Gitanの趣味

ひたすら趣味の道を走っています(ニヤリ)

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友情の重み 

 友情を扱った物語はたくさんある。というかほとんどの物語は、友情と愛情に支えられている。友情も愛情も信じないという主人公もいるが、否定するにしても、世の中に友情や愛情があるのだと信じる人が多くいればこそだ。
 ギャング映画などでは最も信頼している人間が裏切り者になる。友だちが突如殺し屋に変身して背後から撃ったりする。そういう場面を、映画で見たことがある。『フェイク』という映画だ。アル・パチーノは仲間の耳の後ろをいきなり撃つ。
 組織というのは恐ろしい。組織の論理は人間の素朴な感情をこえる。友情や愛情は、露骨にいえば、人間同士の安保条約のようなものかもしれない。しかしより大きなものの損得勘定は、あっさりと個人の思いなどこえてしまう。

 美輪明宏さんは、夫婦でも親子でも親戚でも友達でも、腹六分のつきあいがいいといっている。なるほどと思う。激烈な人生を生き抜いてきた人の言葉だけに納得させられる。「君子の交わりは淡き水の如し」ともいう。さっぱりしていることが大切なのだろう。裏切られて泣かないための賢人の知恵だ。

 いまでもときどきテレビに出てくるが、あの大臣のへろへろ会見――あれを見ていると複雑な気持ちになる。あれは泥酔していたとぼくは思っている。しかし、御本人は体調不良と薬と最後に酒が少しというような発言をしていた。どちらの話を信じるかは、これはもう好みの問題だと思う。
 悪意あるマスコミが煽りたてたから話が大きくなったという見方をする人もいる。そうかもしれない。そうでないかもしれない。ただひとつ確かなことは、大臣の周りには誰もとめる人がいなかったということだ。
 マスコミの悪意、野党の思惑、陰謀と政局等々――諸説が入り乱れているが(笑)、つまりとめる人がいなかったということにつきる。そこに一種のいたましさを感じる。あの大臣は孤独だったのかもしれない。本人が気づいていたかどうかは別にしても。
 あのひどい状態が、会見の場でいきなりはじまったとも思えない。それ以前からあの状態であったはずだ。友人を同行したことの良し悪しはさておくにしても、友人はどうして彼を止めなかったのか。さらにいえば職務としてあの大臣を止めなければならない立場の人もいたはずである。
 しかし、誰も止めなかった。大臣は世界に向けて泥酔している(と思われても仕方のない)姿を晒すことになった。あの大臣のことを思う人は周りにいなかったということなのか。それを思うとつらい気がする。

 友情を描いた物語で印象に残っている映画がある。『真夜中のカーボーイ』だ。あのふたりの葛藤は凄かった。のたうちまわるようにして社会の底辺で生きるふたりの男。騙して、裏切って、それでもぎりぎりのところで友情が生まれる。ラストのカリフォルニアの陽射しがまぶしかった。
 君子の交わりに最も遠い所にいた二人だが、泣けることは泣ける。こういう友情もあるのだと思った。
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カテゴリ: 日記

テーマ: 雑記 - ジャンル: 日記

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Posted on 2009/02/28 Sat. 19:37    TB: 0    CM: 0

笑いながら、破滅への道 

 最近、怯えている。いやほんと。なにに怯えているかといえば、人類滅亡にである。冗談ではない。かなり本気だ。別に怪しげな新興宗教の教祖に唆されたわけではない。普通に生活をしていてそれを感じる。異常気象ではない。気候変動だ。詳しくは書かないが、かつてなかった異変が身近におきている。ほんとうに大丈夫なのか。不安である。
 それと連動して『アース』というドキュメンタリーを、遅ればせながら観てしまった。これも関係している。たぶん関係していると思う。地球は本当に大丈夫なのだろうか。大丈夫なわけがない。
 環境破壊などといわれると、遠いどこかの話のように実は感じていた。確かにおかしな天気は続いているが、しかしそれもいつかおさまるだろうと、どこかでたかをくくっていた。どうもそうではないらしい。

 いつか人類は滅びるのか。答えはわかっている。かつて滅びなかった文明も種も存在しない。あの恐竜でさえ滅びた。栄枯盛衰は世の常だ。だからといって泰然自若として破滅に突き進むこともない。破滅を回避するためにじたばたするのが正しい姿勢だと思う。
 忘れてならないことは、滅亡とか破壊とかいうが、地球が滅びるわけでも破壊されるわけでもないということだ。人類に地球を破壊するような力はない――といったのはマイケル・クライトンだ。ぼくはこの説を支持する。
 人類が勝手に多くの尊い生命を道連れに滅びるだけのことである。どれほどか時がたてば、地球はまた新たな生命の体系を生み出すだろう。地球上に生命が誕生してからいままでどれだけの滅亡と再生が繰り返されたのか。だから滅びてもまあそう悲観することはないのかもしれない。

 とにかく滅亡を回避するために、明日からできることをしよう。栄枯盛衰は世の常だなどと悟りすましている必要はない。じたばたするのだ。そう心に決めた。危機は自分たちが思っている以上に、そばにあるのかもしれない。人類の欲望と自制心の一騎打ちだ。人類というのは、もちろんぼくのことだ。

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テーマ: 雑記 - ジャンル: 日記

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Posted on 2009/02/26 Thu. 22:55    TB: 0    CM: 0

食うか、食わないか 

 池波正太郎さんの仕掛人シリーズにはご飯に卵をかけて食べる場面がよく出てくる。もっともこれは印象の問題で、実際にはそれほどではないのかもしれない。個人的に卵かけごはんが大好きだから、強く印象に残っただけかもしれない。
 記憶に残っている卵かけご飯を食べる場面がある。梅安さんの無二の親友、彦次郎さんが天井裏に隠れている。その下で梅安さんが炊き立ての飯に卵をかけて食べる。梅安さんは彦次郎さんが天井裏に潜んでいることをもちろん知っている。
 自分だけうまいものを食べて申し訳ないと梅安さんはいう。気にしなくてもいいと彦次郎さんは答える。このとき、梅安さんは命を狙われている。彦次郎さんは親友を守るために天井裏で握り飯を食べている。
 この場面がとても好きだ。いまさらいうまでもないことだがこれに限らず、池波作品にはいい感じの食事場面がたくさんある。たとえば浅蜊と大根の汁をご飯にかけて食べる場面なんかも大好きだ。
 汁をご飯にかけるで思い出したのが、池波時代劇には、やたらとご飯に汁をかけて食べる場面が出てくるように思う。江戸時代はいまとちがっていつでも温かいご飯を食べることができなかった。そこで熱い汁を冷ご飯にかけて食べたのだろうか。

