Gitanの趣味

ひたすら趣味の道を走っています(ニヤリ)

05« 1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.»07
 

スポンサーサイト 

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

カテゴリ: スポンサー広告

[edit]

Posted on --/--/-- --. --:--    TB: --    CM: --

作家が作家だった時代 

 松本清張と司馬遼太郎について書かれた本を読んでいるせいでそんなことを思うのかもしれないが、お二人が活躍した時代は、作家が幸せな時代だったんだなあと思う。おふたりの佇まいを見ているだけで、ある種の風格をさえ感じさせる。そしれは同時に、懐かしさに通じるものだ。
 いってみれば江戸末期に撮影されたお殿様の写真を見るような気持ちになる。すでにこの日本には存在しない人々――階級とまではいわないが職業ではなく、生き方――こういった生き方が可能だった時代に対する懐かしさである。
 むろん、いまの時代にも作家はいる。ベストセラーが生まれたりもする。
 しかし、作家に対する世間の目という奴が、あのころといまとではまるでちがうようにぼくには思える。
 花村萬月氏だったろうか、うるおぼえで間違えていたらごめんなさいだが、三島由紀夫が活躍した時代、作家というのはいまの時代からは想像もできないほどの巨大な存在だった、というような意味のことを書いておられた。
 ぼくはその時代をかろうじて知っている世代に属する。それはたとえば、ベストセラー小説を出して、印税で左団扇――などという世俗的な成功の部分だけを羨望の眼差しで眺めるということではなく、一人の作家の存在そのものが、時に社会のありようについて考えるための手がかりになりえる、そういった意味も含めての巨大さだった。
 そういった時代はもう二度とこないだろう。
 インターネットの登場が、文芸に限らず、芸術表現のありようを根本的に変えようとしている。文芸に限ってだけいっても、Eペーパーが実用段階に入れば、おそらく劇的に変化するのではないか。
 いまこの瞬間にも、デジタル空間のいたるところで、無数の書き手たちによって無数の言葉が生み出されている。それらはエッセイのようであり、ノンフィクションのようであり、ときに私小説のようであり、まったくの小説のようでもある。誰もが作家であり、誰もが読み手である時代、かつて世間の人々が作家に対して抱いたような思いを、誰も抱かないだろう。
 ぼくはいまの時代が決して嫌いではない。
 だが、作家が作家だった時代はもう二度と戻らないと思う。
スポンサーサイト

カテゴリ: 読書

テーマ: 雑記 - ジャンル: 本・雑誌

[edit]

Posted on 2007/06/28 Thu. 21:18    TB: 0    CM: 0

明るい時代 

 以前、黒澤明監督がこんなことを語っていた。
「明治という時代は明るかった」
 それは自作の『姿三四郎』について語っているときのことで、明治という時代のそういった明るい気分を描かず、いまの時代の感覚で姿三四郎を描いても、へんなものになるという。姿三四郎という柔道家は明治の明るさを体現しているような青年でなければならない。
 なるほどと思った。確かに、そうかもしれない。黒澤の『姿三四郎』は観たが、あの茫洋とした笑顔がなければ、作品はずいぶん変わっていたものになっていたような気がする。
『姿三四郎』について語ったとき、黒澤明は司馬遼太郎氏の『坂の上の雲』を例に出して、明治という時代の明るさを話していた。
 余談だが、『赤ひげ』のキーワードは《寒さ》だという。江戸という時代の寒さがあの物語全体を覆っている。その中で温かい物語が展開されていく。この指摘をしたのは井上ひさしさんだった。黒澤さん、淀川さんと対談をしているときのことだ。このとき、黒澤明は、自分が知っている明治でも相当寒かった。江戸はもっと寒いだろうと思って、画面から寒さがにじみ出るように撮ったといっていた。
 明治は明るく、江戸は寒い。もちろん明るいばかりの明治でもなかったろうし、寒いばかりの江戸でもなかったろう。そういう視点からある時代を見つめたというところが黒澤明のすごいところだと思う。色々と批判されることもある巨人だが、やはり偉大だったと思う。物語の舞台になる時代の感じを、目で見て肌で感じるように撮る。色々な監督のインタビュー記事を読んだが、こんなことをいった監督をほかにはしらない。

 さて、その司馬遼太郎氏の『坂の上の雲』だが、この小説は読んだ。司馬遼太郎作品の中で、一番好きな作品ではないだろうか。『竜馬がゆく』よりも好きな作品である。ナショナリズムをくすぐる部分もあり、その意味では危険だという指摘もある作品だが、司馬遼太郎という人は、ナショナリズムとは無縁の人だったと思っている。これはぼくの個人的な見方だが、国家に対してはむしろ冷めている、ニヒリスティックな印象さえ受けるのだが、どうだろう。
『坂の上の雲』という作品は、弱者の智恵と勇気を描いた物語で、およそ勇壮な物語とはいい難いような気がする。かつてこの地球上に、そういう国があったということを懐かしさとともに眺めている、そんな作品だと思っている。だからその視点は、戦国時代の武将を眺めることと基本的には同じで、だから安心して読めるのだと思っている。戦国乱世の英雄は、その時代に生きた普通の人々から見れば、大量虐殺者であったり、暴君であったりする。
 司馬遼太郎という人は『坂の上の雲』を映像化してはならないと遺言したという。
 たぶん、それは正しいのだろうと思っている。

カテゴリ: 映画

テーマ: 映画関連ネタ - ジャンル: 映画

[edit]

Posted on 2007/06/24 Sun. 19:58    TB: 0    CM: 0

ありふれた怖さ(2) 

 ありふれた人間が犯罪を犯す。これは怖いとこの前に書いた。ほんとうに怖いと思う。可能性として、隣人が犯罪者になる可能性があり、きわめて低い可能性ながら自分が犯罪者になる可能性も含まれていると思われるからだ。宮本武蔵は物事は拍子だといっているが、意味はちがうがはずみで何かが変わってしまうということは、人生の中で確かにあるように思う。そのあたりの怖さを、松本清張という人はよく書いていたような気がする。説教臭い話ではないが、普通というのはなかなか維持することが難しいものなのかもしれない。

