Gitanの趣味

ひたすら趣味の道を走っています(ニヤリ)

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世界を動かす 

 というわけで、世界を動かす話である。もちろんできるはずがない。しかし、そういうことを本気で考えている人々がいる。
 どうも、映画監督という人たちらしい。らしいというのは、映画監督の友達などいないからだ(笑)。ほんとうのところは知らない。
 いまでもときどき聴くラジオ番組がある。
『小沢昭一の小沢昭一的こころ』というその番組は、ずいぶん長く続いている。小沢昭一という人がどんな人かは調べていただくとして、その番組の中で、この記事のタイトルを連想させるような言葉を聞いたのである。
 曰く、
「映画監督などという人種は、世界が自分の思い通りに動くと思っているような人種なんです」
 と、いうことだ。
 そのとき小沢氏はある監督のこんなエピソードを語っていた。
 どの監督のどの映画か知らないが、場面は海の近くだったのだろう。あるいは近くに灯台などがあたかもしれない。そこである場面を撮影していた時、沖を船が通っていった。それを見た監督がにわかに、
「あの船を呼び戻しなさい」
 と、いいだしたというのである。
 船といっても並みの船ではない。それなりの立派な客船である。その場の空気が凍りついた。呼び戻せといって、呼び戻せるようなものではないことは、常識のあるスタッフ(つまり監督を除く全員)にはわかっていた。しばらく沈黙が続いたあと(すみません、このあたりは創作です)、ひとりの――おそらく助監督だろう――スタッフが、それでも遠慮がちに、
「それは無理だと思います」
 と、いった。
「どうしてだめなんですか! 海上保安庁でも、海運局でも、海上自衛隊にでも連絡して、とにかくあの船を呼び戻しなさい!」
 監督は激昂してスタッフを怒鳴りつけた。
 この話がその後どうなったのか、どんなふうにおさまったのかしらない。小沢氏はそこまで話さなかった。そもそも、この話がほんとうにあったことなのかどうかもわからないが、いかにもありそうな話だとは思う。
 ようするに映画監督というのはそういう人種だというのである。全員が全員そうなのかどうかしらないが、とにかく大変な人たちのようだ。気分としてはほんとうに「世界は自分の思い通りに動く」と思っているのかもしれない。
 黒澤明は映画のために二度家を壊している。もちろん他人の家である。一度は助監督時代、師匠である山本嘉次郎氏のもとで『馬』の撮影時と、監督になって『天国と地獄』の撮影時の二度である。
 淀川長治氏がこんなことを書いていた。
「皆さんは映画監督というものをしらないんです」
 ある撮影現場でのこと、どうしても演技のできない役者がいた。何度もリハーサルを繰り返しているうちに、役者の声が裏返ってしまった。そのとき監督は、満座の中でその役者を笑い飛ばしたという。残酷といえばこれほど残酷な話はない。
 溝口健二にもその種のエピソードは無数にある。
 役者もスタッフも人と思わないというのは残酷である。あらゆるものを自分の思い通りに動かすというのはある種の誇大妄想かもしれない。
 しかし、そのくらいの気分がなければ、つまり非人間的な気分にでもならなければ、映画監督などやっていられないし、名作は生み出すことはできないのかもしれない。
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カテゴリ: 映画

テーマ: 映画関連ネタ - ジャンル: 映画

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Posted on 2007/08/24 Fri. 22:22    TB: 0    CM: 0

