひたすら書き続ける人間の気持ちのようなものを知りたかったのだ。彼女は不思議そうな顔をしたが、それでも応えてくれた。
「パズルだね」
 意味がわからなかった。こちらの質問と彼女の返答の微妙なずれ。驚きも苛立ちもなかった。彼女はいつもこうだ。言葉は豊かだが、それは会話というよりも、独白だった。彼女のなかでは十分に応えているつもりでも、意味がわからないということはよくあることだった。
 彼女は一方的に喋りはじめた。書くということは彼女にとってパズルに似ているのだという。彼女には文章を綴っているという感覚がないらしい。空間に散らばっているピースを集めてきて隠されている絵を組み立てる。それが彼女の文章感覚だった。
 彼女にとって言葉は、抽象的な記号ではなく、文字通りパズルのピースのように、色と形をもつ、きわめて具体的な物体のようなものらしい。彼女は空間に散らばっている無数のピースを、観念上の手で拾い集める。そして絵を組み上げていく。
 空間に散らばっているピースに手を伸ばした時点で、自分がどんな絵を作ろうとしているのかはわかっている。はっきり見えていると彼女はいう。その点はまさにパズルだった。異なる点は、集めるべきピースが無限にあるという点だった。無数のピースの中から必要なものを選び出し、時にはそれを捨て、あるはずの絵に仕立てていく。
 その作業は彼女にとって、とても楽しく、すべてを忘れて没頭できる時間だという。今日も彼女は書き続けている。他人が踏み込めば迷子になりそうな広大な記憶の森の中を歩きながら、組み上げるべき絵を思い描き、必要なピースを探しているのだろう。

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Posted on 2010/09/25 Sat. 21:53    TB: 0    CM: 0

格を破る 

「芸術とは格を破るものである」
『日本一危ない音楽』というタイトルだったと思うが河内音頭について書かれた本があり、そのなかで拾った言葉だ。正確にそうだったかどうかちょっと自信がない。実家に戻り、書籍や雑誌の類を投げ込んである部屋を探せば出てくるとは思うのだが、根が無精なものでなかなかやる気が出ない。
 団鬼六という作家を知らない方はいないと思う。SM小説の巨匠である。『花と蛇』という作品は名前くらい聞いたことがあるのではないか。冒頭の言葉はその団鬼六氏が河内音頭について書いたエッセイのなかにでてくる。このエッセイはとても好きだ。
 格を破る。つまり破格ということだ。意味は、
「しきたりや通例を破って、並はずれていること、また、そのさま」
 とか、
「詩や文章などで、普通のきまりからはずれていること、また、そのさま」
 と、いうことである。破格というのはもちろん褒め言葉だと思うが、ときどき、破格なことをやろうとしている人間を苦しめることがある。表現というのは、《少し新しい》というあたりが無難だときいたことがある。
 半歩前進といったのは確か作詞家の阿久悠さんだったろうか。こちらのほうはいよいよ自信がない。とにかく、前に進みすぎたのでは皆ついてこない、あるいはついてこられない、ということだ。だから少しだけ新しいことをする。
 もちろん、それは表現を職業にしている人についていえることで、たとえばぼくなどが、仮に破格であっても(絶対にそんなことはないが)、ちっとも困らない。そもそも破格になどなれない。破格になるには才能も必要なのだ。しかし、才能はときに暴走する。
 たとえばゴッホは最初から才能が暴走していたようなところがあった。ゴッホはもちろん炎の画家だが、相当な文才の持ち主でもあった。三ヶ国語で書かれていたという手紙を読んでいると、これはもう手紙などという範疇には収まらない、立派な文学である。しかも文学や歴史にも詳しかったということがわかる。
 ぼくなどは噂話を信じてしまう方だからゴッホと聞けば狂気の天才というイメージを持ってしまいがちだが、実像はかなり違ったようである。むしろ桁外れの知性を持っていた。しかし、絵が売れなかったというのもまた事実だ。ゴッホに巨才があったのはまちがいない。その才能は破格だったのだろう。だから売れなかったともいえる。
 モーツァルトもそうだった。その驚異の才能がコントロールを失ったとき、ウィーンにおける人気を失った。彼は天才だったが、必ずしも成功した音楽家ではなかったようだ。映画『アマデウス』ではずいぶんな扱いだったが、単純に人気があるという点だけにしぼれば、サリエリのほうがはるかに成功していた。
 モーッアルトは一時期人気を得たが、『フィガロの結婚』を境に人気は落ちはじめたという。その理由については色々とあったようだが、ひとつはモーッアルトが音楽において自己を表現しはじめたからだった。ようするにモーッアルトの行う表現に、当時の聴衆(主に貴族だった)がついていけなくなったのだ。
 音楽、絵画、文学、映画等々、様々な芸術は、その表現方法が破格であればあるほど、理解者は少なくなる。高度な表現は受け手にもそれなりの力量を要求することがある(一方で、ほんとうにいいものなら誰にでも理解できるということも真理であるような気がするが)。
 いずれにしても、うけるものと素晴らしいものは必ずしも同じではない。今も昔も変わらない真理かもしれない。