 印象に残る短い小説がある。ずいぶん前、中学生くらいのときに読んで、なんて大人は凄いんだろうと思ったが、タイトルが思い出せない。話の内容だけかいつまで書くと、中年の夫婦がいる。中年といっても三十代の半ばくらいだろうか。旦那さんは真面目なセールスマン、奥さんは貞淑な――というか大人しい女性で専業主婦である。ふたりは平凡な生活を送っている。奥さんの趣味は唯一本を読むことで、本を読み、あれこれ空想することが大好きなのだ。奥さんは空想の中で、キャリアウーマンになったり、女海賊や冒険家になって、冒険と恋の両方を手に入れる。
 今日も旦那さんは仕事に出かける。奥さんは公園に行って本を読む。奥さんが読んでいるのはありふれたロマンス小説である。奥さんは小説に熱中している。本を読みながら奥さんは旦那さんとの生活を考えている。小説の中のヒロインの情熱的な生き方と自分の平凡な生き方を比べている。いまの生活がいやなわけではない。夫を嫌っているわけではない。幸せを感じなければいけないはずなのに、何かが足りない。
 そんなことを考えながら本を読んでいると声をかけられる。そこには今読んでいる小説の登場人物がいる。素敵な男性だ。
「いつもぼくの本を読んでくれてありがとう」
 と彼はいう。そして、一緒に行こうという。
 奥さんは躊躇う。平凡だがそこそこ幸せないまの暮らしを選ぶか、それとも情熱的だがあまり心安らぐとはいえそうもない小説の中の登場人物との暮らしを選ぶか。迷った末に奥さんは小説の中の登場人物を選ぶ。奥さんがいなくなったベンチには読んでいた小説だけがおいてある。
 彼女は家に戻らなかった――そんな一文で終わっていたはずだ。一切の説明はない。この作者はもしかすると『カイロの紫のバラ』を見たのかもしれない。小説の登場人物が現れたのは超自然的な現象だったのか、それとも、それは奥さんの心の中の風景で、憧れが強すぎて、現実と物語の区別がつかなくなったのか、どんな説明もなかったように記憶している。
 ぼくはこのお話を怖いと思った。たとえば奥さんの失踪の理由が現実と空想の区別がつかなくなったからだとしよう。なにが理由であっても、ある生活の中から、一人の人間の姿が消えたということに変わりはない。ただ人がひとり、いなくなったというその事実が、その後におきるであろう様々なことを想像させるのだ。ちょっとしたはずみで人は消える。なにかほんのちょっとしたきっかけで。これは怖かった。
 人生の中にそういう瞬間があるということは、どうやら事実のようだ。ありふれたもの、ありふれた生活の中に、何かが潜んでいる。ぼくたちはその事実に気づいていないだけか、それとも気づかないふりをしているだけなのだろうか。

カテゴリ: 読書

テーマ: つぶやき - ジャンル: 小説・文学

[edit]

Posted on 2007/06/21 Thu. 19:34    TB: 0    CM: 0

ありふれた怖さ 

 今日、ある刑事ドラマの最終回スペシャルを見ていた。犯人は正義について偏った考えを持つ、頭脳明晰な人物で、自身の歪んだ正義感のために犯罪を行うという、いってみればよくある類の話だった。
 偏った考えを持つ、頭脳明晰な男が、あの手この手で完全犯罪をもくろむ。
 最近、この手の話が多いような気がする。極端に頭のいい異常な犯罪者である。サイコキラーとでもいうのだろうか。
 読者を怖がらせるという目的で、もちろんこの種の話を作るのだろうが、しかし、怖いというのなら、普通の人間が犯罪に走る話のほうが断然怖い。地道に、ひっそりと生きてきた小市民が、ふとまがさして犯罪者になってしまう。そういった話のほうが怖いといえば怖い。
 人間は誰でも犯罪者になるんだよといわれているようなお話だ。自分への戒めにもなるし、人生の不気味さというか酷さを実感させられる。
 その意味では、やはり松本清張という人は凄かったと思う。犯罪を犯すものも、犯罪者を追うものも、ありふれた人間たちだった。
 思い切り浮世離れした話も好きだが、こういった普通の人間が出てくる話も大好きだ。というか、人間の心の中にあるのは、もの凄い物語かもしれない。

カテゴリ: 読書

テーマ: 読書 - ジャンル: 本・雑誌

[edit]

Posted on 2007/06/20 Wed. 23:15    TB: 0    CM: 0

 

 昨日に引き続き、必殺シリーズだが、『仕掛人』についてはこの前も書いたとおり、池波さんの原作とはまるで別物ということで外し、『必殺仕置人』から始まるシリーズの中で、ではどのキャラクターに思い入れがあるとかいわれると間違いなく「念仏の鉄」である。あの名優山崎努さんが演じた破戒僧「念仏の鉄」は、指をボキボキと鳴らすポーズ、レントゲン撮影の斬新さ、そして山崎さんが作り上げられた強烈なキャラクターとあいまって、もっとも強く印象付けられている。
 ちなみに中村主水もある意味で別格扱いだ。あのキャラは当初は必ずしもメインではなかったと思うが、いつのまにか必殺の象徴的な登場人物になっていた。賛否もあり好みもあるだろうが、これは別格ということで、扱いは当然ちがってくる。
 さて、「念仏の鉄」である。
 これは凄かった。緒形拳の「藤枝梅安」に拮抗できるキャラクターだった。最初の「必殺仕置人」に登場したときは、完全なスキンヘッドで、異様だった。
 佐渡金山に島流しにあっていたという設定は、いわゆる「どさげえり」ということになるのだろう。この世の地獄、佐渡から生還しただけあって、人情も愛情も、どこかに忘れてきたような登場人物で、いまでも「殺伐」という言葉を聞くと、真っ先に「念仏の鉄」を思い出す。
 たしかに際どい裏家業を生業にしているわけだから、甘い理想主義主であるはずもない。正しく犯罪者である。この世の悪を始末するというのは、いってみれば偶然の結果で、「念仏の鉄」の中には正義も悪もない。そういうことが見えてくるキャラクターを作り上げたのは、やはり演技者の力だろう。山崎努という人はほんとうに凄い役者だと思う。
 この「念仏の鉄」で印象に残っている場面がある。殺伐を絵に描いたような鉄が小さな女の子と暮らすことになってしまう回があった。戸惑いつつ、二人で焼いた秋刀魚を食べる場面は、鉄が殺伐であればあるほど、じわっと胸にくる場面だった。

カテゴリ: 時代劇

テーマ: テレビなんでも - ジャンル: テレビ・ラジオ

[edit]

Posted on 2007/06/18 Mon. 21:10    TB: 0    CM: 0

復活、必殺仕事人! 

