Gitanの趣味

ひたすら趣味の道を走っています(ニヤリ)

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正直の功罪 

「正直だから天国に行けるなんて思わないでね」
 というセリフは『アメリカン・ギャングスター』のなかに出てくるセリフだ。
 この映画は全米週末興行収入成績初登場第1位になったということだが、そうした映画はあまりあてにしていない(笑)。面白くないなどといっているのではない。多くの人が見た映画だ。それなりに面白いに決まっている。
 しかし、興行収入がいいということは、平均的な映画だということだ。ぼくはそう解釈する。見たいのは、万人受けする映画ではない。これはもしかするとぼくのために作られたんじゃないだろうかと勘違いしてしまいそうな映画である。
 それでも一応見るだけは見た。まあ、予想した通りの出来だった。可もなく不可もなくといったところだろうか。これはもちろん客観的な評価ではない。ぼくの個人的な意見である。
 以前、女友だちに、
「結局、エンターテイメントが嫌いなんでしょう」
 と、いわれたことがある。
 思わず膝をぽんと叩きそうな自分を抑えた。
「そんなことはない」
 否定したが、たしかに自分にはそんなところがある。
『アメリカン・ギャングスター』がエンターテイメントかどうかは微妙だが、ハリウッドの映画だから、観客をとことん無視したり、理解するのに格闘を要求したり、というようなことはない。ストーリーはわかりやすく、観客を楽しませる小技もきいている。
 冒頭に書いたセリフは、道義に背いてでも正義を為そうとする刑事の妻のセリフである。彼女は刑事である夫を非難しているのだ。このセリフはよかった。いいところを突いている。人を傷つけることは思いのほか簡単かもしれない。正直もときに人を傷つけることがある。
 絶対の正義はあるかもしれないが、それは人の手を離れる。行使した者さえも、ときに罰することがあるということだ。正義と悪、ベクトルがちがうだけのことかもしれない。極端に走ればなんでも同じだ。
 他にもこの映画にはけっこういいセリフが出てくる。たとえば、
「勝者になって敵を作るか、敗者になり友をつくるか」
 などだ。
 成りあがって行く過程で人は自分でも気づかない敵を作って行くものらしい。
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カテゴリ: 映画

テーマ: 洋画 - ジャンル: 映画

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Posted on 2009/03/29 Sun. 00:02    TB: 0    CM: 0

ケーキとガンマン 

「ビリー・ザ・キッドね」
 彼女はS&Wスコーフィールドモデルを手にしながらそんなことをいった。ビリー・ザ・キッドの話をはじめるが、ビリーことウィリアム・H・ボニーが使ったといわれる拳銃はコルト・サンダラーだ。ガンマニアである彼女がそんなことも知らないわけがない。ちなみにウィリアム・H・ボニーも本名ではない。
「いきなり少年悪漢王かよ」
 The Boy Bandit King.
 墓碑銘にはそう刻まれているらしい。21歳で21人を殺したということになっている。もちろん伝説だ。実際はそれほど殺してはない。しかし、21歳で射殺されたということは事実である。が、これもそうではないという説がある。彼は生き残り、かなりの歳まで生きていたという話がある。伝説である。
「ケーキを食べるのよ」
「それ、映画だろう」
「『ヤングガン2』のなかでビリーはケーキを食べるのよ。最初、お酒をすすめられる。でも彼はケーキを食べたいというの。あの場面がとても好き」
 その場面は覚えていた。あの映画『ヤングガン』『ヤングガン2』のなかで、ビリー・ザ・キッドはきわどい拳銃使いとして描かれていた。きわどいというのは精神的に危ない奴ということだ。
 やたらと銃を撃ちたがる、物騒な若者だ。見境がないという印象さえある。人間、思慮分別がないとなんでもやってのけることができる。一見、勇敢で颯爽としているように見える。が、後先を考えていないだけのことだ。ある日突然、自分の行いの重さに気づき愕然とする。映画の中でもそういった場面はあった。

 とにかくケーキだ。あの映画でビリーはまだ大人未満の若者として描かれていた。その象徴がケーキだったのかもしれない。映画としての出来は正直、そうたいしたものではないと思う。そう思いつつ、なんとなく見てしまう映画でもある。
「あの映画でビリーは生き残ったことになっていたわ」
「あれは嘘だろう。義経がジンギスカンだったとか」
「基本的には同じことね」
 彼女は話しながらスコーフィールド銃をくるくると回している。
「ほんの百年ちょっと前のことだろう。記録もあれば証言もある。ビリーに生き残ってほしかったというのは、気分としてわからないでもないがまずあり得ない話だね」
「つまりビリーは生き残らなかったってこと」
「ほんとうに生き残ったなんて思ってるんじゃないだろうな」
「生き残ったとしてもかまわないんじゃない。ビリーについての記録なんてあってないようなものなんだもの。ウィリアム・H・ボニーって名前も本名じゃない」
 そうかもしれない。ビリーの史実など、実はあってないようなものなのだ。たとえば21歳で21人を殺した。これも伝説だ。実際に殺したのは9人程度だったというのも、いってみれば推測だ。ビリーの真実はビリーしか知らない。
 すべては想像の産物だ。1881年7月14日にビリーはかつての仲間、パットギャレットに射殺されなかった。もしかすると、ほんとうに老いたビリーはいたのかもしれない。『ヤングガン2』には老いたビリーが登場する。
 彼女はまだスコーフィールド銃を回している。慣れた手つきだ。もしかすると彼女の前世は、荒野のガンマンだったのかもしれない。あるいはビリー・ザ・キッドに会ったことがあるのかもしれない。銃の回転がとまった。そのとき銃口は壁に向けられていた。そこには彼女にだけ見える敵がいるのだろうか。
 彼女はにやりと笑った。

カテゴリ: 映画

テーマ: 映画 - ジャンル: 映画

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Posted on 2009/03/27 Fri. 14:24    TB: 0    CM: 0

