Gitanの趣味

ひたすら趣味の道を走っています(ニヤリ)

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ボールを消すための努力 

 消える魔球は魔送球だった。もちろん『巨人の星』の話だ。基本的にスポ根ものと呼ばれたジャンルの作品は好きではなかった。この種の作品で見ていたのは、唯一『巨人の星』だけである。
 同じ原作者の作品である『あしたのジョー』を入れるかどうか悩ましいところだが、あの作品はやはり除外するべきかもしれない。たしかにスポ根的な側面はあったが、あれはボクシングマンガという独立したジャンルに分類したい。
 消える魔球は『巨人の星』に登場する大リーグボール2号である。思えばこのころ、日本人が大リーグ(メジャーリーグ)で活躍することなど、遠い遠い未来のことか、あるいは夢物語のようなものだったのだ。大リーグボールという命名も、メジャーリーグでも通用する新変化球、というような意味だったと思う。

 ボールを消すのは大変なことである。どのようにボールを消すか、一応説明しておく。このボールは極めて特殊な変化をする。バッターボックスの手前でいったん落ちる。そして再び上昇する。この下降と上昇によって起きる風によって、グラウンドの砂を巻き上げ、その砂煙の中にボールを隠す、というわけだ。
 そして、ここがこの原作者の凄いところだが、これだけではボールは消えないとしたのだ。単に砂煙を巻き上げただけでは、完全にボールを消せない。もうひとつ秘密がある、としたことで、ストーリーに変化が生まれ、劇的要素がもうひとつ加わる、というわけだ。
 そもそもボールの風圧が巻き上げる砂煙にボールが隠れるのかという問題には目を瞑ろう。ボールを消せるほどの砂煙がたてば、消える魔球というよりも爆発魔球といわれるかもしれない。そういえば昔、《原爆直球》という物騒な名前の魔球もあった。
 百歩譲って砂煙にボールを隠せたとしよう。さらにそれを巧妙にやってのけるために、バッターにはボールが消えたとしか見えないということもあるかもしれない。が、カメラはボールの変化をものの見事にとらえるだろう。スロー再生では隠しようもなく、砂煙に隠れるボールを映し出してしまう。
 次々にわき起こる疑問にはいっさい目を瞑って、ボールは消せるということを受け入れよう。事実、ボールをどう消すのかというその方法に重点が置かれ、諸般の事情はまあいいかという気分になれるように作ってある(笑)。そういった点でもこの作品はうまくできていた。

 問題は主人公がこの奇妙な変化球をどこで身につけたかということだ。潜って浮上するという、まるで潜水艦のような軌道を描かせるには、いったいどんな回転をボールに与えればいいのか。
 これも原作者の凄いところだが、このボールの変化の根拠を、魔送球に求めたということだ。魔送球は主人公の父親が生み出した特殊な変化球だ。この父親は投手ではなく三塁手だった。魔送球その名の通り送球である。バッターを打ち取るものではなかった。父親はこの送球を編み出したことで、野球選手を断念したという、曰く因縁まで付加してある。
 ここでまたひとつドラマが生まれる。いまさらいうまでもないことだが『巨人の星』は親子二代にわたる野球との格闘を描いた物語だ。斜に構えて眺めると、野球の魔性に取り憑かれた親子の物語だともいえる。深読みすればこの作品は人間の情念を描いていたのかもしれないという気さえしてくる。
 消える魔球はこの魔送球を縦に変化させることで可能になるのである。好みは別として、この物語はほんとうによくできていた。主人公の今に、過去が重要な意味を持ってくる。すべての要素が密接に絡んでいる。そして、そのすべてがマイナスの方向に働き、主人公を泥沼に引きずり込んでいくという構造になっている。
 この作品が悲劇的な終わりかをするのは納得できる。過剰な情念が主人公と父親を最終的に滅ぼす。するとこれはスポーツを通して栄光をつかむ物語ではなく、なにかに取り憑かれた人間の悲劇の物語ということになる。

 しかし、過去の要素を絶妙に絡めることで、物語に矛盾が生じてもいる。消える魔球のもとになる魔送球だが、その原理は一応説明されていた。原作ではなかったような気がするが、アニメ版では、
「ボールにある特殊な回転を与え、物体に向かって投げると、複雑な空気の流れがおきて、ボールはほぼ直角に変化する」
 と、語られる。
 すると、魔送球はやみくもに変化するわけではなく、前方になにか物がなければいけないということになる。縦に変化させることは不可能だということになる。この種の矛盾は他にも色々とある。明らかな瑕疵と思われる部分もあるが、そういった矛盾や無理を乗り越えて、この作品はやはり名作だったと思う。
 好みの問題は確かにある。しかし、個人的にはこの作品を受け入れることができる。スポ根ものというジャンルは『巨人の星』が、もちろん最初ではない。どころかこの作品はスポ根ものと呼ばれる一連の作品群のなかで、明らかに異質だったような気がする。
 単純にひとりの人間を鍛え上げることを賛美するだけの物語ではなかったと思っている。気合と根性で鍛え抜かれた人間が栄光を掴むという物語の構造を持ちつつも、そこからはみだしていく過剰なものに満ち溢れていたような気がしてならない。
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カテゴリ: 漫画