 友達のブログさんで必殺シリーズがスペシャルながら復活することを知った。7月7日放送されるらしい。中村主水も復活する。嘘かほんとうか、中村主水という名前はジェームズ・ボンドをもじって命名されたという。
 個人的な見解だが、あのとき、主水を殺してしまったのは最大の失敗だと思っている。小説版『機動戦士ガンダム』でアムロ・レイを殺したのと同じ愚行だ。
 映画で中村主水というキャラクーを葬るという話が出たとき、藤田まことさんが、
「自分の中から中村主水が去って行った。だからやめどきかと思った」
 というようなことをインタビューで話していたが、それはまちがいだと思う。
 中村主水は藤田まことのものというより、みんなのキャラクーになっていたのだ。軽はずみにおさらばできるはずがない。
 とにかく、中村主水が復活することはまことにけっこうなことである。期待しよう。

 必殺は池波正太郎氏の仕掛人シリーズを母体にして生まれた。それ以前、『梅雨の湯豆腐』という短編があり、そこに仕掛人シリーズでお馴染みの、彦次郎さんが登場する(別人であるが)。興味のある方は『殺しの掟』に収録されているので読んでみて下さい。あのあたりが仕掛人の原型だろう。いや、その前に、市川雷蔵様の主演映画『ある殺し屋』のなかで畳針で暗殺する場面があった。あれが仕掛人のほんとうの原型かもしれない。
 仕掛人シリーズで使われた様々な業界用語(隠語)は、「仕掛け」もふくめてすべて、池波氏の創作によるものはいうまでもない。
 しかし、池波正太郎氏は「必殺」の文字は使っていない。
 直接、インタビュー等を目にしたわけではないが、原作者の池波氏はテレビの『必殺』シリーズ(『必殺仕掛人』も含めて)を嫌っていたという話を聞いたことがある。嫌っていても不思議ではない気はする。
 なぜ仕掛人シリーズを量産しないのかという問いに池波氏が答えている文章、かインタビュー記事は目にしたことがある。
 一度の仕事で莫大な金銭を受け取る仕掛け人たちが、大量の仕事をこなさなければならないはずがない――というようなことを答えておられた。さらに、
「どんな理由があっても人を殺すことはよくないことだ」
 と、いわれたのが印象に残っている。

 翻って、テレビの『必殺シリーズ』は毎回毎回、悪人を葬っていく。しかもごくごく安い金で仕事を請け負う。
 そのあたりのことについて中村主水が話す場面があった。ひかる一平が出ていたシリーズのときだったと思う。
「正義感で仕事をはじめると、神様みたいな気分になる。そうなると次から次へと、悪人を手にかけはじめてきりがなくなってくる。金は自分たちが人間であることを忘れさせないためのものだ」
 この通りではないが、こういう意味のことを、若き駆け出し仕掛人、ひかる一平に語る場面があった。必殺にはときどき、こういう脚本があった。映画『切腹』のパクリっぽいが、竹光で切腹させられる武士の話もあった。
 池波さんが『必殺』シリーズを嫌っていた理由も納得できるし、その言葉は大変重いと思いつつ、やっぱりぼくは『必殺』シリーズが好きだった。いまも好きだ。だから7月7日はもの凄く期待している。矛盾しているが……それがぼくです(笑)。
 必殺についてはまた色々と考えてみたい。

 なお、友達のブログさんは以下のアドレスへ
       ↓
http://himawari-gumi.cocolog-nifty.com/blog/2007/06/post_575c.html#more

カテゴリ: 時代劇

テーマ: 時代劇 - ジャンル: テレビ・ラジオ

[edit]

Posted on 2007/06/17 Sun. 07:14    TB: 2    CM: 0

つけるだけの嘘をつく方法・鈴木清純考 

 しかし、どうしてもこうも鈴木清順が気になるのか、自分でもよくわからない。前にもこのブログでちらっと書いたが、そんなに好きな監督でもないのだ。それでも気になるというのは、これはもう自分でもよくわからない感覚である。ああいった、奇を衒った作風は、確かにインパクトがあり、一種びっくり箱的な面白さは認めるものの、そればかりを見せられると、さすがに疲れてくる。だからもうやめようと思うのだが、なんだかんだでまた見てしまう。何か気になって仕方がない。そんな感じなのだ。
 ひとつにはこの人の気取りのなさもあるのかもしれない。たとえば奇を衒う作風を、普通なら色々と理屈をつけて説明したがるものである。あるいは見て感じてくれればそれでいいと、はぐらかすようなことをいうか。
 鈴木清順はそんなことはいわない。
「娯楽映画というのはつけるだけの嘘をつく」
 とあっさり言い切ってしまう。
 どうせ嘘なんだから、思い切りよく嘘をつけばいいじゃないか。そういっているのだ。嘘をほんとらしく見せようとすることを、最初から否定しているような印象がある。
 脚本についての考え方も普通とはまるでちがう。
 たいていの監督は脚本は重要だという。黒澤明監督も、映画で最も重要なものは脚本だといっていた。
 鈴木清順は極論と断りつつ、
「あんなものはないほうがいい」
 といってはばからない。
 脚本は映画の設計図である。だから重要だ。だめな脚本ではどう頑張ってもいい映画は撮れないという。これは実にまっとうな意見だと思う。
 鈴木清順はそんなことは微塵も思っていないようだ。脚本というのは、ようするにそれによって制作会社がお金の計算をするためのものだという。脚本は制作費の目安にもなるものなのだという。なるほどと思った。そういう見方もあるのか――。
 映画の風景は監督の頭の中にだけあるものだと鈴木清順はいう。脚本で細かい指定をするよりも、監督の想像に任せるほうがいいのだと。
「脚本くずし」
 という言葉があるらしい。
 すべての監督がそうなのか、多くの監督がそうなのか、それともそれは鈴木清順だけの独自のやり方なのかわからないが、脚本をもらうとそこに書いてあることをばらばらにするらしい。ばらばらにした後、想像力でもって再構築するのだという。ひとつの脚本からどれだけ嘘をつけるか、つけるだけの嘘をつく、それがはじまりだという。

