Gitanの趣味

ひたすら趣味の道を走っています(ニヤリ)

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愚直な正義 

 愚直に正義を説く人物で思い出すのは「男たちの旅路」の主人公、吉岡司令補だ。元特攻隊員という経歴を持つ警備会社の社員だ。山田太一脚本のこのドラマを覚えている人も多いと思う。いまや右京さんでおなじみの水谷豊さんが、お調子者で吉岡司令補にいつも説教される若者の役で出ていた。ちなみに第四部では水谷豊さんからなにかとお騒がせの清水健太郎にかわった。このころはまだお騒がせではない。

 吉岡司令補は鶴田浩二さんだった。このドラマは当時の鶴田浩二さんのイメージを生かして作られたドラマだったのだろう。鋼のような信念を持った主人公、あるいは強烈な頑固者といったところだ。再放送しもらいたいドラマのひとつだ。いま土曜ワイド劇場(だったと思う)に「炎の警備隊長・五十嵐杜夫」という小林稔侍さん主演のドラマがあるが、あの主人公は、おそらく吉岡司令補をモデルにしているのではないかと、勝手に想像している。

「おれは若いやつがきらいだ」とか「仕事をはみ出せ」とか「人に迷惑をかけてもいいんじゃないか」とか、とにかく一言一言が妙に熱を持っていて、まことに正論なのだが、こういった人物が自分の上司だったらと考えると、ちょっとつらいかも、と思える人物だった。しかし、ドラマで見る限りは、まことに小気味のいい人物だった。それに何よりも頼りになる。

 印象に残るエピソードはいくつかあるが、そのなかにひとつ、第四部だったと思うが、主人公たちが勤務する警備会社の役員が酒(だったと思う)の横流しに手をかすというものがあった。当時は若者だった清水健太郎がそのことを社長に直訴すると、あろうことか会社ぐるみで行っていた不正であるということがわかる。社長の態度は冷淡で、清水健太郎ふんする若者は、現実の壁にはじき返されてしまう結果となる。

 そのあと、犯罪を指揮した役員が清水健太郎に、「世の中はこんなものだ」と大人(だと本人は思っている)の論理をいって聞かせる。戦後の食糧難のころ、法律を守って餓死した裁判官の実話を持ち出し、「法律を守っては生きていけない時代もあった。だから守らなくてもいい法律もあるんだ」というまことに手前勝手なを論理を展開する。この役員はアンナパパ、梅宮辰夫さんである。

 若者を傷つけてしまったと思った警備会社の社長は吉岡司令補に事情を話してやってくれと頼む。吉岡司令補が清水健太郎と妹(岸本加世子)のところにやってきて話し始める。まず静かに社長の話と、会社の経営状態が苦しいことを話す。だからこういったスキャンダルを公にしたくないのだと。清水健太郎は「それが大人の社会だから」とわかったような顔で頷く。

「ここまでが社長の話だ。ここからがわたしの話だ」

 ここからが吉岡司令補の真骨頂である。「こんなことを許してはいけない。こんなことが多すぎる。悪いことを伝えに行った君たちが世間知らずのように扱われるようなことがあってはいけない。悪いことは悪いんだ」と正義について彼は語る。ただ語るのではない。熱く語るのである。敗戦後の食糧難の時代、法律を守っていては生きていけなかったと清水健太郎が梅宮さんからきいた話をすると、「そんなことはぎりぎりの状況ではじめていえることだ」とばっさり切り捨てる。そして、清水健太郎を連れて社長のところに行くのである。なぜいくか。もちろん、梅宮辰夫さんの犯罪行為を糾弾するためである。