テーマ: 漫画の感想 - ジャンル: アニメ・コミック

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Posted on 2009/05/31 Sun. 09:50    TB: 0    CM: 0

彼女について――1 

 彼女は自分の強い個性に長く気づかなかった。では、今は気づいているのかというと、いささか怪しい。長く生きて、どうやら自分は人と何かが違うらしいということに、ようやく気づきはじめたが、それはあくまでも頭での理解であって、肌で掴んだということではなかった。
 彼女に限らず、だいたい人間は自分の目線で世間を見ている。自分の目線で世間を見る限り、自分が標準よりもずれた場所に立っていたとしても、ずれているのは世間の方だと人は感じる。
 彼女の場合は、長くそういうことすらも感じなかった。自分と世間、トラブルの原因をどちらかに求めることもなかった。従って、どちらが悪かなどとは考えたことがない。ただ、漠然とだが彼女は生きにくさを感じていた。
 たとえば自分が何気なく発した一言に相手が気分を害し、最悪怒りだすという経験を何度もしていた。いったい自分のなにがそれほど相手を怒らせてしまったのか、彼女には遂にわからなかった。
 たとえば誰かが、
「あなたは美人だね」
 と、彼女にいったとしよう。事実彼女は美人なのだが、とにかく誰かのその一言に、
「うん、子供の頃からよくそういわれた」
 と、彼女はまじめな顔でいう。
 相手は一瞬言葉を失う。確かに彼女は美人である。しかし、あまりにあからさまに本人にそういわれると、いわれた方は白けてしまう。そういう彼女の、一種の率直さが、彼女の生きにくさの原因の大半を占めていた。子供のころは、よく苛められた。
 自分が美人であるといったのは、彼女の傲慢さではなかった。実は自分が美人であるということを、意識したことすらなかった。美人がなんであるかはわかるが、自分と美人は彼女の中で重ならない。
 彼女が自分を美人だと認めたのは、子供の頃からそういわれ続けたからにすぎない。わたしは美人ということは、つまり、それ以上でも以下でもないのである。しかし、こういった態度が鼻につくのも事実だった。仮に、彼女に悪意はなかったとしても、だ。

 何事につけ、彼女は全体よりも細部が気になる。たとえば映画を見るとき、彼女は全体を見ない。もちろんストーリー全体を通しての面白さは感じるのだ。しかし、たとえ面白くない映画であってもその中にたったひとつ心に触れる場面があれば、その映画を好きになる。
 彼女は黒澤明の映画が好きだ。『まあだだよ』という作品がある。主人公とその妻女が掘っ立て小屋のような自宅で秋を迎える場面がある。その瞬間の色の美しさに彼女の心は震えた。
「黒澤明最後の作品は、見事に凛とした黒澤明だった」
 と、テレビで語っていたのは山田洋二だった。彼女は山田洋二の言葉を全面的に支持する。作品はもちろん素晴らしかった。しかし、仮に期待したほどの出来でなかったとしても、あの場面さえあれば、自分が何度でも『まあだだよ』を見るだろうことを彼女は知っていた。確かに黒澤明は最後まで黒澤明だった。

 彼女は抜群の記憶力を持っていた。山田洋二が、黒澤明についてテレビで話しているときの姿や身振りまで思い出すことができる。それはあたかもたったいまテレビでその番組を見ているかのようだった。山田洋二は、深刻な真面目さとでもいうべき表情と口調で、黒澤明について語っている。
「どんな監督でも老いとともに作品にたるみのようなものが現れる。それは老いとともに皮膚が弛んで行くような感じだ。どんな偉大な監督でもそれは避けられない。ジョン・フォードもエリア・カザンもヒッチコックもそうだった。しかし、黒澤明は最後まで凛とした黒澤明であり続けた」
 と、そんな感じであった。
 自分がハンニバル・レクターのような「記憶の宮殿」を持っているとは思っていなかった。だが、人から見ればそれに近いものがあるのもまた事実だった。ごく自然に話しているつもりでも、あらゆる事柄について、次々と彼女の中で連想が生まれていく。
 その連想はかつて見た映画であり、聴いた音楽であり、読んだ本であり、本屋で立ち読みをした雑誌であり、あるいはテレビのキャスターや芸人の言葉、ある役を演じている役者のセリフだった。
 彼女はお喋りである。だがそれは会話が上手ということではなかった。一方的に喋りまくるのである。頭の中に次々と浮かんでくる文字を、映像を、音を、とどまることなく話し続ける。聞かされているほうは、そのうち話す意欲をなくしてしまう。それでも彼女の話はとどまることがない。
「まるでインターネットで検索をかけたようだ」
 と、以前いわれたことがある。
 自分が特別なことをしているとは彼女は少しも思っていなかった。人と自分を比較する――あえて言えば能力に欠けている彼女は、自分の振る舞いが、かなり奇異に見えるということに長く気づかなかった。

カテゴリ: 日記

テーマ: 日記 - ジャンル: 日記

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Posted on 2009/05/25 Mon. 19:09    TB: 0    CM: 0