嘘とほんとの境界線――歴史劇と時代劇 

 個人的な意見だが『七人の侍』は時代劇ではないと思っている。あれは歴史劇である。いや、ほんと。もちろんこれは批判ではない。あれは掛け値なしの傑作である。好きか嫌いかは好みの問題だが、もしあの映画が嫌いだという人がいれば、映画そのものよりも黒澤明という権威に対する反発心ではないかと思う。以前『泥の河』という傑作があったが、あの映画ですら、後ろ向きだとか、新しいテーマがないとか、わけのわからない非難が出たそうである。映画というのは、極論すれば面白いか面白くないか。『七人の侍』は十分すぎるほど面白かったが、あれが時代劇かとなると、はてどうだろうと首を傾げてしまう。
 時代考証については、多少の瑕疵はあるものの、ほぼ正確無比だという。戦国時代の農民はあれほど弱々しい存在ではなく、時と場合によっては兵士にもなったというから、その点についての誤り(?)を指摘する声は確かにあったらしい。そういう点はあるにしても、あれは時代劇ではなく、やはり歴史劇だろう。
 筒井康隆氏の言葉を借りるまでもなく、時代劇というのは未来に題材をとった物語と逆のベクトルを持つ物語、すなわり過去に題材をとったSFであることは間違いない。本気でそう思っている。昨日もテレビで放送されていた『ラストサムライ』を見れば一目瞭然ではないか。あれをSFといわないのならなにがSFだ(笑)。鎧兜で銃火器に立ち向かうなどいうのは、SF以外では考えられない。幕末の第二次長州戦争(四境戦争)で、鎧兜の装備で攻めてきた幕府軍を軽装の諸隊(奇兵隊)が打ち破ったのである。重たい鎧兜を着て、銃器を相手に戦って、あれほど奮戦できるのなら、これはもう人間離れしたSF世界の住人としかいいようがない。
 たとえば『子連れ狼』である。大五郎の乗る箱車のあらゆる仕掛けは、とてもあの時代のものとは思えない。機関銃のような銃まで取り付けてあるのだ。『子連れ狼』に限ったことではない。他の時代劇でも、江戸末期にも絶対になかったコルトピースメーカーが登場したり、はたまた石でも斬ってしまう刀が登場したり、強烈な小道具目白押しである。最初から時代考証を無視して物語が展開するのである。とりあえず丁髷と着物を着せて(最近は髷もつけず着物も着ていないような登場人物もざらである)刀を持たせても、江戸時代を描いた作品とは誰も思わないだろう……いや、思う人がいるかもしれない。これはから時代劇も最後に、
「この作品は完全なフィクションであり、いくつかの歴史的事実はもとになっていますが、実際の歴史とはなんら関係がありません」
 というテロップが流れるのではないかと思っている。
 時代劇は歌舞伎の延長にあり、人形浄瑠璃・歌舞伎の『義経千本桜』に寿司屋や船宿が登場するようなものだろう。たとえば『真夜中の弥次さん喜多さん』だ。あの映画には時代劇というジャンルの本質があったような気がする。時と場合によっては、オートバイも女子高校生も登場する可能性のあるのが時代劇だ。これから百年後につくられる時代劇があるとすれば、そこには江戸だけではなく、明治、大正、昭和の風俗も一緒くたにされているのではないだろうか。百年後にもし時代劇がつくられていれば、そこには自家用車で移動する水戸黄門や携帯電話を使っている銭形平次、防犯ベルの所持を江戸庶民に訴える大岡越前が登場しているかもしれない。

カテゴリ: 時代劇

テーマ: TV番組 - ジャンル: テレビ・ラジオ

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Posted on 2007/08/19 Sun. 15:16    TB: 1    CM: 0