カテゴリ: 映画

テーマ: 日本映画 - ジャンル: 映画

[edit]

Posted on 2007/06/15 Fri. 22:29    TB: 0    CM: 0

21世紀の松山容子(綾瀬はるか) 

 今朝テレビを見ていたら、綾瀬はるか主演で少女版座頭市を撮るらしい。あるいは女性版座頭市というべきだろうか。
『ICHI』というタイトルで、《市》をローマ字で書くあたり、若年層を狙っている感じがする(笑)。
 座頭市の女性版は、しかし、綾瀬はるかが第一号というわけではない。
 松山容子さんという女優をどれだけの人がいましっているのかわからないが、彼女が第一号のはずである。ぼくがはじめて松山容子さんを見たのはテレビ番組『琴姫七変化』だった。ぴんと来ない方には、ボンカレーのCMでおなじみのあの美人さんといえばわかるだろうか。いまでも田舎の方にいくと、容子さんのブリキの看板があったりする。そうだ、ボンカレーのパッケージはまだ容子さんではなかったか。
 ぼくは『旅がらすくれないお仙』が好きだった。大信田礼子さんも、時代劇とは思えない、もの凄い刺激的な格好で出ていた。いってみれば女性版月影兵庫と焼津の半次といった取り合わせで、小太刀をつかった容子さんの殺陣がかっこよかった。
 その容子さんが主演の『×××のお市』というシリーズがあり、これが女性版座頭市だった。「×××」の部分はいま公に口にすることのできない文言だ。だから、このシリーズはテレビでも放送されない。なにせタイトルからして伏字にしなければならない。
『×××のお市』シリーズは映画で三、四本あったのではないだろうか。映画は聞くところによると、ひどい代物だったらしい。ぼくが見たのはテレビシリーズだったが、こちらはなんだかお子様向け時代劇みたいで、あまりできはよくなかった印象がある。また見てみたい気もするが、このタイトルではとても再放送は無理だろう。

 その後、容子さんは似たような役を『暴れん坊将軍』でも演じていた。盲目で仕込み杖を持った瞽女(ごぜ)さんの役だった。
 この人は抜群に立ち回りがうまかった。『暴れん坊将軍』のなかで敵の屋敷にひとり乗り込み、大立ち回りをするのだが、そのとき、廊下の蝋燭を次々と切り落としていく場面があった。ここは文句なしだ。座頭市とおなじ逆手斬りで、体を回転させるようにして斜め上の蝋燭の頭を切り飛ばすのである。
「凄いぞ!」
 と、思わずテレビ画面に向かって声援を送りたくなった。
 容子さんを見ていると、殺陣のうまい下手というのは、ある程度生まれつきのものかもしれないという気がする。
 綾瀬はるか演じる『ICHI』は三味線を背負って登場するらしい。ここも如何にもである(^_^;)。
 聞くところによる、綾瀬はるかはスポーツ万能だという。しかし、殺陣というやつは運動神経はもちろん重要だろうが、踊りのセンスもいるように思える。
 とにかく、期待しよう。
 綾瀬はるかは21世紀の松山容子になれるだろうか。

カテゴリ: 映画

テーマ: 邦画 - ジャンル: 映画

[edit]

Posted on 2007/06/14 Thu. 16:46    TB: 0    CM: 5

主義なら上々颱風主義 

 ぼくは上々颱風というバンドが昔から好きだ。
「愛はメロディ、リズムは命」
 と彼らは歌っているが、楽曲の躍動感は、その歌詞の通りだと思う。
 これは音楽の素人の言葉だと思って聞いていただきたいが、リズム感の有無というのは恐ろしいものだと思うことがある。スローテンポの曲を演奏するときでも、そこにきっちりとしたリズムがあるのかないのか、リズム感を持っているかどうか、違いがはっきりと出る。美空ひばりという人は稀代のリズム感の持ち主だったという。スローな曲を歌っても、決して間延びした印象を与えなかった。

 ぼくが上々颱風がすきな理由はいくつかあるが、そのひとつに、彼らが懐かしい匂いを持っているということがあげられる。昔懐かしいフォークソングの匂いだ。岡林信康、高田渡、ジャックス、高石友也、中川五郎、遠藤賢司、三上寛……その他数多のフォークシンガーたち。ニューミュージックが登場する以前の、音楽を演奏することが目的なのか、それとも社会に対して自己の主張を展開することが目的なのか、よくわからなかった時代の匂いだ。
 ぼくはまったく矛盾している。かつてフォークシンガーのコンサートでは、演奏そっちのけでディスカッションがはじまり、それが延々と続くということがあったという。ぼくはそんな場面に遭遇したいとは思わない。が、その一方で、コンサートでそういうことが当たり前――ではないにしても、わりと頻繁におきていたらしい時代に、一種の憧れのようなものを感じる。
 もう一度いうが、これは矛盾しているし、ずいぶん都合のいい話でもある。ごめんなさいm(__)m。
 とにかく、ぼくの身勝手な気分の問題は、まあ個人的なことなので許してもらうとして(^_^;)、ぼくにとっての上々颱風は、そういった懐かしい時代の匂いを感じさせる存在であることは確かだ。
 それは、リーダーである紅龍の個性なのだろう。
 この記事のタイトルに使った『上々颱風主義(森口秀志著)』は1994年に出版された彼らに関する書籍のタイトルである。
 この本の中に、メンバーのインタビューが掲載されている。
 紅龍のインタビューを読んでいると、彼があの時代(ぼくの知らないあの時代)と歩調を合わせるようにして生きてきたらしいことがわかる。

カテゴリ: 上々颱風

テーマ: 日記 - ジャンル: 音楽

[edit]