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Posted on 2010/09/19 Sun. 20:09    TB: 0    CM: 0

熱海の捜査官 

『熱海の捜査官』を見て『ツイン・ピークス』を思いだした人はけっこういるようだ。ネットでは『熱海の捜査官』と『ツイン・ピークス』の類似については賑やかに語られている。最終回を迎える今になっていえば、7月にはじまった新番組のなかでは、二番目に好きだった番組だ。
 こういうちょっとへんな感じは好きである。思えばあの『トリック』もはじめのころは、ちょっと変な感じがあり、その感じが好きだった。今回最終回を迎えるのは少し残念な気もするが、まあこのあたりが妥当なかもしれない。何でも少し物足りないくらいがちょうどいい。
『熱海の捜査官』はちょいと変だ。しかし、デヴィッド・リンチの作品はちょっと変どころの話ではない。大いに変で、見ている側の理解の速度をはるかに凌駕して、突き抜けてしまっている感じがある。
『ツイン・ピークス』はさすがにテレビだっただけに、ぎりぎりのところで踏ん張っていたが、それでも画期的に変だったのはまちがいない。主人公のFBI捜査官がチベットの夢判断について語りはじめるなど、自由奔放というか勝手気ままというか、とにかくそのぶっ飛び方が半端ではなかった。
 映画版ツイン・ピークス、『ローラ・パーマー最期の7日間』は、いっきに向こう側に踏み込んでしまった気配もあった。世界一美しい死体といわれたローラ・パーマーだが、あの映画のポスターはインパクトがあった。あの女優さんは、死体を演じているときのほうが美しかった。それがデビット・リンチの狙いだったのだろうか。
「火よ、我とともに歩め(Fire walk with me)」
 と、登場人物が叫ぶ。深い意味があるように思えるが、いまいちその意味がよくわからない。意味などわからなくてもいいのだ。『ツイン・ピークス』は意味不明のまま終わっても、ちっともかまわない。その時々の、変な度合いを楽しむために存在するドラマである。
『熱海の捜査官』はいくつかの魅力的(ちょっと褒めすぎか)な謎が提示され、そのどれも明らかにされないまま、何となくという感じで最終回を迎えた。提示された謎は、必ず解かれなければならないなどというルールはどこにもない。現実社会には解決のつかない問題が山ほどある。と、いうか解決のつかない問題ばかりだ。
 もちろん皮肉ではない。ほめているわけでもない。『熱海の捜査官』が社会のありようをシュールに描いた芸術作品である、などとはまちがってもいわない。奇妙な味を楽しむ料理のようなものだ。物語は収束ばかりではなく拡散があってもいい。
 特に『熱海の捜査官』は扱っていたテーマがテーマだけにそういう終わり方もありだったと思う。あれは結論の出せない謎を解こうとした物語でもあった。とはいえ、期待を持たせるだけ持たせて肩すかしをくわせたのは、ほんの少しだが不親切かなと思ったりもする(笑)。それとも『熱海の捜査官2』の企画でもあるのだろうか。
 余談だが、『熱海の捜査官』を抜いて堂々の1位になった番組は『MM9』である。

追記
 田中哲司さん演じる《切れすぎて痛い鑑識課のボス》は『イレイザーヘッド』のポスターみたいだった。

カテゴリ: テレビドラマ

テーマ: 熱海の捜査官 - ジャンル: テレビ・ラジオ

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Posted on 2010/09/18 Sat. 15:08    TB: 0    CM: 0

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