Gitanの趣味

ひたすら趣味の道を走っています(ニヤリ)

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クリスマスの約束 

 12月25日に放送された『クリスマスの約束』という番組を見た方も多いと思う。21組34人のアーティストが、それぞれの代表曲をリレー形式で次々に歌い継いでいくというこの企画のタイトルは『22'50"』。34人が歌いきるまでの時間が22分50秒。
 小田和正さんの『クリスマスの約束』という企画はこれで八回目らしい。なぜか一回目から見ている。すべてではないがほとんど見ているはずだ。実をいうと小田和正という人の熱心なファンではない。特に嫌いではないが、ぼくの好みとは少し違う。
 もちろんオフコースの時代から知っているが、活動について特に気にかけるということはなかった。日本人のミュージシャンでいえば、たとえば――長谷川きよし、浅川マキ、ビギン、リトルクリーチャーズ、ナーキ、電気グルーブ、上々颱風といったミュージシャンたちとは、ぼくのなかで別の位置にいる人なのである。
 ではあるけれども、なぜかこの番組は、見るともなく見ていることが多かった。どの回だったかは忘れたが、気になるミュージシャンのひとりである斉藤哲夫さんが出演したことがあった。もちろん『悩み多き者よ』を歌った。
 キャリアというはつくづく凄いものだと思った瞬間である。大メジャーの小田さんとはまるで違うタイプのミュージシャンである斉藤哲夫さんだが、こういう人まで引っ張り出してこられるのは、長年業界で生きてきた強みというやつだろう。キャリアに支えられた人脈というのは本当に凄い。
 この分でいくと、いつか《休みの国》が登場して『追放の歌』を歌うかもしれない――という期待を持ってしまう(笑)。あるいは岡林信康が突如としてあらわれるかもしれない。ほんとに浅川マキがやってきて『かもめ』なんぞを歌ってくれるかもしれない。もちろん、そんなことはないだろうが。

 今回、この番組を見たのは、何となくというわけではなかった。気になるミュージシャンのひとりである中村中さんが出演すると知ったからだ。で、感想だが、良かった。その一言につきる。もともと歌のうまい人ではあるが、さらにうまくなっていた。そして、なによりも楽しそうだった。
 中村中さんが『友達の詩』を歌っているそのとき、カメラが会場の観客をとらえた瞬間があった。泣いている女性がいた。この歌の持っている凄さを改めて感じた。同時にこの曲が中村中を苦しめるかもしれないとも思った……まあいいかな。この一曲を持てる歌手はそれだけで幸せなのかもしれない。
 最後に、小田さんの曲を全員で歌った。そのとき、中村中さんと夏川りみさんの繋いでいる手がアップになった。あれは中さんの手だったのだろう。長くきれいな指がリズムを打っていた。贔屓目か、あるいは思いすごしか、それともその両方か、カメラが中村中さんを映すことが、やや多かったように思う。
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Posted on 2009/12/26 Sat. 22:14    TB: 0    CM: 2

なんて不思議なジンギスカン 

 ふざけたタイトルをつけてしまったが、いいたかったのは映画『モンゴル』についてだ。浅野忠信さんが若き日のチンギス・ハーンを演じたこの映画は、アカデミー賞の外国映画賞にノミネートされたこともあり、前から観たいと思っていた。
 ストーリーはたいへんわかりやすい。父を殺されたテムジンという少年が艱難辛苦の果てに、ついに草原の支配者チンギス・ハーンになるまでを描いた映画、ということになる。物語は単純なのだ。NHK大河ドラマにありそうなストーリーだが、実はまるで違う。
 映画に登場する人々の営みのすべて――戦争、権力闘争、果ては男女の関係も、とにかくすべてが荒々しいのである。この映画を観ていると、たとえば日本の戦国時代というものが、かなり長閑なものだったのではないかという気がしてくる。本質的に日本人は争いごとに不向きなのかもしれない。
 日本の歴史は起伏に富んでいるという話をよく聞くことがある。そういう部分は確かにあるとは思う。さらに、遠まわしに、だから自分たちは優れているのだという気分にさせてくれて、少し心地よい。
 自虐史観というものがどういうのかいまひとつよくわからないが、そういう感覚は少ない方だと思っている。が、それでもこの映画を観ていると、夜郎自大的な思い込みは捨てたほうがいいのかもしれないという気になった。少なくとも争い事が得意だというような妄想は捨てたほうがいいかもしれない。最終的に勝ち負けの問題ではなくなる。
 海に囲まれた島国で、仲間同士が小競り合いを演じてきた歴史と、考え方も文化も、信じる神も、あらゆるものが異質な者同士が争う世界というものの凄まじさとは、本質的に異なる。そういう激烈な世界でもまれている人々の争い事というのは、身内の争いでも凄まじいもののようだ。
 人間の営みは、風土に決定されるものかもしれない。荒々しい土地は荒々しい生き方を人々に強いる。すると、四季の変化に富み、穏やか気候風土のわが国には、穏やかな生き方がもっとも似合う、ということになるのかもしれない。