サイズの違い 

 別にケチをつける気はないので、まず最初にお断りしておきます。木村拓哉さんという人はどちらかといえば好きである。これだけでは不安なので、もう少し付け加えると、もしかすると近年絶えて久しかった本物のスターになるかもしれない逸材だと思ったりする。『武士の一分』を見て特にそう思った。
 と、いうことを前提に昨日から放送が始まった『ミスター・ブレイン』について思うところを並べてみる。まず見た瞬間に思ったことは、
「あ、CSI・マイアミのオフィスだ」
 で、あった。
 あのガラスとハイテク機器で飾り立てられた科警研はCSIのオフィスによく似ている。とくにCSI・マイアミのオフィスに似ていると思った。ホレイショ・ケインが登場して、かっこよく決め台詞をいっても、さほど違和感はないように思える。
『CSI・マイアミ』についてはご存知の方も多いと思う。WOWOWで放送されているアメリカの刑事ドラマだ。偶然、似てしまったとはどうしても思えない。日本でもCSIのようなドラマを作りたいという思いがあって、それだけではいくらなんでもパクリといわれそうだから、そこに話題の脳科学を加えてみた。そんなふうに思えなくもない。
 どちらが上か下かということではないのだが、実写ドラマに関していえば、アメリカのドラマの方が、やや面白いかなと思う。もっともこれは放送されている絶対数の違いにもよるだろう。
 日本で放送されているドラマは向こうでもヒットした選りすぐりのドラマで、面白いのは当たり前、といわれれば、その通りだと思う。翻って日本のドラマはそれこそ玉石混淆、数が多いのだから面白いものもあればそうでないものもあるという、当然の事実に行きあたる。
 ただ向こうでヒットしたドラマがこちらでも必ずヒットするかといえばそんなこともない。以前『ダラス』というドラマがあった。アメリカでは大ヒットしたが、日本ではさっぱりだった。国が違えば好みも違う。
 ではあるが、そういった点も含めて、やはりトップレベルものに関していえば、アメリカのドラマの方が面白いのかなという気がする。ヒットした彼我のドラマを比べてみるとき、そんな思いを強くする。
 これがアニメとなると一気に形勢は逆転する。アイデア、ストーリー、演出、登場する小物類に至るまで、日本アニメは他の追随を許さない。これは本気で思っている。日本のドラマでもヒットしたものの多くが、アニメやコミックを原作にしている。

『ミスター・ブレイン』に話を戻すと、テレビサイズの面白さはあったように思う。しかし、劇的な面白さというほどではなかった。それはなにもこの番組に限ったことではなく、他のヒットしたドラマに関してもいえることだ。
 たとえば『トリック』もそうだし『相棒』でも、それは同じだ。『ヒーロー』もそうだった。『ガリレオ』もそうだ。だからヒットしたドラマを映画化した際、無理を感じることがある。テレビの日常を映画の非日常に持ち込むには無理がある。
 テレビドラマはあまりにも日常生活に入り込み過ぎていて、どれだけ金をかけて大きなスクリーンに移植しても、それは日常の拡大にすぎない。映画的な壮大な嘘にはつながらない。そんな気がするのだ。
 ある時代が過ぎてしまうと、見ることにある種のてれを感じるのがテレビドラマだ。映画、特に名作と呼ばれるものは、たとえ時代が変わっても鑑賞に耐えられるものが多数ある。扱っている題材にもよるのだろうとは思う。
 だが、たとえば『大統領の陰謀』という映画のタイプライターは、たとえノートパソコンとインターネットの時代になっても、魅力的な映画的物体だ。あのタイプを打つリズミカルな音は、いまの時代に聴いても十分感動的だ。
 たぶん、『ミスター・ブレイン』はこれからも見ると思う。リアルタイムで見ることは少ないと思うが、録画をして気が向いたときに見ると思う。これからどんな展開になるのか、楽しみにしている。
 このドラマもいつか映画化されるのだろうか。

カテゴリ: テレビドラマ

テーマ: テレビドラマ - ジャンル: テレビ・ラジオ

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Posted on 2009/05/24 Sun. 11:14    TB: 0    CM: 0

バートン・フィンクの静かな狂気 

 コーエン兄弟の作品『バートン・フィンク』は狂気について描いた映画だと思っている。と、その前に、コーエン兄弟の作品はとにかく好きである。ストーリーがどうこうというよりも、そこに漂う雰囲気が好だ。
 コーエン兄弟は、禁酒法時代のギャングを描いても、田舎の妊娠中の女性警察官を描いても、はたまたまるで天災のような不吉な殺し屋を描いても、すべて同じ、個性的なリズムを持っている。
 何を書いたかではない、どう書いたかだという話はよく聞く。カポーティがいったとどこかで読んだが、本当かどうは知らない。誰がそれをいったのかは別にして、多分それは当たっている。ありふれたストーリーを魅力的なものにするのは、ようするにその描き方の問題ということだ。
 つくづく思うことだが、特異なスタイルを持つことは凄いことだと思う。小説でいえば文体、マンガでいえば絵柄、それが極めて個性的で魅力的であるということは、努力で獲得できるものではないのかもしれない。それこそ神様に感謝するべきことだろう。確かに人間には、どうしようもないこともある。
 もちろん作家は皆自分独自のスタイルを持っている。でなければ、面白い面白くないは別としても、作品そのものが生まれない。スタイルがあるからこそ、曲がりなりにも作品が生まれ、傑作も生まれようというものだ。
 スタイルは基本的に作者の頭の中身と密接に結びついている。基本的な性格が変えられないように、スタイルはおそらく彼や彼女が作家になる前から決まっているのだろう。努力はそれを磨くだけで、努力で変えられるというものではないような気がする。
 なにも悲観する話ではない。皆それぞれのやり方があるというだけの話だ。ただし、そのやり方を発見するのは、けっこう大変だという気がする。腹を据えて自分自身と向かい合う、これしかないのかもしれない。