 グロテスクな食事場面で印象に残っているのは映画『グットフェローズ』だ。視覚に訴えるグロテスクさではなく、感覚的なグロテスクだ。彼らは死体を掘り返す。かつて自分たちが殺した相手だ。自分たちの殺しがばれそうになり、死体をどこかに移そうということになったのだ。かなり時間がたっている。おそらく腐乱している。
 死体を掘り返しつつ、
「ここは手羽だな」
 とかいって、けたたましく笑うワイズガイズ。
 この手の笑いが似合うのはもちろんジョー・ペシである(笑)。彼らは笑いながら死体を掘り返す。腐乱死体の凄まじい匂いが画面から漂ってきそうだ。グロテスクなものを見て笑えるという神経が、彼らの尋常ではない心のありようを余すところなく描いている。
 その後に、食事の場面が来る。夜死体を掘り返し、明けて朝食。朝食をとるのは三人だ。演じていたのは、ロバート・デ・ニーロ、ジョー・ペシ、レイ・リオッタだった。気の弱いギャングを演じたレイ・リオッタだけがうかない顔をしていた。腐乱死体を掘り起こし、それから飯を食べるという場面のつながりが、なんともグロテスクだった。

『カムイ伝』にはカエルを食べる場面がある。強さを求めて忍者の世界に入ったカムイ。その修業中、一種のサバイバル訓練が行われる。カムイはそこでバッタかイナゴを餌にしてカエルを捕まえて食べる。その前に、すでにかたつむりを食べている。エスカルゴではない、そのへんにいるカタツムリだ。
 忍者はよくカエルを食べる。『半蔵の門』に登場する飛び加藤という老忍者もカエルを食べる。服部半蔵との激闘の最中、《フッ!》と吹き矢でカエルを殺し、岩の上で日干しにして食べる。ひと手間かけているだけこちらの方がいくらかましかもしれない。
 飛び加藤は実在の人物なのだろうか。ネットには飛び加藤に関する様々な情報がある。『半蔵の門』では凄みのある老忍者として描かれていた。もちろんこれは劇画的な脚色が施されている。果たして信頼すべき資料に飛び加藤の記録が残っているだろうか。

 食べる場面を上手に描ける作家(漫画家、映画監督も含む)は一流だと思う。不思議なもので食に関する蘊蓄を語るマンガで、美味しそうな食事場面を見たことがない。それはそれでいい。あれは食と食の背景にある何事かを伝えることが目的で、読者にうまい(美味そうだではない)と感じさせることが目的ではないからだ。そう思っている。
 素晴らしい食事の場面を描いた物語は無数にある。

カテゴリ: 日記

テーマ: 雑記 - ジャンル: 日記

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Posted on 2009/02/25 Wed. 21:34    TB: 0    CM: 0

ギャンブルの香り 

 ギャンブルはしない。酒を飲まないことと同じだ。しかし、ギャンブルを扱った作品は大好きだ。酒を扱った作品が好きなのと同じことである。その先に破滅しかないとわかっていても、立ち止ることができない人間の姿には感動を覚える。人間は美しい部分ばかりでできているわけではない。
「人は決して口にできないようなことを考えたりする」
 というセリフを読んだことがある。マンガだった。『家裁の人』だったろうか。ぼくなどずいぶん人に言えないことを考えたりするが、まあそれはいい。ようするにそういうことだ。
 美徳も悪徳も、実人生では絶対に体験できないようなことを体験させてくれるのが物語の良さだ。もちろん、よくできた物語ということが前提になる。人が絵空事を手放すことは、たぶん絶対にない。

 ギャンブルを扱った物語で、ぼくのなかのベストワンはやはり『麻雀放浪記』だ。とにかくこの小説は面白い。麻雀牌の握り方さえ知らないがそれでも楽しめる。文句なく面白い小説というのは確かに存在するのだ。
 実生活でギャンブルに縁がないから面白さがわからないということは絶対にない。それをいえば、拳銃を撃ったことがないからアクション映画が面白くないということになる。あるいは宇宙に行ったことがないから『スタートレック』が楽しくないか。もちろんそんなことはない。同じことだ。
「もはやお忘れであろう」
 というあの書き出しから一気に物語に引き込まれていく。牌活字というらしいが、麻雀の牌がそのまま出てくる。その並びが何を意味するかわからなくても、物語そのものの力でぐいぐい引っ張って行く。すぐれた物語は想像力を喚起する。体験したことがなくても想像力が補ってくれるのだ。
 阿佐田哲也が描いたものは博打に取り憑かれた男たちの地獄巡りだ。物語の最後、出目徳の死体を裸に剥いて、どぶ川に放り込む男たち。
「死んだ奴は負けで、負けた奴は裸になる」
 というわかりやすいルールは、実にハードボイルドでかっこいい。
 他にもギャンブルを扱った名作は数多ある。映画では『ハスラー』がある。永遠のナンバー2『シンシナティ・キッド』がある。最後にどんでん返しであっといわせる『テキサスの五人の仲間』も、ギャンブル映画の仲間に加えていいだろう。

 ギャンブルは恐ろしい。酒と同じで、ひとつ間違えれば身を滅ぼす。アクション映画の銃撃戦はどんなに近くで眺めても流れ弾に当たることはない。だから楽しめる。ギャンブルも同じだ。フィクションだから楽しめるのである。

カテゴリ: 日記

テーマ: 雑記 - ジャンル: 日記

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Posted on 2009/02/23 Mon. 20:49    TB: 0    CM: 0

酒にまつわるエトセトラ 

 最初にはっきりさせておこう。ぼくは酒を飲まない。というか飲めない。酒飲みの気持ちはわからない。だから酒について書くことはそもそも無理な話だ。しかし、酒を扱った作品ならいくつか知っている。