 映画についていえば、ここで描かれたチンギス・ハーンの半生がどこまで史実に忠実であるのかはわからないが、映画的説得力があるのは事実だ。たとえば日本製のチンギス・ハーン映画などより、はるかに説得力がある。
 観て驚いたのは、この映画のチンギス・ハーンはほとんどの場面でとらわれ人であるということだ。子供のころから成人のある時期まで、敵に追われ逃げまどい、争えば負けて、捕えられ、果ては奴隷として売られる。英雄というにはあまりに情けなく、つらい半生である。
 それが史実なのかどうかわからないが、逆にいえばだからこそのリアリティがある。この映画を観ていると、若き日のチンギス・ハーンが生き残れたのは僥倖だった、というように思えてくる。
 ようするに運があったというわけである。断定的にいってしまえば、運しかなかったともいえる。知略や努力だけでは切り抜けることのできない瞬間が、人生には確かにあるという気分にさせられる。それこそ天佑神助がなければ生きることが困難な瞬間だ。
 しかし、そのあとに続くモンゴル統一の大事業は、自らの運を生かしきった者の賢さだ。さらに言えば、どん底の人生が心を鋼に変えたのである。描かれたそういったチンギス・ハーンの人物像もこの映画の大きな魅力のひとつである。
 が、それだけではない。映画全体にあふれるその感覚がとても魅力的なのである。映画は感覚だと、敬愛する淀川長治さんは常にいっていた。この映画の不思議な感覚は、歴史を忠実に再現していながら、その一方でヘビメタのPVのような、どこか弾けたような映像感覚に彩られているという点にもある。
 そして、映像の中心に存在する浅野忠信。彼の存在感がなんとも凄い。チンギス・ハーンを映画化するにあたって、この俳優を見つけたことは大きいと思う。映画は小説とことなり、生身の人間が演じる。俳優の存在感が、そのまま映画のテーマになってしまう。今回あらため、誰が演じるかということの大きさを実感した。
 それにしてもつくづく凄いと思ったのは、主演の浅野忠信さんが全編モンゴル語で演じているということである。しかもただ話しているだけではなく、演技までしている。実際のモンゴルの人たちの耳にどう聞えたのかわからないが、役者というのは凄いものだと思う。

カテゴリ: 映画

テーマ: 気になる映画 - ジャンル: 映画

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Posted on 2009/12/09 Wed. 12:19    TB: 0    CM: 0