 さて『バートン・フィンク』だ。ようするに書けないライターの物語だ。もう少し詳しくいうと、書きたいが書けない、あるいは書かねばならないがどうしても書けない男の物語と言ってもいい。書けない焦燥感が、主人公の精神を蝕んでいく。この感じがとてもいい。
 創作の魔力に取りつかれてしまった男の地獄めぐりが、古ぼけたホテルのぼろい部屋を中心に描かれる。この部屋が実にいいのである。ホラーテイスト満載なのだ。この部屋なら殺人鬼どころから、この世のものではないものが現れたとしても、不思議ではない。
 神経に触る小道具を、巧みに配置して、見ている方の神経にもちりちりとくる感じがたまらないのである。そういえばポランスキーにもこんな感じがあるような気がする。主人公の焦燥感と苛立ちが、見ているこちらの感覚になってくる。
 さらに、登場人物がみなどこか歪んでいて、狂気の気配を色濃く持っている。独裁が行き過ぎて、喚き散らす映画会社の社長。その社長の精神的な圧迫により、神経症気味の部下たち。主人公が尊敬してやまない大作家さえアル中だ。しかも魅力的な秘書が、ゴーストライターだったかも、というおまけまでついている。
 尊敬してやまない大作家が、ただのアル中かもしれないという現実に気づかされたとき、バートン・フィンクの中に残っていた正気が完全に消し飛ぶ。こんなふうにも考えらえる。狂気は主人公バートン・フィンクの内にあり、彼の眼を通して見た世界が狂気に彩られていると。
 殺人鬼ムントの登場は、その狂気に拍車をかける。ジョン・グッドマン演じる殺人鬼と書けない作家バートン・フィンク。二人の狂気が共鳴し、物語全体を狂気へ狂気へと押しやって行く。何かが壊れていく感覚がたまらないのである。
 物語のラスト、殺人鬼ムントは主人公に小包を手渡す。その小包の中身がなにか、観客の想像を刺激する。主人公はその中身を見ようとしない。しかし、捨てようともしない。太陽の降り注ぐ砂浜で、主人公は殺人鬼から渡された小包を横に置いて海を眺める。
 まるで殺人鬼から殺人鬼であるための重要な何かを手渡されたようにさえ見える。殺人鬼ムントは死んでも、新たな殺人鬼が生まれようとしている。そんな気配があるラストだ。見ている方も、不安と苛立ちを覚える。

カテゴリ: 映画

テーマ: 映画感想 - ジャンル: 映画

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Posted on 2009/05/20 Wed. 19:44    TB: 0    CM: 0

不夜城の力学 

 強くない主人公について考えてみたい。強くないというのはこの場合、超人的な戦闘能力を持っていない主人公という意味である。バイオレンス小説(劇画も含む)の主人公というのは、だいたい抜群の戦闘能力とゴキブリ並みのサバイバル能力を持っているという設定が多いように思う。
 代表的なところではゴルゴ13あたりだ。ランボーもそうだ。俗にいう一人軍隊だ。超人的というよりも超人そのものなら、スパイダーマンがいてスーパーマンがいた。バットマンは人間だが、ハイテク機材で超人化している。日本に目を向ければ、我らがウルフガイ、犬神明がいる。
 馳星周という作家の『不夜城』という作品に登場する劉健一は、超人の対極にある主人公だった。腕力もなく、小利口で小狡が、それは巾着切り的小賢しさで、たとえばドン・コルレオーネのような壮大な悪知恵があるわけでもない。
 本来、暴力の世界で生きるには不向きな主人公なのだ。特殊な能力も、抜きんでた才能も、鍛え抜かれた戦闘能力もない。ようするにありふれた人間である。そういった普通の人間を、虎の檻の中に放り込んで、
「さあ、生き残ってみろ」
 と、突き放したのが『不夜城』という作品なのだと勝手に理解している。
 小悪党が大物の犯罪者を向こうに回し、全力のサバイバルを展開する。この作品を読んだとき、こういうやり方もあるのかと感心した。もちろん、主人公にありふれた人間を据えた、犯罪小説もバイオレンス小説も、世間には数多ある。
 というか、極端なスーパーマンを主人公にした物語の方が少ないかもしれない。しかし、ありふれた人間であっても彼らには、已むに已まれぬ思いとか、信念とか、命をかけても成し遂げなければならない熱い思いがある。一歩間違えれば病的な執念だ。偏執狂的な熱心さは、ときに人を超人に変えるというわけだ。
『不夜城』の主人公の動機は、金でも名誉でも信念でもなかった。動機は生き残るためという一点に集約されていた。《小動物的な臆病さ》というオーラを発した主人公だった。ここまで情けない主人公というのは、ある種文学的な感動さえ与える。