機能美という魔力 

 壁一面のモデルガンとエアソフトガンである。コルト、ベレッタ、シグ、ルガー、ワルサー、ブローニング、グロッグ、S&W、M16、西部劇に登場するウィンチェスター、その他諸々の見たこともない銃たち。珍しいところでは、切りつめたライフルのような格好をしたランダル銃まである。
 ここは女性の部屋だ。女性のガンマニアというのは、いったいどのくらいいるのだろう。かなり珍しいのではないかと思う。少なくともぼくの周りには、彼女ひとりしかいない。しかし、男女を問わず彼女ほど銃器に詳しい人間に、これまであったことがない。
 銃は殺人のための道具だ。血なまぐさい道具と女性という取り合わせは、やや不謹慎な言い方だが、どこかセクシーな感じがする。彼女が銃をこよなく愛するのは、あくまでも趣味である。
 また、彼女は穏やかである。だが、ひとたびことがあれば、過激な行動に出ることを、知人はみんな知っている。勤め先の酒宴で、無理にビールを注がせようとした上司がいた。彼女はグラスに注ぐべきビールを上司の頭に注いだ。一種の武勇伝だ。当然のことながら首になりかけた。が、何をどうしたのか知らないが、今もその会社に勤めている。

 以前、銃のどこがそんなに好きなのかと尋ねたことがある。
 彼女は少し考えてから、
「弾丸を撃ち尽くした自動拳銃の遊底が、開いたまま止まる瞬間かな」
 と、いった。
 浮かんだイメージはベレッタM92とチョウ・ユンファだった。『男たちの挽歌2』のラスト近く、チョウ・ユンファは敵方の用心棒と至近距離で撃ちあう。全弾を撃ち尽くしたベレッタM92は遊底が開いたままの状態だった。
『男たちの挽歌2』という映画のひとつの見どころは、至近距離からの銃撃戦だったという気がする。普通、あれだけ至近距離から撃ちあえば、とても生きていられないと思うが、とにかくふたりは生きている。チョウ・ユンファは遊底が開いたままのベレッタの銃身を床に向け、それで体を支えて懸命に立っている。そんな場面だった。
「つまり機能美ね」
 そのとき彼女の答えに妙に感心したことを覚えている。銃は美しい。なるほどそうかもしれない。が、安易に口にしてはいけないような気もする。それでも、美しいと思う瞬間があるのは確かだ。

 機能美というなら、なにも銃に限ったことではない。兵器全般にいえることだ。たとえば戦車、戦闘用車両、戦闘機、巡洋艦、空母、潜水艦――凶悪な武器には美しさがある。もちろんこういった武器を眺めるときは、武器で勝ち取った平和などないということが念頭になければならない。
 武器であれ、何であれ、人間が長い時間をかけて磨き上げたものには美しさが宿る。人間は破壊のための道具さえ美しく作る。これは人類が持った才能のひとつだろう。だから恐ろしい。

カテゴリ: 未分類

テーマ: どうでもいいこと - ジャンル: その他

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Posted on 2009/03/25 Wed. 22:50    TB: 0    CM: 0

必殺仕事人たちの変貌 

 池波正太郎がテレビシリーズの必殺を嫌っていたというのは本当だろうか。テレビの必殺仕掛人が原作とは全く別物であったということは、原作を読んだ人ならわかると思う。稀代の名優緒形拳が演じた藤枝梅安はこれ以上はないという当たり役だが、原作の藤枝梅安の人物像とは異なる。あれはテレビのためのキャラクターだ。
 原作の藤枝梅安はどっしりとした大男で、緒形拳が演じた藤枝梅安の軽やかさのようなものはなかった。原作のイメージというのなら小林桂樹の演じた藤枝梅安が、もっとも原作のイメージに近かったかもしれない。

 にわかに仕掛人のことなど書きはじめたのは、昨日、『必殺仕事人2009』を見たからだ。テレビの必殺シリーズは時代劇ではない。時代考証など最初から無視することで成立している。時代考証を無視して、時代劇であることを忘れて、一種のSF、パラレルワールドものとして見ることに徹している(笑)。
 これは日本に比較的近い歴史をもつ、別の宇宙に存在する日本の物語だと思えばいい。そう思えば、ありえないような髷の若者が出てきたりしても、納得することができる。
 とにかく、そこまでの手続きを(自分の中で)踏んで、自分を納得させつつ必殺は見ている。我ながら面倒なことだと思う。しかし、そう思って見なければ、必殺シリーズはお笑い番組になる。もちろん、ぼくの中でのことだ。

 本来、仕事にかけるべき相手ではない相手を、仕事にかけたのは、長い必殺シリーズの中でもおそらく初めてではなかったろうか。昨日の『必殺仕事人』のなかでそれがあった。仕事人が仕事を見られ、その相手を殺す。殺人者が目撃者を殺すのである。彼らの職業がなんであるのか思い出させる場面だ。この展開は初めてではなかったかと思う。
 たしかに仕掛人シリーズには藤枝梅安が仕掛けを目撃されるという一話があった。テレビ『必殺シリーズ』のなかでも、三田村邦彦さんが出ていたシリーズの中に、仕事を目撃される話があったように記憶している。
 今回の話についていえば、目撃者も無罪ではない。殺人鬼の母親である。息子の罪を隠すために、罪もない若者を殺した。さすがにジャニーズのアイドルである仕事人たちを、ただの殺人者たちにはできず、目撃者にもそれなりの罪を与えたのか――などと考えたりする。
 もしかすると脚本家は、当初仕事を見られたから殺すという単純な設定を考えていたのかもしれない。本来殺されるべきではない相手を殺すことによって、仕事人がどんな意味でも許される存在ではないということを描こうとしたのかもしれない。仕事人の抱える深い闇を描こうとしたのかもしれない。……完全に考え過ぎだな(笑)。
 いずれにしても、ある意味能天気だった必殺も趣を変えようとしている。これもまあ、時代の変化というものだろうか。

カテゴリ: 時代劇

テーマ: 必殺仕事人2009 - ジャンル: テレビ・ラジオ

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Posted on 2009/03/22 Sun. 00:15    TB: 0    CM: 0

無益な受難 

 彼女は道に外れた行いをしている。不倫の恋の末に母と娘から夫を奪った。単純に言ってしまえばそういうことになる。正当性を主張できるような立場にないことを、彼女はよく理解していた。彼との関係を深く悩んでもいた。
 ただ、彼女の名誉のためにいっておくと、はじまりは彼女の意志ではなかった。彼がまず彼女に惹かれた。やがて、彼女も彼に惹かれた。彼には妻子がいる。彼とつきあうということは、彼の妻子に辛い思いをさせるということだ。彼女にはわかっていた。それでも彼に惹かれて行く心を、彼女は抑えることができなかった。
 彼女と彼は暮らしはじめた。知りあってから二年が過ぎていた。彼は妻子を捨てた。彼にとって彼女との関係は遊びではなかった。彼女との交際が真剣であるだけに、彼の妻子には辛いことだった。

