Gitanの趣味

ひたすら趣味の道を走っています(ニヤリ)

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とてもクールな潮来笠 

 潮来の伊太郎といえば橋幸夫さんである。懐かしの歌謡曲だが、実は小説にもなっている。作者はあの笹沢佐保さんである。このブログでもたびたび書かせてもらっている木枯し紋次郎の作者だ。
 橋幸夫さんの『潮来笠』はほのぼのとした歌謡曲だが、笹沢佐保さんの『潮来の伊太郎』は紋次郎と重なる暗さと冷たさがあったように思う。たしか劇画化もされていたはずだ。《かわぐちかいじ》さんか《ほんまりう》さんが作画をされていたと記憶している。
 小説、劇画ともに何作か読んだことがあるが、劇画のほうには紋次郎のストーリーも転用されていたような記憶がある。原作の原稿が間に合わなかったのか、それとも別の理由があったのか、そのあたりこのとはわからない。
 紋次郎のトレードマークはいわずと知れた長い楊枝である。ちなみにあの長い楊枝は歯を磨くためのものではない。歯を磨く楊枝は房楊枝といって片側が文字通り房のようになっている。口にくわえて飛ばせるような代物ではない。飛ばすどころか、口にくわえて話すこともかなり困難だ。
 都筑道夫さんの作品に時代劇のパロディ作品がある。その中に紋次郎のパロディがあり、うっかり房楊枝を加えてしまったために、まともに喋れないという抱腹絶倒の場面がある。房楊枝を加えれば、つまりそういうことになる。
 紋次郎にトレードマークがあったように笹沢氏が描いた潮来の伊太郎にもトレードマークがある。弓懸けである。弓道の弓を引くときに使う手袋のようなものを着用していたと記憶している。鹿皮製のものらしい。伊太郎が弓懸けをしている理由は、むかし負った傷がもとで時々手がしびれるというような設定ではなかったろうか。
 侍崩れで居合の達人という渡世人と伊太郎が戦うという作品があったことを覚えている。その作品の中で笹沢佐保氏は人を斬るということの難しさに言及していた。曰く、人を斬るというのは高等技術で、訓練を受けていない者にはほとんどできない技であると。侍崩れの渡世人と伊太郎の貫録比べのような描写もあり、そのたりが面白かった。
 笹沢佐保氏が潮来の伊太郎を書いた背景には、やはり紋次郎の影響が大きかったのだろう。それまでとは異なる感覚で股旅ものを描いた笹沢佐保氏に、潮来の伊太郎という古き良き時代の渡世人を再生させようとした(のだと思う)のかもしれない。企画としては面白かったと思う。
 笹沢時代劇の面白さが必ずしもリアリティにあるとは思えない。夢も希望もないあてのないさすらいが当時の世相と合致したという部分が大きかったようにも思う。今ならもっとあうような気がするが、現実の悲惨さがあまりにも重く、フィクションに自分たちの人生を重ねる余裕すらないような気もする。
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カテゴリ: 読書

テーマ: 小説 - ジャンル: 小説・文学

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Posted on 2010/01/31 Sun. 18:07    TB: 0    CM: 2

笑わない三人の男 

 その写真に写っている男たちの中で、笑っていないのは三人だけだった。ダシール・ハメット、レイモンド・チャンドラー、そしてホレス・マッコイだ。写真は『ブラックマスク』誌に書いていた作家たち。ようするに集合写真である。皆笑っているなかでその三人だけがなぜか笑っていない。
『ブラックマスク』というのはいわゆるパルプ・マガジンである。パルプと呼ばれた雑誌がどういうものかは個々にネットなどで調べてもらうとして、ここではごく簡単に、かつてアメリカで販売されていた廉価の小説雑誌であると理解していただければいい。三文小説の代名詞のようなニュアンスだろうか。
 ニュアンスは三文小説でも、ここから生まれた作家のなかには物凄い連中がいる。ハメット、チャンドラーはいまさらいうまでもないほど有名だ。ハードボイルドが好きか嫌いかは好みの問題だが、このジャンルは、ハメットとチャンドラーの二人を抜きにしては考えられない。それほど凄い二人なのだ。
 最近になって知ったことだが、パルプ・マガジンにはウィリアム・アイリッシュも書いたことがあるという。この作家には『幻の女』という大傑作がある。さらには、あのレイ・ブラッドベリやアイザック・アシモフも書いていたらしい。
 これは意外だった。パルプ・マガジンといえばミステリー系だと思っていた。もちろんご存じとは思うが、ブラッドベリとアシモフはSF作家である。少し前に公開された『アイ・ロボット』という映画、あれはアイザック・アシモフの原作だ。『われはロボット』と『鋼鉄都市』をミックスしているのかなと思う。
 なかでも最大級の驚きは、あのジョセフ・コンラッドもパルプ・マガジンに書いていたことがあるというものだった。『闇の奥』の作者である。そういってもピンとこないかもしれない。コッポラの映画『地獄の黙示録』の原作である。原作の時代背景は20世紀初頭である。コッポラはそれをベトナム戦争時代に置き換えたのだ。