 音楽でいえば『酒と泪と男と女』という曲がある。実はあまり好きではない。この曲が好きだという人はぼくのまわりにもたくさんいる。ぼくがこの曲を好きになりきれないのは、酒がまるで駄目で、酒飲みの気持ちがわからないからかもしれない。名前は忘れたが女性のシャンソン歌手の方がこの曲を歌っていた。それはかなり良かった。
『ひとり酔い』という曲。これは好きだ。柳ジョージさんの曲で、和田アキ子さんも歌っていた。柳ジョージと和田アキ子さんが一緒に歌っているところをテレビで見たことがある。その時、『雨に泣いてる』も歌った。スタジオに雨を降らせる演出をしていた。
 上々颱風の曲にはそのものずばり『酔いどれ』という曲がある。みなみらんぼうさんの曲で『酔いどれ女の流れ唄』というのもある。酒にまつわる曲はどうしてこんなに多いのだろう。

 たとえば映画では『酒とバラの日々』がある。酒におぼれる夫婦の命がけの日々だ。夫婦そろって酒におぼれて行く。最初はバラの日々だがやがて地獄の日々に変わる。酒にまつわる物語は、地獄に転げ落ちていくような作品が多いように思う。
『失われた週末』という作品も凄い。一人の男の酒との格闘が描かれている。こういう作品を見ていると、
「酒というものはこんなに恐ろしいんですよ」
 と言っているように見え、その実、酒の魅力(魔力)も同時に描いているように思える。恐ろしいものは魅力的でもあるのだ。
『リオ・ブラボー』にはアル中のガンマンが登場する。彼はトランペットのメロディを聴いて手の震えが止まる。『駅馬車』にはアル中の医者が登場する。愛すべき大酒のみというのはほんとうに存在するのだろうか。いないと思う。

 中島ラモさんの『今夜、すべてのバーで』は大好きな作品だ。人生には常に不安がつきまとう。
「約束のない世界に生きている」
 と浅井慎平さんがテレビでいっていた。本当にそうだと思う。もし酒が飲めれば、ぼくも飲んでいたかもしれない。

 酒には人を狂わせる負の面がある。それは確かだ。マイナス面は思っているよりもはるかに大きいのかもしれない。はたして人は酒とうまくやっていけるのか。やっていけないような気がする。だから禁酒法をいまの時代になどという気はない。必要悪だ。

カテゴリ: 未分類

テーマ: 雑記 - ジャンル: 日記

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Posted on 2009/02/22 Sun. 22:28    TB: 0    CM: 0

あしたのジョーにもなれなくて 

 と、歌ったのはあの三上寛である。といっても知らない人の方がいまや多いのかもしれない。ちなみにタイトルは『夢は夜ひらく』である。あの藤圭子さんの名曲だが、そこに三上流の歌詞をつけている。どんな歌詞か? たぶんネットで読むことができると思う。興味のある方は調べてみてください。
 さて、『あしたのジョー』はリアルタイムで読んだ世代だ。記念すべき第一回を読んだことがある。語り継がれる名作になるとは思いもしなかった。つまらなかったというのではもちろんない。子供にはわからなかっただけだ。はじめて読んだとき、これは喧嘩が強い少年の物語かと思った。事実、喧嘩が強い少年の物語でもあるのだが。

 矢吹ジョーと激闘の末死んで行ったボクサー力石徹の葬儀は実際に行われた。架空の人物の葬儀が行われたというのは時代もあったと思う。が、やはり作品にそれだけの影響力があったのだと思いたい。たんなる酔狂だけではここまでやらないという気がする。
 葬儀委員長は、これも有名だが、寺山修司だった。寺山修司は『ボクサー』という映画も撮っている。主演は何かとお騒がせな清水健太郎だった。もちろん当時は何かとお騒がせではなくちょっと影のあるアイドル風の若者だった。菅原文太さんも出演していた。寺山修司の映画にしてはわかりやすい映画だった。

 ボクシングを題材にした物語は多い。『あしたのジョー』の逆を行った『がんばれ元気』という健気なボクシング少年のマンガあった。
 映画では『傷だらけの栄光』という名作がある。ポール・ニューマン主演だった。若き日のスティーブ・マックイーンがチョイ役ででていた。それから『ロッキー』がある。『レイジング・ブル』がある。名作がけっこう多い。
 ボクサーを扱った物語はいったいどれくらいあるのだろう。ボクシングというスポーツを題材にとるのは、栄光と挫折がドラマチックだからだろうか。ハングリースポーツと呼ばれるだけあって、たいていは貧しい少年(青年や中年の場合もあるが)が主人公だ。
 自分の拳だけで、持たざる者が栄光と富を勝ち取るというのは、成功しても失敗しても劇的になるに決まっている。たしかになかには狙いすぎてるかな、と思わせる作品もあるにはある。しかしまあこういったものは個人の好みだ。

 異色のボクシングマンガ(劇画)で思い出すのは『青の戦士』だ。原作狩撫麻礼、作画谷口ジローというこの作品に登場する主人公の名前は礼桂。これで《レゲ》と読む。金や栄光のために闘うのではないという点で、この主人公は異様だった。
 礼桂は常に酒を飲んでリングに上がる。理由は相手にハンデをくれてやるためだ。自分の異常な強さを知っている礼桂は、うっかり連勝してチャンピオンになり、試合数を減らされることをなによりも恐れている。なんとも不可解な精神構造の持ち主だ。
 つまり礼桂は、我々凡人には理解できない哲学的で難解な理由で闘い続けている。礼桂はとにかく喋らない。その寡黙さは映画『さそり』の主人公なみだ。全編を通して二言くらいしか喋らない。記憶にあるセリフは、
「酒がたりねえ」
 紆余曲折があり、礼桂は世界チャンピオンを倒すことになる。下から上へというボクシングものの骨格はここでも健在だ。しかし、礼桂はチャンピオンを倒してもチャンピオンベルトを巻くことはない。物語のラスト、礼桂はひとりアフリカに向かう。
 個人的には大好きな作品だ。ぼくにとっては大傑作だが、人の評価は知らない。不思議な作品であることはまちがいない。ボクシングものでありながら主人公が戦う理由をハングリーにも愛情にも求めなかったという点で、強く印象に残っている。

カテゴリ: マンガ

テーマ: マンガ - ジャンル: アニメ・コミック

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Posted on 2009/02/21 Sat. 20:37    TB: 0    CM: 0