 彼女は異性関係に対して、極めて真面目だった。だから、彼女が妻子ある男性と暮らしはじめたと知人から聞かされたときは信じられなかった。愚かしいと思った。同時に、人間というのはそういうものかと思った。
 以前、『危険な情事』というアメリカ映画があった。男女の色恋をホラータッチで描いた作品だった。この作品を見た、かつて日活ロマンポルノに多数出演した女優さんが、
「わたしたちが二十年前にやっていたことを、いまごろやっている」
 と、インタビューでこたえているのを読み、目から鱗だった。なるほど確かにあれは日活ロマンポルノの乗りだった。
 妻子がいながら、他の女性と軽はずみな行動に走った男だ。とんでもない目にあうのは自業自得だ。裏切られた妻の立場からすれば、
「いっそ殺されればよかったのよ」
 と、いうことになる。
 考えるに、あの男は愚かである。彼の災難は、回避可能な災難だったように思える。思慮分別があれば、包丁を持った鬼の形相のグレン・クローズに追いかけ回されることもなかった。従って、あの物語が成立するためには、あの男が愚かであるということが前提になる。
 問題は愚かな男女がこの世の中には多数いるという点だ。人生にはいくらかの運が混じる。あるいはすべてが運だという人もいる。ぼくにはわからない。が、とにかくいくらかの運があるとしよう。回避不可能な災難は確かにあるように思う。それは運だ。しかし、ある種の賢さで回避できる災難もある。
 映画『危険な情事』の男の災難は、回避可能だったかもしれない。そう思う一方で、こと色恋のことだけは、先行きろくなことがないとわかっていても自分を抑えることは難しいのかもしれないと思ったりする。利口ぶっていても、色恋の前では、人は皆愚か者になる。

 彼女も彼も愚かなことをした。彼女にとって彼との関係はまじめなものだった。しかし、まじめであるだけに残した傷も深かった。そうなるであろうことを、最初からわかっていながら、彼らは自分を抑えることができなかった。
 どんな形であれ、物語の軸に色恋が絡んでくることが多いのは、色恋を絡ませれば、物語の多少の矛盾は乗り越えられるからかもしれない。誰かを好きになるということが、そもそも、大いなる矛盾のようなところがある。人間というのは矛盾だらけの生物だということに、いまさらのように気づいたりする。
 彼女と二人だけであって話をしたことがある。
「怖い」
 と、彼女はいった。
「彼が怖いのか?」
「まさか、そうじゃない。彼は優しいわ」
「じゃあ、いいじゃないか」
「ちっともよくない。幸せだけど幸せじゃない」
 彼女のいいたいことは何となくわかるような気がした。
「そんなものかね」
 ぼくの言い方は少し冷たかったかもしれない。
「いつか罰を受けるような気がする」
「そう思うのか」
「そんな気がする……」
 ぼくは黙った。
 何もいうことがなかった。彼女は自分の幸せのために人を不幸にした。そうなることは、最初からわかっていたはずである。わかっていてもやってしまったのなら、諦めるしかない。彼女も彼もまた、自業自得だ。
 彼の離婚はまだ成立していない。

カテゴリ: 映画

テーマ: 映画関連ネタ - ジャンル: 映画

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Posted on 2009/03/20 Fri. 07:43    TB: 0    CM: 0

正義の拳 

 またバート・ランカスターである。彼の主演でもうひとつ好きな映画がある。『追跡者』という映画である。『ベラクルス』では鋼の悪党を演じたが、この映画では無敵の保安官だ。
 共演者のロバート・ライアンが劇中こんなセリフを言う。
「西部にはときどきあんな男がいる。奴より銃を早く抜ける男でも、奴の前では動けなくなるんだ」
 確かこんなセリフだったと思う。まるで宮本武蔵だ。技術もさることながら、それ以上に気でもって相手を圧倒してしまう。この映画のスタッフは時代劇のファンだったのだろうか。とにかくこの映画でもバート・ランカスターは圧倒的な存在感を持っていた。
 冷徹な法の執行者、あるいは正義の権化のような保安官は、無敵の怪物的存在である。正義のためなら殺人も厭わないという保安官は、ことによると『ベラクルス』の不敵な笑みを絶やさない悪党よりも手強い存在かもしれない。
 この西部劇のつきつけてくテーマは重い。映画が製作されたのは1970年。正統派西部劇はマカロニウエスタンに押され、ワイルドバンチの悪夢の迫力に圧倒されっぱなしだった。そんな中『追跡者』は正統派西部劇の復活を目指したかのように見える。
 しかし、キャスト以外すべてイギリス人というこの西部劇は一味違う。正義のためなら死体の山を築いてもいいのか。そもそも絶対の正義などこの世にあるのか。西部劇としての面白さもある。が、同時に様々なことを考えさせられる作品なのだ。
 クリント・イーストウッドの『許されざる者』に登場するジーン・ハックマン演じる保安官も、あるいは『追跡者』の保安官と同じ系列に属するかもしれない。正義のバッジをつけて無法者を容赦なく蹴り飛ばす冷酷な保安官は、正義というもののある部分を体現しているような気がする。
 正義の拳は殴る者に自信を与えるかもしれない。しかし、その自信が曲者なのかもしれない。自分が暴力をふるっているということをうっかり忘れさせる。正義の拳でも悪の拳でも、殴られる側の痛みは同じだ。必要なのは想像力だ。

カテゴリ: 映画

テーマ: 映画 - ジャンル: 映画

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Posted on 2009/03/18 Wed. 23:16    TB: 0    CM: 0

鳥を食べる 

 名古屋の大須仁王門通りにあるブラジル料理店では、鳥の丸焼きが食べられる。名古屋にはずいぶん行っていないので、今もあるのかどうかわからない。この鳥はかなりうまい。いまもあってほしいと思う店だ。
 ブラジルの人たちが多く集まる店だった。昨今の不況でブラジルの人たちも大変だという。経営も大変なのではないかと心配している。時間があればまた行ってみたいと思っている。
 もうかなり前のことだが、友人とその店で鳥の丸焼きを食べた。
「できれば両手で持って、かぶりつきたいのよね」
 と、彼女は言った。
 眼鏡をかけた小顔の彼女が、鳥を両手で持ってかぶりついている姿を想像してみた。それはそれで絵になるかもしれないと思ったりした。同時に、昔に見た映画をふたつ思いだした。