 笑わない三人の男に話を戻すと、皆笑っているのになぜこの三人だけが笑っていないのだろうかと、ふと考えさせられる写真だった。偏屈なチャンドラーとでたらめな生き方をしていたハメットが笑っていないのは、理由はわからなくてもなんとなく納得できる(笑)。
 笑っていないもう一人の男、ホレス・マッコイだが、この人はあまりなじみがないかもしれない。日本で紹介されているのは二作品くらいだと思う。そもそも小説が少なく、仕事の多くが映画の脚本(俳優もしていた)だった。
 作品は少ないがすべて珠玉の名作で、といいたいところだが、なかなかそうでもないらしい。ただひとつ『彼らは廃馬を撃つ』という作品、これは素晴らしい。玄人受けするというところだろうか。
ぼくは玄人ではないが、マッコイの『彼らは廃馬を撃つ』はかなり好きだ。矢作俊彦に『神様のピンチヒッター』という作品があるが、「神様のピンチヒッター」という言葉は『彼らは廃馬を撃つ』のなかにあったような気がする。
 ハメットやチャンドラーとは少し異なる位置にいるホレス・マッコイだ。作品もいわゆる私立探偵が登場する作品とは異なる。『彼らは廃馬を撃つ』は不況時代のアメリカで行われたマラソン・ダンスが舞台になっている。
 これだけではなんのことやらわからないかもしれないが、この作品については多くを語らない。もしどこかでこの作品を見かけることがあれば、躊躇わずに購入することをお勧めする。あるいは図書館で借りてくるのもひとつの手だと思う。とにかく読んでみてください。マッコイが笑っていない理由もなんとなくわかるかもしれない。
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カテゴリ: 読書

テーマ: 読書 - ジャンル: 小説・文学

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Posted on 2010/01/26 Tue. 20:31    TB: 0    CM: 0

憧れの人 

 だいたい、へそ曲がりな性格だから生身の人間に憧れを感じたりしない。例えば龍馬が魅力的なのは彼が過去の人で、その意味では現実の人ではなく、物語の登場人物に近い、というより物語の登場人物そのものだからだろう。歴史上の人物坂本龍馬ではなく、「坂本竜馬」のイメージだ。最近では福山雅治のイメージも加味されている(笑)。
『龍馬伝』が面白いかどうかはまだよくわからない。坂本龍馬の人生はたぶんほとんどの人が知っていると思う。何を語ったかではなくどう語ったかが試されるということだろう。もっともNHKの大河ドラマは誰でも知っている人物を取り上げることが多いわけだから、毎回どう語るかの試練に直面しているようなものである。
 もちろんそんなことはないのだが、大河ドラマはほとんど戦国時代か幕末を描いているような印象がある。何も戦国時代と幕末に題材を求めなくても、面白い題材はいっぱいあるように思う。十返舎一九や近松門左衛門などはいかがだろう。幕末と明治時代なら『清水の次郎長』や『嘉納治五郎』だって素晴らしい題材ではないか。
 たとえば、『鸚鵡籠中記』という大傑作がある。知っている方は知っていると思う。元禄時代、尾張藩で御畳奉行をしていた朝日文左衛門の日記である。ここには実際の江戸時代を生きた武士の姿が描かれている。
 と、いうか朝日文左衛門さんが自分自身のことを書いたわけだから、これ以上はない本物の武士の姿である。刀を抜くこともなく、ひたすらお酒を飲み、いまの時代から見れば随分のんびりとした生活に見えなくもない。たしか酔っぱらって名古屋の広小路通りを走ったという記述があったように記憶している。
 元禄といえば江戸時代のバブル期のような浮かれ騒ぐイメージがある。それなりに楽しそうだが、現実となると色々と大変だったようである。しかし、とにかくこういった題材を取り上げるのもありかと思う。まあ視聴率はあまり期待できないかもしれないが。