泣ける小説『傷だらけの天使~魔都に天使のハンマーを~』 

 矢作俊彦が『傷だらけの天使』のその後の物語を書いたと知ったときは目からウロコだった。この手があったかと思わず膝を叩いた。読みたい読みたいとうわごとのように呟いていたが、最近まで読む機会がなかった。
 この作品を本屋で見つけたときの感じは、
「あ!」 
 が最初で、次が、
「まさか」
 で、最後に
「やった!」
 が、きた。
 まさかあの矢作俊彦がという驚きと同時に、あの矢作俊彦ならきっと外さないという感じだった。と、いうか矢作俊彦だからテレビシリーズの原案者市川森一氏も、木暮修のその後の物語を許したのだろうと思った。なにせシナリオの最初の一行は、
「ハトが糞をして飛び去る」
 確かそうだったと思う。

 いまの人はどれくらいあの物語を知っているのだろう。ある年齢から上の者で、『傷だらけの天使』を、肯定的な意味でも否定的な意味でも、知らないという人は少ないように思う。記憶に強烈に残る物語だった。
 それでも最初の放送のときは、ずいぶん視聴率が悪かったという話を聞いたことがある。しかも「有害番組」と呼ばれたりしたようだ。それもまあ仕方のないことかと思う。なんといわれようと傑作であることは揺るがない。
 いまはすっかり『相棒』の右京さんだが、あのころの水谷豊は、
「あにき~」
 の、亨だった。中学中退。知性も教養もないチンピラ。ショーケン(萩原健一)に、小突かれながらもついて行く健気な相棒だったのだ。そうか、あのころから水谷豊は相棒の片方だったのか。

 読まれた方ならわかると思うが、この作品の視点はいそがしく移動する。どういうことか。小説は視点を途中で変えないということがいわれている。一人称(ぼくとかわたしで語られる小説だ)の場合は変えようもないし、三人称で語られる物語であっても視点はひとりのもの、ということだ。
 ところがこの小説『傷だらけの天使・魔都に天使のハンマーを』では、この視点が目まぐるしく移動する。主人公木暮修から別の登場人物の視点に移り、それからまた修に戻る。こういったことが頻繁に繰り返される。通常こういう場合は視点が乱れているといわれる。意識的にやっているに決まっている。
 以前、矢作俊彦がこんなことをいっていた。
「映画の視点は目まぐるしく移動する」
 正確にこの通りであったかどうかは、自信がないが、ほぼまちがいないはずだ。この作品の母体が映像作品であったことを考慮して、このやり方を選んだのだろう。トレヴェニアンの『夢果つる街』もこんな感じだったと記憶している。まちがっていたらごめんなさいだ。

 ぐちゃぐちゃ書くのはもうやめよう。この作品は泣ける。それだけでいい。テレビシリーズのラスト、修は風邪で死んだ亨の死体をゴミ捨て場に捨てる。本当にゴミのように。だが散々泣いた後だ。捨てるときも泣いていたのかもしれない。そういえば、『麻雀放浪記』のラストは、出目徳の死体をどぶに捨てたのではなかったか。
『傷だらけの天使』を読んで泣くというのは正しくおじさんの感傷だと思う。他の誰が書いてもこうはいかない。矢作俊彦が書いてくれたから、泣けるのだと思う。こういった話のツボを心得ている。
 未読の方、どうぞ読んでみてください。

カテゴリ: 読書

テーマ: 読書 - ジャンル: 小説・文学

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Posted on 2009/02/19 Thu. 21:09    TB: 0    CM: 0

小さな車 

 好きな車は小さな車である。
 たとえば1200CCから1600CCくらいの小型車だ。
 外国の車でいえば、イタリア製の小型車とかが好きだ。もしくはフランスの小型車もいい。
 現実に乗ってきた車のなかに外国の車は一台もない。小型車ばかりだったわけでもない。それでも好みは小型の車だ。
 学生時代に乗っていた車は、2万のカローラ。それから6万のシビック。7万のトヨタマークⅡ。そんなあたりだ。
 社会人になってからは、少し値段が上がって17万のレビン。25万のセリカ。他にもあるがまあそんなところだ。
 ある時期までずっと安物の中古車を乗り継いできた。ここまで安いのには秘密がある。秘密というほど大げさでもないか(笑)。
 ようするに知りあいを通して買っていたから、こんな値段で買えたというだけのことだ。決してわけありの車ではなかった。安ものだったがよく走ってもくれた。
 学生時代に7万のトヨタで名古屋から広島まで走ったことがある。無事に行って、無事に戻ってきた。

 車は嫌いではなかったが、さりとて特別に金をかけるような気にもなれなかった。
 新車を買ったのは二十代の終わりだった。どうしても欲しい車が現れたのだ。
 いすずのジェミニだった。ある年齢以上の方なら2台のジェミニが並走するCMを覚えているだろう。二台がぴったりと寄り添いながらアクロバット走行を見せる。
 CMが気に入って買ったわけではなかった。
 小型の4ドアセダンが好きなのである。いまでも好きだが、もうどこの自動車会社も、あんな形の車は造ってくれそうにない。
 買ったのはジェミニのイルムシャーだった。もちろん4ドアセダンだ。1600のDOHC、5MT。ロータスもあり、どちらにするか迷ったが、結局イルムシャーにした。
 この車には13年間乗った。手放すときは、複雑だった。
 まだ手元に置いておきたいという気持ちはあった。同時にもういいかなという気持ちもあった。普段の足に使わなくても、置いておくだけ置いておこうかと一瞬考えたが、まあいいだろうと思った。大衆車なのだ。変に執着することはない。
 ジェミニを手放した年、三菱のコルトを手に入れた。

『舵を取り風上に向く者』という小説がある。
 矢作俊彦さんの自動車をテーマにした短編集だ。
 このなかにコルチナロータスを扱った一編があった。その話がとても好きだ。
 小型車ではないがフェラーリを扱った作品もあり、これもいい。

 ガソリンで走る車には、あと何年くらい乗れるのだろう。
 ガソリン車がなくなってもさびしいとは思わない。けっこう電気自動車には期待を持っている。期待というよりも、好奇心だ。
 早く実用化してほしいと思っている。もちろん価格も含めて――。