 ディーン・R・クーンツは『ベストセラー小説の書き方』のなかで、エンターテイメント小説の主人公は、スーパーマンである必要はないと書いている。しかし、善悪の判断がつき、毎日歯を磨いてもイメージは崩れないとも書いていた。
 馳星周の生み出した劉健一は、毎日歯を磨きそうもないが、それでも魅力的な主人公だった。いってみれば等身大の悪党である。一人称で書かれていることもあるのだろうが、もしかすると、これは自分かもしれないという妙な気分にさせる(笑)。もちろん、ぼくは悪党ではない。善良な小市民だ。
 物語のなかで劉健一に悪女がいう。
「人を利用することばかり考えている」
 さらに彼女は強面の中国マフィアのボスについても、
「凄むばかりで世の中のことが少しもわかっていない。いつか自分よりも強い者があらわれてやられる」
 と、そんなことをいうのである。
 悪意があっていうことではないが、社会は人が人を利用することで成り立っている。誰かを利用し、誰かに利用される。人生の構造というのはそういうものかもしれない。そのあたりのことを、物語の中でさりげなく描いてみせた馳星周は、やはり只者ではないという気がする――と、いうのはちょっと持ちあげすぎかな(笑)。
 ただ、少し気に入らない点は、劉健一の物語に、続編があったことだ。愛する女を殺して生き延びた劉健一の物語は、あそこで終わるべきだったと思う。馳星周はなぜ続編を書いたのだろう。

カテゴリ: 読書

テーマ: 読書メモ - ジャンル: 本・雑誌

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Posted on 2009/05/20 Wed. 00:18    TB: 0    CM: 2

花も紅三四郎・パート2 

 古い話ばかりするのはどうかと思いつつ、今日もまた古い話だ(笑)。『紅三四郎』である。いまでもときどき、この作品を思い出したりする。ブログやミクシィでもこの作品のことは何度か触れている。
 ジャンルでいえば、格闘技アニメということにでもなるのだろう。異種格闘技戦をテーマにした最初のアニメ作品ではなかったろうか。映画『姿三四郎』の中にも異種格闘技戦は出てくるが、少なくとも異種格闘技戦そのものをテーマにした作品としては、第一号ではないものの、先駆的な作品ではあったと思う。
 深読みすれば、グレーシー柔術の元祖、コンデ・コマこと前田光世氏がモデルではないかと思ったりした。どの格闘技が地上最強かというのはテーマとしては面白い。が、専門家によれば、地上最強の格闘技があるのではなく、地上最強の格闘家がいるだけだということらしい。
 その観点に立てば、紅三四郎はまちがいなく地球上でもっとも強力な格闘家のひとりである。このブログでも書いたが、戦わなかった相手は、ゴジラと宇宙人くらいである。たった一人を除き、すべてに勝っている。なにせ虎にも勝ったのだ。猛獣どころか、この世には存在しないものとも戦っているのだからもの凄い。

『紅三四郎』はたぶんアニメの方が圧倒的に有名だと思うが、はじめて目にしたのは『少年サンデー』だったと思う。面白さの比較ということになると、たいていは原作の方が面白いというのが相場だ。
 この作品に限っていえば、アニメの方が面白かった。そもそも、あれは雑誌連載がほんとうに原作だったのかという疑問が残る。それほど原作とアニメはかけ離れている。タイトルだけが同じで、別の話だと思った方がいいくらいである。共通点は親の仇打ちがメインのストーリーであるということと、仇が隻眼の武術家であるという点くらいだった。
 雑誌連載に関していえば、こちらは青年武術かの修行物語的なイメージがあった。正直、あまり面白くなかった。破天荒な面白さはアニメの方が百倍も上だった。ただ、破天荒、もしくは荒唐無稽という点についていえば、確かに共通点はあった。
 雑誌においても紅三四郎は《猫魔一族》だったと思うが、半獣化した柔術家一族と戦っていたはずだ。もっともアニメの方では、砂漠でミイラとも戦っていた記憶があるから、たかだか猫のような柔術家など驚くほどではないのかもしれない。

 昨今はリバイバルブームだ。ハリウッドも日本のアニメを映画化したりしている。同じ竜の子プロの作品、『マッハGoGoGo』もハリウッドで映画化されている。格闘技ブームの今日だ、『紅三四郎』はけっこう面白い題材になるような気がする。

カテゴリ: アニメ・映画

テーマ: アニメ - ジャンル: アニメ・コミック

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Posted on 2009/05/15 Fri. 14:13    TB: 0    CM: 0