Posted on 2007/06/13 Wed. 21:37    TB: 0    CM: 0

つけるだけの嘘 

 少し前に鈴木清順について書いていたが、もしかするとこの人は、創作の本質について語っていたのかもしれないと最近思うようになってきた。
 ある男がいて、画面を右から左に横切る。あるいは左から右に横切る。なんだかムーディ勝山の唄みたいだが(笑)、とにかく映画はそれしかないと言い切った人物をぼくは知らない。画面を右から左に横切る男にケレンを加えるだけだというのである。
 考えてみると映画はそれだけのものかもしれない。超大作もVシネも、映画史に残る名作もカルトな一本も、画面の中で誰かが、あるいは何かが右往左往しているという点では同じである。名作か駄作かは見せ方だけのことだ……というのはいいすぎかな(笑)。

 以前、エンターテイメントというのは、単純な方がいいという話を聞いたことがある。『ジョーズ』という映画は人食い鮫と人間の戦いである。たったそれだけだ。『激突』はトラックと乗用車の戦いである。『地獄の黙示録』も鈴木清順ふうにいえば、川を遡って、怪物に出会う映画だろう。
 誰かが誰かと戦う。誰かが誰かを好きになる。誰かが誰かを憎む。
 ストーリーは陳腐でもいいわけだ。
 あるいはどんなものでも結局、物語は陳腐なものなのだという気がする。斬新さが宿るのは見せ方だ。

 この記事のはじめの方に「ケレン」と書いた。
「ケレン」というのは「外連」と書くらしい。意味は、宙乗り、早変わり、といった歌舞伎の派手な演出のことだ――ということは、みなさん知っていると思う。
 歌舞伎の語源は「傾く」であることも有名。ようするにリアリズムを蹴散らすような演出が身上だったようだ。変わりはじめたのは明治時代、九代目團十郎が西欧のリアリズムを取り入れて歌舞伎を高級なお芝居にしようとしたことだったらしい。ケレンは邪道になってしまったが、近年猿之助さんで復活した。

 歌舞伎のことはさておき、わかりやすい物語をあの手この手で見せる。そのためなら、あからさまな嘘も、嘘のようなほんとうも、とにかく何でもありだ。やっぱり楽しいのが一番だと思う。もちろん楽しみには色々な種類がある。黒澤の楽しさ、フェリーニの楽しさ、ポランスキーの楽しさ、トリフォーの楽しさ、ヒッチコックの楽しさ等々。面白さや楽しさは決してひとつではない。みんな嘘がうまかった。
 つけるだけの嘘をつくといったのも鈴木清順だ。

カテゴリ: 映画

テーマ: 映画関連ネタ - ジャンル: 映画

[edit]

Posted on 2007/06/11 Mon. 22:52    TB: 0    CM: 0

光と影 

 いまさらういうのも気が引けるが、ぼくは淀川長治というひとが好きだった。
 その淀川さんが映画『ロミオとジュリエット』についてこんなことをいっていた。
 純愛物語ではあるが、もうひとつの見方がある。ようするに年端も行かない少年少女の火遊びである。シェイクスピアは純な幼い恋を描きつつも、幼い恋の危うさも描いている。もし、ロミオとジュリエットが大人なら、あんな悲劇的な結末は迎えなかったかもしれない。
 これには目から鱗が二、三枚落ちた。もちろん、物語として『ロミオとジュリエット』はすぐれている。しかし、見方を変えれば、子供の火遊びでもあるのだ。

『風と友に去りぬ』についても、淀川さんはその映画としての面白さを認めつつも、別の見方を示してくれた。
 あの映画の登場人物設定は単純に過ぎる。
 もちろん、この通りの表現ではないが、そういう意味のことをいっていた。これは間違いない。人間はあの映画の登場人物のように単純にはできていない。たしかにその通りだろう。自分について考えてみればわかる。

 すっきりとしてわかりやすいものは面白い。
 しかし、現実はもっと複雑だ。池波正太郎氏が人間について、
「良いことをしながら悪いことをして、悪いことをしながら良いことをするもの」
 と、書いていたが、そうだと思う。
 絶対の悪人もいないし、絶対の善人もいない。
 現実は様々な要素が複雑に絡み合ってできている。そんなことは知っていると思いつつも、ぼくは現実をドラマのように眺めようとしている。
 たとえばワイドショーの再現ドラマの類もそうだ。
 ぼくは根が単純だから、ついその面白さに引き込まれてしまう。特に再現ドラマの主人公が同じ画面に映っているとき、それがほんとうに主人公の身の上におきた出来事のごとくに感じてしまう。
 それは正しくフィクションである。ある人間の体験をモチーフにした虚構だ。

 現実をフィクションに仕立て、あたかもそれが現実であったかのごとく見せようとしているあのやり方はあまりにもあざとい。あざといことは許すにしても、ぼくがいやだと感じるのは、誰かを持ち上げるために誰かを悪人に仕立てることだ。
 主人公を排除しようとした連中、主人公の立場に理解を示さない連中、主人公に謂れのない非難を浴びせた連中、世の中の人間はそんなに無理解で偏狭なのかねといいたくなってくる。再現ドラマのなかで悪者に仕立てられた人は、ほんとうにそんなに悪い人間だったのだろうか。
 逆に主人公はそんなに善良で優しい人間なのだろうか。立場が変わったとき、彼は、あるいは彼女は、その悪者たちと同じことをしなかったとどうしていえるのだろう。
 人間が光の部分ばかりでできているはずがない。影の部分は誰にもある。そんなことはわかっているとぼくは思いつつ、しかし、一方で主人公に悪さをする連中を、なんてひどい連中だと思う。ある状況下では善人になるが、ある状況下では悪人にもなる。それが人間だということを、ぼくはわかっているつもりで忘れがちになる。
 世の中を単純に色分けすることはできない。そのことは、忘れないでいよう。自分に言い聞かせている。

カテゴリ: 日記

テーマ: TV - ジャンル: テレビ・ラジオ

[edit]

Posted on 2007/06/09 Sat. 22:56    TB: 0    CM: 0

言葉の世界 

 ぼくは道元という人についてほとんど知らない。まったく知らないといってもいい。興味のある方は、ウィキペディアで道元を調べてみてくださいm(__)m。――でもこれだけだとあまりに不親切なので、曹洞宗の開祖である。つまりお坊さんだ。