カテゴリ: 日記

テーマ: 日記 - ジャンル: 日記

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Posted on 2009/02/19 Thu. 00:04    TB: 0    CM: 0

 『甘い生活』について知っている二、三の事柄 

 フェリーニの『甘い生活』という映画が好きである。
 映画の冒頭、ヘリコプターにつるされて飛ぶキリスト像が鮮烈だ。
 どうしてあんな場面を思いついたのだろう。フェリーニの頭の中を覗いてみたい。いや、ほんと。

 永島慎二という漫画家をいまどれだけの人が知っているのわからないが、彼の作品『フーテン』のなかにも『甘い生活』と題した一話があったはずだ。
 こちらの『甘い生活』も最後は海に行くところで終わっていた。
 登場人物の一人、東大出というインテリのフーテンさん(黒メガネをかけていた)が、
「太古、海はどれほど美しかったのか」
 と、つぶやく場面があったように記憶しているが、これは別の話のなかにあったエピソードかもしれない。

 永島慎二という人の話をもう少し続けると、はじめて読んだこの人の作品は『漫画家残酷物語』だった。
 群像劇とでもいうのだろうか、様々な漫画家の生き方が描かれている。
 たいていは売れない、あるいは売れることを拒否している漫画家の物語だ。
 たとえば――「夕焼け赤とんぼ」だったか、そんなタイトルの漫画を描いた漫画家がいる。
 結局、認められることもなく彼は自殺する。が、死にきれない。重傷を負い、大きな後遺症を抱え、ホームレスのような暮らしをしている。
 ある日、かつて自分の描いた「夕焼け赤とんぼ」が話題になっていることを知る。素晴らしい作品だが作者がわからないのだという。
 彼は驚く。ついに作品が日の目を見たのだ。しかしそのとき彼は、ひどい生活のせいで健康を害している。それが自分の作品だと、世の中に向かって叫ぶだけの体力も時間も残されていない。
「あれはおれの作品だ……」
 彼は血を吐き、空をつかむようにして死んでいく。
 確かこんな話だったと思う。そういえば最後は雪も降っていた。
 記憶を頼りに書いているので間違っているかもしれないが、大筋ではまちがっていないと思う。
 とにかく、なんとも重く救いのない話だった。
『漫画家残酷物語』というのは、こういった暗い話が多かったように思う。
 それに比べれば『フーテン』は悲惨な話もあるにはあるが、全体的に明るい感じだ。
 残酷なものと距離を置いて、さめて眺めているようなところがあり、こちらの方が好きである。

 映画『甘い生活』は、退廃で身動きとれないような男の物語だ。ごらんになった方も多いと思う。そこにあるのはけだるい破滅の予感だ。
 退廃的というのは字面だけでもずいぶん魅力的なものだ。退廃的に生きるとなれば、さらに優美だろう。ただし、確実に身を滅ぼす。
 健全は清らかだが退屈だ。

カテゴリ: 映画

テーマ: 昔の映画 - ジャンル: 映画

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Posted on 2009/02/17 Tue. 20:46    TB: 0    CM: 0

キイナと不思議 

『キイナ~不可能犯罪捜査官~』という番組はようするに、『トリック』と『ガリレオ』を足して二で割り、そこに『一休さん』のテイストをふりかけたようだと思う。
 正直、あまり面白いとも思えない。
 しかし、まあここがテレビのいいところで、この程度――というと言葉が過ぎるかもしれないが――とにかくこの程度の番組でもとりあえず暇つぶしにはなる。何もすることがないときとか、何もしたくないとき、ぼんやりと眺めているのにちょうどいい程度の作品だ。
 テレビにはこういったお手頃感のある番組がある。番組名はいわないが、重宝している。使い方は色々だ。
 視聴率というのはあまりあてにできないのかもしれない。見ているという事実は把握できるかもしれないが、作品の出来がいいから見ているいとは限らない。
 映画だとこうはいかない。映画館で見る映画はもちろんだが、テレビ――有料放送などでできっちり流される映画、それも見事な作品は、暇つぶしで見ることなどできない。居住いを正し、集中して見ることになる。
 たかが絵空事と侮ってはいけない。見事な絵空事は我を忘れさせる。
 いったい映画とテレはなにがちがうのだろう。

 キイナは世の中の不思議を解きつつ、事件も解決していくようだ。
 ようだというのは、普段気を入れてみていないもので、どうもよくわからない。
「世に不思議なし」
 は、京極堂さんの決め台詞だ。
 キイナもこの立場に立っている。
 ほんとうに世の中に不思議はないのだろうか。
 ここから先はオーラを見ることで有名なあの人のセリフではないが、おとぎ話だと思って読んでいただければ結構である。

 会社員の某が書類をなくした。男性である。重要な書類で、どこを探しても見つからない。ほとほと困り果てた彼は、失せものを見つけ出してくれることで有名なある人に相談にいった。
 このある人というのは、いわゆる拝み屋さんではない。どういう人かは書かないが、とにかく色々な不思議を行う人である。
 相談を受けた人物は、彼の話をまずきいた。じっくりと。書類を最後にみたのはいつだったのか、それはどこだったのか、そしてなくしたと気づいたのはいつだったのか、等々――黙って座ればぴたりと当たる、彼が最初に想像していたものとはまるでちがった。人から、
「よく当たるよ」
 とは聞いていたが、それがどんなふうに行われるのか、詳しい話は聞いていなかったのだ。
 彼から詳細な状況を聞いたあと、その人はいよいよ探す作業に入った。
 それがどんなものであったのかは知らない。彼から聞いていない。
 すべてが終わった後、その人はある方角をいった。その方角の低い場所に探している書類はあると。それだけである。大まかな話でどうとでも取れる話だった。
 彼は拍子抜けしたような気持ちになった。ほんとうにこれでいいのかと思ったらしい。
 しかし、それ以上何かをいってくれるわけでもない。仕方なく彼は自宅に戻り、いわれた方角の下の方を探した。見つからなかった。正直、諦めかけらしい。
 ところが三日後、探していた書類は突然出てきた。
 会社で使っているデスクの一番下の引き出しのなかにそれはあった。
 下の方にあるといったその人の言葉は、その点については正しかった。
 問題は方角である。家から見てその方角は、見てもらった人のいった方角ではなかった。
 しかし、会社があるその場所は、見てもらった人のいった方角が地名に入っていた。
 本当に驚いたと彼はいっていた。
 会社のデスクは真っ先に探した場所だった。引出しはそれこそ何度も探していた。そのとき、どうして見つからなかったのか、いくら考えてみてもわからないという。
「ほんとうに不思議だった。見つかったというよりも、その場所に引き寄せられたやってきたみたいに感じられた」
 彼はそんなことをいっていた。
 書類を探してくれた人物にはその種の話が山ほどあるらしい。
 この話は以前にも書いた記憶がある。ブログだったかSNSだったか。まあいいか。