High and Low 

 いよいよ、黒澤明の『天国と地獄』がリメイクされるらしい。テレビだというのは、この時代仕方のないことだと諦めている。
 この作品には少しだけ思い出がある。友人とふたりで映画館のはしごをしていた時代があった。もともと酒も煙草もやらないし、ギャンブルに手を出すわけでもない。悪所通いもしなかった。そんなわけで映画ばかり見ていたというわけである。
 その日も、友人とふたりで映画館のはしごをした。一本目は当時話題になっていた邦画の超大作だった。これがじつにつまらない映画で、友人ともども、絶望的な気分で映画館を出た。口直しにもう一本見ようということで、探して見つけたのが『天国と地獄』だったというわけだ。リバイバル上映されていたのだ。
 これは凄かった。その前の映画があまりにも貧しく、寒々としていたせいもあったのだろう。よけいに『天国と地獄』の映画としての凄さを実感することができた。冒頭からもうただごとではない雰囲気を漂わせていた。
 この映画は密室劇からはじまる。権藤邸をカメラは出ないのである。井上ひさしさんは戯曲なら三幕分ほどの長さがあるといっていた長い長い密室劇。緊張感を密室という劇的空間を作り出すことによって高めるだけ高め、内圧で爆発しそうになったころ、いっきにカメラは外に出る。解放された瞬間映し出されるのが、あの列車というわけだ。
 現金受け渡しの場面では、ほんとうに映画をみていた何人かの客が、「おお」と声を出した。ラストの三船敏郎と山崎努の対決も凄かった。
『天国と地獄』については、映画評論家の佐藤忠男氏が厳しい批判を『黒澤明の世界』のなかで展開されていた。それは映画そのもののでき不出来に関することではなく、黒澤明の姿勢についての批判だった。詳しくは書かないが、たしかにそういう面はあるかなと思わせる。
 その批判に対して黒澤明は、
「あの映画で描いたことには、ひとつの嘘もない」
 と答えたという。
 そうだろうと思う。現実を露骨に描けば、惨いものを見ることもある。
 ただ佐藤氏の批判とは少しずれているように思う。
 この映画に限らず、黒澤明が批判されることは多い。しかし、そういった批判を受けつつも、一連の黒澤映画はやはり凄いと思う。もちろん、好みの問題だから、嫌う人にあえて好きになれというつもりもない(笑)。百万人の支持者がいても、いやおれは(わたしは)嫌いだ(嫌いよ)と言い切る心意気は嫌いではない。
 とにかく『天国と地獄』がリメイクされる。あの映画に拮抗できる作品になるとは思えない。オリジナルをこえることはできないというのは、いってみれば鉄則だ。それでも期待しているのは、あの面白さをこえる作品に、いつかどこかで出会えるのではないかという、そういう意味での期待である。

カテゴリ: 映画

テーマ: 日本映画 - ジャンル: 映画

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Posted on 2007/08/16 Thu. 06:44    TB: 0    CM: 2

