Gitanの趣味

ひたすら趣味の道を走っています(ニヤリ)

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号泣の意味 

 ラストで登場人物が号泣する映画で、ふたつ印象に残っているものがある。『野良犬』と『ディスタント・サンダー』だ。
『野良犬』はいわずとしれた黒澤作品である。拳銃を盗まれた刑事が、犯人を追うという、いってしまえばただそれだけのストーリーなのだが、複数カメラをまだ使用していなかったころの黒澤の映像が見られる。うまいです。制作費も限られたなかでの撮影だったのだろうが、それにしてもうまい。
 これまで何度もいわれたことだが、この映画はジュールス・ダッシンの『裸の町』に影響を受けているという。全編オールロケで撮影された『裸の町』も、刑事が犯人を追うというストーリーだった。
 しかし、このふたつの作品には決定的な違いがある――というのは、残念ながらぼくの言葉ではない(笑)。佐藤忠男氏の著作にある言葉で、『裸の町』になく『野良犬』にあるものが、あの最後の犯人の号泣だったと、そんなふうに書いていたような記憶がある。
 ラスト、三船敏郎の刑事に追いつめられ、激しい戦いの末、ついに逃げる気力を失った犯人が、内臓を搾り出すように号泣するのである。これは凄かった。この瞬間、何か映画が別のものになったような気がした。突き抜けてしまったような印象があった。
『ディスタント・サンダー』は1988年ごろのアメリカ映画だったと思う。いわゆるベトナム帰還兵ものだ。主人公のベトナム帰還兵にジョン・リスゴー。その息子がラルフ・マッチオだった。あくまでも個人的な分類によるが、ジョン・リスゴーという人は名優よりも怪優というカテゴリーに属する。『ガープの世界』で性転換する元フットボール選手(だったと思う)の役が忘れられない。うまいというならたしかにうまい。異様というのなら間違いなく異様だ。この映画でのジョン・リスゴーはベトナムで戦い心を病み、山の中で同じように心を病んだ仲間と暮らしているという設定だった。平たくいえば家庭持ちで心優しいランボーみたいな役だ。映画のラスト、ジョン・リスゴーの仲間で最も深く心を病んでいた男がライフルを乱射し、仲間を射殺する。ジョン・リスゴーが彼のライフルを奪う。そのとき彼は倒れた木か岩に座っていて、そこで号泣するのである。天に向かって、自分の運命に抗議するかのようなこの号泣もよかった。映画はこの男の号泣をスローモーションで撮影してはいなかったか。
 たしかにうまい演出だと思ったが、それでもやはり、『野良犬』の号泣には、少し及ばなかった。
 あれはなんといえばいいのだろう。《あれ》というのは『野良犬』のラストにおける犯人の号泣だ。どう表現していいのかわからないのだが、映像表現でしかなしえない一種の飛躍とでもいえばいいのだろうか、そんな感じだ。この気分を察してもらうしかない(笑)。
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カテゴリ: 映画

テーマ: 映画感想 - ジャンル: 映画

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Posted on 2007/09/27 Thu. 21:25    TB: 0    CM: 0

