Gitanの趣味

ひたすら趣味の道を走っています(ニヤリ)

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紋次郎の最後の物語 

 知りあいのブログさんで『木枯し紋次郎』について書いておられる方がお二人おられる。紋次郎を愛する気持ちが、ひしひしと伝わってくる内容でとても好きだ。紋次郎について知らなかった秘話や思いもよらなかった視点からの切り口など、楽しく読ませてもらっている。
 もうずいぶん前のことである。笹沢左保氏がテレビでインタビューを受けていた。木枯し紋次郎がテレビで放送され、同時進行で小説も書かれていたころのことだ。誰だったか忘れたが女性のインタビュアーが笹沢氏に、
「木枯し紋次郎は最後にどうなるんですか」
 と、尋ねた。
「死にます」
 笹沢氏がにべもなく答えたことをはっきりと覚えている。
 もう何十年も前のことである。あの時、笹沢左保氏は本気で紋次郎の死でシリーズを終わらせるつもりだったのだろう。事実、『唄を数えた鳴神峠』のラストは明らかに紋次郎の死を読者に意識させる。
 なるほど作家というのは複雑なものだと思った。自分の生み出したキャラクターに愛着がないとは思えない。しかし、インタビューのあの言葉である。木枯し紋次郎ほどのキャラクターとなると簡単には手が切れない。作家としての将来を考えたとき、木枯し紋次郎の笹沢左保で終わりたくないと思ったのかもしれない。
 S・キングの作品『ミザリー』にそういった場面がでてくる。ある作家が自分の生み出したキャラクターである《ミザリー》から何とか逃れようと思い、作中で殺してしまうのである。作家は小躍りして喜ぶ。
 現実の作家である笹沢左保氏の思いはもっと複雑だったと思うが、どこかで紋次郎から逃れたいという気持ちがあったのではないだろうか。そのインタビューを受けたころの笹沢左保氏はずいぶん若かった。
 しかし、紋次郎は死ななかった。鳴神峠の死闘を切り抜け、その後も旅を続ける。天保時代を過ぎてさらに後の時代までも。一時期は山林業などしていたようだが、たしか嘉永五年、黒船がやってきた年に渡世人に復帰する。その後も旅を続け、あるいは明治をどこかで迎えたかもしれない。
 先のインタビューから何十年か過ぎたインタビューで笹沢左保氏は、
「最終的に紋次郎はどこかに行って戻ってこなかった、そんなラストを考えている」
 と、答えていた。『木枯し紋次郎』はまだ書き続けていた。
 結局、紋次郎の、本当の最後の物語は読むことができなかった。そのことを少し残念に思い、同時に嬉しくも思ったりする。そんな個人的な気分はさておくとして、時の流れは人を変えるものだと思った。
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カテゴリ: 時代劇

テーマ: 小説 - ジャンル: 小説・文学

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Posted on 2009/07/27 Mon. 20:56    TB: 0    CM: 2

ジェーン・ビューティー 

 最近『レスラー』という映画で復活を遂げたミッキー・ローク主演の映画に『ジョニー・ハンサム』という作品がある。映画的にみると、さほど面白いとも思わなかったが、なぜか印象に残っている。傑作になるはずの作品が、何かのはずみで平凡な作品になってしまったという印象があるのだ。
 顔に障害を持って生れた男がいる。原作では原因についての説明はなかったと思うが、映画では母親が麻薬の常用者だったからという設定だったように記憶している。ジョニー・ハンサムというのは、だから、逆説的な意味なのである。
 しかし、彼は非常にすぐれた頭脳を持っている。しかもガッツがある。彼はプロの犯罪者になる。銀行を襲うが仲間の裏切りにあって刑務所に行く。そこである医師に出会う。医師は顔の障害が彼を犯罪者にしたのだと考える。整形手術によって障害を取り除けば、彼は更生するのではないかと医者は考える。
 彼は整形手術を受ける。手術は成功する。名実ともにハンサムボーイのジョニーになる。そして新たな生活をはじめるのだが……。こんなストーリーである。あるいは記憶まちがいかもしれないが、この作品はカンヌ映画祭にも出品されたのではなかったろうか。
 原作はジョン・ゴーディの小説で、『復讐の二つの顔』といういささか品のない日本語タイトルがつけられていた。オリジナルのタイトルは『ジョニー・ハンサムの三つの世界』というような感じだと思う。こちらの方が個人的には好きである。