 とにかくぼくは道元について何も知らない、ということを前提にこれを書く。
 まったく知らないが、しかし、最近、もの凄く興味がわいてきた。というのも、長く本棚の奥で眠っていた、井上ひさし氏のエッセイを偶然見つけ、またぱらぱらと読みはじめたからだ。
「道元は難しい」
 と、井上氏はいう。
 道元という人は、内的体験を書こうとしたという。言葉は不完全なものだが、その言葉を使って、自分の「精神の劇(井上氏はこう書いている)」を書こうとしたのが、道元なのだという。人間の精神はどんな人のものであっても特殊だ。複雑怪奇で矛盾に満ちているが、それでも、いや、であるからこそ興味が尽きない。
 道元は自身の内的体験を言葉で表そうとした。
 それは道元にしかわからない言葉の羅列で、最初から誰にでもわかるという種類のものではないと井上氏は続ける。道元は誰かに伝えたくて文章を書いたのではなかったとさえいっている。井上氏は過激だ。道元は自分の発見したものを再確認するために、文章を綴ったということだ。
 かつて淀川長治氏が芸術を理解するためには格闘がいると書いていた。簡単にはわからないのだという。格闘して、ある作家がなぜそういう表現にたどりついたのか、なぜそうならざるをえなかったのか、それを知ったときの喜びは何事にも変えがたい。だから、難解なものも避けずに真正面から挑み、戦って、掴み取るべきなのだという。利益はうまないかもしれないが、その喜びは何事にも変えがたいのだと――。
 井上氏も同じことをいっているように思う。
「書物を読むという行為は、言葉から入って、文章を仲立ちに、書き手の心の生活にたどりつくことだ」
 これはやはり、道元を読んでみなければなるまい――うん。

カテゴリ: 読書

テーマ: 本とつれづれ - ジャンル: 本・雑誌

[edit]

Posted on 2007/06/07 Thu. 23:48    TB: 0    CM: 0

二宮尊徳(金次郎)を見たことのある人、ハイッ! 

 二宮金次郎さんの像をみたことのある人、手を上げてください。

「ハイッ!」
 と、ぼくは手を上げる。小学生のころ、ぼくの通っていた学校には二宮金次郎さんの像があった。この像は、たぶんどこでも同じポーズだったのだろう。薪を背負い、歩きながら本を読んでいる。まさに運動の瞬間をとらえた像だが、ようするにこの像のいわんとするところは、刻苦勉励を重ね偉い人になれということなのだろう。残念なことに、ぼくはいまのところ偉い人になっていない。

 ぼくが二宮さんについてしっているいくつかの事柄は、まずその体格である。
 身長は182センチ。体重は94キロ。足のサイズ26.5センチ。いまならそれほど珍しくないのだろうが、二宮さんは江戸時代の人である。
 圧倒的に頑健な肉体の持ち主だったらしい。野宿というか、道端でごろ寝をしても平気だったというから恐れ入る。
 二宮金次郎さんが、ではなにをやった人かといわれると、どうも具体的な姿が浮んでこない。ぼくもそうだった。
 金次郎さんは確かに勤勉な人ではあった。極貧の中から身を起こし、土地を手に入れ、小田原藩の家老の屋敷に中元として奉公までするようになった。だが、そうなると当然、村の共同作業には参加できなくなる。田畑の工作は他の農民にまかせて、自分は中元奉公である。ところが、日本の農村には共同作業が多い。村総出で行う作業である。二宮金次郎さんの共同作業への出席率は悪かったようだ。こうなると、
「農民としての二宮さんてどうなのよ」
 と、首を傾げざるをえない。
 あの背負っている薪にしても、実はかなり怪しい。出所ではない。怪しいのは行く先だ。年少のころの二宮さんは土地を持っていなかった。ではどこから薪をとってきたのか? この点について司馬遼太郎氏は、日本の農村には入会山というものがあって、そこからは誰もが薪をとってくることができたと書いておられた。
 それはその通りなのだが、ここにはひとつ条件がある。そこでとる薪は、その村で生きている農民たちが、自分たちの生活のために使うのである。
 二宮さんは、どうも自分のために薪を使わなかったらしい。何をしたかといえば、小田原城下に入会山からとってきた薪を売りにいったらしいのである。もちろん、司馬遼太郎氏はこのあたりのことを知っていたのだろう。入会山というものを説明するために二宮さんの例を引いてくださったのだろう。
 が、とにかく、二宮さんのしていたことは一種の泥棒行為である。二宮さんが自分で使うからこそそれは許されるのだ。当然、二宮さんは薪を自分のために使うだろう。するとこれは二重取りである。誰にか売れば、その売った分、他の農家の人たちの取り分が減るということになる。
 他にもまだまだある。詳しいことは省くが、たとえば免税地を選んで農作物を作ったり、自分では田畑を耕さず人任せにして、自分は家老の屋敷で中元奉公となると、思わず、
「ええ? 二宮金次郎さんってそんな人だったの?」
 ということになる。

 もちろん、二宮尊徳さんはこれだけの人ではない。ネガティブなことばかり書き連ねたが、体格だけではなく、あらゆる意味で大きな人なのだ。お大名の財政立て直しもした。その細緻な方法については勉強嫌いのぼくではとうてい太刀打ちできないので書きません。間違えた、書けませんm(__)m。
 とにかく、人を一面だけでとらえるのはやめたほうがいいと、二宮尊徳さんのことを考えるたびに思う。そんなことはわかっている……と、ぼくは思っていた。でも、ほんとうにわかっているのかどうか、いまひとつ自信が持てなくなってきた。マスコミでも、ある特定の人物を取り上げて、持ち上げたり落としたりと、それはそれは忙しい。ぼくもそれに乗っかっているときがある。単純だからかな(^_^;)。