カリオストロの影 

 宮崎駿氏が書いた手塚治虫に対する批判的な文章を読んだことがある。それは手塚治虫のアニメに対するものだった。宮崎さんが手塚治虫の批判をしたことは特に気にならない。何といっても作家である。そういうこともあるだろう。宮崎さんの批判は、かなり専門的なことで、素人にはわからない部分も多々あった。手塚治虫も他の作家に対して、辛辣なところがあった。やはり一筋縄ではいかない人たちのようだ。
 それはさておき、宮崎作品の中で何が一番好きかといえば、『ルパン三世・カリオストロの城』である。この作品はトトロよりもナウシカよりもラピュタよりも、その他の宮崎作品のどれと比べても好きである。もちろん個人的な話だ。さらにいえば気を衒っていっているわけでもない。正真正銘、本心からこの作品が好きである。好みの問題だ。
 この作品に登場するルパンが、実はモンキー・パンチの原作とはかなりちがうということもわかっている。原作に近いというのならクローン人間を扱った劇場版第一作のほうが近かったろう。
 しかし、そういうことも含めて、この作品が結局、その後のルパンを決定付けたように思う。『カリオストロの城』は、ほとんど奇跡的に優れた作品だった。
 ルパン三世の新しい作品が公開されるとき(かつては劇場で、いまはテレビで)、あるいはと思う。『カリオストロの城』の再現があるのではないかという期待――とまでいえるかどうかわからないが――を、微かながら持ってしまうのだ。そういうことはないだろうということも、もちろんわかっている。ただそれでも、もしかすると……という気持ちを抱いてしまうことを押さえきれない。
 作り手の側にも、もしかするとそれはあるのではないかという気がするときがある。言葉はわるいがそれは呪縛のようなものかもしれない。『カリオストロの城』は大いなる番外編だったという文章を読んだことがある。そのとおりだと思う。ただ番外編の完成度が、実写も含めた日本映画のなかで屈指というものだったために、作り手も意識せざるをえないのではないのだろうか。
 いくら待っても『カリオストロの城』はもう現れないのなら、ここらあたりでまったく新しいルパン三世を見たいような気がする。宮崎氏が描いた心優しいルパンではなく、ハードボイルドにふったルパンもいいかもしれない。

カテゴリ: アニメ・映画

テーマ: 日記 - ジャンル: アニメ・コミック

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Posted on 2007/09/14 Fri. 22:30    TB: 0    CM: 2

High and Low 2 

 どうしようかと迷ったが、結局、書くことに決めた。
 何かといえばもちろん、テレビ版『天国と地獄』についてである。書けば批判しか出てこないのはわかっている。悪口など書いていても不愉快になるだけだが、それでも書いてみようと思ったのは、前に『High and Low』というタイトルで、この作品のことについて触れたことがあったからだ。見る前の気持ちと見た後の気持ちを、書いておくのも悪くないだろう。
 テレビ版『天国と地獄』については、正直、期待はしていなかった。それでも、映画の残骸くらいは見られるかもしれない。そんな気分で見た番組である。黒澤明の『天国と地獄』と比べられるようなものでないだろうことは最初からわかっていた。
 にしても、あれはひどかった。残骸以前の代物だった。どうしてあんなことになってしまったのか。
 たとえば映画でははじまって三分の一は権藤邸の密室劇である。狭い場所に葛藤を詰め込むという黒澤明の手法が、如何なく発揮された演出だった(ちなみに狭い場所云々は大島渚監督の指摘である)。
 ところがテレビは、カメラがあっちにふらふらこっちにふらふら、およそ緊張感を生み出せるはずもない。おまけに犯人を、いくら若手のイケメン俳優が演じているとはいえ、早い段階で登場させてしまうという愚までおかしている。
 とにかく、言い出せばきりがないほど言いたいことはあるが、決定的な違いは、映画とテレビの違いだったようなきがする。――監督が黒澤明ではないということは、もちろん差し引いての話だ。CMが入るテレビは、映画とはまたちがう演出方法が要求されるのだろう。画面サイズの問題もあるかもしれない。なにより、演出にかけられる時間がまるでちがうのかもしれない。犯人を演じたイケメン君は決して嫌いではないが、山崎努に迫れというのは――まあちょっとね、である。
 いっそのこと、映画的な演出を捨てて、これはテレビだと割り切った演出にしたほうがよかったのではないか。どういうことかというと、たとえば十回とか十一回とか、連続ドラマとして描いた方がよかったのではないかということだ。それが無理なら、二夜連続とか、ミニシリーズとか、そんな形にすればもう少し見られるものになっていたかもしれない。
『砂の器』も連続ドラマにすることで、ずいぶん救われていたと思う。映画と直接比較されることを避けることができたからだ。まして『天国と地獄』の相手は黒澤明である。まともにぶつかり合うような演出はどう考えても不利に決まっている。
 研修医がなぜ誘拐犯になったのか(どんな悲惨な育ち方をしたのか)、共犯者の男女にはどういう出会いと人生があったのか、刑事のあの異様な正義感はどこからくるのか、権藤の生い立ちは(犯人と表裏をなす人物であるはずだ)等々――登場人物一人ひとりを丹念に描くことで、映画『天国と地獄』から零れ落ちたものを拾うことができたのではないか。
 これは映画評論家の佐藤忠男氏も書いていたことだが、あの犯人の動機がわからない。医者の卵である。いまは貧しくてもいずれは医者としてそれなりの成功が約束されている人物が、なぜ引き合わない犯罪に手を染めたのか。たとえば犯人は土蜘蛛のような(と、佐藤氏は書いている)無意味な破壊衝動に突き動かされた怪物的な人物なのか、しかし、そういう説明もなかった。最後で、わずかに悲惨な育ち方をしたらしいということがわかる程度だ。
 で、あるならばそのあたりを丹念に描いていけば、またちがったテレビドラマとしての名作『天国と地獄』を見ることができたかもしれない。事実、それらしいことをやろうとした形跡もあった。映画では顔さえ映っていなかった共犯者の男女を、テレビではそれなりの役者を使って、一応ドラマらしきものにしていた。誘拐された少年との交流も描かれていた。ただ全てが中途半端だった。
 黒澤明は映画とテレビはまるでちがうものだと書いていた。だとすれば、何も無理に映画に挑む必要はなかったろうと思う。