 人は変わることができるのか。この作品が扱っているテーマはそういうことだと思う。この作品を通して作者がたどり着いた結論はラストで描かれている。白土三平は『カムイ外伝』のなかで、「人は変われるかもしれない」と主人公のカムイに語らせている。カムイの宿泊している宿にうっかり忍び込んでしまった三下の悪党に対していう言葉である。
 ぼく個人は、変われることもあるだろうし変われないこともあると思っている。ある状況下においては変われるかもしれない。しかし、別の状況下では変われないかもしれない。人は公式化できない。だから物語は尽きることなく生まれてくるのだと思っている。

『ジョニー・ハンサム』を一言でいってしまうと、「犯罪者の復讐劇」である。ただそれだけのことなのだ。しかし、主人公に特殊な個性を与えた。そのことによって物語が特殊な色彩を帯びた。
 この作品については扱っているテーマももちろん重要なのだろうが、それと同じくらいに主人公が重要だ。主人公の飛躍が重要なのだ。手術を受ける前と受けた後の主人公の変化が大きければ大きいほど、作品が生きてくるように思う。この作品を映像化する際の難しさは、主人公を誰が演じるかという難しさではないか。
 並みのハンサムではとても駄目だと思う。内側に得体のしれないものを持っている美男、そういったものを感じさせるようなタイプでなければならない。木村拓哉さんでこの作品をドラマ化(映画化ではないドラマ化である)してくれたら、たぶん見るだろうなと思った時期がある。
 最近では、女性が演じても面白いのではないかと思うようになった。シャーリーズ・セロンが『モンスター』を演じたように、当代きっての美女が演じるジョニー・ハンサム――ではない、『ジェーン・ビューティー』でもいいような気がするが、そうなるとまた誰が演じるかで悩みそうな気がする(笑)。

カテゴリ: 映画

テーマ: 昔の映画 - ジャンル: 映画

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Posted on 2009/07/21 Tue. 10:30    TB: 0    CM: 0

戦争と戦争のはらわた 

『戦争はらわた』はあのサム・ペキンパーの映画のタイトルである。オリジナルのタイトルは、かなりあくの強い『戦争のはらわた』ではなく、『鉄十字勲章』というすっきりとしたものだった。当然のことだが、オリジナルタイトルのほうが映画の内容がよく理解できる。
 これまでに何度も書いたがサム・ペキンパーという監督は好きではない。しかし、この映画は好きな映画のなかに入っている。第二次世界大戦を、ドイツ軍の側から描いた作品というのは別にこれだけというわけではないが、作品の《こしらえかた》が好きである。
 童謡、『蝶々』に乗って繰り広げられる戦闘場面は音楽と場面の距離がよかった。ペキンパーは黒澤明の熱烈な信奉者だからこのあたりも黒澤明の影響だろう。映像と音楽の対位法と黒澤明はいっていたと思うが、そういうことだと思う。暗い場面には明るい音楽をつけると効果的なのだ。
 しかし、この作品を反戦映画だと思って観たことは一度もない。これはすぐれたアクション映画であって、素材として戦争を使っただけだと思っている。映画全体がペキンパー的な美によって構成された、ペンキパー流のアクション映画だった。
 だから悪いとは全く思わない。しょせん絵空事である。戦争を扱おうがなにを扱おうが、面白ければいいと思う。不快なものは見なければいいだけのことだ。この作品はぼくにとって許容できる。それだけのことである。
 ちなみに戦争を扱った作品としてはあの『プラトーン』よりも好きだ。オリバー・ストーンなら『サルバドル』がいい。しかし、戦争映画としてみれば『地獄の黙示録』には負けていると思う。やはりアクション映画の傑作であり、ペキンパーの本質はアクション映画の監督だと思っている。