 先にも書いたが歴史上の人物はあくまでも架空の人物のようなもので必ずしも生身の人間というわけではない。そういったことを承知の上で歴史上で興味のある人物というのはもちろんいる。『龍馬伝』も放送されていることだし、維新の人物に絞っていえば大村益次郎という人に興味がある。
 関係したものを読んで、そこから浮かび上がってくる人物像は、一言、変人である。情緒とは無関係ないところで物事を考える人だったらしい。あの西郷さんの人間的魅力に全く影響されなかった稀有の人物だったという。
 余談だが、その西郷さんについてはあの松本清張さんも批判的だった。『数の風景』という作品のなかで西郷さんについて意外に知られていない一面を登場人物に語らせている。作品を読む限り、松本清張という人も情緒に流されない部分があったのだろう。対象を見つめる冷静な目は、時に冷たいと感じさせることもある。
 歴史上の人物を描くとき、情緒に訴える描き方をしたくなる気持ちはわかる。しかし、良いこところも悪いところもあるのが人間だ。その人物をまるごと描いてこそ面白いドラマになるという気がする。その意味では作る側にも、情緒に流されない冷静な目が求められるのかもしれない。

カテゴリ: 時代劇

テーマ: NHK - ジャンル: テレビ・ラジオ

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Posted on 2010/01/21 Thu. 18:25    TB: 0    CM: 2

撃鉄は叩くな、そっと煽れ 

 ジュリアーノ・ジェンマの近況を知りたいと思う今日のこのごろだ。元気ならば、いまでもイタリアではスタートして活躍されていることと思う。マカロニウエスタン全盛のころ、汚く埃っぽい髭面の主人公たちのなかにあって、ジュリアーノ・ジェンマという人は異色だった。
 当時のジュリアーノ・ジェンマをご存知の方ならわかると思うが、若くハンサムだった。元体操の選手だけあって身ごなしが軽やかで切れがあった。だから美しかった。それでいて粋なフランス男、アラン・ドロンのような妖艶さはなく、どこか野暮ったい感じがして、そのあたりも好きだった。
 彼の作品で心に残っている作品は『怒りの荒野』である。
「撃鉄は叩くな、そっと煽れ」
 と、いうのはその作品の中にでてくるセリフだ。お話は、いってみればガンマン育成物語である。虐げられて育った青年が、凄腕のガンマンに出会い、鍛えられ、最後には自分の師匠であるガンマンと対決する。ありふれた話といえば、ありふれた話である。
 時代劇によくある筋立てだ。もっともマカロニウエスタンが時代劇に似ているのは当たり前で、原点は黒澤明の『用心棒』だ。影響は一方通行ではなかった。時代劇とマカロニウエスタンというジャンルは、相互に影響し合っていたようなところがある。『木枯し紋次郎』など、見事にマカロニウエスタン的である。
 マカロニウエスタンに限ったことではなく、ウエスタン全般にいえることだが、どこかに時代劇の匂いがある。ガンマンと旅烏、あるいは素浪人、どちらにも似た匂いがある。宿場町と荒野の町、名作の誉れ高い『シェーン』など、長谷川伸の股旅物のようだった。
 さて『怒りの荒野』だが、ジュリアーノ・ジェンマを鍛える年長のガンマンは、あのリーバン・クリーフである。猛禽類を連想させるあの顔は、マカロニウエスタンのガンマンを演じるために役者になったかのようだ。
 ぼくはこの俳優さんが大好きである。確か『真昼の決闘』にも出ていたと思う。そのころはぱっとしない悪役俳優だったが、マカロニウエスタンという擬似西部劇の中で見事に開花した。やはり、人間諦めてはいけない。この人はウィスキーのCMにも出ていたはずである。グラス片手に、
「おれの古い友だちさ」
 みたいな感じで、渋く決めていた。
『怒りの荒野』に話を戻す。ジュリアーノ・ジェンマはガンマンになるにあたって、心得の十カ条をリーバン・クリーフから伝授される。「撃鉄は叩くな……」もその中のひとつだったと思うが、実はこれがラストに大きな意味を持ってくる。あるいはこれは十カ条の中にはなかったかもしれない。
 撃鉄は叩くな――というのは、ようするにファニングをするなということである。銃を腰だめにして引き金を引いたまま空いている手で撃鉄を叩くのである。速射には向いているが命中率は最悪、というかまったくあてにならない。この場合の拳銃というのは、シングルアクションリボルバーだ。
 撃鉄を叩かないのであればどうするのか。銃身を手で握り、撃鉄を親指で起こし、そして撃つわけである。しかし、これはどんなものだろう。聞いた話では、撃ち続けた銃の銃身という奴はかなり熱くなるものらしい。手で握れば火傷をするほど熱くなるという。またこんなことをしても狙いが正確になるとは到底思えないのだが。
 まあ、しかし、そういった細部に目くじらを立てずに楽しむのがこの手の映画の正しい見方だ。時代考証を無視して、ウエスタンアイテムを上手に、あるいは無茶に並べて、それっぽく話をこしらえる。ようするに面白ければいいのである。
『怒りの荒野』は、時代劇に機関銃を登場させた『子連れ狼』的いい加減さがある。しかし、だからこそ気軽に感動できるのである。少なくともぼくにとってはそんな作品だった。年老いた元ガンマンが、主人公にドク・ホリディのつかったという拳銃を渡す場面は、まあ浪花節である。ようするにそれっぽければ何でもいいのである(笑)。
『怒りの荒野』は軽い気分で十分楽しむことができた。撃鉄など叩いても煽ってもどちらでもいい。何をしようとあのころのジュリアーノ・ジェンマはかっこよかった。つまりそういうことだ。特にこの映画における彼が好きである。