世界の終わり 

 槇原敬之の曲『The end of the world』を歌う中村中が好きだ。オリジナルを聞いたことはないが、おそらくオリジナルよりもいいのではないかと思うことがある。この曲に関していえば中村中印象がどうしても強く、マッキーさんには誠に申し訳なく思っている。
 ちょっと乱暴にこの曲を語れば、ようするに恋愛至上主義である。何よりもまず恋愛を優先させる。もちろん、それは歌の中だけのことだから許されるのだろう。『愛は歌の中に』という曲があるが、そんなところかもしれない。
『The end of the world』で歌われている恋人たちは、危うい関係――歌詞の中で、なぜふたりの関係がある種の危うさの上に成り立っているのか、そのあたりの説明はなされていない――のなかでもがいている。いつ終わるかわからない綱渡りのような関係。恋の終わりを世界の終わりになぞらえているのだろう。
 しかし、ほんとうに世界の終わりに立ち会うとき、人は恋などしていられるものだろうか。松本清張氏の作品に『神と野獣の日』という作品がある。東京に核ミサイルが落ちる、一種のSFである。このなかで、哲学者だったか、作家だったか忘れたが、家族とともに心静かに最後の日を迎えようとしていたところ、愛人が飛び込んできて、穏やかどころでなくなるという場面があった(はずだ)。そんなものかもしれない。
 世界の終わりではないが、会社の終わりと恋愛事件が重なったという女性が知り合いにいる。
 彼女は不倫をしていた。相手は43歳の会社員で妻子がいた。彼女は36歳で独身だった。仕事関係で知り合い、不倫の関係になったわけだが、彼女に相手の家庭を壊すつもりはさらさらなかった。仕事も順調だったし、長く一人暮らしを続けてきて、いまさら自由を奪われる結婚などしたくもないというのが本音だった。こんなふうに程よい距離感を保った関係を続けていくことが幸せであり、そしてその関係は、永続的なものだと思っていたらしい。
 状況の変化は彼女の身の上におきた。勤めていた会社が倒産したのである。突然のことで、彼女は呆然とするしかなかった。
 会社がつぶれた当初は、茫然自失状態でなにも考えることができなかったが、少し時間がたつと自分の将来に不安を感じはじめた。経済的な不安ももちろんあった。それが一番大きかったかもしれない。
 しかし、思わぬ副産物がうまれた。経済的な不安が、いままで考えてもみなかったことを、彼女に考えさせることになった。人生について考えてしまったのである。仕事をなくした自分に残されたものはなんだろうと考えたとき、何もないことに突然気づいた。急に人生がむなしくなった。うっかり絶望的な気分になりかけたとき、たったひとつだけ残されているものがあることにきづいた。不倫相手だ。
 そこから彼女の彼に対するいたましい(相手にとって迷惑な)執着がはじまった。そんなことは絶対に口にしないと思っていた言葉、
「奥さんと別れて結婚して」
 と、いうことまでいった。
 彼女の存在は相手の妻に知られるところとなり、騒動になったことはいうまでもない。
 色々なことがあったが、彼女は彼と別れた。不思議なもので、別れるころには、彼に対する執着もずいぶん薄らいでいたらしい。そこにいたるまでに、凄まじい葛藤があったことはもちろんだ。彼女自身も傷つき、他の人も傷つけた。
 彼女にあったのは、落ち着いてからだった。新しい仕事も見つけ、追いつめられたような心境のころとはずいぶん変わっていた。そのとき、こんなことをいった。
「結局、生活があっての恋愛なのよね」
 彼女はもちろん、経済的な問題だけをいっているのではないのだろう。しかし、とにかく、安定した生活があって、おちついた恋愛もできるといいたかったのはたしかなようだ。不倫といういってみれば不道徳な恋で、そのことを十分わきまえて、距離を取ってつきあっていたはずなのだが、それでも基盤となる生活が不安定になったとき、どうしてか彼を欲した。将来が不安定になったとき、人生そのものを不安定にさせかねない真似をやってしまった。そのときはそうするしかなかったとも彼女はいった。
 忘れがちだが、人間はひとつの要素だけで出来上がっているものではない。まったく異なる要素が複雑に絡み合い、ひとつの統一されたものを形作っている、いってみれば新印象派の絵のようなものかもしれない。恋愛も人間を構成する要素ではあっても、それがすべてでは、もちろんない。さらに、それぞれの要素は関係しているようで、実は個々別々に独立しているのかもしれない。とにかくバランスは大切なようだ。
 とにかく、生活の基盤が崩れたとき、彼女は恋に走った。世界の終わりには比べるべくもないが、会社の終わりに立ち会った彼女は、程よい関係を続けていこうと思っていた相手に無理難題をふっかけた。彼女は十分に美人だが、その瞬間だけを見れば、彼女は美しくはなかっただろう。なりふりに構っていられなかったのだ。
 ほんとうの世界の終わりがくるとき、人は恋をするかもしれない。
 しかし、それは美しいものではないだろう。心穏やかに愛する人と、ひとときを過ごす――というわけにはいかないだろう。剥きだしの人間性がぶつかりあう、ずいぶんな世界であるような気がする。

 この記事は、彼女の許可を得て書いた。

カテゴリ: 音楽

テーマ: 日記 - ジャンル: 音楽

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Posted on 2007/08/11 Sat. 09:04    TB: 0    CM: 0