 こんなことを書くと年齢がばれそうでいやなのだが、ぼくの父は戦争に行った。さらにぼくが子どもの頃、まわりには実際の戦闘に参加した人たちが、現役で普通に働いていた。映画やドラマではない現実の戦闘に参加した人がいたのである。
 きわめて特殊な状況下であったとはいえ、実際に人を殺したり、殺されかけた人たちが普通にいたというのは、考えてみるとものすごい話だ。その人たちは特殊な人たちではなく、ごく普通の人たちだった。いま思うと、あんなに平凡な人たちに銃を持たせ、戦場に送りこみ、闘わせたというのは、理非曲直をこえて残酷な話だと思う。
 戦争を批判するのであれば、戦争そのものを描かない方がいいと思っている。映像というのは当たり前の話だが人工的なものだ。人が作るものには必ず、作る人間の美意識が反映される――と、ぼくは固く信じている。つまり、どんなに残酷なものや悲惨なものを作っても、ある種の美しさを持ってしまうように思えてならない。
 戦争そのものを描いて、反戦を訴えることは不可能ではないかと思う。『プライベートライアン』の戦闘シーンは迫力満点だった。こんな言い方は不謹慎かもしれないがあえて言えば、訴えているものがなんであれ、あそこにあったのは、間違いなくある種の面白さだった。

 戦争の悲惨はもちろん、戦場で戦う兵士の身の上におきている。しかし、戦争の惨禍に対してただ受身でいるしかない一般人に降りかかる悲惨を描くことのほうが、より戦争の悲惨は強く訴えることができると思う。
 忘れられない作品がある。『トビー』という作品である。漫画である。津雲むつみさんの作品だったと思う。この作品については以前「mixi」でも書いた記憶がある。あるいはこのブログだったか……とにかく、忘れられない作品であることは間違いない。
 この作品は津雲むつみさんの未発表作品集(アマチュア時代の作品だったろうか)のなかに収められていたように記憶している。そのほかにも作品はあったが、この作品が特に印象に残った。若いころに読んだこともあるのだろう。軽いショックを受けた。こんなやり方があるのかと思った。
 内容を簡単に説明すると、戦争で父を亡くしたトビーという少年がいる。周りの大人たちは少年を気遣い、その事実を伝えないようにしている。だが、一人の大人がトビーを思うあまり、父が戦死したことを伝えてしまう。
 しかし、トビーは父が戦死したことを知っていた。戦争が父を奪ったという怒りをどうすればいいのかトビーにはわからなかった。戦争は現実だが、戦争というのは、いってみれば実体のない怪物のようなものである。だからトビーには誰を憎めばいいのかわからなかったのだ。
 そこでトビーは最初に父の戦死を自分に告げた人を憎もうと決めたのだという。トビーの怒りは理不尽かもしれない。だが、戦争はトビーには関係のない大人の都合でおきた。だからトビーに父の戦死を伝えた人物も、大人という一点でトビーに憎まれても仕方がないのかもしれない。
 こんな形で、戦争に対する怒りをぶつけた作品は初めてだった。新鮮な驚きと感動を覚えた。戦争から遠く離れた場所で、戦争への怒りや悲しみを静かに訴える作品というのは、深いものを持っているように思えてならない。
 たとえば『かくも長き不在』がある。『禁じられた遊び』もそうだ。『母べえ』もそうだろう。黒澤明の『生き物の記録』も名作だと思う。この作品についていえば、ぼくは『黒い雨』よりも買っている。毎年、八月が近くなると戦争について考えることが多くなる。

カテゴリ: マンガ

テーマ: 漫画の感想 - ジャンル: アニメ・コミック

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Posted on 2009/07/17 Fri. 13:03    TB: 0    CM: 0