 良いところだけの人間もいなければ、悪いところだけの人間も、たぶんいないのだろう。
 時代劇ファンのぼくとしては一度、こういった時代劇、現実の人間を取り上げたドラマをつくってもらいたいような気がする。たとえばNHKの大河ドラマなんかで、果敢に視聴率を気にせず、制作してもらえないものだろうか。
 テレビ歌舞伎のようなドラマ――それはそれで楽しめばいいのだが――ばかりではなく、現実にあったある時代を生きた、ほんとうの人間のドラマ。そんなものも、あっていいような気がする。
 てはじめに、『実録・二宮尊徳』なんていかがですか?
 で、第二弾として『真実の宮本武蔵』ときて、最後に――
『ドキュメント・元禄忠臣蔵』
 きっと楽しいと思いますが、ぼくだけかな……^^;

カテゴリ: 時代劇

テーマ: NHK - ジャンル: テレビ・ラジオ

[edit]

Posted on 2007/06/06 Wed. 21:00    TB: 0    CM: 2

必殺十手術 

 テレビで捕り物帳などをみていると、十手というのものが武器としてどれほどの威力があるのかよくわからない。というか十手術なるものがこの世に存在していること自体、あまり知られていないのではないだろうか。
 かくいうぼくもそういうものがあるらしいことは知っていたが、詳しくは知らなかった。

 十手術は現在にも伝承されているということだ。いくつもの流派が存在しているらしい。三十いくつもあったらしいが、いまはどうなのだろう。八大将軍吉宗のころに、十手術の再編が試みたられたらしい。それまでは町方同心が各流派をめいめいに使っていたらしく、それでは都合が都合が悪いということで統一されたらしい。
 テレビで見ていると、十手は力任せに相手を引っ叩くだけの武器のようにみえるが、実際は合理的な体術だったらしい。鉤の部分を利用して、相手の刀をもぎ取ったり、投げ飛ばしたり、腕を決めたりと、それはもう見事なものらしい。
『無用ノ介』で十手術が登場したとき、刀では絶対に勝てないと無用ノ介に冷や汗を流させる場面があったが、絶対にとまではいかないまでも、刀に対してかなりの強敵だったようだ。

 風間壮夫が銭形平次を演じたとき、十手術を基本にした殺陣を使ったという話をどこかで聞いたことがあるが、あのときの風間平次の十手の構え方は、たしかにそれまでの捕り物帳では見られなかったものだった。風間平次は十手を逆手で構え、十手を持つ手の手首を開いている手で握るという構えをしていたような気がする。ああいう構えはほんとうに十手術にあるのだろうか。
 宮本武蔵も十手術を使ったという。武蔵の父親は十手術の達人だった。武蔵の二刀流は十手術が原型になっているという話もあるくらいだ。左手の十手で相手の刀をもぎ取り、右の刀で斬る――というのはいかにもありそうな話である。
『カムイ伝』に無人流という小具足術と剣術を合体させたような流派が登場する。そこで武蔵の二天一流に触れている部分があり、二天一流も小具足術と剣術を合体させたようなものだったという白土風解説があったが、実際はどうだったのだろう。十手術が基本にあったというのはありそうなことだと思う。
 バロン吉元氏が描いた宮本武蔵は十手剣という十手と刀を合体させたような小刀を使っていた。もちろんフィクションだが、これもいかにもありそうなアイデアだった。

カテゴリ: 時代劇

テーマ: 歴史・時代小説 - ジャンル: 本・雑誌

[edit]

Posted on 2007/06/05 Tue. 23:28    TB: 0    CM: 0

刑事ドラマと時代劇 

 刑事ドラマと時代劇は似ていると思うときがある。どちらも架空の現実を描いているという点でだ。もちろん、ドラマは全て架空の現実であるわけだが、この二つに共通している点は、よってたつその足元そのものが嘘であるというところだと――こじつけていえばいえなくもない。

 (^^ゞ――「刑事ドラマと時代劇は似ていると思うときがある」というのは、ずいぶん奇を衒ってますね(笑)。

 でも、たとえば時代劇の『水戸黄門』は天保時代の風俗であると聞いたことがある。乏しい知識を総動員して見ていると、そうかなと思うときがある。つまり、水戸光圀が存在しなかった時代に水戸光圀を持ってくることで、あの時代劇は成立しているわけだ。
 刑事ドラマも、所轄署が舞台になることが多いが、所轄の刑事さんがあんなに事件を捜査して、解決していくことはありえないものらしい。高村薫さんの『マークスの山』という作品は、リアリティあふれる警察小説ということだが、読んでいて捜査のものどかしさにいらいらしたことをおぼえている(笑)。『太陽にほえろ』や『西部警察』の刑事さんなら、
「バンバン撃って事件を解決してるぞ」
 と、エールを送りたくなった(笑)。
 現実をナマなかたちでみせると、ある種の感動をおぼえることはあるが、この手は長く使えない場合が多い。その場は感動しても、長く見せられていると、気が重くなってくることがあるからだ。
 そういう意味でいえば、なにも本物であることは少しもない。
「本当のことなんて何も面白くない。わたしは嘘が好き!」
 というセリフを前に何かで読んだことがあるが、たしかに嘘には効能がある。

 青島君が大活躍した刑事ドラマ『踊る大捜査線』は微妙にリアリティをちりばめることで成功したドラマだと思う。所轄の刑事さんたちの微妙な立場や、キャリア組との軋轢やら、そのあたりを描くことで、物語にふくらみを持たせることができた。
 余談ながら我らが俊ちゃん、矢作俊彦氏は『リンゴォ・キッドの休日』で、警察におけるキャリア組についてさらりと述べている。
『踊る大捜査線』はぼくも楽しく観たドラマだったが、ひとつだけ気になる点があった。
 青島君は自分の法律――自分のルールで行動するという。
「ちょっと待ってくれ」
 といいたくなる。
 青島君は刑事である。警察官だ。大きな権力を持った者が自分のルールでこられることほど怖いことはない。
 ぼくにそのことを気づかせてくれたのは、矢作俊彦氏のエッセイだった。アメリカをトヨタで走る徒然を書いたエッセイで、警察官が「おれのルール」でくることの怖さについてちらっと触れている部分があったのだ。『踊る大捜査線』を見るずいぶん前にそのエッセイを読んでいた。ドラマの最終回、青島君と自分のルールについて熱く語る場面があったが、
「おいおい、ほんとうにそれでいいのかよ」
 と、思わずこちらから呟いていしまった。
 大きな力を持ったものは、強い制限を受ける。それは仕方のないことだと思う。
 ただ、そういう点はあるにしてもぼくは『踊る大捜査線』を面白く見た。あれは刑事ドラマのひとつの分岐点になるドラマではあったと思う。