もうひとつの、誰かが風の中で 

 最近、どうも木枯し紋次郎づいている(笑)。先日の平成版『木枯し紋次郎』が呼び寄せたものかどうか、最近も知人が「上州新田郡三日月村」に行ってきたとのことで、お土産のまんじゅうをいただいたりした。まったく不思議な縁である。
『木枯し紋次郎』を決定的に印象づけたもののひとつにあの主題歌があった。『誰かが風の中で』という曲は掛け値なしの名曲だと思う。印象的なイントロが聞こえ、峠を登ってくる紋次郎の孤影が画面に映ると、予備知識もなくドラマを見たとしても、期待が高まる。それほど見事なオープニングだった。
 当時のぼくは、『木枯し紋次郎』についてなにも知らなかった。知っていることといえば、時代劇で、しかもいまどき(当時の)珍しい股旅ものという程度だった。さらに主演は中村敦夫。当時、中村敦夫はまったく無名の俳優。期待などどうやっても持ちようがない。もちろん、個人的にということだが。
 その中村敦夫だが、紋次郎以前に一度テレビで見たことがあった。曖昧な記憶だが、紋次郎よりもかなり前に放送していた『火曜日の女シリーズ』というサスペンスものの一本、「オパールとサファイア」に、空港職員か何かの役で出ていたはずだ。まったくの端役で、市原悦子さんか誰かと、二言三言やりとりをするだけではなかっただろうか。
 ことほどさように、『木枯し紋次郎』というドラマは、多くを期待させる何かを持っていたわけではなかった。少なくとも、ぼくにとってはそうだった。ところがドラマ、というよりも物語が始まる前の段階、主題歌の流れるオープニングの映像を見ただけで、もう物語引き込まれてしまった。
 さすがに一流の演出はちがうものだと思う。あのオープニングは、それまでの時代劇とまるでちがった。洗練されていて、確かに時代劇ではあるのだが、まるでちがうドラマを見ているような気がしたのを覚えている。たとえていえば、ヨーロッパの監督が、日本の時代劇を撮れば、こんな感じになるのではないだろうか。
 とにかく、一発で参ってしまった。あの画面を洒落たものにしていたのは、鋭い映像感覚はもちろんだが、同時にあの主題歌の力が大きかった。映画は音と映像の相乗効果だと黒澤明はいっているが、確かにその通りだと思う。

 以前、作曲者の小室等さんが、『誰かが風の中で』を書くにいたった経緯について、ラジオで話していた。聞き手は、いまは懐かしい本田路津子さんだったはずだ。市川崑が要求したのは『コンドルは飛んで行く』のような『雨にぬれても』のような感じの曲だったという。
 この二つはまるでちがう曲だ。市川崑がそれまでの時代劇にはない主題歌を求めていたことはよくわかる。が、これで一曲作ってくれと言われれば、いわれた方が、途方にくれる。曲想がまるで浮かばない。
 作詞は市川崑監督の夫人で脚本家の和田夏十さんだった。この詞も凄かった。風の中で待っているのは誰か、興味のあることころだが、これはやはり赤ん坊の紋次郎を救った姉なのだろう。物語の中でそういったことを語る場面も出てきたように思う。
 とにかく小室等さんが作曲した『誰かが風の中で』は、あのドラマのオープニングで流れた曲とはかなり違うという印象があった。メロディが違うというのではもちろんない。曲というのはアレンジでずいぶん変わるものだということがはっきりとわかる。
 小室等さんがギターだけで歌った『誰かが風の中で』は、静謐で軽やかだった。静と動を織り交ぜたダイナミックな上條恒彦さんの歌唱とは、また違った味わいがあった。時代劇にいかにも時代劇らしくない音楽をつけるというのは、『木枯し紋次郎』からはじまったような気がする。
 このあと、市川崑、小室等のコンビは、ドラマの主題歌として名曲を発表する。『昨日はもう過ぎ去って』『かげろうの唄』だ。『誰かが風の中で』ほどヒットはしなかったが、いずれも名曲だ。

カテゴリ: 音楽

テーマ: 日記 - ジャンル: 音楽

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Posted on 2009/05/11 Mon. 13:24    TB: 0    CM: 9

闇について一言 

「『ポーの一族』は結局、拷問のお話ね。美しい拷問の物語よ」
 彼女はそんなことをいった。
 ぎょっとした。『ポーの一族』というのはもちろん、萩尾望都のあの作品だろう。それにしても、拷問というのは穏やかではない。あの作品に拷問場面などひとつもなかったはずだ。少年のまま吸血鬼になってしまった者の、いってみれば緩慢な悲劇を描いた物語だった。
「吸血鬼の話だろう」
 ぼくはいった。
「吸血鬼になるということが拷問なのか。つまり神様に背くことになるから――」
「そんなことじゃないわ」
 彼女は穏やかに否定した。
「わからないな」
「永遠に生きることよ。それって拷問でしょう」
「限りある人生にこそ価値があるってか」
「そうじゃない。長生きはするにこしたことがない。でも長生きってことと、永遠を生きるってことはまるでちがう」
 その程度のことはわかっている、そう言おうかと思ったが思いとどまった。彼女は時々、ぼくには理解できなことを真剣に語りはじめることがある。日常生活にはあまり役に立たないようなことといってもいい。そんなとき話の腰を折ろうものなら、半日、長ければ一日くらいは口をきいてくれない。黙って話を聞くしかない。
「永遠は、わたしたちには理解できない。恐竜時代は一億六千万年以上続いたわ。人間の考える永遠って、せいぜいが五千年、よっぽど長くて一万年、そんな程度じゃない? いっているのは実感できる長さのことね。頭で理解するのと、人情が届く範囲はちがう。たとえばこれから数百年生きてエンタープライズ号に乗って銀河を駆け巡ることは楽しいでしょうね。でも、そのあとはどうかしら――この世に永遠に続くものは基本的にない。人類の繁栄が終わった後、たったひとりでこの世に生きていくことは拷問と同じよ。たとえ少数の吸血鬼仲間が生き残ったとしても、数億年のながさに人の精神は耐えられない。エンタープライズ号が飛ぶ未来がほんとうにあるのかどうかもわからない。明日、世界が滅びるかもしれない」
 たしかに彼女のいうとおりだろう。数億年などという時間は、人間の感覚では理解できない。絶対にできない。それとも吸血鬼になった瞬間、永遠を理解できるのだろうか。それこそ、吸血鬼になったことがないのでわからなかった。
 映画『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア』のなかで新参者の吸血鬼ブラッド・ピットがその最初の夜、動く石像を見る。たしか、そんな場面があったはずだ。彼はあの瞬間に永遠を理解したのだろうか。その後の物語の展開を見る限り、彼が永遠を理解したとはとうてい思えなかった。
 ブラッド・ピットの吸血鬼も、彼を吸血鬼にしたトム・クルーズの吸血鬼も、えらく人間臭かった。せいぜいがミュータントだ。特殊な力を持っていても、まったく新しい価値観を持っているわけではなかった。彼らはまぎれもない人間で、とても永遠に対抗できるほどの強靭な精神と、ある種の諦観を持っているようには見えなかった。