吸血鬼についての考察 

 考えはじめると止まらなくなる問題がいくつかある。そのなかのひとつに、吸血鬼と鏡の問題がある。これは十字架やニンニクよりもぼくにとっては大きな問題である。彼らは鏡に映らない。で、あるのにどうして彼らはあんなにお洒落なのか。非常に気になる。
 鏡に映らない身でどうしてあんなふうに身なりを整えられるのか。私的なことになるが、ぼくなど鏡を毎日見ているがひどい格好でうろついている。吸血があれほどきっちとした格好をしているということは、つまりどこかで自分を客観的に見ることができるということの証拠ではないか。
 このあたりの疑問に答えてくれる作品に、不幸にしていまだに出会ったことがない。どの作品だったか忘れたが、吸血鬼が人間にその存在を気づかれないために、あたかも鏡に自分が映っているかのように見せかける術(妙な言い方だが)を使うというのを読んだか見たかした記憶があるが、それとこれとでは問題がちがう。
 吸血鬼と鏡に関する問題の答えを、もし知っている方がおられればどなたか教えていただけないだろうか。本当に気になってしかたがない。一説によれば吸血鬼は魂と肉体の結びつきが弱いから鏡に映らないのだそうだが、そのあたりのことも含めて気になってしかたがない。

 吸血鬼は鏡に映った自分の姿など見たくないのではないかと思わせる映画がある。原作はS・キングの短編小説『ナイト・フライヤー』だ。飛行機に乗った吸血鬼が登場する。吸血鬼が飛行機に乗っているというだけで、滑稽なのか恐ろしいのかわからなくなってくる。
 この作品には吸血鬼の放尿場面が出てくる。主人公がトイレで用を足していると、吸血鬼が入ってくる。主人公は鏡を見ている。当然、吸血鬼だから姿は見えない。しかし、便器には真っ赤な血が飛び散る。こうなってくるとほとんど、というか全くギャグなのだが、こういった場面の作り方が、キングはとてもうまい。
 小説はここで終わっているが、映画にはこの続きがある。これが監督のセンスなら、キングよりもかなり品が下がると思うが、まあいいだろう。とにかく原作にはない映画のラストを見ていると、吸血鬼は自分の姿を見たいとは思わないだろうという気がする。
 吸血鬼についてはもうひとつ疑問がある。吸血鬼というのは、ようするに伝染病のようなものなのだが、当然最初の一人がいたはずだ。その最初の吸血鬼はどうなっているのだろう。不死の命を持っているのなら、どこかで生きているか、眠っているか、とにかく存在しているはずである。
 吸血鬼レスタトが主人公の作品に、たしか全ての吸血鬼の母という存在が出てきたような気がするが、見ていても何となく納得できなかった。最初の吸血鬼について描かれた物語はあるのかないのか、そのあたりのことも興味がある。

カテゴリ: 映画

テーマ: 洋画 - ジャンル: 映画

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Posted on 2009/07/13 Mon. 20:04    TB: 0    CM: 0

失踪について 

 S・キングの「呪われた町」の冒頭は、男と少年が外国製の小型車でアメリカ横断の旅を続けているというところからはじまる。この出だしはうまかった。読んだ方もおられると思うが、この作品は吸血鬼を扱った作品である。
 最初そのことは伏せられている。旅をする男と少年、しかも彼らのひっそりとした旅は、何かから逃れるための旅らしいということが冒頭の一行からわかる感じだ。男と少年の次にくるのが住民の消えた町である。このあたりが実にうまいのだ。やはり売れる人はちがうものだと思う(笑)。
 住民が消えた町について描くとき、枕に『マリーセレスト号事件(メアリーセレスト号というのが本当らしい)』を持ってくるあたりもうまいものだと思った。この海難事故については、ご存知の方も多いと思う。コナン・ドイルの小説で有名になっている。
 この海難事故は、一般に以下のように流布されている。海上を漂流しているマリーセレスト号が発見されたとき、乗組員は一人も乗っていなかった。が、ついさっきまで乗組員がいたかのような痕跡が、ありありと残っていた。
 飲みかけのコーヒーや、食べかけの食事がそのまま残っていた。作りかけの料理もあった。救命艇もすべて残っていた。ただ乗組員だけが突然船から消えてしまったようだった。――と、いうのが事件のあらましである。
 しかし、実際の『マリ―セレスト号事件』は、巷間伝えられているような不可解なものではないらしい。ついさっきまで乗組員がいたような痕跡はなかったし、救命艇も消えていた。この事件についていえば乗組員が消えたということだけが事実である。おそらく何らかの事故があり、乗組員は船を捨てたのだろう。

