Gitanの趣味

ひたすら趣味の道を走っています(ニヤリ)

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嘘のつき方 

「あれって貧民街じゃないわよね」
 彼女はいった。
 確かにそうだ。あの映像を見るかぎり、あそこは貧民街には絶対に見えない。わが日本でなら、あそこは普通の街だ。
「マイケル・ムーアも感動していたな」
「カナダって文明国ね」
 文明国という言い方がおかしくて思わず苦笑した。しかし、彼女の言葉は正しい。人々を貧困のままに放置している国は文明国とは言えない。
「これまで一度でも、人々を無知と貧困のままにしおいてはいけないというふれがでたことがあったか」
 貧困に対して何もしようとしない政治に対して静かな怒りをぶつけたのは黒澤映画の『赤ひげ』だった。もしかすると今の日本は赤ひげが嘆いた時代の日本と、本質的な部分であまり変わらないのかもしれない。派遣村ができるような国が本当に文明国といえるのか、微妙だと思う。
 彼女が話しているのはもちろん、『赤ひげ』の話ではない。『ボウリング・フォー・コロンバイン』――いまさらいうまでもないが、マイケル・ムーアの傑作ドキュメンタリー映画である。あまりにも有名な作品だから、内容については深く触れない。
 ひとことでいえば、どうしてアメリカ人はやたらと銃を撃ちたがるのかという内容だ。ご覧になった方からすれば、ずいぶん乱暴な作品紹介だと思われるかもしれない(笑)。しかしまあそういうものだと思ってください。

 ドキュメンタリー、あるいはノンフィクションというものがいまひとつよくわからない時期が長く続いた。知的レベルを露呈してしまうようで恐ろしいのだが、現実の風景を切り取って見せるあの手法が、長く理解できなかった。本当のことなど少しも面白くない。嘘のほうがずっと楽しい。そう固く信じていたし、いまでもそんなところがある。
 否定しているわけではない。すぐれたノンフィクションやドキュメンタリーは読んだり観たりしていた。面白くないというのではない。なにかひとつ理解の及ばないところがあったというべきかもしれない。
 面白いけれど、それは現実の問題について考えさせるためのもので、一種のお勉強のように感じられて、普通の意味で面白いという感じではなかった。先入観の問題だ。面白いものを見ても、思い込みが邪魔をして楽しめないのだ。真面目な勉強とふざけた嘘。実害のない嘘なら、嘘のほうが面白いに決まっている。
 その認識が変わったのが、『ボウリング・フォー・コロンバイン』だった。
「弱者をたたいても何も解決しない」
 映画の中に出てくる言葉だ。これは胸にずんときた。この映画を観たころは、剥き出しの資本主義花盛りのころで、二言目には自己責任と言われうんざりしていた。政権交代がおきたいまでも、自己責任と聞くといらっとくる。
 確かに自己責任はある。しかし、運だってあるのだ。人生におけるある種の運不運は、やはり無視できない。歳をとればとるほどそれを感じる。努力はもちろん大切だが、それだけですべてが解決するものなら誰も苦労はしない。人生がままならないのは世の常だ。
 とにかく、そのころの日本は弱肉強食の資本主義を目指していて、人間を「勝ち組」と「負に組」に分けるのがブームのようになっていた。ぼくのような落ちこぼれにはずいぶん生きづらい世の中だった。映画の内容、テーマよりもその言葉にまずひかれた。
 映画そのものももちろん面白かった。何度か見ているうちに、これはある種のコラージュだとはたと気づいた。現実を切り取り、それを自分の描きたいテーマに沿って切り貼りしていく。現実という素材を使ってあるストーリーを構成している。