 まず『殺しが静かにやってくる』だ。人を不愉快にさせるためだけに存在しているとしか思えない映画だった。映画の中で無法者が鳥の丸焼きを両手で持って食べる。うまそうな鳥だったが、無法者は実にまずそうに食べるのである。
 もうひとつ思い出したのが、厳ついバート・ランカスターだった。いまさら書くのも気が引けるが『ベラクルス』は傑作だ。映画の中でバート・ランカスターが演じた黒ずくめのガンマンは、実に品のない男だった。下品と殺伐のチャンピオンのようだった。が、感傷とは無縁の男で、その点では敵役ながら颯爽としていた。
 その映画『ベラクルス』のなかでバート・ランカスターも鳥を食べる。メキシコの貴族のパーティーだったと思う。下品の塊のような無法者たちが、豪華な食事に群がる。バート・ランカスターも鳥の丸焼きを両手で持って貪り食う。そのあまりの下品さを、メキシコの貴族が不愉快な顔で嘲る。
 もちろんその男ジョー・エリン(バート・ランカスター)の心は冷たい鉄塊だ。その程度のことで傷つくほど軟ではない。というか傷つくような心など端から持ち合わせていない。気に入らなければ撃ち殺すだけだ。
 このときバート・ランカスターの友人を演じているゲーリー・クーパー(こちらが主人公なのだが)が、メキシコ貴族をおもちゃの兵隊にたとえて嘲り返す。この場面は大好きである。一種の浪花節だ。心意気が大好きだ。

「どうしたの?」
 彼女にいわれて我に返った。
「いや、別に……」
 多少うろたえ気味にごまかした。
「ほんと――おかしなことを考えて、頭がいっぱいになっているときの顔だったわよ」
 彼女はにやりと笑った。バート・ランカスターの不敵な笑いが重なった。
 ぼくは思わず苦笑した。

カテゴリ: 映画

テーマ: アメリカ映画 - ジャンル: 映画

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Posted on 2009/03/16 Mon. 22:18    TB: 0    CM: 0

少女の思い出 

「ようするに諸行無常なのよ」
 彼女は言った。
「諸行無常ねえ」
 ぼくは答えた。
 彼女は仏教の話をしているのではない。もちろん平家物語でもない。五輪真弓のでデビュー曲『少女』だ。それまで音楽の話をしていたわけではなかったのだが、気がつくとそんな話になっていた。
 この曲はアメリカでレコーディングされた。キャロル・キングも参加した。五輪真弓自身和製キャロル・キングなどと呼ばれたりした。個人的にいえばあのころの五輪真弓は同時代の女性ミュージシャンたち、たとえば荒井由美よりも少し好きだった。
『少女』をきいて「諸行無常」だといった彼女はぼくよりもずっと若い。五輪真弓がデビューした年の三年後に生まれている。誤解のないように書いておくと、彼女は年若い友人であり、決して道に外れた関係ではない(笑)。
「そう、諸行無常よ。歌詞がね、少女ってタイトルからして、儚く脆いイメージがあるじゃない」
「そうかな……」
 当たり前のことだが、少女は永遠に少女のままではいられない。それを言い出せば、おっさんも永遠におっさんではいられない。だが、おっさんでは絵にならない。少女だから積もった白い雪が解けていくのを悲しそうに見ていても絵になるのだ。これがおっさんでは、ただむさくるしいだけである。
 そう考えると、真冬の縁側に少女を座らせた五輪真弓はなかなかどうして、只者ではない。しかも少女はひとりである。それだけでもずいぶんさびしい。さらにかわいい仔犬たちも老いて行き、いつか住みなれた家を離れて、垣根の向こうに行くことさえも知ってしまっている。
「儚さと悲しみのオンパレードよ」
 彼女はそういった。
 たしかにそうかもしれない。五輪真弓は「少女」に託して世の無常を歌いたかったのだろうか。すべては、変化して、消えて行く。無垢な少女は大人の女になる。美しい雪景色も夢のように儚く消える。可愛い仔犬も老いて老犬になる。儚さを強く印象づける言葉が多く使われている。
 言葉に対する感覚が鋭いというのは、こういうことかもしれない。自分のなかにある、ある思いを伝えたいとき、そのイメージから連想される言葉を集めて行く。連想の引出しをたくさん持っている人は、表現者として強いのかもしれない。

 個人的には『恋人よ』ではなく『少女』である。『さよならだけは言わないで』以前の五輪真弓が好きだ。これは好みの問題である。『恋人よ』がだめだと言っているのではない。いくら素晴らしいものでも、ことは表現に関することだ。好みに従うしかない。歌謡曲っぽくなってしまった五輪真弓は好みではない。
 いいわけをしておくと歌謡曲は大好きである。ただ、ぼくのなかで五輪真弓と歌謡曲は重ならない。しかし、大ヒットしたのは『恋人よ』だった。多くの人は、乾いた五輪メロディーよりも、湿度の高い曲調をよしとした。もちろん、湿度の高い曲調も五輪メロディーである。
 硬派だったころの五輪真弓が好きだ。『少女』はもちろん、『落日のテーマ』『ジャングルジム』『煙草のけむり』『ミスター・クラウディ・スカイ』等々である。これらの中で『少女』と同じくらい好きな曲は『落日のテーマ』だ。

カテゴリ: 音楽

テーマ: 雑記 - ジャンル: 日記

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Posted on 2009/03/15 Sun. 22:29    TB: 0    CM: 0

ラストシーンのその先に…… 

 こんな話をしたことがある。
「『俺たちに明日はない』――知ってるだろう」
「知ってるわよ。映画でしょう」
「ボニーとクライドが実在の人物だってことは知ってるよね」
「知ってるわよ」
「二人が射殺された直後の記録映像があるんだ」
 直後の映像というのは、勢いでいってしまった言葉だ。だが、たしかにそんな感じのする映像ではあった。
「それって趣味悪くない」
「もう歴史上の出来事だ。織田信長は虐殺者だが、改革者として持ちあげる人もいる」
「虐殺者だということをわたしは忘れない。成功した人に弱者の気持ちはわからないのよ。自分が勝者だと思っている人は、残酷になれる。ちょっとばかり運がよかったのを、自分の実力だと勘違いするのよ」
「日本の武将の話じゃない、1930年代のアメリカにいたアベックギャングの話だ」
「わかってるわよ」
「映画は見た?」
「見たわ、DVDで――二人が撃たれるところも映っているの」
「まさか、それはない」
「撃たれる寸前、二人は見つめあった」
「映画の話だろう」
 そのときクライドは車の外にいる。ボニーは車の中だ。茂みから鳥が飛び立つ。あの瞬間、二人は自分たちを待ち構えている運命を知る。ほんとうにそんな目をするのだ。二人に向かって発射された弾丸は150発。当たったのは84発だったという。
 ボニーとクライドの最期を再現したという古い映像も見たことがある。それは映画とはまるでちがうものだった。車に向かって、銃を乱射しているだけのようだった。あの通りだったのだとすれば、ボニーは車外にいなかったことになる。
 再現というのはほんとうだろうか。ただ車を撃って見せただけなのかもしれない。映画は映画だ。現実はロマンチックなものではない。二人が射殺された直後の映像はyoutubeで見ることができる。