 さてここからの話は、知人から聞いた話だ。三重県の某所にある山村での出来事である。といってもいまの出来事ではない。昔、昭和三十年代の初めころのできごとらしい。村の名前は書かない。そこには今も人が住んでいて、普通に暮らしておられる。
 その山村の戸数は三十五戸くらいだ。三十五軒の家は、ほとんどが寄り添うように建っているが、その中の三軒だけは少し離れたところにある。といってもせいぜい三百メートルほどの距離だが、なにせ山の中でもあり、他の集落からは見ることができない。したがってその三軒だけが、ぽつんと山のなかに取り残されたような印象があるのだった。
 集落に住む一人の女性が、その三軒の家を訪ねていった。彼女の親戚がそこに住んでいるのだ。彼女に限らず、村人がそこを訪ねるのは特別なことではなく、ごく日常的なことだった。
 三軒の集落に行くには狭い山道を通って行かなければならない。雑木山の中をほんの三百メートルほど進むだけだが、昼でも薄暗い道だ。なれている彼女にはどうということもないが、その薄暗さが実際の距離よりも長く感じさせる。
 彼女が老婆とすれ違ったのは雑木林の中の道をなかほどまで来たときだった。その先の集落に住んでいる老婆だった。すでに八十歳を過ぎていたが矍鑠としていて、よく出歩いていることを、彼女は知っていた。だからそこですれちがったことも不思議とは思わなかった。
 彼女は老婆と土地の言葉で少し立ち話をした。不自然な感じは何もなかった。彼女は老婆と別れ集落に向かった。集落に入ったときも、なにも思わなかった。彼女は親戚の家に入った。そこではじめて異変に気づいた。
 家には誰もいなかった。
「あれ?」
 と、いう感じだったと後に彼女は話している。その日は日曜日で、子供たちも家にいるはずだった。しかし、家の中の空気はしんと静まり返り、確認するまでもなく、誰もいないことがわかった。
 用事ができて出かけたとは思えなかった。彼女は胸がざわめくような不安を覚えた。その感覚はやがて恐怖に変わった。彼女は他の家にもいってみた。それは予想していたことだが、やはり誰もいなかった。
 かっと照りつける八月の陽射しも、蝉の鳴き声も、いつもと変わりがなかった。だが、この世界にたったひとり取り残されたような不安に彼女は震えた。その後、大急ぎで自宅に戻り、お爺ちゃんの顔を見たときは、心底ほっとした。
 その後、三軒の家の住人はついに見つからなかった。大規模な捜索が行われたらしい。町に出ている親戚たちも戻ってきた。しかし、三家族、十四人が発見されることはなかった。失踪の手がかりすら発見されず、ほんとうにこの世界から消えてしまったとしか思えなかった。
 問題はあの老婆だった。いったいどこから来てどこに行ったのだろう。老婆の姿を見た者は、村人の中にはいなかった。あの山道の途中のどこかで消えてしまったとしか考えられなかった。彼女はあのとき振り向かなかったことを少し後悔した。同時に、振り向かなくてよかったとも思った。もし、あのとき振り向いていれば、いったい何を見たのだろうか。
 その後、しばらく彼女は夜毎の悪夢に悩まされたという。だが、それもいつか見なくなった。彼女はすでに八十歳を超えて九十歳になろうとしている。いまも元気で村で暮らしている。