 現実はどんなものか――南こうせつさんの歌に「正義はまた空振りさ」という歌詞があった(岡本おさみさんの作詞だったと思う)。その通りだと思う。これぞ正義の味方という登場人物がテレビに出なくなって久しい。アニメの世界でも某かの屈折を持った主人公ばかりで、ストレートに正義のためだと言い切る主人公は絶えて久しい。たしかに正義というのは厄介な場合もある。周りの見えない熱血漢に困る場合もあるにはある。さらにいえば正義は相対的なものだ。今日の正義が明日の正義であるという保証はない。しかし、絶対の正義がほしいと思う気持ちはたしかにある。淀んだ現実を切り取ってきたようなドラマばかりだとうっかり厭世観に襲われたりする。やはり一年に一度くらいは、愚直なまでに正義を語る主人公を見たくなる。
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カテゴリ: テレビドラマ

テーマ: ドラマ - ジャンル: テレビ・ラジオ

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Posted on 2008/04/18 Fri. 17:34    TB: 0    CM: 0

異色な座頭市 

そんなわけで『座頭市牢破り』である。昨日、「座頭市」シリーズのなかに山本薩夫監督の作品があると書いた。少し山本薩夫監督についてふれるとこの人は日本共産党のシンパだった。自身も共産党員だったという話があるが詳しくは知らない。ちなみに俳優の山本三兄弟はこの人の甥である。熱烈な共産党支持者だったが、戦前は戦意高揚映画なども撮っていて、これについては戦後自己批判しているというような話もどこかで読んだことがある。のちにキムタク主演で大ヒットしたテレビドラマ『華麗なる一族』の映画版(といってこちらのほうが先なのだが)を監督したのもこの人だった。『白い巨塔』もこの人の作品だ。『戦争と人間』『皇帝のいない八月』『ああ、野麦峠』もこの人の作品である。山本薩夫の手による『座頭市牢破り』は、たしかに異色作だった。

この作品は勝プロの第一回作品だった。そういうこともあり、山本薩夫監督を招いて「座頭市」を撮るというのはこれまでにない座頭市ものにしたいという勝新太郎の意欲のあらわれだったのだろう。作品については話のつじつまが合わないなどいろいろ批判もあったようだが、個人的にはきらいな作品ではなかった。ちなみに個人的なベストワンは第一作『座頭市物語』を別格として、『座頭市血煙街道』である。『座頭市牢破り』は少なくともぼくのなかではベストファイブくらいに入る作品だった。

山本薩夫氏のカラーについては先に触れたが、かといって『座頭市牢破り』がアジ演説のような作品であったかといえばそうではなかった。だいたいこの人は戦前からの映画人で、その意味では映画の勘どころを知っていたのだろう。観客を楽しませるということについては玄人だったと思う。であればこそ、けっこうな大作の監督をしているのだと思う。細部についてはいろいろとあっても、総体として眺めてみると、ときちんとした映画になっているという印象だった。そういう意味では黒澤明、小津安二郎、溝口健二等々の巨匠たちよりも活動屋的な感覚を強くもっていたのかもしれない。映画は芸術よりも娯楽だという感覚が映画人としてのDNAに刻みつけられていたのかもしれない。もちろんこれは素人の印象で、プロの目から見ればぜんぜんちがうのかもしれないが。

『座頭市牢破り』は弱者を助ける盲目のヒーローという基本的な線ははずしていなかった。市のアクロバット的な居合い技もいかんなく披露される。ちょっといつもとちがうなという印象を持ったのは大原秋穂という大原幽学をモデルにしたと思われる農政学者が登場することだろうか。この人物を中心に物語りは展開する。大原秋穂が市に大地とともに生きる大切さを語ったりするあたりを、くさいと見るか、いつもとちがうなあと思うかで作品の評価がわかれるような気がする。映画的にはあるいはバランスを欠いていたかもしれないがぼく的には大原幽学という人に興味を持たせてくれたわけで、それはそれでよかったように思う。

ラスト捕らえられた大原秋穂を助けるために市が戸板神輿に乗せられて失踪する場面がある。市の乗った戸板を担いでいるのは大原秋穂の指導を普段から受けている農民たちである。彼らは大原秋穂を救い出しに行こうとしているのだ。その前の戦いで市は足に傷を負っている。傷を負っていなくても盲目のハンディがある市は走ることはできない。