「あのラストは好きじゃないわ」
「あのラストがあるから名画になったんだろう」
「名画なんてくそくらえよ」
「汚いなあ」
「主人公が死ぬ映画は好きじゃない。しぶとく生き残る物語が好き」
「じゃあ『白昼の死角』なんかいいんじゃないか」
 思わず言ってしまった。どうして『白昼の死角』なんて映画を突然思い出したのだろう。見たことはある。しかし、それほど面白い映画ではなかった。少なくとも『俺たちに明日はない』と比べられる映画ではなかった。
「なに、それ」
 彼女はきょとんとした。
 また、苦笑が漏れた。知らなくても仕方がない。彼女は若い。『白昼の死角』は高木彬光の小説を映画化した作品だった。彼女はおそらく高木彬光の名前も知らないだろうし、当然その作品も読んだことがない。
 映画のラスト、日本を離れる船から、遠ざかって行く港を見つめている男がいる。男は顔を隠している。いよいよ映画が終わる寸前、男は顔を見せる。追いつめられていた主人公だとわかる。
 主人公を演じていたのは夏八木勲さんだった。厳つく不敵な面構えで、いかにもしたたかな悪党の感じが出ていた。遠ざかる港を見つめつつ、にやりと笑う。勝ったのはおれだといわんばかりに。映画そのものよりも、夏八木勲さんのあのラストの不敵な笑いが好きだ。しぶとく生き残る主人公だ。彼女の好みにぴったりではないか。
 しかし、その映画の話はしなかった。映画の話は終わってしまった。話題は音楽に移っていた。音楽の話をしながらも映画のことについて考えていた。様々な映画のラストシーンを思い出していた。『禁じられた遊び』『望郷』『怒りの葡萄』『太陽がいっぱい』『街の灯』『甘い生活』等々。他にもたくさんある。
「ゴッドファーザー」のラストも好きだ。もっともこちらはパート1と2が好きで、3は正直いまいちである。頂点にのぼりつめたマイケルを待ち受けていた孤独を残酷なほどに冷たく描いていた。マイケルは勝利者だが結局は孤独だ。冷えた鉛を舐めたような顔で沈黙している。まるで監督が主人公を罰しているようなラストだった。

「映画が終わるように人生が終わると思っているんだね」
 矢作俊彦の短編小説の登場人物がそんなことを言う。
 人生は映画のように終わらないが、時々こんなことを思うことがある。映画の中で去って行った主人公たちはその後どんな人生を生きたのだろう。そこから先は見た人が作る物語なのかもしれない。彼女の意見に賛成だ。やはり主人公は生き残るほうがいい。

カテゴリ: 映画

テーマ: 雑記 - ジャンル: 日記

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Posted on 2009/03/14 Sat. 01:30    TB: 0    CM: 0

海の見える窓 

海

 想像のなかで、海の見える場所にきている。この光景は暗い想像を喚起する。松本清張の『ゼロの焦点』のラストも海だった。もっともあちらは能登金剛だ。写真の海は能登ではない。

 想像のなかで、こういう風景を眺めているのは、たいてい暗い秘密を持った男女である。不倫旅行だろう。さらに想像を膨らませれば、男は四十代、女は三十代といったところか。泥沼の不倫関係だ。男は破滅の予感に怯え、女は男との破滅をどこかで願っている。
 ふたりが出会ったのは職場だった。おそらく女はパートで来ていたのだろう。彼は家庭にも仕事にも、特に不満を持っていなかった。彼女の場合は、そうではなかった。
 最初は友人を交えてあっていた。職場の仲間と食事に行く。飲みに行くこともあったかもしれない。そんなことを何度か繰り返しているうちに、徐々にふたりの距離は近づいていった。職場でも話すようになり、やがてメールを交換するようになった。
 彼女は職場での悩み事を打ち明けるようになる。もう少したてば、家庭の問題をメールで書き送るようになる。しかし、このときはまだ、具体的ではなく、それとなく匂わせる程度だった。
 彼女は美人というわけではなかったが、ある瞬間になんともいえない色っぽい表情を見せることがあった。彼が不埒な想像をしなかったといえばそれは嘘になる。だが、年齢と、それぞれ家庭持ちであるということを考えれば、ふたりの関係がこれ以上進展することがあってはならなかった。

《相談したいことがある、二人だけで会いたい》
 そんなメールを受け取ったのは、出会ってから半年後だった。戸惑いを覚えた。彼女と二人だけで会うことを、いつも想像していた。いざそれが現実のもになると、尻込みをしていた。度胸がないな。自分を嘲笑った。本当は笑いごとではなかった。
 家庭があった。職場の目もあった。ほとんどの打ち合わせをメールで行った。細心の注意を払って、地元から遠く離れた街で会った。彼女から聞かされたのは夫との関係だった。うまくいっていなかった。
 聴かされたところで、何もできないことはわかっていた。彼女にとってみれば話すことで、いくらか心が軽くなるのだろう。それならそれでいい。暗い表情で話す彼女を見ていると、胸がざわめくような気持ちになった。そういう表情の彼女は、見事なほど色っぽかった。
 二人が男と女の関係になるまでそれほど時間はかからなかった。背徳の関係は、ときに甘美なものだ。彼は目の前にある美酒に酔った。彼女にとって彼との関係は、もっと切実なものだった。彼は気づいていなかった。あるいは気づいていながら、愚かにも無視した。