カテゴリ: 日記

テーマ: 日記というか、雑記というか… - ジャンル: 日記

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Posted on 2009/07/11 Sat. 14:22    TB: 0    CM: 2

公園の風景 

 彼との微妙な距離に気づいたのは座った後だった。公園の屋根のある休息所だ。手を伸ばせばとどくが、さりとてぴったりとくっつくような近さではなかった。まるで今の二人の関係のようだと彼女は思った。
「最近、どう?」
「どうって……」
「奥さんとはうまくいっている」
「そうだな、普通かな」
「前はうまくいってないっていったわ」
「そうだったかな」
「一年前はそういったわよ」
「そんなことをいったかもしれないな」
 彼女は彼を見て話していたが、彼は彼女を見ようとはしなかった。いつから彼はわたしを見ないようになったのだろう。思い出そうとしたが、できなかった。もしかすると彼がわたしを見て話したことは一度もなかったのかもしれない。そんなことを思ったりした。
「家内とはうまいくいっていないんだ」
 一年前、彼は確かにそういった。たぶん適当なことをいったのだろう。しかし、いまとなっては一年前のことなどどうでもよかった。彼女自身、あのときの彼の言葉をまるきり信じたわけではなかったのだ。
 ようするにすべては遊びだった。本気ではなかった。お互い家庭がある。捨てることなど考えたことすらなかった。彼とのことはちょっとした遊びだ。嘘をつくくらいの彼の方がいい。あとくされなく遊べる。あの時は、どこかでそんなことを考えてさえいた。
 最近、彼が変わったように思う。二人の関係に距離をおこうとしている。そんなふうに感じられるのだ。たとえばメールを送る。前は必ずかえってきた。いまは三度に一度くらいしか返事が来ない。彼のほうからメールが送られてくることも、いまや稀だった。ここ二、三ヶ月の間は一度もなかったはずだ。
 しかし、そのことは思えば自然なことだったのかもしれない。こんな関係がずっと続くはずがなかった。こんな関係は、どこかで終わらせなければならなかった。それは彼女にもわかっていた。
「わたしのこと、どう思っているの?」
「どうって……」
「煩わしい」
「そっちこそどうなんだ」
「わたしの質問に答えてよ。わたしに飽きた?」
「飽きはしないが……」
 彼の言葉が続かないことに、彼女はかすかな苛立ちを覚えた。
「飽きはしないがなによ――はっきりいって」
「飽きたりはしないが、普通になったな」
「普通? それってようするに飽きるってことじゃないの」
「どうだろう、おれはちがように思うけどな。おれの人生に君がいる。そのことが普通になりつつある」
「つまり新鮮じゃなくなったってこと」
「どうなのかな――人はどんなことにでも慣れてしまうから。でも、それは飽きたというのとはちがうよ。おれにとってはちがうんだ」
「わたしには同じことだと思えるわ」
「そうか――」
 彼は煙草をくわえた。
 人は時に絶対に手放してはいけないものを、くだらないもののために手放すことがある。自分が捨てようとしているものの百分の一の価値もないようなものがどうしてもほしくてたまらないときがある。人はときに理性の声に耳を塞ぐことがあるのだ。
 わたしは彼がほしいのだろうか。彼女は彼の横顔を眺めながら考えた。欲しいようでもあり、欲しくないようでもあった。ただ、このまま彼の思惑通りわかれるというのは、どうにも癪な気がする。彼女は少し意地悪な気持ちになっていた。
「わかれないわよ」
 彼女は彼から目を逸らしていった。
 すると、今度は彼が彼女を見た。
「わかれないから、わたし――」
 彼は黙っていた。彼女は彼の顔を見ないようにしていた。きっと困った顔をしているのだろう。彼の視線を感じつつ、彼女は黙っていた。少し困らせてやってもいい。簡単にわたしと別れられるなんて思わないほうがいい。
「大丈夫だよ」
 彼の声は意外に優しかった。
 彼女は彼を見て、思わず笑みを漏らした。