 いったい吸血鬼のバリエーションはどれくらいあるのだろう。最近も映画化されたリチャード・マシスンの『地球最後の男』も、ようするに吸血鬼ものにSFの味付けをした作品である。
 S・キングの『呪われた町』は古典的な吸血鬼を現代(といってもすでに前世紀だが)のアメリカによみがえらせた、あるいは呼び寄せた作品だった。そのキングは、リチャード・マシスンの方法論に影響を受けたというようなことをどこかで書いていたような気がする。あるいは記憶違いかもしれない。
 他にもアニメ、ギャグ、パロディと吸血鬼ものは数えていけばとんでもない数になるはずだ。わが日本にも、彼女が美しい拷問の物語だといった『ポーの一族』という名作がある。
 しかし、『ポーの一族』が傑作であるのは、舞台が日本ではないからという気もする。吸血鬼というのは、よほど独創的な脚色を加えない限り、日本では成立させることが難しい題材かもしれない。
 世間に数多ある吸血鬼ものの原点となったブラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』は、いってみればこれ以上はないという純ヨーロッパ製で、こればかりは偉大な東洋が入り込む余地がない。
 キングの『呪われた町』にしても、アメリカに登場する吸血鬼は、なにか違和感がある。ただ文化的に近いこともあり、まったく場違いな感じはない。それでも、あのキングをもってしても、どこか吸血鬼もののパロディのような印象は拭えない。

 それにしても、人はなぜこれほど闇のなかに生きる吸血鬼の物語を好むのだろう。擬似的な恐怖を味わいたいだけでは絶対にないはずだ。永遠に対する恐れと憧れが、新たな吸血鬼の物語を生み続けるのかもしれない。

 ちなみにぼくの好きな吸血鬼ものは、ロマン・ポランスキーの『吸血鬼』だ。

カテゴリ: 漫画

テーマ: マンガ - ジャンル: アニメ・コミック

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Posted on 2009/05/07 Thu. 23:19    TB: 0    CM: 0

あのころと今の違い――再び、木枯し紋次郎 

 再び木枯し紋次郎である。この前はよく頑張ったと書いた。今回はちょっとちがうなと思うところを書いてみる(笑)。ようするにこれは紋次郎じゃないなと思う点である。あのころと今は違うということはよくわかっているが、それでも、もし次にやることがあれば、考慮してもらいたいと思う点といってもいい。
 楊枝だ。木枯し紋次郎は、彼の必須アイテムであるあの長い楊枝で人を傷つけてはいけないのである。平成版『木枯し紋次郎』のストーリーのもとになったと思われる『六地蔵の影を斬る』のなかでもそのことには触れられている。
「この楊枝で人を殺めたことはござんせん』
 紋次郎はそういうのである。
 これは絶対的に正しいわけではない。先のセリフはテレビの中の紋次郎だ。知る限り、小説において紋次郎は二度、楊枝で人を傷つけている。『赦免花は散った』のときに相手の片目にむけて楊枝を飛ばしている。もう一度は『無縁仏に明日を見た』のなかだ。子供に刺され重傷を負った紋次郎は楊枝を使って窮地を脱する。
 しかし、テレビの紋次郎はその楊枝で、人を殺めるどころか、傷つけてさえもいない。『木枯しの音に消えた』のなかでは、相手の三度笠の紐を楊枝で切ることはあったと思うが、直接身体を狙ったわけではなかった。
 紋次郎にとってあの楊枝は大切な思い出とセットになっている。故郷を捨てて六年、命を粗末にするようなことばかりしていた時期がある。そのときも六人を相手に切りあい、かろうじて助かったが、頬に傷を負った。
 そのとき助けてくれた浪人の幼い娘に、楊枝を鳴らす方法を教えてもらった。娘が楊枝を鳴らすと綺麗な音が出るのだが、頬の傷を庇うせいか紋次郎が楊枝を鳴らすと、寂しい木枯しの音がする。
 これらは『木枯しの音に消えた』のなかで語られているエピソードだったと思う。もし記憶違いがあれば御勘弁だが、とにかくあの楊枝には紋次郎の大切な思い出がセットになっているのである。その楊枝で人を傷つけることはしない。と、これは勝手にぼくが思っていることだが。
 しかし、とにかくこれは一種のダンディズムである。原作を忠実になぞるのであれば、有効な武器として紋次郎は楊枝を使ってもいいわけだが、武器にもなりうるが決して楊枝を武器にしない、そういったある種の偏屈さを持っている方がより紋次郎らしいような気がする。
 一宿一飯に縛られることを嫌う紋次郎なのである。紋次郎にとって渡世人というのは、いってみれば生きるための方便であって、そこには夢も希望も野心もない。ある人物を描くとき、行動に多少の矛盾があっても、そのことによって、その人物の輪郭がより明確になるのであれば、別にかまわないと思うのだが。