 この旅行はほとんど彼女が決めたようなものだった。彼は家庭のことや仕事のことなどもあり、断れるものなら断りたかった。それができなかったのは、自棄になった彼女の行動を恐れたからだった。もはや彼女との関係は重荷以外のなにものでもなかった。
 彼女との関係がはじまって一年が過ぎていた。背徳の美酒は酔うのも早いが、冷めるのも早い。酔いがさめれば現実を見つめることになる。彼女はいまも魅力的だったが、家庭や仕事を捨てさせるほどの魅力はなかった。
 彼は終わりについて考えるようになっていた。どんなふうに終わらせればいいのだろう。彼女はさらに先に進もうとしている。彼女との未来には破滅しかない。終わらせるには、相当の犠牲を覚悟しなければならないだろう。妻に知られずに関係を終わらせることはできないかもしれない。知れば、妻は家を出ていくかもしれない。
 ここにきて彼はようやく、自分が遠くに来てしまったことに気づいた。果たして引き返すことは可能だろうか。最近は、彼女との関係をどうやって終わらせるかそればかり考えている。そんな彼の気持ちに反比例するかのように、彼女はより濃密な関係を求めるようになっていた。

 彼女は黙っている。もう一時間も。この旅行は彼女が望んだものだ。もっと喜んでもいいはずだった。彼は窓外に目を向けた。黙っていることが苦しくなっていた。海が見える。海は陽光を反射してきらきらと輝いていた。
「彼を殺してきたわ」
 突然言われたとき、何を言っているのかわからなかった。
「え?」
 少し遅れてききかえした。
「今朝、彼を殺してきたの。もうわたしには帰る場所がない。あなたのところだけ」
 世界からすべての音が消えてしまったようだった。
 彼は窓外を再び見た。海が見えた。
 海が近づいてくるような気がした。

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Posted on 2009/03/11 Wed. 22:05    TB: 0    CM: 0

形と表現 

『POM』という漫画設計支援システムがあるらしい。有名作家と同じコマ割りや構図を利用できるという。このシステムを設計するにあたり、1万ページ以上のマンガをサンプリングしたということだ。
 結果、面白いことがわかった。1ページあたりの平均コマ数がわかったといのだ。有名作家の場合、7.156だったという。少年漫画や少女漫画ではこのコマ数がかなり違う。それなりの形があるということなのだろう。

 テレビの時代劇のカット数は八十数カットだという。数多くテレビ時代劇を撮ってきた監督が、もうかなり前になるが、テレビで話していた。八十数カットというカット数が、一番見やすいのだとその監督はいっていた。
 玄人を感じたのを覚えている。わけのわからない作家論ではなく、きわめて具体的な方法論だ。視聴者にとって一番受け入れられやすい形を考えることは、とても重要なことだと思う。その人は、もとは映画界にいた人らしい。映画が斜陽になり、このまま助監督で終わるのはいやだと思ってテレビ界に移ったという話をそのときにしていた。

 表現というのは形から入る方が入りやすいのかもしれない。何事であれ、難しい理屈に頭を悩ませるよりも、枠をもらった方が、案外楽に表現できるかもしれない。もちろん、それですべてが解決するというものでもないだろう。自分が楽だと思ったことが成果につながるかどうかも、また別の話だ。
 いくら形からは入るといっても、表現のもとになるのは個性だ。同じ服を着ても、ぼくと彼とではちがう。彼が着てさまになる服が、ぼくが着るとなんだか変だということだってある。入れ物よりも、中身が優先するのは不変の真理だ。
 先の漫画設計支援システムから割り出された平均コマ数もあくまでも平均であって、個別に見てみればばらつきは当然あるだろう。7.156/1ページより多くても少なくても、その差異がいってみれば個性だ。存外個性というのは小さなものかもしれない。
 しかし、その小さな差異が手の届かない距離だ。やはり表現することは難しい。ある形を与えられても、それが自分の手になじむかどうかは別の話だ。結局、この世に楽な道はないという当たり前の事実に気づく(笑)。形から入るにしても、自分にあった形に出会えるまで、苦しむしかないのかもしれない。

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Posted on 2009/03/11 Wed. 00:10    TB: 0    CM: 0

沈黙の重み 

 遠藤周作の『沈黙』がマーティン・スコセッシで映画化されるらしい。もっとも好きな遠藤作品だ。見ていないがかなり前に篠田正浩監督も映画化していたはずだ。とにかく、あのマーティン・スコセッシが監督をするということで、大いに期待している。『最後の誘惑』を撮った監督が『沈黙』を撮るのだ。期待しないわけがない。
 いまさらいうまでもないことだが、『最後の誘惑』は人として生きようとする、あるいは生きたいと願うキリストを描いた。無神論者が描いたのではない。マーティン・スコセッシはカトリックの信者さんだったと思う。で、あればこそ、もの凄いことだと思う。もちろんキリスト教関係団体から猛烈な抗議を受けた。
『沈黙』も様々な物議をかもしたはずだ。遠藤周作もカトリックの関係者から抗議を受けたという話を聞いたことがある。遠藤周作もカトリックの信者だったことはいまさらいうまでもないだろう。

「神様は何も言わない。言わなくなって何年にもなる」
 と、いったのは『気分はもう戦争』に登場する黒匕首を使う戦士と呼ばれる日本人だった。
 悲劇を前にして、沈黙している――あるいは沈黙しているように見える神様。神様はなぜ沈黙しているのか。考えると恐ろしい疑問がわいてくる。『沈黙』はその恐ろしい疑問と真正面から対峙し、答えを見つけようとした作品ということがいえるだろうか。答えを見つけようとしているのは、たぶん遠藤周作自身だ。
 いまうっかり、対峙と書いたがそんな生易しいものではない。これは命がけの対決だ。信仰と人間の命がけの格闘を描いている。神様はほんとうにいるのかという、立場によっては恐ろしい疑惑との闘いだ。

 邦画にはすぐれた宗教映画が少ないように思える。すぐれたというのは、常日頃宗教的な生活と無縁に生きている人々――つまり、ぼくのような人のことです――にも、衝撃を与えるような宗教映画ということだ。宗教映画といういいかたは、ある種のジャンルを連想させるから、宗教をテーマにした映画というべきだろうか。
 とにかく、洋画に目を向けると、宗教(あるいは信仰)と人間の身もだえするような葛藤を描いた作品は少なくない。たとえば『最後の誘惑』『奇跡の丘』『黒水仙(韓国映画ではない)』、ベルイマンの一連の作品、それから『薔薇の名前』も加えていいかもしれない。そうだ、『尼僧ヨアンナ』もあった。
 神を肯定するとか否定するとか、そんなレベルではない。第一、肯定と否定、信じるか信じないか、そんな単純なレベルで人間は割り切れない。ある時は信じ、ある時は疑い、否定し、そしてまた信じる。心は複雑怪奇だ。信仰を持っている人も持っていない人も、そのあたりは基本的に変わらないと思う。
 このあたりのことは、やはり長年宗教と血みどろの葛藤を繰り返し、いまにたどり着いた人々でなければわからない感覚なのかもしれない。そういえば『ゴッドファーザーⅢ』は、あのバチカンに食い込んでいく。