 半月後、彼女は失踪した。

     *         *

 と、これは妄想である。しかし、まったくの空想ででっち上げた風景ではない。もうかなり前のことになるが、愛知県のとある場所で、微妙な距離をおいて座っている中年のカップルを見たことがある。
 そのときのふたりが妙に心に残り、あれこれと妄想を膨らましているうちにこんな空想が浮かんだというわけである。あのときに見たふたりが、実際にそういう関係だったのかどうかぼくにはわからないが、楽しそうには見えなかったのも事実だ。
 男女関係のもつれから、取り返しのつかない事件に発展したという話はよく見聞きする。人は利口ではないと思う。もちろんぼくも含めてのことだ。SF作家の小松左京さんが人間は結局、お釈迦様がおられたころと何も変わっていないとなにかの対談で話していた記憶がある。
『黒の舟歌』ではないが、男と女の間には深くて暗い川があるのだ。あまり覗き込まないほうがいいのかもしれない。奈落を覗き込んでいると奈落に見つめられるという。人の心は簡単に闇に取り込まれてしまうものかもしれない。

カテゴリ: 日記

テーマ: 日記 - ジャンル: 日記

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Posted on 2009/07/10 Fri. 10:37    TB: 0    CM: 0

光と影 

 エルビス・プレスリーが42歳で急逝したとき、様々な裏話をあちこちで読んだ。奇行や奇妙な性癖について暴露的に書かれたものだった。事実であるかどうかしらないが、その一部は目にしたことがある。
 もうかなり前のことで記憶も曖昧になっているが、食事に関していえば、カリカリに焼いた大量のベーコンとマッシュポテトにグレービーソースをかけたものが好きだったと読んだ記憶がある。有名なピーナッツバターバナナサンドは、ずいぶん後になってから知った。
 これはプレスリーが急逝して数年してからのことだ。十台くらいテレビを並べて別々の番組を見ていたという話をしていたのは、宇崎竜童さんだった。奥さんと一緒に「プレスリー足跡をたどる旅」的な番組の中で、そんなことをいっていた。その番組ではプレスリーの生家も紹介していた。ほんとうに小さな家だった。
 アメリカ文化を総合的(脈絡なくともいえるが)に紹介した本があった。そのなかでは当然プレスリーにも触れられていた。ビートルズの台頭によってプレスリーは絶対的なキングではなくなったと書かれていた。
 しかし、衛星中継されたハワイのコンサートやいくつかの映画に登場するエルビスの圧倒的なパフォーマンスを見れば、表現者としての才能においてビートルズを凌ぐ天才だったとも書いていた。単に好みの問題であるようにも思うが、そういう考えを持った人もいたというのは事実だ。
 個人的にはよくわからない。ほとんどあらゆるジャンルの音楽が好きだが、ひとりにそこまで熱狂することの少ない性格なので、プレスリーとビートルズを比較したりはしない。ぼくにとってはプレスリーもビートルズも天才だということだ。常人の及ぶところではない。
 ただ、プレスリーの方が語られた様々な奇行も含めて、イメージのふくらみは大きいように思う。巨大な光は巨大な影を生む。圧倒的な表現者は自らの内にある種の歪みを抱えていると書かれた本を、以前読んだことがある。時代の歪みのようなものを体現しているというのだ。そうかもしれないと思う。
 ときどき、異能ともいえる表現力で大衆を魅了する表現者が登場することがある。皆が漠然と感じている時代の空気を、彼らは表現しているのかもしれない。皆が感じている漠然とした時代の空気というのは、不安であることが多いように思う。たとえ不安であっても、自分を不安にするものを、人は見たいと思うときがある。