狂恋 

 話題の映画『怪談』はその昔の『狂恋の女師匠』である。これまでに何度も映画化されているが、そのなかにはあの溝口健二もいる。さらにそのもとをたどれば、初代三遊亭圓朝の傑作人情噺『真景累ヶ淵(しんけいかさねがふち)』であることは、たぶん誰でも知っているだろう。今回の映画化が、あの長大な原作のどの部分に光をあてているのか知らないが、とにかく二時間程度の枠に収まるような噺ではない。ストーリーの説明はしないが、とにかく因果の糸に操られるようにして、男女の愛欲のドラマが展開され、そこ仇討ち話が絡むという物語だ。
 手元にある資料によれば、この話は初代三遊亭圓朝、21歳のときの創作らしい。はじめは『累ヶ淵後日怪談(かさねがふちごじつのかいだん)』という題名だったらしい。師匠の三遊亭圓生の『累草子』と区別していたらしい。両方とも下総羽生村にある累伝説を取り入れているというが、どのあたりまでが伝説なのかは知らない。
『真景累ヶ淵』の《真景》とは《神経》である。これも有名な話でいまさら知った顔で書くのも照れるが、漢学者の信夫恕軒が圓朝に、幽霊を見るのは神経の作用(神経衰弱のようなものだろう)といわれたことで《真景》を付け加えたという。《神経》→《真景》というわけである。
『牡丹燈籠』もそうだが、三遊亭圓朝というひとは、間違いなく天才だった。長編人情話の創作に如何なく才能を発揮して、現在演じられている芝居噺や怪談噺の大半は圓朝の作品だということである。もしいまの時代に生きていれば、S・キングを凌ぐ、楳図かずおと並ぶホラーの天才と呼ばれたかもしれない。江戸後期から明治にかけての人である。落語家としての表現力も非凡だったらしい。これは永六輔氏の著作で読んだのだが、たとえば圓朝が、天井から血が垂れるという場面を話すと、客が落ちてくる血を避けようとして客席に隙間ができたという。
 怪談噺というジャンルは広く、深い。人情噺、講釈系も含めれば、傑作・名作目白押しである。『真景累ヶ淵』『牡丹燈籠』『怪談乳房榎』『小幡小平次』『小夜衣草子』等々次から次へである。
 ハリウッド進出もはたしたJ・ホラーだが、先人たちの残してくれた財産が大きくものをいっている。年季がちがうというわけだ。たとえば『リング』である。あの作品も、立派に怪談している(笑)。前にもこのブログで書いたが、井戸から現れる女性の幽霊となると『番町皿屋敷』だ。怪談のキーワードは水と怨念だ。『リング』はその両方を満たしている、しかもなみなみと。たとえばモダンホラーというジャンルに関しても、岡本綺堂、内田百という才人たちがいた。怨念も執念も関係ない、出会いがしらの事故のような恐怖体験はまことに新鮮で、因果話とはまた別の怖さがある。そうだ『耳袋』『雨月物語』という古典も持っている。このあたりもその気になればモダンホラーのジャンルに入るかもしれない。人を怖がらせるジャンルに関して、日本人は才能がある。この湿度の高い風土のせいか、とにかく、大いに誇ってもいいと思う。
 怪談を話芸に限っていえば、気になるのが、怪談噺がすべて髷物、古典だということだ。新作落語を創作し演じておられる噺家さんはたくさんいるが、現代を舞台にした新作怪談を演じてくれる噺家さんというのはいるのだろうか。あるいは講釈師さんはいるのだろうか。知らないだけかもしれないが、とにかくいまのこの時代を舞台にした新作怪談を聞いてみたい。現代ではどうしても雰囲気が出ないというのであれば、時代を過去にとっても別にかまわない。ようするに時代劇の感覚で新作の怪談を創ってもらいたいのである。現代の感覚で創られた話芸としての怪談を聞いてみたい。素朴な願いだ。

カテゴリ: 映画

テーマ: 日本映画 - ジャンル: 映画

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Posted on 2007/08/06 Mon. 18:43    TB: 0    CM: 0