 たぶん日本人はほんとうに宗教とか思想が苦手なのだろう。もっと下世話な、手を伸ばせば届く範囲にあるもの、あるいは手で触れられる具体的なもののほうがすんなりと理解できる人たちなのかもしれない。それはそれでいいように思う。少なくとも宗教裁判は絶対にやれそうにない人たちだ(笑)。
 そんな、ある意味長閑な日本人のなかにあって、珍しく『沈黙』は宗教との深い葛藤を描いている。信仰と人間の深淵を描いている。どんな映画になるのか、今から楽しみだ。ほんとにわくわくして待っている。

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Posted on 2009/03/08 Sun. 21:19    TB: 0    CM: 0

映像の品格 

 まるで乱反射のようなJ・エルロイの文体に触れて、オリバー・ストーンの『ナチュラル・ボーン・キラーズ』を思い出した。この文体は、あの映画の編集の忙しさとどこかにいている。猥雑さも似ているように思う。ちなみいま読んでいるエルロイ作品は『アメリカン・デス・トリップ』だ。
 オリバー・ストーンの作品で一番好きなのは『サルバドル』だった。これは『プラトーン』よりも好きである。そのあとはどんどん嫌いになって行った。『ナチュラル・ボーン・キラーズ』は見てしまったことを後悔した。

 映画の中で最も気になる技術は編集だ。場面と場面をどうつないでいるのか、大変興味がある。ぼくはホームビデオの編集もしたことのない映像素人だ。だから専門的なことはわからない。ただ気になるというだけだ。
 押井守の実写映画『トーキング・ヘッド』に登場する編集の名人は、
「なんでも二度見なくちゃならない」
 とつぶやきつつ編集作業を行っていた。
 映像素人なのでよくわからないのだが、編集はかなり大変な作業らしい。『地獄の黙示録』の膨大なフィルムの編集にコッポラは苦労したという。黒澤明はその日撮影した分をどんどん編集をしていくのだという。個人的な好みをいえば、気を衒うような編集は好きではない。

 やたらと、
「品格、品格」
 と口走るのも好きではない(笑)。
 そもそも自分は品格と無縁の人間だ。しかし、あえて品格という言葉を使えば、映画の品格は編集で決まるような気がする。これはもちろん、素人の浅はかな考えである(笑)。ただ、いまの映画よりも、昔の映画の方が、あえて言えば品格はあったような気がする。
 いま映画『勇気ある追跡』を見ている。ジョン・ウェイン主演の西部劇だ。アメリカ先住民やアフリカ系アメリカ人の扱いには問題があるかもしれない。アジア人を馬鹿にしている――ように見える場面もある。そういった点を差し引いても、たまにこういった作品を見ると、狂騒的ではなく、長閑でいいなあと思う。
 驚いたことにこの作品には、あのロバート・デュバルも悪役で出ている。

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Posted on 2009/03/07 Sat. 20:23    TB: 0    CM: 0

言葉のアクション 

 アーロン・エッカート主演の『サンキュースモーキング』という映画は、ロビイストの活動を描いている。ロビイストがどういう存在で、具体的に何をするのか。気になる方は調べてみてください。

 ロビイストのイメージについて司馬遼太郎氏は、「日本でいうなら羽織ゴロ」というようなことを書いていた。『アメリカ素描』のなかにあったと記憶している。司馬遼太郎氏がそれを書いたころは、今よりもなおロビイストという存在は日本人にとって遠かったのだろう。
「羽織ゴロ」というのは明治時代の言葉らしい。けっこうな身なりをしていていもやることはゴロツキと変わらないということで、そう呼ばれたということだ。断わっておくがこのあたりのことは大雑把に書いている。こちらの方も、気になる方は調べてみてください(笑)。
 日本にも少数ながらロビイストが存在する。「羽織ゴロ」というのはいくらなんでもイメージが悪すぎる。ロビイストというのは決してそんないかがわしい存在ではない。立派なプロの仕事だ。
 もちろん天下の司馬遼太郎氏だ。ロビイストと「羽織ゴロ」が同じであるなどとは断じていわない。日本ではまだそういう負のイメージがあるということをいったのだ。アメリカにおけるその地位の高さもきちんと書いている。

『サンキュースモーキング』の主人公は煙草の研究所の広報である。いまの時代には、誰がどう考えても分が悪い仕事だ。詳しいストーリーは書かない。とにかく彼は天才的な話術で危機を乗り越えていく。目的を達成していく。窮地にいたるが、それも話術で乗り切る。
 これはロビイストの映画ではない。ディベートの映画だ。言葉のアクション映画だ。弾丸の代わりに言葉が飛び交う。銃撃戦ではなく論戦でハラハラドキドキさせる。喋るということは面白いのだ。残念ながら邦画にこういう映画はない。
 話すということに対する考え方のちがいだろう。話芸としての喋りではない。ときに相手を感動させ、納得させ、誑かし、傷つけ、追いつめる。あらゆる局面に対応できる喋りのテクニックだ。この映画はそれを徹底的に描いている。
 こういう映画がつくられる文化的な背景があるからこそ、あの「Yes,we,can」が生まれた。豊な言葉と表現力を持つ政治家が生まれた。日本の政治家の言葉を豊かにしたいのなら、「沈黙は金」などと黙りこまないことかもしれない。
 思ったことをはっきりと相手に伝える。説得すべきは説得する。説得するためのテクニックも学ぶ。そこから始めなければならないのかもしれない。

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Posted on 2009/03/06 Fri. 21:53    TB: 0    CM: 0

比類なき天才 

 手塚治虫のことを考える。理由はいくつかある。たとえば『鉄腕アトム』の「地上最大のロボット」をリメイクした浦沢直樹の『プルートゥ』がある。それからあの『MW』が映画化されるという。先日はNHKで手塚治虫の仕事ぶりを見た。
 それぞれについていえば、まさか『MW』が映画化されるなどとは思ってもみなかった。これも時代か。『プルートゥ』は文句なく面白い。物語はいよいよ佳境に入ってきた。こうして見ると手塚作品の多くが、いまの時代の衣装を着せても十分通用するということがわかる。
 シェークスピアだ。どんな時代の衣装を着せても、たとえ外国の装いをさせても、物語の持っている力が圧倒的であるために優れた物語として再生産可能だ。極めて優れた作品というのは簡単に時代を超えてしまうのだとわかる。