 多くのスターが、その奇行を面白おかしく語られることがある。そのなかには捏造されたものや、大げさに表現されるもの、ことによると本人の演出もあるのかもしれない。しかし、実際に自分自身にも制御不可能な自分がいることも確かだろう。演技だけでは必ずぼろが出る。
 限りなく狂気に近い精神状態にまでのぼりつめていく自分が存在してこそ、リアリティのある演技になるのだろう。光と影はそのコントラストが強いほど強烈な印象を与える。その差が大きければ大きいほど、表現力のインパクトは強くなる。
 しかし、本人は常に魂が引き裂かれるような痛みのなかにいるのかもしれない。その痛みから逃れるためならどんなことでもしてしまうほどの苦痛。自分自身を破滅させかねないほどの苦痛を引き受けたから、彼らは光り輝いているような気がする。

カテゴリ: 音楽

テーマ: ロック - ジャンル: 音楽

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Posted on 2009/07/04 Sat. 14:19    TB: 0    CM: 2

巨人 

 松本清張はほとんどあらゆるジャンルを描いた。純文学からはじまり、ミステリー、時代劇、ノンフィクション、古代史――と、この人が手を出さなかったジャンルはなかったのではないか。『神と野獣の日』というSFまで書いている。こうなると、才能とか天才とかいう言葉すら、的を射ていないように思えてくる。
 この『神と野獣の日』については、SFではないという意見もあるようだが、個人的にはSF小説の枠のなかに入れてもいいと思っている。たしか筒井康孝氏もこの作品を、著作『SF入門』のなかでSF小説として紹介していた記憶がある。
 その筆力には、神がかり的なものすら感じる。これはあくまでも個人的な意見だが、戦後文学における最大の巨人は松本清張だと思っている。さらに個人的な意見を続ければ、あの三島由紀夫ですら異能において及ばないと思っている。
 さらに、さらに個人的な意見を続ければ、司馬遼太郎さんも好きな作家だが、やはり松本清張には及ばないと思う。人間力という言葉を作ったのは司馬遼太郎さんだと聞いたことがあるが、それに習ってとりあえず作家力という言葉を作り(もう誰かが作っていると思うが)、比較をすれば、松本清張は司馬遼太郎さんをその作家力において超えていると思う。
 やけくそ気味に個人的な意見をまだ続ける。しかしその松本清張をもってしても、手塚治虫には届かないと思う。それほど手塚治虫は巨大で偉大だった。まるで売れていないがぼくの大好きなある作家は、非常に口が悪い(笑)。その口の悪い作家が手塚治虫について、
「思えばほんとうに偉大な人だった」
 と、書いていたことを覚えている。ぼくはこの意見を全面的に肯定する。
 松本清張という人を、
「われらが希望の星」
 と、紹介したのは黒柳徹子さんだった。『徹子の部屋』にゲストとして登場したときのことだ。学歴もなく、四十歳を過ぎて作家となり、巨大な作品群を生みだした。学歴もなく、立派な家柄に生まれたわけでなくても、ひとかどの人物になれると証明したのだ。確かに希望の星である。
 もちろん、誰でも松本清張になれるわけがないことはわかっている。非常に特殊な、選ばれた人間だという気がする。けた外れの才能と特殊な運を持っていたのだ。選ばれた一億二千万分の一だったのだろう。
 しかし、努力することの大切さやくじけず頑張ることの大切さは、その生き方から学ぶべきかもしれない。松本清張という人は努力した人だった。それは松本清張夫人もいっていた。その言葉は今も覚えている。
「人間、努力だけではだめなんでしょうが、本当によく仕事をした人でした」

 突然、松本清張のことを書き始めたのは、今年が生誕百年にあたるということで、特別番組などを見ることが多くなったからだろう。手塚治虫、黒澤明、松本清張、宮崎駿と同時代に生きられたということは、相当幸せなことだと思う。

カテゴリ: 読書

テーマ: お気に入りの作家 - ジャンル: 本・雑誌

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Posted on 2009/07/01 Wed. 22:10    TB: 0    CM: 0

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