戸板に乗った市が小さな川を渡る場面がある。渡河の最中、戸板を担いでいる農民たちが足を取られてどっと倒れる場面があった。水しぶきを上げて市の乗った戸いたもろとも川の中に倒れこむのである。もちろん農民たちは立ち上がり、ふたたび市を戸板に乗せて走り出すわけだが、この場面がとても好きだ。疾走という動のなかに転倒というアクセントを入れたことで、場面がより荒々しくダイナミックになったように思う。ラストの西村晃演じる悪代官との《とうまるかご》を挟んだ殺陣も良かった。

『座頭市牢破り』は異色作といえば異色作だが、ぎこちなさは感じなかった。機会があればまた見てみたいと思う作品でもある。


カテゴリ: 映画

テーマ: 映画感想 - ジャンル: 映画

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Posted on 2008/04/13 Sun. 17:16    TB: 0    CM: 0

リメイクの法則 

今度は「隠し砦の三悪人」だ。黒澤明のリメイクである。リメイクされた「椿三十郎」の映画としての評価のほどはまだ観ていないのでわからないが、興行的には苦戦だったことが報じられていた。映画の出来不出来の問題ではないように思う。前にもブログで書いたが、リメイクはオリジナルを越えられない。絶対の法則だと思う。

たとえばこれは「座頭市」を北野武が撮ったというのとはわけがちがう。「座頭市」はシリーズもので、これは考えてみると、同一の主人公を据えた別の作品ということだ。別の監督がそれぞれの思う座頭市を撮ったとしても、それはそれで成立する。「座頭市」シリーズのなかには、山本薩夫監督の作品もあるし、新藤兼人監督の作品もある。山本監督の場合はいかにも左翼っぽい作品だったし、新藤監督の場合は独立プロっぽい作品だった。

黒澤作品の場合はいってみれば作家の作品――その娯楽性の高さにうっかり忘れかけてしまうが――で、フェリーニやパゾリーニ、ヴィスコンティの作品と基本的には同じだと思っている。だれも「ルードヴィヒ」をリメイクしようとは思わない。たぶん思わないと思う。「道」や「甘い生活」もしくは「81/2」、「アポロンの地獄」や「王女メディア」リメイクしようという人がいるとは思えない。黒澤作品をリメイクするということは、ようするにそれとおなじことだと思う。

黒澤明に対する各人の好みはあると思う。友人のなかにも、「黒澤明は好きじゃない」と大ファンであるぼくにはっきりという者もいる(笑)。もちろん彼とはいまも仲のいい友人ですが――とにかく、黒澤明を嫌いだという人がいても少しもかまわないが、あの強烈な個性に彩られた作品を自分の色彩で塗り替えようとしてもうまくいくとはとうてい思えない。スピルバーグのように思い切って舞台を宇宙にでも変えてしまえば話は別だが、そうでなければいくらキャラクターをいじってみたところで、どうにかなるとは思えないのだが……そのあたりはどうなのだろう。

しかし、映画のプロ集団が、ぼく程度が考えることを考えられないとは思えない。すると、彼らは確信犯的に――つまり最初からオリジナルをこえようなどとは思わずにリメイクを乱発しているのかもしれない。あたるかあたならないかわからないオリジナルよりも、大当たりはしなくてもそこそこの興行収入が見込めるであろうリメイクのほうが収益という点から考えるとたぶんいいのだろう。織田裕二が木村拓哉に負けたとしても別に赤字ではなく、黒字が出たのならそれでいいということなのだろうか。もちろん織田君が木村君に興行収益で負けても別にかまわない。

いったい「隠し砦の三悪人」はどんな映画になるのだろう。今度「椿三十郎」を借りてきて見てみよう。

カテゴリ: 映画

テーマ: 日本映画 - ジャンル: 映画

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Posted on 2008/04/12 Sat. 22:53    TB: 0    CM: 0

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