『生きる』は録画してあるがいまだに見ていない。

カテゴリ: テレビドラマ

テーマ: テレビドラマ - ジャンル: テレビ・ラジオ

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Posted on 2007/09/11 Tue. 22:35    TB: 0    CM: 4

懐かしのメロディ 

 映画の主題歌で印象に残っているのは『やさしいにっぽん人』の主題歌である。この映画の音楽を担当したのは田山雅充だった。『春うらら』を歌った人で、我らが南沙織の『人恋しくて』の作曲者でもある。この曲、『やさしいにっぽん人』のテーマを歌ったのは映画に出演もしていた緑魔子だった。

 つかれたら、眠りなさい~♪

 というあの曲は、以前、譜面を持っていたのだが、何度かの引越しの祭に紛失してしまった。メロディは覚えているが、いかんせん歌詞を覚えていない。残念である。ときどき歌いたくなる。この曲の譜面は手書きだった。
 余談ながら、手書きで写した譜面はいくつかある。『自由通りの午後』『忘れたはずの恋』『あなたの心の片隅に』『雨』『何処へ』と他にもあるが、まあこのあたりである。
 話を映画の主題歌に戻すと『キル・ビル』でまたまた有名になった『修羅雪姫』のテーマも好きだった。演歌っぽい曲だが、映画の画面とよくあっていた。タランティーノは『修羅雪姫』を、十分過ぎるくらい意識していたのだろう。
『赤い鳥逃げた』のなかで歌われた『愛情砂漠』も好きな曲だった。
 唐十郎唯一の劇場映画監督作品『任侠外伝玄界灘』の挿入歌も好きだった。