カテゴリ: テレビドラマ

テーマ: テレビドラマ - ジャンル: テレビ・ラジオ

[edit]

Posted on 2007/06/04 Mon. 09:42    TB: 0    CM: 3

フォークソングの別れ道 

 ニューミュージック以前、フォークソングと呼ばれるジャンルがいま(当時のいま)の音楽として存在していたころのことを、ぼくはかろうじて知っている世代に属する。メッセージ性の強い歌がそれなりに存在意義を持っていた時代だった。
 1973年に『沖縄フォーク村イン東京』というイベントがあったらしい(当時なんとかフォーク村というのがあちこちにあった。ちなみに吉田拓郎は広島フォーク村だ)。そのイベントは頭に『戦争しか知らない子供たち』というタイトルがついていたらしい。ようするに、
「沖縄の戦争はまだ続いている」
 という意味をもたせたコンサートだったらしい。
 このとき、高田渡が物議をかもす発言をして、コンサートが中断して、討論会になった。『朝まで生テレビ』のスタジオではない。政治的集会の場所でもない。コンサート会場である。そういう時代だったといえば、そういう時代だった。

 このあたりのことについては、『日本フォーク私的大全』というなぎら健壱氏の著書に詳しく書いてある。面白い本なので、お勧めです。

 フォーク歌手がただの人気者として存在しているのではなく、社会に対する一種の発言者のような役割を担っていた。実際にそうだったのかどうか、当時ぼくはまだ子供でよくわからなかったが、そういう意識を持っていたミュージシャンたちも多かったのだろう。
 分岐点は吉田拓郎だという感じがする。これはぼくが勝手にそう思っているだけのことで、実際にはちがうのかもしれないが、とにかく吉田拓郎の『結婚しようよ』が大ヒットして、フォークソングというのは社会性の高い内容の歌を唄うものだという思い込み(ぼくだけのですよ)を見事に打ち砕いた。あの瞬間に、ぼくのなかで時代はニューミュージックへと舵を切った可能性がある。ニューミュージックという言葉はそのころまだなかったから、軟派のフォークソングを認識したというべきだろうか。とにかく、そういう存在があることを知った。社会性がなくても、私的な内容の歌を一生懸命歌うことも別に悪くないということを、わからせてくれた存在が吉田拓郎だった。

 当時、吉田拓郎はテレビに出なかった。拓郎が出ないということで、それが当時の若者に支持を受けていたミュージシャンのひとつのスタイルになった。
 先日、NHKBSで泉谷しげるのライブが放送されたが、そのなかで泉谷しげるは、
「おれはテレビに出たかった」
 と笑いながら発言していた。吉田拓郎がテレビ局で喧嘩をしてラジオには出るがテレビには出ないといって迷惑したともいっていた。
-- 続きを読む --

カテゴリ: 音楽

テーマ: なつメロ - ジャンル: 音楽

[edit]

Posted on 2007/06/02 Sat. 22:35    TB: 0    CM: 0

脳みそのソテー 

『ハンニバル・レクターのすべて』という本を持っている。
 映画『ハンニバル』公開にあわせて出版された、露骨にいえば宣伝用の出版物なのだろう、脚本を一挙掲載という帯の文句に惹かれて買ってしまった。外国映画のシナリオを読んでみたかった。英語がさっぱりなぼくはとても原文のシナリオは読めない。日本語で読んで、雰囲気だけでも知りたかった。

 読んでみて、日本のシナリオとはずいぶんちがうと思った。
 具体的にはト書きの部分がずいぶんちがう。
 外国映画のそれはまるで小説のようだ。詳しく場面を描写してある。日本のシナリオと外国のシナリオ、どちらがいいのかわからないが、ぼく的にはアメリカのシナリオの方が読んでいて楽しかった。
 つまり読み物として面白いということである。日本のシナリオも専門家が読めばきっと面白いのだろうが、素人のぼくでは面白さを鑑賞するまでに至らない。『ハンニンバル』のシナリオは小説とシナリオの中間のようだった。はたして映画のシナリオに、そこまでのものが必要なのかどうかということも、ぼくにはわからないが、この書き方だと、シナリオは分厚くなるだろうと思う。
 アメリカで『ウルトラマン』の映画化の企画が持ち上がったとき、日本に送れられてきたシナリオは相当分厚かったらしい。実相寺監督が書いていた。
 映画『ハンニバル』は観たが、それほど面白いとは思えなかった。シナリオを読んだときの印象とはちがった気がする。

『ハンニバル・レクターのすべて』には「最後の晩餐」が再現されている。しかも写真付である。写真を眺めても、味を想像することができないあたりが情けないところだが、豪華であることはわかる。
 その料理のなかに「脳みそのソテー」がある。
 ちなみにこの脳はもちろん人間のものではない(^^ゞ。――当たり前だろう。
 仔羊の脳らしい。氷水に脳を浸して固め、パン粉でくるむ(と、本には書いてある)。それを素早く炒める。ソースは狐色に焦がしたバターに、エシャロット、黒トリフなどを混ぜたもののようだ。いよいよ味が想像できなくなってくる(;一_一)。
 とにかくトーストしたブリオッシュの上に脳のソテーを乗せて、刻んだ黒トリフをかけて出来上がりということである……っていったいどんな味なんだ。味については一応書いてあるが、完全にお手上げです(笑)。
 前にWOWOWで料理番組を流していたことがあった。ずいぶん前のことだが、そのとき、材料に《豚の血》というのがあって、「どうするんだよ」と思ったことがあるが、あれに似た感じだ。想像もできない味というのはたしかにあるのだと、いまさらながら認識した次第である。

カテゴリ: 読書

テーマ: 読んだ本。 - ジャンル: 本・雑誌

[edit]

Posted on 2007/06/01 Fri. 23:42    TB: 0    CM: 0

プロフィール

最近の記事

月別アーカイブ

最近のコメント

最近のトラックバック

カテゴリー

FC2カウンター

メールフォーム

ブロとも申請フォーム

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。