 NHKで見た手塚治虫の仕事ぶりには唖然とさせられた。複数の作品を同時に描いていた。多作の秘密がわかった気がした。あの膨大な作品はあんなふうにして生まれたのかと、半ば呆れ、半ば感動してテレビを眺めていた。
 いったい、どういう頭の構造だったのだろう。ただ多作だったというだけではない。膨大な作品のほとんどすべてが、いま読んでも面白いというのは、もう奇跡としかいいようがない。天才というのはほんとうに存在するのだ。
 日本に生まれてよかったと思うことはすくなくないが、その中には黒澤明と宮崎駿、そして手塚治虫と同じ時代を生きることができたということも含まれる。生きて、仕事をしている天才というのは、そうそうお目にかかれるものではない。

 しかし、手塚治虫という人は凄まじい努力の人でもあったらしい。手塚治虫のアシスタントを20年務めたという福元一義氏のインタビューはインターネットで読むことができる。福元氏によれば天才手塚治虫は、仕事の合間に勉強していたのではなかったという。勉強の間に仕事をしていたのだという。
 あの天才にして、そこまで努力をしていた。才能などと気安くいっていはいけない。才能だけでは長持ちしないと、映画監督の山田洋二さんが著作のなかで書いていた。天才と呼ばれる人の多くは、同時に努力の人でもあるのだろう。あるいはひとつのことを、骨までしゃぶりつくすほどに愛せる人だ。
 もっとも桁外れの才能があったればこそ、努力を持続させることができたのだろうし、愛し続けることもできたのだろう。何事でも好きだけではなかなか続けられない。金になるかならないか、そんな問題ではない。
 たとえばぼくがマンガ家を目指している若者だったとしよう。ぼくはマンガを描きつづける。やがてアイデアに詰まる。描けなくなる。そのうち描くことが嫌になる。やめてしまう。もし才能があれば、描きつづけることだろう。描くこと自体が楽しいのだ。途中で投げ出すはずがない。
 本当に好きなことなら、金になろうがなるまいがやり続ける。しかし、本当に好きなことというのがくせものなのだ。持続するというのは、才能があってはじめて可能なことかもしれない。才能という言葉がいやみなら《向いている》といってもいい。何事にも向き不向きはあると思う。

 手塚治虫はまちがいなく比類のない天才だった。いまのぼくの希望は誰か手塚作品を小説としてリメイクしてくれないかということだ。作品は……色々ありすぎてひとつに絞ることが難しい(笑)。だから書かない。

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Posted on 2009/03/06 Fri. 02:34    TB: 0    CM: 0

『夜市』と携帯 

 日本ホラー小説大賞を受賞した『夜市』という作品を読んだ。もちろん大変面白い小説だった。ただ、売り文句にあるような「日本ホラー小説大賞史上、最高傑作」かどうかは微妙だと思う。
 芸術作品の良し悪しは、結局個人の好みだ。面白いという人がいてさほどでもないと思う人がいて、成り立っている。とにかく「史上最高傑作」ではないと思うが十分すぎるほど面白かった。
 個人的な好みをいえば、因縁話とは無縁の恐怖譚がすきである。その意味でもこの作品は好きだ。グロテスクな部分もあるのだが、そのグロテスクは『千と千尋の神隠し』に似ていて、恐ろしいが美しい。
 もうずいぶん前に世に出た小説だから、いまさらぼくがあれこれいうこともないのだろうが、感想文を書くくらいはいいでしょう(笑)。『夜市』はホラーではなくファンタジーだ。それがぼくの感想だ。

 物語は主人公(かどうかわからないが、主要な登場人物である彼)と一緒に『夜市』に行く彼女の視点から語られる。『夜市』とはなにか、彼女の視点を通して描かれるわけだ。もしこれだけなら、この物語はただの妖怪風物詩だ。悪くすると『死霊の盆踊り』になりかねない。
 物語に厚みを加えているのは、『夜市』に取り憑かれた人生を語る登場人物たちだ。彼らは自分の物語をこれでもかと語る。得たものと失ったものについて語り、心の傷について語る。しかしそうなると、なんだかずっと説明を受けているような気になってくる。場面ではなく説明であるという点が少しつらい。
 ただこれも、三人称の物語のなかに、一人称の物語を組み入れたのだといわれれば、そうかもしれないと思う。これはもう印象の問題かもしれない。ぼくは物語というよりも、説明であるという印象を強く持った。そういうことだ。
 あくまでも個人的な感想だが、『夜市』だけを読むと少しだけ物足りなさを感じる。それは先に書いた理由による。『夜市』にはもうひとつ『風の古道』という作品が収録されている。どちらが好きかといわれれば、実は後者の方が好きなくらいだ。
 ぼくにとって『夜市』というのは『風の古道』とふたつでひとつの作品だ。このふたつの作品は地続きだ。まったく別の物語ではあるが、ふたつは同じ物語世界に属している。ふたつを読んで初めて完結する物語だと思っている。

 周期的に力が強まるという『夜市』の設定は、S・キングの『ペットセメタリー』の死者が蘇るという墓地の設定に似ていると感じた。登場人物の感情を、心の傷にからめて饒舌に語らせるあたりも、S・キングの方法に似ている感じがする。
 まあ小説だから、登場人物の感情を豊かに語らせるのは当たり前といえば当たり前、それをやらなかったのはD・ハメットくらいだ(笑)。内面をこれでもかと描けるのは、小説最強の武器だ。
 キングといったが、その源流をたどればレイ・ブラッドベリに行きつくのかもしれない。ホラーといわれるがキングの作品は基本的にファンタジーの一種だと思って読んでいる。色々と書いたが、『夜市』と『風の古道』が面白い作品であることは間違いない。読んで損はない作品だ。

 それからもうひとつ――この作品は携帯でダウンロードをして読んだ。携帯読書というのは実に便利なものだ。いまさらこんなことに気づくというのは、どこかずれているのだろう。しかし、いつでもどこでも読めるというのは凄いものだと思う。便利というのは、意地に勝るものだとつくづく思った。

カテゴリ: 読書

テーマ: 読書 - ジャンル: 小説・文学

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Posted on 2009/03/03 Tue. 22:53    TB: 0    CM: 2

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