 この話をどう思うか、それは人それぞれだ。信じてもいいし、信じなくてもいい。あるいは自分が納得できる理由を見つけてもかまわない。不思議を不思議のまま受け止めるということもありだ。
 そうだ京極堂さんはこうも言っている。
「世はすべて不思議なり」

カテゴリ: テレビドラマ

テーマ: キイナ不可能犯罪捜査官 - ジャンル: テレビ・ラジオ

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Posted on 2009/02/16 Mon. 15:53    TB: 0    CM: 0

銭ゲバと天才バカボン 

 アニメの『天才バカボン』に『銭ゲバ』が登場したことがある。
 こんなことを書くとまさかと思われるかもしれないが本当だ。
 絶対に本当かと問われると自信が少し揺らぐ。なにせずいぶん前のことだ。
 登場したということを前提にして話をすすめる。
 銭ゲバが登場してバカボンのパパと言葉を交わしたのは、ほんの一瞬のことだった。セリフはもちろん、
「世の中は銭ずら」
 というあれだ。
 セリフがあったというその一点で、機動戦士ガンダムに一瞬だけ登場する鉄人28号よりも重く扱われていた(笑)。まあいいか、いずれにしても鉄人28号は言葉を話せない。

 いま松山ケンイチの『銭ゲバ』を見ている。これは原作のマンガと似て非なるものだ。
 テレビドラマとしての『銭ゲバ』は、出来の悪い『太陽がいっぱい』のようだ。
 テレビドラマの『銭ゲバ』に決定的に欠けているものはグロテスクだと思う。主演の松山ケンイチがハンサムだからグロテスクな感じが出ないのではない。ドラマは原作にあった毒を消している、あるいは薄めている。もちろん意図的だろう。
 わかりきっているからいわないというのは、この作品に限っていえばよくないと思う。わかりきっていることを、これでもかとどぎつく描くのが、この原作の真骨頂だった。
 本当はみんな思っているくせに口にしないことを、露悪的にいってのけることが原作の背骨を支えていた。
 しかし、それをすれば放送できないこともわかっている。
「世の中は銭ずら」
 というセリフは、我らがフーテンの寅さんなら、
「それをいっちゃあ、おしめえだよ」
 と、切り返すだろう。
 しかし、一面の真実でもある。

 原作が「少年マガジン」に連載されたのが1970年。大阪万博のあった年だ。
 もちろん生まれていた。発表時にこの原作は読んでいる。一度読んで、読む気をなくした。最後まで読み切ったのはずいぶん後になってからだった。十代の終わりだったと思う。
 当時のジョージ秋山作品にはもうひとつ『アシュラ』というとんでもないやつがいる。これも第一話を読んで、読む気をなくした。いやそれどころか、しばらく夜毎の夢にあのアシュラが登場してうなされた。
「少年マガジン」に連載された『アシュラ』は結局完結させることができなかったはずだ。
 この物語が完結するのは、ずっとあとのことで、連載されたのは「少年ジャンプ」ではなかったろうか。
 あるいは記憶まちがいかもしれないが、とにかく一話読みきりの形で完結していたはずだ。あのアシュラが、最後出家して終わりになる。
 その頃、『放浪雲』はすでに連載がはじまっていたと思う。これは一種のしゃれで描いているのかと少し引いて読んでいた。『アシュラ』の完結編を読んで、ほんとうにジョージ秋山は変わったのかもしれないと思った。

 はじめて読んだ、ジョージ秋山作品は『パットマンX』だった。一応ギャグマンガなのだろうが、ぼくはあまり笑えなかった。
 それから『デロリンマン』を読んだ。はっきりいえばこのマンガは嫌いである。
 知る人は知っていると思うがわりと好きなのが『ザ・ムーン』という作品である。巨大ロボットもので、ラストは巨大なロボットが涙を流す場面だったと記憶している。ネットに落ちている情報によればこの巨大ロボットは『デロリンマン』にも登場するらしい。嫌いだから再読もしていないのだ。
 他にも『日本列島蝦蟇蛙』というのもあった。美保純がヒロインを演じた『ピンクのカーテン』も原作はジョージ秋山だ。
 最近ではあの『葉隠』もマンガにしていたはずだ。衆道の心得について大いに語るくだりはけっこう笑える。

『銭ゲバ』がドラマになるまでに39年の歳月が流れている。
 ここ何年かで牙をむくような資本主義の一面を見せつけられ、金のありがたみがわかったというよりも、金に振り回されてへとへとになり、金と果敢に闘う男の姿を描いてみたくなったのだろうか。
 果敢に闘うとい書いたが、結局それは負け戦だ。
 絶対的貧困というテーマは、いまの時代にこそ生きると考えたのか。
 しかし、貧困ならずっと昔からあった。救いのない貧困がこの世から消えたことなど一度もない。
 遠い外国のことではない。身近にもあった。絶対数の問題と、明日は今日よりも明るいと信じる脳天気さが眼を曇らせていただけのことだと思う。
 テレビの『銭ゲバ』のできについてはまあ言わない。好みの問題だ。
 不満を言い出せばきりがない。
 それでも最終回までつきあってみようと思っている。
 そういえば昔、
「同情するなら金をくれ」
 と叫んだ女の子もいた。彼女も銭ゲバの一族だ。
 ネタバレになるといけないのでラストについては書かないが、原作のラストは――好きではないが、泣ける。
 テレビはあのラストを描けるのだろうか。

カテゴリ: テレビドラマ

テーマ: 銭ゲバ - ジャンル: テレビ・ラジオ

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Posted on 2009/02/15 Sun. 13:45    TB: 0    CM: 0