 なぜそんなに吠えるのか、俺の黒い犬~♪

 というフレーズではじまるあの曲は好きだった。『盲導犬』の挿入歌だったという話を聞いたことがあるが、検証したことはない。『盲導犬』は唐十郎作の戯曲だ。
 アニメ作品でいえば『ビューテイフルドリーマー』の主題歌『愛はブーメラン(だったかな)』も好きな曲だった。言わずと知れた押井守版『うる星やつら(劇場版)』だが、もちろん映画も好きだ。
『八月の濡れた砂』はあの一曲で、石川セリを伝説にした。
 時代劇に目を向けると、『ひとり狼』の主題歌が好きだった。市川雷蔵主演のこの映画は、『木枯し紋次郎』の原型のひとつに数えられそうな作品だった。ウィリー沖山氏が歌ったあの主題歌は、かなり好きなほうだ。座頭市の主題歌『座頭市子守唄』ももう一曲も好きだった。『座頭市』シリーズの主題歌と認識しているが、タイトルがいまひとつよくわからない。テレビ版座頭市の主題歌『おてんとさん』と『不思議な夢』も好きだった。
『誰かが風のなかで』はいまさらなんの説明もいらないだろう。この一曲で、時代劇における主題歌の概念が変わってしまった。それまでの演歌的、民謡的歌世界から、《フォーク・ロック》テイスト、あるいはアニメソング風と、時代劇の主題歌は無限の広がりを見せ始めた(笑)。大好きな『丹下左膳』の『かげろうの唄』は、何度も書いたが愛唱歌でもある。
『ストリー・トオ・ブファイヤー』の主題歌だった『今夜は青春』も好きだった。この曲は『今夜はエンジェル』といったほうがわかりやすいし、たぶんこのタイトルの方がましだと思う(笑)。テレビドラマ『ヤヌスの鏡』の主題歌にも使われた椎名恵が歌った曲だ。
 好きな曲はまだたくさんある。

カテゴリ: 音楽

テーマ: 音楽のある生活 - ジャンル: 音楽

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Posted on 2007/09/09 Sun. 10:12    TB: 0    CM: 0

センスの問題 

『幸せの黄色いハンカチ』という映画の印象に残る場面は、なんといっても惚れた女の乗ったバスを走って追いかける健さんの姿だった。惚れた女はいわずとしれた倍賞千恵子さんだ。あのとき、健さんは手に手拭かなにかを持っていた。あれがあの場面の中心にあったように思う。たとえばあのとき健さんが何も持たずに走って追いかけたとしても、たぶんあの人物の必死さは伝わらなかったろう。あの映画の中のセリフではないが、
「すがるような想い」
 があの手拭かタオルに、痛いほど込められていたように思う。
 素人のぼくがいうまでもないことだが、映画のなかにおける小物は重要だといまさらのように思う。健さんの手の中にあった手拭、ああいったところに玄人を感じる。
 有名なところでは『緋牡丹博徒・お竜参上』の蜜柑がある。雪の降りしきる橋の上でお竜さんが常次郎に手渡す蜜柑が、雪の上を転がるあの場面、あの蜜柑が凄かった。さすがに加藤泰監督である。
 北野武監督は『HANABI』のなかでショートケーキを印象的に使っている。小物の話ではないが、あの映画の主人公はほんとうにひとりだったのだろうか。岸本加代子の夫であるあの男と、情け無用の暴力を振るう男が同一人物であるというのは、監督がそうだといってるだけのことで、実際はふたりの男の物語だと思っている。
『荒野の用心棒』のクリント・イーストウッドがくわえていた煙草か葉巻もいい小道具だった。
 原田美枝子が制作に関係し、脚本を「刹那」の名前で書いた。『ミスター・ミセス・ミスロンリー』は、原田美枝子と原田芳雄が使った万年筆がよかった。あの映画のオープニング、ノートを開き万年筆でなにかを書き始める原田美枝子。あのとき使っていた万年筆、あれがよかった。
 健さんの手拭も、お竜さんの蜜柑も、その他諸々の映画に登場した印象的な小物たちは画面の片隅にちらりと登場して、画面全体を支配した。小物はつまり監督のセンスなのだと思う。
 押井守がかつていったとおり、アナログなことの積み重ねが、作品の雰囲気を決定するようだ。やはり監督の感覚は研ぎ澄まされていなければならない。

カテゴリ: 映画

テーマ: 映画を楽しむ - ジャンル: 映画

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Posted on 2007/09/03 Mon. 20:46    TB: 0    CM: 0

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