「結局、嘘なのよ」
 彼女はいった。
「いきなりなんだよ」
 ぼくは苦笑する。いつもこうなのだ。彼女の言葉にはいつも飛躍がある。過程をすっ飛ばして結論だけを言ったりするから、聞いている方は何を言っているのかさっぱり分からなくなるときがある。
「ドキュメンタリーとかノンフィクションといっても、つまりはお話よ。人が語ることはすべて物語だわ」
 なるほど、そうかもしれない。ぼくはマイケル・ムーアの考えを支持する。しかし、描いたことがすべて現実であるとは思わない。あれはマイケル・ムーアにとっての現実である。万人にとっての現実ではないはずだ。あるいはマイケル・ムーアが問題意識を持って切り取った現実だ。
「ドキュメンタリーというとつい本当のことと思いがちだけど、あれは一人の人間が自分の考えに基づいて再構成した現実で、わたしにとっての現実ではないかもしれない。現実にその場に立ち会えば、まるで違う出来事だったのかもしれない。誰かが自分の人生について語っても、それが現実というパーツを再構成したものなら、物語と何も変わらない。人間に嘘とほんとうの境界線がわかるとは思えない」
 人の話すことには必ず嘘が交じる。無意識についている嘘、他愛もない嘘、錯覚による嘘……。人は悪意に基づく嘘だけを《嘘》だというが、ほんとうのところ、我々は大小さまざまな嘘の中で生きている。彼女の言葉は正しい。嘘との本当の境界線を判断することは難しい。人は自分自身も騙す。
「だからね、問題は嘘かほんとかじゃない。うまいか下手、そこに尽きるのよ」
 さあ、それはどうだろう。その部分に関しては全面的に賛同しかねた。何を持ってうまい下手の判断をするのか、難しい問題だ。しかし、反論はしなかった。へたに反論しようものなら、とんでもない反撃を受けて、木っ端みじんに打ち砕かれかねない。彼女は結構怖いのだ。
 マイケル・ムーアに関して言えば、語りの名手だと思う。映像とそこにかぶるナレーションの絶妙なリズム感。これが素晴らしい。ぼくにとって(そしておそらく彼女にとっても)は素晴らしいと感じるリズムがある。マイケル・ムーアが語ったことに賛成反対、立場はそれぞれだと思うが、あの心地よい映画のリズムに触れるだけでも観る価値はあると思う。

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カテゴリ: 映画

テーマ: 洋画 - ジャンル: 映画

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Posted on 2009/11/28 Sat. 19:01    TB: 0    CM: 0

『椅子』が好きだ 

 昨日は11月22日。《いい夫婦の日》だということを、職場の同僚に教えられた。日常的、あるいは常識的なことにきわめて疎いもので、この世の中にそんな日があること自体しらなかった。
 しかし、いい夫婦とはねえ……昔『いい人』とかいうドラマがあったと記憶している。もとは漫画だったはずだ。いい人とかいい何々というのは実に定義が難しい。へそ曲がりのぼくは、『いい夫婦』などといわれると、
「とりあえず脱法行為をせずに夫婦でいられるのなら、それがいい夫婦だろう。夫婦の数だけ夫婦の形があるんじゃないのかい」
 と、口を尖らせて言いたくなる。大人げないことこの上もない。

 いい夫婦がどんなものかわからないが、『椅子』という歌が好きだ。岡本おさみの作詞、長谷川きよしの作曲になるこの曲は、やわらかいメロディーが心地よいし、なによりも詩がとても好きである。

 その椅子には 行きずりの女が座るんじゃない
 ショールより温かく 君が座るんだ

 という部分がある。
 古手川祐子さんという女優さんがいるが、田中健さんと結婚した時、新郎自身がこの曲を歌ったと記憶している。ちなみに恥ずかしながらぼくも歌ったことがある。結婚式の時だった。
 自分の結婚式ではない。友人の結婚式の余興で、この曲を歌った。自慢すると、それは田中健が当時とても可憐だった新婦古手川祐子のためにこの曲を歌う前のことだ。後で田中健の話を聞いて、本当に『椅子』を歌ったのなら、この曲から同じようなイメージを受けた人が自分以外にもいたのだと思い、とても嬉しかった。
 心変わりをする男と女を歌った歌はいくらでもあるが、変わらぬ優しさや、ひとりへの想いを歌った曲というのは案外少ないような気がする。別れの悲しみを歌った曲もたくさんあるが、この人と一緒に生きていこうという気持ちを、明るく歌った曲も少ない――か、あってもぼくはあまり知らない。
 もっとも、この曲の最後の部分には、皮肉な視点も含まれている。ぼくが結婚式の余興でこの曲を友人と演奏した時は、最後の部分を敢えて歌わなかった。嘘でもなんでも、とにかく永遠の愛を誓う場には不似合いだと思ったからだ。