冷たい指先 

 ケン・ラッセルという監督の『ゴシック』という映画が好きだ。詩人バイロン卿の屋敷に集まった詩人のシェリーたちが、阿片をすいながら幽霊話をして、現実と幻想の見境がつかなくなっていくというお話なのだが、秀逸のなのは、どこまでが現実でどこまでが阿片の生み出した幻想なのか、わからない作りになっていることである。この映画には、はっきりとした恐怖の対象が描かれていない。あるのかないのかわからない何かが怖いのである。雰囲気が怖い、としかいいようがない。怖いものをストレートに見せるというのは、案外怖くないものである。何かわからないもの、はっきりと特定できないが、何かが怖い――というのは怖い。この映画の恐怖の描き方はうまいと思った。ケン・ラッセルという人は、どこか変な人で、それまでの作品を見ても、それ以後の作品を見ても、なにか神経にちくちくと来るようなところがある。この人自身が内部に不条理なものを山ほど抱え込んでいるような気がする。この恐怖の一夜を過ごした詩人のシェリーが、あの『フランケンシュタイン』を書くのである。シェリーは『フランケンシュタイン』のアイデアを夢で見たというが、それもけっこう怖い気がする。
 子供の頃、夜ひとりでトイレにいけなくなった映画がある。もちろん夏場で、しかも、雨の降る薄暗い日に、一人家で見てしまった。
『たたり』である。ロバート・ワイズ監督の傑作恐怖映画だ。これは怖かった。後に再映画化されたときのタイトルは『ホーンティング』。原作はシャーリー・ジャクソンの小説で、原題は『The Haunting of Hill House』。邦題は『山荘奇談』。S・キングが『呪われた町』の冒頭で、この小説の有名な一説――なんであれそこを歩むものはひとりで歩むんだ(だったかな)――に続く文章をそのまま使って効果を出している。『呪われた町』で使われたとき、『山荘奇談』は『丘の上の幽霊屋敷』となっていたはずだ。この作品、『山荘奇談』を読んでいると、キングがこの小説からかなり影響を受けていることがわかる。特に『シャイニング』にその影響が見られるような気がするが、幽霊屋敷がテーマの作品だから、それも当然かという気がする。ただしキングの『シャイニング』はSFX満載の映画のようで、極めて面白いが、怖いという感じではない。
 映画だが『たたり』は『ホーンティング』よりもはるかに怖かった。再見してもその思いは変わらない。SFXを駆使したリメイク版よりも、音と光と闇、不気味な彫刻などで恐怖の雰囲気を盛り上げていく『たたり』の方が、怖いという点でいえば、はるかに怖かった。思えばこの作品にも、恐怖の対象となるものは登場しないのである。最後の最後にほんの一瞬、車の前を横切る人影が、いってみれば恐怖のすべてだ。
 怖いというのは、やはり想像力だと思う。
 そういう意味では鈴木清順の『ツィゴイネルワイゼン』も怖い映画である。この映画も何が怖いということができない。作品全体に漂っている不吉な影とでもいえばいいのだろうか。あるいは鈴木清順の言葉を借りればケレンとでもいえばいいのか。筋がどうとかいう前に、怖がらせるというのは、一種びっくり箱的な要素があることは事実だ。出し抜けに何かが飛び出してくる怖さだ。飛び出すのはもちろん一瞬だ。飛び出すまでを、どう盛り上げるのかが腕の見せどころというべきか。
 そして中川信夫の『生きている小平次』。これも怖い。
 怖い映画を撮れるというのは、たしかに才能だと思う。人を笑わせることに長けた才能があるように、人を怖がらせることも才能で、こればかりは、できる人は習わなくてもできて、できない人はどう頑張ってもできないのかもしれない。そう考えると、ホラーがブームだからぼくもわたしもあなたも君もホラー、というわけには行かない。
 触れただけで心臓を凍らせる冷たい指先は、神様からの贈り物で、それを持っている人は感謝するべきかもしれない。
 ただ、人を怖がらせることだけが、すべての才能に優先するわけではないから、それがないからといって嘆くこともないとは思う。

カテゴリ: 映画

テーマ: 映画感想 - ジャンル: 映画

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Posted on 2007/08/05 Sun. 23:02    TB: 0    CM: 0