カテゴリ: 時代劇

テーマ: 時代劇 - ジャンル: テレビ・ラジオ

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Posted on 2009/05/04 Mon. 10:24    TB: 0    CM: 4

言葉の映像化――木枯し紋次郎 

 まず、ナレーターの勝利である(笑)。芥川隆行のあの名調子が、かつての『木枯し紋次郎』のある部分を支えていたと思っている。今回のナレーターは平榮子さんだった。どういう方かはネットで調べていただくとして、芥川節のいってみれば後継者である平榮子さんを起用したことで、まずやられたと思った。
 原作を読んだ方はわかると思うが、笹沢佐保氏の文体は時代劇を感じさせない。『木枯し紋次郎』の斬新さは、ひとつに主人公の設定の新しさもあったと思う。もっとも孤独と虚無に彩られた渡世人といえば「人斬り伊三蔵」がいるから、必ずしも紋次郎が最初というわけではなかったのだが。
 とにかく主人公の目新しさもさることながら、笹沢佐保の乾いた文体が『木枯し紋次郎』を、異色な時代劇にしていたように思う。ノンフィクションのような文体なのである。感傷的でもなく、過剰な装飾もない、正確にある状況を描いていて行く、実況中継のような文体なのだ。市川崑の描いた『木枯し紋次郎』は笹沢佐保の文体そのものを映像化したような印象があった。
 初期の紋次郎を見た方ならわかると思うが、街道を黙々と歩く紋次郎の孤影に重なるナレーションは、いってみれば見事な効果音であった。あの語りは明らかに笹沢佐保の文体である。
 ナレーターの勝利と最初に書いた。芥川隆行のリズミカルで正確な日本語の語りは、笹沢時代劇を完璧に表現していた。今回それができるかできないか。できれば、作品はある期待値を超えると思っていた。平成版『木枯し紋次郎』は、すくなくとも五十点以上にはなった。もちろんぼくのなかでのことだが(笑)。

 平成『木枯し紋次郎』はまじめに作られていたと思う。リアルに天保時代を再現しようとしたのだろう。少なくともどういう時代であったのか、ありそうな感じで描こうとしていたようには思う。
 物語がはじまったあたりで紋次郎が草鞋を履き替える。草鞋というのは耐久性がまるでない代物だったという話を聞いたことがある。そのあたりの事情を見せたのもうまいと思った。
 ストーリー的には『六地蔵の影を斬る』と『童歌を雨に流せ』を中心に構成されていたように思う。他にもいくつかのストーリーから拾ってきた小さなエピソードがちりばめられていたように思うが、もう少し詳しく見てみないとわからない。詳しく見てもわからないかもしれないが(笑)。
『童歌を雨に流せ』という作品は数多ある『木枯し紋次郎』のなかでもかなり好きな作品だ。豪雨のなかで死闘が繰り広げられる。そのなかで紋次郎は、自分が斬り殺した男から流れ出る血と雨が勢いを競い合っている様を見る。雨よ降れと紋次郎が心のなかで叫ぶ。そういう場面がある。
 自分と重なる赤ん坊を助けたが、結局、その赤ん坊は死んでしまう。中途半端な情けをかけた自分に対して紋次郎は怒っているのである。小説版は救いがなかったがテレビ版のほうはいくらか救いのある結末になっていた。

 さて、主人公の江口君である。彼の紋次郎は、予想していたよりも良かった。辛酸をなめつくして今に至っている人間に見えないのは、時代のせいもあるのだろう。いつもは良い人を演じる渡辺いっけいさんの、爬虫類のような悪役もよかった。主題歌が、上城恒彦の歌う『誰かが風の中で』であったことも嬉しかった。
 この作品はシリーズ化されるのだろうか。少し気になる。余談ながら、岩城滉一が紋次郎を演じたときの主題歌も「誰かが風の中で」だったが、歌っていたのは、いまはなき河島英五だった。

カテゴリ: 時代劇

テーマ: 時代劇 - ジャンル: テレビ・ラジオ

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Posted on 2009/05/02 Sat. 20:39    TB: 0    CM: 0

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