 岡本おさみという人の詩の持つイメージは、いってみれば“盲点を突かれる”とうものだった。もちろん個人的なことだ。ぼくにとって岡本おさみさんの詩は、普段気づかない世界の出来事のひとつを、
「ほら、こんなこともあるだろう」
 と、見せてくれる、そんな感じだ。
人間が何かを表現するということは、基本的に自分の感性で世界を再構成することだと思っている。絵、言葉、数式等々。別に特別なことではなく、ぼくも含めてその他大勢に含まれる人々の、幸福だが平凡な日常生活でも、実は営々と世界の再構成をしているように思えるときがある。
 すぐれた芸術作品は自分では気づかない世界の何かを見せてくれる気がする。ぼくには見えない何かが見えている人が確かにいるのだと気づかせてくれる。そこに感動する。他にも岡本おさみさんには好きな作品がある。
 吉田拓郎とのコンビが有名だが、実は長谷川きよしさんとも素晴らしい作品を残している。『裸馬』『一人の女に』『さらば夏の光よ』『コーヒー・ショップ』『ぼくの足は旅路の道』等々。時任三郎さんが歌った『川の流れを抱いて眠りたい』という名曲もこの人の作詞だ。

カテゴリ: 音楽

テーマ: 歌詞 - ジャンル: 音楽

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Posted on 2009/11/23 Mon. 13:16    TB: 0    CM: 0

白石ありすは女性なのか? 

 覚えている人がどれだけいるかわからないが、白石ありすという詩人が好きだった。この人の作詞した曲は、たとえば吉田拓郎の『御伽草子』がある。上條恒彦の『都会の朝』、ぐっと渋いところでは小室等さんの『橋』というものあったと思う。1970年代から1980年代にかけて活躍されたと記憶している。
 最近ネットで、白石ありすさんは男性ではないかという記事を読んで、ちょっと驚いている。ぼくはてっきり女性だと思っていた。もっとも白石ありす男性説を書いておられた方も、確たる証があるわけではないらしい。
 なんでも小室等さんが、
「白石ありす氏」
 と、いっていたから男性ではないかということだった。
 白石ありすという人の詩を一番最初に知ったのは、上條恒彦さんの『都会の朝』という曲だった。

 鳥はまたいつか帰ってくるよ(戻ってくるよ、だったかな)
 この空を見上げたときに

 というフレーズがあり、そこに感動した。たいてい飛んで行ってしまった鳥は戻ってこないものだ。空を見上げれば鳥はまた戻ってくるというのは、なんともかっこいい。クールだ(笑)。
 白石ありすという人の出世作(だったと思うが)になった詩に――街は緑でいっぱい――というような内容のもがあったように記憶している。もうずいぶん昔のことで記憶も曖昧なもので、間違いがあるかもしれない。
 間違いがあることを覚悟の上で、続ける。この詩について聞いたのはラジオ番組だった。上條恒彦さんと小室等さんが話していた。とにかく、街は緑でいっぱいなのだという発想が好きだった。しつこくいうがこれは記憶ちがいかもしれない。
 白石ありすさんについて思いを巡らせはじめたのは、実はこの詩について調べたいと思ったからだった。何かのはずみでふと思い出し、ネットで調べれば分かるかもしれないと安易に考えていた。ところが白石ありすという人に関する情報、特に近況についての情報はネットにもほとんどない。すでに過去の人、ということなのだろうか。
 いったいどこに消えてしまったのだろう。いまでもどこかで密かに詩を書いていいてくれているのだろうか。また、いつか誰かが、白石ありすさんの詩に曲をつけて歌ってくれることを切に願っている。

カテゴリ: 音楽

テーマ: 音楽 - ジャンル: 音楽

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Posted on 2009/11/19 Thu. 20:39    TB: 0    CM: 6