テクノロジーと表現 

 中国語の表現が簡潔なのは「竹簡」に書いていたからだという話を以前読んだことがある。司馬遼太郎さんのエッセイか何かだったと思う。竹や木の板のようなものをがしゃがしゃとつないだものに書いていたのでは、冗漫にかけば持ち運びもおぼつかなくなる。だから、自然と表現が簡潔になったというのである。嘘か本当か知らないが、ありそうな話だと思う。

 紙の発明は、表現を劇的に変えたのかもしれない。同じ理由で印刷機の発明も表現を変えたのだろう。だからパソコン(あるいは携帯)で書いて、携帯やパソコンで読む文章に違和感を覚えても仕方がないのかもしれない。

 表現がテクノロジーに縛られているといった人がいる。日々ネット上に流される膨大な文字情報(これもそのひとつだが)について、批判した文章も読んだことがある。個人的には表現できる場があるのなら表現すればいいと思っている。マナーは必要であるにしても、いいたいことはいった方がいい。あわよくばそれを金に換えようという色気を持つ人がいてもちっともかまわない。思惑外れは人の常だ。ケータイ小説のブームも去りつつあるようだし……。

 いまさらいうまでもないことだが、紙に書く表現と、こうしてネット上に表示される表現が同じであるはずがない。紙という物理的な制約がある媒体に書く表現と、限界はあるにしても紙とは問題にならない広がりを持つデジタル世界に文字を記録することが同じであるはずがない。物理的な制約がなくなれば、あるいは制約が変われば、それに応じた表現が自然にできてくるのだろう。

 さらなる自由を得たのかそれとも野放しになったのかは微妙だが、これも時代の流れだ。

 ただそうは思いつつも、この先、幸田文さんとか大岡昇平さんとか中上健二さんとか宮沢賢治とか……もうああいう人たちは出てこないのかと思うと、少しさびしい気はする。

カテゴリ: 日記

テーマ: 日記というか、雑記というか… - ジャンル: 日記

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Posted on 2009/02/13 Fri. 10:40    TB: 0    CM: 0

決闘――拳銃VSライフル 

 拳銃とライフルはどちらが強いか?

 こんなものは問題にもならない。ライフルが強いに決まっている。元自衛官だった作家浅田次郎氏が何かで書いていたが、拳銃というのは感覚的にナイフに近い代物らしい。ライフルと戦っては絶対に勝ち目がない。そんなことは考えるまでもないというのが、現実を知っている人の意見ということになる。第二次世界大戦に参加した人から直に聞いた話でも、拳銃というのはとにかく当たらないものだという。

 拳銃とライフルはどちらが強いか――という意見の衝突を、では撃ちあってどちらが強いか確かめてみようとしたのが映画『荒野の用心棒』である。

 あの偉大な黒澤明の『用心棒』のパクリであることはいまさらいうまでもないことだが、それでも『荒野の用心棒』はそれなりに面白かった。確かに盗作だが、あの監督、セルジオ・レオーネでなければ、あそこまで面白くはならなかっただろうという気もする。名作をリメイクして大恥をかく例はいくらでもある。作品名は書かない。

 それはさておき、拳銃対ライフルの戦いだ。さすがに正々堂々と戦わせることはなかった。これは正解。やはりまともに撃ちあったのでは、どんなに映画的な嘘を並べてみても非現実的だと考えたのかもしれない。

 そこで、拳銃とライフル――弾丸を込めて撃ちあうのである。これもばかばかしいといえばばかばかしいのだが、それなりに面白かった。

 が、これも無理がある。このとき主人公が使う拳銃はコルトピースメーカーだ。詳しい説明は省くが、この拳銃は弾丸の装填に手間がかかる。一発づつしか弾丸を装填することができないのである。弾丸の装填に関していえば、同時代のS&Wやレミントンは弾倉ごと弾丸を交換するなど、弾丸の装填に手間がかからなかった。で、あるにもかかわらず、コルトピースメーカーがアメリカ軍の正式採用となったのは、構造が単純で故障しにくく、弾丸もウィンチェスターライフルと互換性があったからだという。開拓時代の西部は今と違い、弾丸の入手も困難だったのだ。

 とにかく、弾丸を込めて撃つとい行為自体が、この拳銃にとっては弱点であり、こういう形で闘うこと自体、自ら不利を買って出たようなものである。
 
 まあ、いいだろう。たかが映画だ。勝ったのはもちろん拳銃だった。

カテゴリ: 映画

テーマ: 映画 - ジャンル: 映画

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Posted on 2009/02/12 Thu. 21:52    TB: 0    CM: 0

ありふれた自分として 

「覚えておいてくれ。王や英雄ではなく、一人の愚かしい男として」

 というのは映画『ベオウルフ』のなかのセリフだ。自分自身で英雄譚を作り上げ、魔物と情交してまで王になった男が、最後に長く不仲だった妃にいう言葉だ。この場面がとても好きだ。

 妃はすべてを知っているのだ。映画を見た方ならおわかりだと思うが、ベオウルフは彼女にとって二度目の夫だ。前夫も竜を退治した英雄だった。しかし、同じように魔物と情交した。彼女は二度裏切られたというわけだ。ベオウルフと妃の不仲には納得できる理由がある。

 富と栄光を手に入れたとき、人がどんな気持ちになるのか、富も栄光も手にしたことがないぼくにはわからないが、無敵の英雄ではなく当たり前の男として覚えておいてもらいたいという気持ちは、理屈ではなくわかる気がする。

 いいところも悪いところもすべてが自分だということか。歳をとると架空の自分ではなく、現実に、今ここにこうして生きている自分が好きになるのだろう。現実の自分は英雄に程遠い男だが、虚構の自分ではなく、美徳も欠点もある普通の男としての自分を覚えておいてほしいというセリフは、「I love you」よりもかなり効く。

 この映画は実はあまり期待もせずに見たのだがけっこう面白かった。

 この映画に限らず、洋画を見ているとつくづく思うのがシナリオの面白さだ。言葉の違いか文化の違いかわからないが、邦画のシナリオは少し負けているかもしれない。

カテゴリ: 映画

テーマ: 映画感想 - ジャンル: 映画

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Posted on 2009/02/11 Wed. 23:34    TB: 0    CM: 0