坂の上の雲 

「明治という時代は明るかった」
 と、言ったのは黒澤明だ。
 リメイクされる『姿三四郎』がどうしてだめなのかという問いに対して(厳密に質問ではなかったが)、その理由について語ったときのことだ。現代人の感覚で明治の青年である姿三四郎を描く。そこにそもそもの間違いがあるというのである。明治は明るかった。その明るさを体現するようなキャラクターでなければ、映画は成功しないという。
 そのとき黒澤明が例に出したのが、司馬遼太郎の『坂の上の雲』だった。明治時代に生きたことがないので、本当のところはわからないが、たしかにそういう部分はあったかもしれない。新しい時代がはじまり、何かが始まるという期待だ。
 ただ、それはあくまでもフィクションとしてのことだろうと思う。黒澤明も、もちろんそのあたりのことはわかっていたはずだ。物語の核のようなものをつかみ取るときの、黒澤明の、いってみれば《コツ》のようなものを語ったわけで、現実の問題として明治が明るい時代だったのかどうかは、はなはだ疑問である。
『坂の上の雲』は読んだが、さして明るい時代とは思えなかった。時代のどこを眺めるかによって、見方は変わるのだろう。大人物とは程遠いまったくの小物だから、戦争の犠牲になった無名の人々のことばかり気になる。彼らにとって明治が明るい時代であったとは思えない。
 歴史を鳥瞰などできない性質だ。自分も時代の荒波の中で、浮いたり沈んだりしている有象無象のひとりだから、偉大な革命も、正義の戦争も、そういったところとは関係のないところで生きた人たちのほうがはるかに気になる。
 ぼくにとって明治維新は、革命でも何でもない。徳川幕府への一種のうっぷんが原動力となって起きたとしか思えない。その結果が明治維新と呼ばれるもので、よくわからない騒動の後に、気がつくと革命っぽいものが起きていた。そんな感じではないだろうか。
 明治維新は偶然の累積が生み出したひとつの結果にしか過ぎない。仮に徳川政権が続いていたとしても、日本の近代化はあっただろうし、その後に続く歴史も、似たようなものになったのかもしれない。

 その『坂の上の雲』がNHKで始まった。かなり前にこの作品がドラマ化されると聞いたときに、ある種の違和感を覚えた。著者の司馬遼太郎はこの作品の映像化を許さなかったという話を聞いたことがあったからだ。厳密にいうと読んだ。著者がなくなって、というか著者がいなくなったからこそ、映像化が決まったのではないかと勘繰りたくなる。
 この物語(あくまでも物語で、歴史的事実ではおそらくないだろう)の映像化を許さなかったという司馬遼太郎という人は、やはり一流だった。ぼくは司馬史観とかいうものを全面的に肯定しない立場の人間だが、それでも司馬さんは超一流だったと思っている。その考えは今も変わらない。
 司馬遼太郎という人は、自分の書いているものが、自分の意志とは違う受け止められ方をする可能性があることをちゃんとわかっていたのだ。一歩間違えると過去の歴史を、無批判に肯定しかねないような物語を、映像化するのはどんなものだろう。映像の持つ影響力は凄い。美化される歴史ほど危険なものはない。
 あの時代の良かったことも悪かったこともきちんと把握してから観るのと、いきなりドラマチックな物語としてそれを観るのとでは、天と地ほども受け止め方がちがうはずだ。肯定する人もいれば批判的な人もいる過去のある出来事を、物語に仕立てるには、相当な注意が必要ではないかと思う。
 司馬遼太郎という人の作品は大好きである。しかし、それはあくまでも小説として好きだということである。司馬遼太郎という人は、好みの人物を必要以上に持ち上げるようなところがある。
 そのあたりのことを自分なりに判断していかないと、たとえば織田信長は偉大な変革者である部分ばかりが目について、とんでもない大量虐殺をやったことを、うっかり見落としてしまう。殺される側の立場にもなってみろということだ。司馬さんは影の部分もちゃんと書いているが、そっと目立たないように書くことがある(笑)。
 しかし、物語なら人物をデフォルメすることもありだ。歴史的事実の評価を自分の好みに合わせて書き換えることもありだと思う。極端なことを言えば、まったくの捏造でもかまわない。学生時代に習った歴史が少しも面白くないのは、それが現実だからだろう。やや断定的に言えば、本当のことなど少しも面白くない。嘘だから面白いのだ。現実にいくらかの嘘を交えるとき、お話は最も面白くなる。
 断わっておくが明治の人物群像の中で、ぼくの最も好きな人物が、『坂の上の雲』の主人公である秋山兄弟だ。特に兄の好古さんが好きである。『坂の上の雲』を読みながら、もし映像化されるなら、この二人を演じるのは誰だろうと思っていた。そう思いつつも、今回の映像化にはやはり違和感を覚える。