バタークリーム 

 こういうことをあからさまにいうのはいささか恥ずかしいのだが、甘いものが大好きである。これはもう絶望的なほどすきである。その一方で辛い物も大好きだ。バランスは取れている。ちなみに酒とたばこは全然だめである。
 ずっと昔のことだが、愛知県の岡崎市に『ペンキぬりたて』というカレー屋があった。あったとうっかり過去形で書いてしまったが、今もあるのだろうか。あればまたいってみたいものだと思っている。
 と、それはともかく、そこはスープ状のカレーで《カシミールカレー》とか《カシミールハードカレー》というのがあり、それが大変辛かった。もちろんとてもおいしかった。それと名前がどうも判然としないのだが、《ラジャダムナム》だったような気がするが、これがとてつもなく辛く、美味しかった。本当に今もあるのだろうか。
 甘い物に話を戻す。ケーキだが、生クリームよりもバタークリームが好きだ。いまどきバタークリームが好きだというと、
「え?」
 と、いうような顔をされる。
 誠に心外である。あれはそんな顔をされるような不味いものではない――どころか、それなりの材料で作れば大変おいしいものである。ぼくなどはそれなりの材料で作らなくても大好きだ。
 ところがである、最近、バタークリームのケーキがなかなか手に入らない。生クリームのケーキばかりである。大多数の人は生クリームのケーキが好きなだから仕方のないことなのだが、少数派を大切にしてこその文明国ではないかと言いたい。とにかくバタークリームのケーキが食べたいのだ。
 メジャーなところでは以前不二家でクリスマス限定で発売したことがあったらしいが、不覚にもこのときは知らなかった。去年のクリスマスは某所でようやくバタークリームのケーキを見つけ、これだと思ったのだが、家族の猛反対にあって断念した。ようやく見つけ、買おうと思っても反対されることが多い。
(だからきっと不二家のことを知っていても、買ってもらえなかっただろうな……)
 と、ひとり呟くことしきりである。
 名古屋に住んでいたころ、近くにバタークリームのケーキを売っているケーキ屋さんがあった。いつもそこで自分用のケーキをこっそり買っていたのだが、今や名古屋も遠く離れてしまった。住んでいるところは、バタークリームのケーキがなかなか手に入らない土地である。そこだけが少し残念だ。
『ゴッドファーザー・パート2』のなかでファミリーのボスのひとりハイマン・ロス(だったと思う)が誕生日のケーキを食べる場面があった。あの場面に登場するケーキが妙に印象に残っている。あのケーキ、色が緑色だったような気がするのだが、違っただろうか。場所は革命前夜のキューバだ。
「小さいのをくれ」
 切り分けられたケーキを見てハイマン・ロスはそんなことを言ったような気がする。勘違いかな。ぼくなら間違いなく、
「大きいのをくれ」
 というだろう。アメリカのケーキの凄まじさを知らないから、そんなことがいえるのか。
 アメリカのケーキの色が凄まじいことは写真で見たり、ものの本で読んだり、ブログで読んだりして知っている。アメリカのケーキのクリームはフロスティングというらしいが、バタークリームのようなものらしい。現物をご存知の方も多いと思う。頭が割れそうなほど甘いという話を聞いたことがある。度胸試しで食べてみたいと思うときがある。

カテゴリ: 食べる

テーマ: スイーツ - ジャンル: グルメ

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Posted on 2009/11/15 Sun. 22:01    TB: 0    CM: 2