ゆれてる、ゆれてる…… 

 というのは、あの長谷川きよしのさんの名曲のタイトルである。傑作アルバム『遠く離れたお前に』のなかに収録されているこの曲がとても好きだ。

 やるせない夜は、悪酔いするね……

 とはじまるこの曲の詞を書いたのは、長谷川きよしさんのかつてのパートナーだった津島玲さんである。

 小奇麗に飾った、この部屋も一人じゃ惨めなものさ……

 と続く。昨日、「ぼくしか知らない泣ける歌」というタイトルで書いた。長谷川きよしという人の曲は泣ける歌とは少し違う。癒しではなく衝撃を与えたいとは御本人が仰っていることだが、確かに長谷川きよしという人の曲は、巷にあふれている数多の曲とはまるでちがう印象がある。

 その理由をあの卓越したギターテクニックによるものだと長く思っていた。もちろんそれもあるのだろうが、それ以上に津島玲さんの生み出す言葉の世界が大きかったのだと、不覚にも最近になってようやく気付いた。津島玲の《言葉力》について、最近まであまり考えたことがなかった。

 ずいぶん前のことだがとあるラジオ番組で長谷川きよし+ダウンタウンブギウギバンドのライブがあった。ちょうどアルバム『街角』が出た少し後のころだったような気がする。平野融さんのベースが冴えわたっていたころだ。

 そのライブで長谷川きよしさんと宇崎竜童さんが曲を交換した。宇崎・阿木コンビはあの名曲『砂地獄』を、長谷川・津島コンビは『何年かに一度は』という曲を提供した。阿木曜子の詞はメロディーがつく言葉としての定型をきっちりと備えていたように思う。一方の津島玲の詞は、ぼくがイメージする歌詞とはやや違っていた。どういえばいいのか――言ってみればそれは歌詞というよりも短編小説のような世界だ。何年かに一度、穏やかな気もちで早朝の街を歩く男(女?)の心象風景が歌われている。

 たとえば『私のWeekend』という曲がある。恋人にも秘密のペントハウスで、週末に星を眺めている女性の歌だった。『影』という曲は捨てた女のしたたかさに打ちのめされる男の物語だった。そして、このブログのタイトルに使った『ゆれてる、ゆれてる』は、別れてしまった恋人を思い、酒ちびちびやっている美しい――多分美しい女性を歌った曲である。どれも非常に特殊で、聴けば聴くほど胸にじわりとくる。

 言葉がなければメロディーが浮かばないと、長谷川きよしさんは以前インタビューで話していた。あの特異なメロディーは津島玲の書いた詞によるところが大きかったのだと今更のように気づいた次第だ。

 津島玲さんは特殊だ。後にも先にも、あんな詞を書く作詞家をぼくは知らない。最近になってようやく彼女が描いた詞の世界の凄さがわかりはじめた。

 しかし、いまごろになって津島玲さんの凄さに気づくなんて、やっぱりぼくは二流だな……

カテゴリ: 長谷川きよし

テーマ: 音楽 - ジャンル: 音楽

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Posted on 2009/02/10 Tue. 23:13    TB: 0    CM: 4

ぼくしか知らない泣ける歌 

 ときどき見るテレビ番組に「誰も知らない泣ける歌」とかいうタイトルの番組がある。まあありがちな内容だが、それはかまわない。どうせテレビだ(笑)。

 それはともなく、音楽に限らずお涙ものの作品は嫌いである。頭から泣かせてやろうと構えている作品――音楽、映画、ドラマ等々――を見ていると、へそ曲がりのぼくは白けてしまう。作り手の魂胆が透けて見えるような作品は、どこぞの首相ではないが、いかにもさもしい。

 ちなみにこの「さもしい」は形容詞である。意味は、「品性が下劣なさま」「心根が卑しい」「意地汚い」あるいは、「見苦しい」「みすぼらしい」というところだ。

 それはさておき、個人的に泣ける歌がある。

「さよなら」という歌である。断わっておくがオフコースではない。NSP(ニュー・サディスティック・ピンク)というグループの曲だ。どんな曲かといえば、特に説明することもないありふれた男女の別れを歌った曲だ。歌だけ聞けば、泣けるというほどではない。

 しかし、これがある場面とセットになると、泣けてくるのだ。もちろん個人的な話ですよ。どんな場面か? これはこのブログでも書いたが、もう一度。

 かなり前のことだが『追跡』というドラマがあった。あの市川崑が演出したシリーズである。市川崑といえば『木枯し紋次郎』が有名だが、これはその後のシリーズだった。名作であり傑作だったと個人的には思っているが、たしか唐十郎が演出した一話が放送禁止になり、そのことに抗議した主演の中村敦夫その他が制作・出演をボイコットして打ち切りになったといういわくつきの作品である。だから――なのかどうか知らないが――再放送は一度もされていないのではないか。機会があれば見てみたい作品である。ちなみにwikiには、このドラマがどんな経緯で打ち切りになったのか載っているので興味のある方はどうぞ。

 とにかくそのドラマのなかで使われたNSPの「さよなら」が「ぼくしか知らない泣ける歌」というわけだ。

 どんな場面か。横須賀――だったと思う――の長い坂道を、リヤカーに棺桶を乗せた青年が降りてくる。その棺桶のなかに入っているのは青年の姉だ。二人だけの姉と弟。姉は売春婦だ。姉の真実を知ったとき弟は姉を殺すのである。リヤカーを引く青年の後ろを、べスパ(スクーターですね)をおして主人公の新聞記者、中村敦夫がついていく。この時点では、まだ姉を殺したのがその青年であることは明らかにされていない。したがって、場面は――長い坂道、リヤカーを引いた青年、リヤカーに乗っている棺桶、その中に入っているはずの女性の死体、そしてべスパをおした主人公――と、それだけである。しかしそこに「さよなら」のメロディーが重なると、なぜかわからないが一気に涙腺が緩むというわけだ。

 感動というやつは理屈ではないのかもしれない。どうして感動したのか説明したくなるのが人間の性だが、直感と同じで感動も瞬間的に感じるものなのかもしれない。人間の脳はコンピュータとはまるでちがうものだということがよくわかる。

カテゴリ: 音楽

テーマ: 音楽 - ジャンル: 音楽

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Posted on 2009/02/09 Mon. 23:56    TB: 0    CM: 2

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