カテゴリ: 映画

テーマ: 洋画 - ジャンル: 映画

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Posted on 2010/01/11 Mon. 22:18    TB: 0    CM: 2

モノリス 

 記念すべき2010年、ボーマン船長の言葉の謎が解かれる。

 ――凄い! 星がいっぱいだ。

 今を去る9年前の2001年、人類は謎の物体モノリスを追って木星に旅立つはずだった。そのような未来があっても間違いではなかったはずだ。現実はどうか。2010年の今、人類は滅亡へ向かって滑り落ちかねないがけっぷちでかろうじて踏ん張っているように思える。人類にはほんとうにモノリスが必要なのかもしれない。
 いまうっかり必要と書いたが、超宇宙的な存在であるモノリスに対して必要だからきてくれといったところでおいそれと来てくれるはずもない。そのあたり、モノリスというのは欧米人の考える神様に似ているのかもしれない。
 正直な話、『2001年宇宙の旅』と『2010年宇宙の旅』を比較すると、『2010年』はかわいそうな気がする。映画のできは決して悪くない。だがいくらなんでも相手が、『2001年』では、
「ちょっと待てよ」
 と、いうわけだ。
「凄い! 星がいっぱいだ」
 というあのセリフは、「2001年」のなかにあっただろうか。小説版では感動的に登場するが、映画ではなかったような記憶がある。間違っているかもしれない。そういえば小説版の中の一節、
「スターゲートは開いた。そしてスターゲートは閉じた」
 も、好きだ。

『2001年宇宙の旅』は、個人的な映画史において限りなくベストワンに近い場所にある映画である。はじめてあの映画を見たときは呆気にとられた。まだ子供だったのだ。それから何度も見たが、見るたびに呆気にとられる。
 見るたびに、ほんとうに自分が宇宙にいるような高揚感を感じる。と、同時に孤独と恐怖を感じる。HALが壊れていく様子はまさにホラーだ。説明もなく淡々と壮大な映像が繰り広げられる。感動させながら、どこかで嫌悪感に似た感情をもつ。『2001年宇宙の旅』というのは、ぼくにとってそんな映画だ。
 ぼくの映画史において限りなくベストワンに近い場所にある映画だと書いた。だが、同時に嫌いな映画のベストワンにもっとも近い場所にある映画でもある。見る者を最初から拒否しているように感じられる。キューブリックに見下されているような気がする。
 キューブリックが天才であったかどうかわからない。ある種の哲学的存在であるモノリスをああいった形で具体的に見せたキューブリックは、相当変な人であったろうとは思う。絶対に友達にはなりたくないタイプだ。
『2010年宇宙の旅』はお節介だったのかもしれない。感動と苛立ちを残して飛び去ったディスカバリー号の謎解きをわざわざする必要はなかった。キューブリックが切り捨てた説明をわざわざすることで、皆から無視されてしまうという不名誉を拾ってしまったように思える。映画のできはそんなに悪くないから残念だ。
 しかし、とにかくこうして2010年を迎えることができた。今現在、人類は木星に向かって二度目の飛行をしていないし当分その予定もなさそうだが、それでもまだ滅びていない。まずそのことに感謝するべきかもしれない。人類はもしかするとほんとうにどこかでモノリスに触れたのかもしれない。

 皆さん、あけましておめでとうございます。 

カテゴリ: 映画

テーマ: 洋画 - ジャンル: 映画

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Posted on 2010/01/08 Fri. 22:17    TB: 0    CM: 0

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