カテゴリ: テレビドラマ

テーマ: NHK - ジャンル: テレビ・ラジオ

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Posted on 2009/12/06 Sun. 10:28    TB: 0    CM: 0

生活空間のなかの兵士――カミカゼタクシー 

 彼はまずネクタイを買う。一本ではなく何本も。それから目的地に向かう。ふらりと入った洋品店で、数本のネクタイを買った瞬間から、彼はラストに向かって加速をはじめる。彼が目指す場所は、《政治的・暴力的》巨悪の住む邸宅だ。何のためにネクタイを買ったのか。やがてそれがわかる。
 彼はネクタイで一種の投石機のようなものを作る。巨悪の屋敷につくと、彼はネクタイで作った投石機で巨悪の邸宅のガラスを割る。飛ばしたのは石ではなくパチンコ玉を集めたものだったと記憶している。
 突然、ガラスを割られ、邸宅から屈強な用心棒が出てくる。巨悪だけあって敵も多いのだろう、用心棒が常に控えている。投石機で最初のひとりを倒し、用心棒の持っていた木刀を奪い一人を撲殺する。さらに用心棒が持っていた拳銃を奪う。
 その後に続く一連の動作は、水が流れるように滑らかで鮮やかだ。グリップから弾倉をとりだし、弾丸が装填されていることを確かめる。弾倉を戻し、遊底を引き、薬室に弾丸を送り込む。飛び出してきた用心棒を一瞬の躊躇いもなく射殺する。。
 彼は土足で巨悪の屋敷に上がりこむ。撃たれた用心棒はまだ生きている。彼は平然ととどめを刺す。歩きながら撃つ。至近距離から虫の息で倒れている男を撃つのである。銃を撃つこと、人を殺すことが、空気を吸うように当たり前になっている男なのだとそれでわかる。
 しかし、ここに至るまでの彼は優しい男である。控えめで、穏やかで、目立つことのない男だ。そんな男が、ラストで冷酷で衝撃的な暴力をふるう。その瞬間、映画そのものが別の次元に跳躍する。

『カミカゼタクシー』という映画を観た人がどれくらいいるのかわからないが、この映画は傑作だった。扱っているテーマは重いものがある。しかし、扱っているテーマよりも何よりも、ぼくにとってこの映画は、暴力そのものを描いた映画として強く印象に残った。ラスト20分ほどの間に繰り広げられる暴力描写は衝撃的だ。
 北野武も暴力描写のうまい監督だが、この作品における原田眞人も非常にうまい。そういえばこの人の監督作品『さらば映画の友よ・インデアンサマー』でも、川谷卓三さんがラストに殴り込みをかける場面があったと記憶している。あの場面もうまかったし好きだった。
 断わっておくが基本的に暴力的な映画は大嫌いである。非常に不快な作品もある。人生の本質は、インテリ風情がなんといおうと暴力とセックスだといった人がいるが、ぼくはこの考えに否定的である。それから、ぼくはもちろんインテリではない。
 好みの問題はさておくとして、『カミカゼタクシー』における暴力は、主人公の人生と密接にかかわっているという設定である。主人公である日系ペルー人のタクシー運転手は元兵士なのだ。
 しかもゲリラ戦専門である。いってみればタクシー運転手の職を得たランボーのようなものだ。重いテーマを扱っているが、映画はあの『ランボー』の変種のようなもので、その意味では立派にエンターテイメントしているのである。そういうあたりも上手だと思った。
 この映画の主人公は、いってしまえば平凡な日常の中に紛れ込んだ凶器にしかならない刃物のような男だ。彼は両刃の鋭いナイフだが、最後の瞬間まで鞘に収まっている。男が鞘からぬけだす瞬間の飛躍が素晴らしいのである。断わっておくが表現が素晴らしいといっているだけで、決して暴力を賛美しているわけではない。

カテゴリ: 映画

テーマ: 映画感想 - ジャンル: 映画

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Posted on 2009/12/02 Wed. 22:30    TB: 0    CM: 0

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