マリオン・ロバート・モリソン 

 ジョン・ウェインの本名である。この名前を知ったとき意外な気がした。とても優しい、可愛らしい感じの名前である。英語圏の人にこの名前の語感がどのように伝わるのかわからないが、日本人のぼくには優しい人物の印象だ。優しい、あるいは気弱な人物だ。
 西部劇の帝王、男の中の男、タカ派の大スターにしては、ずいぶん似つかわしくない名前だと思った。矢沢永吉がリーダーだったグループ《キャロル》の名前の由来が、『クリスマスキャロル』に由来するということを知ったときと同じような意外性を感じたことを覚えている。
 ジョン・ウェインの本名について、映画監督の大林宣彦さんは、
「マリオンという名前が示す通り、体は大きくても内気で優しい男、彼をスターにしたジョン・フォードはそのあたりのことがよくわかっていた」
 と、いうような意味のことを語っていた。
 この発言を大林監督がしたのは、ジョン・フォードを離れたジョン・ウェインが、つまらないのはどうしてか(と、そこまではっきり言ったわけではないが)、特に自分自身を演出したとき面白くないのはどうしてなのか、ということについて話していたときのことだったと記憶している。テレビ番組だった。
 ようするにジョン・ウェインを理解していなかったのは、他でもない本人だったというわけだ。マリオン・ロバート・モリソン(マリオン・マイケル・モリソン)という優しい名前の内気な大男と、ウインチェスターを軽々と振り回すタフな大男のギャップが、魅力なのだということを本人が理解していなかった。
「強いばかりが男じゃないさ」
というわけだ。
 そういえば、あれは『リオ・ブラボー』だったと思うが、都会からやってきた女性歌手、……いや、ギャンブラーだったかな……まあいい、とにかく彼女にセクシーなかっこうで迫られ、どぎまぎしているジョン・ウェインは素敵だった。
「あんたのために着たのよ」
 と、彼女に言われ、
「早く服を着ろ、裸同然のかっこうじゃないか」
 と、ぼそっと言う場面がとても好きだ。
 断わっておくがこの映画が公開されたのは1959年である。当時の感覚では裸同然でも、今の感覚で見れば立派な正装だ。ちなみに『リオ・ブラボー』はハワード・ホークスが監督だった。この監督も凄かった。
 すぐれた監督は役者の個性を大切にする。それは淀川長治さんも言っていた。たとえばアラン・ドロンだ。『太陽がいっぱい』のあの暗く悲しい若者が本当のアラン・ドロンの姿だと見抜いたルネ・クレマンは一流だったのだ。
 ジョン・フォードは、大きくて、力持ちで、勇気があって、律義で、不器用(特に女性に不器用)で、内気で気弱なところがある、西部の男を描いた。そういった男がジョン・フォードの理想の男だったのかもしれない。ジョン・ウェインという俳優が持っている個性を極大化することによって、それを表現できると知っていたのだろう。

カテゴリ: 映画

テーマ: 俳優・男優 - ジャンル: 映画

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Posted on 2009/11/12 Thu. 20:04    TB: 0    CM: 0

遠ざかる風景 

 映画『ダーティハリー』のなかで、元祖サイコキラー《さそり》の足をハリー・キャラハンが44マグナムで撃つ。ハリーは、憎んでも余りある犯人《さそり》に近づいていき、その傷ついた足を踏みつける。するとカメラがぐんぐん引いていき、ハリーと《さそり》の姿が、眼下に小さく消えていく。
 何が好きといって、あの場面ほど好きな映画の場面はそうない。遠ざかっていく風景。あの瞬間に『ダーティハリー』は、ぼくの中で名作になった。ただ、映画として考えると『ダーティハリー』は、B級映画の匂いがぷんぷんしている。もちろん個人的な感想である。
 この映画がかつて『日曜洋画劇場』で放送されたとき、当時解説をしていた淀川長治さんが、映画スタッフに一流を揃えた結果、
「この映画は一流になったんですね」
 と、解説されていたのを覚えている。B級映画の装いはしていていも、中身は一流ということか。そのあたりも、あの映画が好きな理由かもしれない。
 サム・ペキンパーがこの映画の監督ドン・シーゲルの助監督をしていたとういことも、淀川さんの解説を聞いてはじめて知った。その時、淀川さんは印象に残ることを言っていた。
「サム・ペキンパーはドン・シーゲルのタッチを盗んだんですね」
 どういうことかといえば、アンチヒーローだという。正義の味方ではなく、時には反社会的であっても自分の流儀を押し通す主人公とでもいえばいいのだろうか。ハリー・キャラハンは確かに反社会的な匂いがぷんぷんする主人公だった。もちろん、それは物語だから許されることで、現実にそんな奴がいたら絶対に近づきたくない。
 映画に話を戻すと、個人的にはペキンパーよりもドン・シーゲルの《感じ》が好きである。ペキンパーの感傷的な感じよりも、ドン・シーゲルの乾いた感じにひかれる。チャンドラーの気取った感傷よりも、ハメットの殺伐とした諦観が好きなのと同じことだ。
 あの映画のラスト、ハリーはバッチを投げ捨てる。我らが矢作俊彦は、
「権力に背を向けた」
 と、いった。
 映画のなかでハリー・キャラハンは現実の矛盾に直面する。彼らの考える正義が正義として通らないことに憤りを感じ、いってみれば私的制裁を犯人に加える。その結果が意味することを百も承知して。だからバッチを捨てて立ち去る。権力に背を向けて立ち去って行くのだ。ぼくにとって『ダーティ・ハリー』はあそこで終わった。