カムイの道 

 しかし、カムイという名前を聞いて、いったい何人の人が「おお!」と思うだろう。最近では知らない人のほうが多いのではないだろうか。とにかくあのカムイである。
 知り合いのモスリンさんからまたまた重要な情報をいただいた。あの『カムイ外伝』が実写映画化されるという。しかも監督は『月はどっちに出ている』の崔洋一だ。主演は松山ケンイチとなると、これはこれはである(笑)。『どろろ』に引き続き『カムイ外伝』となると、次は『無用ノ介』ということになるのだろうか。もっとも『無用ノ介』はかつてテレビドラマ化されたこともあるから、『ワイルドセブン』かはたまた『おろち』か。期待は膨らむばかりである。
『カムイ伝』という物語が、かつてどれほど衝撃を与えたのか。時代は変わるという唄があるが、当時を思うと、ほんとうに時代は変わったと思うばかりだ。
 いまさらこんなことをいうのもどうかと思うが、カムイの物語はふたつある。『カムイ伝』と『カムイ外伝』である。『カムイ伝』はいってみればNHK大河ドラマ風歴史劇だ。カムイという少年が力の求めて忍者の世界に入るが、巨大な歴史のうねりの中に飲み込まれていく。ここには様々なものが登場する。神話的な巨人山丈が登場し、身分社会の中でもがき苦しむ人々がいて、圧倒的な一揆がある。忍者どうしの熾烈な争いも、封建体制の中の一風景として描かれているように思える。無人流という小具足術と剣術を合体させた、魅惑的な格闘術も登場する。物語の中の主要人物のひとり、草加竜之介もついにこの無人流を体得し、凄まじい戦いをラストで展開する。
 とにかく登場人物の数が膨大である。三百人をこえるというが、実際にそうかもしれない。そして、忍者の世界から逃げざるをえなくなったカムイは、この長大な物語の途中から登場したりしなかったり、少なくとも、カムイは主人公たちのひとりではあっても、絶対的な主人公ではないということがわかってくる。
 そこで一応の主人公であるカムイにスポットを当てて、忍者同士の争いに焦点を絞って描かれたのが『カムイ外伝』というわけである。
「白土忍法」という言葉を目にしたのはずいぶん昔の少年サンデーだったろうか。そこには白土三平が作り出した、様々な忍法の解説があった。カムイの秘術はもちろん「変移抜刀霞斬り」であり一種のバックドロップである「飯綱落し」である。ビッグコミックに連載された『カムイ外伝・第二部』では「十文字霞崩し」という秘剣を編み出し、自身の「変移抜刀霞斬り」を破っている(ちなみに『カムイ伝・第二部』が連載される前に外伝の第二部が連載されていた)。少年サンデーに連載された『カムイ外伝・第一部』の最終回は「九の一」ではなかったろうか。これはよかった。ビックコミックに掲載された第二部では柳生新陰流の達人である追忍と死闘を展開する話がよかった。このなかには草薙の秘太刀だったが、転がりながら(ほんとうに転がりながら)相手を斬るというあっと驚く流派が登場する。剣術というのは下方からの攻撃は考えられていないそうで(嘘かほんとかしらない)、これはその盲点をついた剣術らしい。柳剛流という剣術の特徴は相手の脛を斬るという点にある。もともと剣術には脛に対する防御はなく、草薙の秘太刀のアイデアは案外そんなところにあったのかもしれない。
 カムイ――とにかく魅力的な主人公である。かつてテレビアニメ化されたとき主題歌を歌っていたのは、水原弘さんだった。あの曲はよかった。城達也さんの「今日もまた日は昇り日は沈む。忍びの世界には何人も犯すことのできない掟がある」というあのオープニングのナレーションもよかった。
 そうだよかったで思い出したのが、『カムイ伝』のなかで横目という登場人物がこんなことをいう。
「忍びとは人の心の虚に乗じ、闇を跳梁する輩だ。カムイは入り口だけあって出口のない世界にいる」
 カムイがなぜ忍者の掟を破って逃げたのか、その理由は『カムイ伝』で語られている。

カテゴリ: 読書

テーマ: 日記 - ジャンル: アニメ・コミック

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Posted on 2007/08/02 Thu. 18:51    TB: 0    CM: 2

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