カテゴリ: 映画

テーマ: 洋画 - ジャンル: 映画

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Posted on 2009/11/06 Fri. 21:38    TB: 0    CM: 5

英語の時代劇 

『トリック』というドラマが好きだった。いまさらいうまでもないと思うが、あのドラマは主演の仲間由紀恵さんの魅力はもちろんだが、共演者の阿部寛さんの魅力も大きかった。阿部ちゃんの共演がなければ、あそこまでの成功はなかったような気もする。
 阿部寛さんは好きである。文句なしにいい男なのだが、どこか――こんなことを書くと、ファンの方に叱られるかもしれないが――変である。もちろん、ご本人が常識人であることは、インタビュー番組などを見ているとよくわかる。言いたいのは、つまり変な人を演じることができるということだ。演技力のことである。
 先日、『隠し砦の三悪人』のリメイクをテレビでやっていたので、ぼんやりと眺めていた。オリジナルの『隠し砦の三悪人』とは別物だと思ってみれば、それなりに楽しめる作品だった。熱烈な黒澤ファンだから、リメイクものは全部だめだという気はない。そういう気分になることもあるにはあるが(笑)。

 黒澤映画のリメイクを見るにつけ、黒澤が敢えて描かなかったところばかりを描こうとしているように思えてならないときがある。黒澤明という監督は、その作品のテーマに必要がないという場面は描かなかった。『乱』には庶民は一人も登場しない。理由は、庶民を描けば物語が別の方向に流れてしまうからだということだった。
 たとえば『用心棒』である。桑畑三十郎とやくざの戦いは描いても、二つの勢力が直接刃を交える場面は描いていない。戦いの後の死屍累々とほぼ勝負がついた後の、一方的な虐殺は描いている。
 そういえばジョン・フォードの『駅馬車』も、リンゴ・キッドと三人のアウトローの戦いを直に見せることはしなかった。見せなくてもいいものを見せることは、もしかすると品を下げることかもしれない。

 なんだか、遠まわしに黒澤映画のリメイク作品をけなしているような雰囲気になってきたが、決してそんなことはない(笑)。もしかするとリメイクを見てみたいかなと思う作品が出てきた。『隠し砦の三悪人』のリメイクを見て思ったことである。
 阿部寛さん主演の『用心棒』と『椿三十郎』だ。長身の阿部寛さんが長刀を振り回し、駆け回る姿を見てみたい。阿部寛さんの二枚目なのにどこかとぼけた感じと、あの映画の殺伐とした笑いはあうような気がするのである。
『用心棒』、『椿三十郎』はコメディ作品である――と、ぼくは思っている。だから凄惨なお話であるにもかかわらず後味が悪くない。それと、可能ならば日本通のアメリカ人に監督をしてもらいた。『用心棒』と『椿三十郎』は一種の外国映画だとも思っている。
 ハリウッドが本格的に邦画製作に乗り出すらしい。その第一回作品は『忠臣蔵』だという。今回の監督は日本人だが、いずれ外国人の監督で、デンゼル・ワシントンあたりが主演の『宮本武蔵』が製作されるかもしれない。台詞はもちろん全編英語である。
 ハリウッドが邦画として、『用心棒』と『椿三十郎』をリメイクすることも、まんざらあり得ないことではないかもしれない(……もちろん、オリジナルをこえられるとは思わないが)。

カテゴリ: 映画

テーマ: 映画 - ジャンル: 映画

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Posted on 2009/11/04 Wed. 21:08    TB: 0    CM: 2

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