Gitanの趣味

ひたすら趣味の道を走っています(ニヤリ)

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ケーキの切れ端 

 今日は人生について考えてみたい(-。-)y-゜゜゜

 と、その前に、『Strangers on a Train』とこのタイトル。
 言わずと知れたヒッチコックの『見知らぬ乗客』である。
 ところがヒッチコックは、こういう悪戯をしたことがあるらしい。
『Stranglers on a Train』
《G》と《E》の間に《L》を加えた。実際にはこの《L》は人の足だったらしい。『見知らぬ乗客』のなかで、見知らぬ二人の男が列車のなかで知り合うきっかけは、脚が偶然あたったことだった。ちょっとした悪戯だが、そうすると綴りが《Stranglers》に見える。
「Stranger」なら見知らぬ人だが「strangler」なら絞殺人だ。
 列車に乗っていたのは他人同士ではなく、絞殺魔どうしだったいうわけだ。
 これが悪戯なら、ヒッチコックは悪戯の天才だ。にやりとさせて、さらりと映画の内容までタイトルに忍ばせている。これは交換殺人を扱った映画だった。状況を考えると、《にやり》としたあと《ひやり》とする。
 ヒッチコックという人は、大上段に振りかぶるようにして人生を語ったりしなかった。ひたすら犯罪とそれに巻き込まれた人間のすったもんだを、魅力たっぷりに描いてみせた。
 ぼくは人生や思想を語る映画を好まない。仮にそういうものを語るにしても、見せ方がへたくそな映画は見る気がしない。高尚なテーマについて語るへたくそな映画よりも、無内容なすぐれた映画を選ぶタイプである。
 ただし、ぼくとまったく異なる映画を好む人を非難しようとは思わない。そういう映画の存在を否定しようとも思わない。

 ヒッチコックの映画を見ていると、映画というのはつくづくアイデアだと思う。
『海外特配員』という映画のなかで飛行機の墜落シーンがある。海に突っ込んでいく飛行機。海が近づいてきて、機種が海面に突っ込んだ瞬間、大量の水が機内に飛び込んでくる。ヒッチコックは実際の水を使ってこれを撮影した。近づいてくる海はスクリーンに映し出されている海だ。流れ込んでくる海水は、スクリーンを突き破って流れ込んでくる本物の水なのだ。
 我らが黒澤明も卓越したアイデアマンだった。血飛沫に斬殺音。それまで誰もやらなかったことをやってのけた。
 目新しい物語があるわけではない。ありふれたお話でいい。それをどんな手練手管で見せてくれるのか、そこに期待が膨らむ。
 ヒッチコックの台本は、細かい書き込みでびっしりと埋め尽くされていたらしい。すべて演出プランだったという。監督がその場にいなくても、撮影できるほどのものだったらしい。

 さて、ケーキの切れ端だが、ヒッチコックはこんなことをいっていたらしい。
 すぐれた映画はたしかに人生の断面を切り取ってみせる。わたしの映画? ケーキの切れ端だ。
 イングリッと・バーグマンには「たかが映画」だといい、さらには自分の作品をケーキの切れ端だといってのける。揺るぎない自信にささえられていたとしか思えない。
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カテゴリ: 映画

テーマ: 洋画 - ジャンル: 映画

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Posted on 2007/05/31 Thu. 22:20    TB: 0    CM: 0

曲がる刀は怖くない 

 とにかく時代劇ネタがまだ続く。いよいよ、精神的ストーカーの本領発揮である(笑)。

 曲がる刀は怖くない……の話をする前に、鉄砲と槍と投石(礫)である。何かというと、戦国時代の死傷者の死因の順位だそうである。これをみて気づいたことがある。つまり敵に致命的な攻撃を与える武器は、礫は意外だったが、それ以外はいわれてみれば納得できそうなものばかりだということだ。
 戦場で刀はあまり役に立たなかったようである。時代劇などでみていると、鎧越しにばっさりと切っている場面が出てくるが、とんでもない話で、鎧の防御力はそんな脆弱なものではなかったようだ。下手に刀で切りつけても、刃こぼれがするか刀身が曲がるか、それが現実だったようだ。弓矢による攻撃にも鎧は耐えられた。
 しかし、至近距離からの銃撃は、鎧にとって脅威だったという。槍にかんしていえば、兜や胴以外は防ぐことが難しかったらしい。
 石を投げるというのは、いってみれば古典的で単純な方法だが、それだけに効果があったのだろう。
 そういえば『SFサムライフィクション』という時代劇のなかで、無敵の悪役サムライ布袋寅泰に挑む吹越満が使った武器も礫だった。

「曲がる刀は怖くない」
 と、誰かの小説かエッセイで読んだ記憶がある。津本陽氏の作品だったろうか。
 ようするに折れる刀よりも刀身が曲がる刀のほうが実用的だということだ。実戦向きというべきだろうか。
 時代劇などを観ていると、折れる刀はときどき出てくるが、曲がる刀という演出は見たことがないような気がする。現実には、刀は曲がるものらしい。
 どんな場合に曲がるか? もちろん人を斬ったときである。
 これは津本陽氏のエッセイで読んだのだが、肉体というのは部分によって硬さが異なる。いわれてみて、はたと気づく種類のことだが、たしかにそうだ。皮膚、筋肉、骨――と、刀は順番に斬って行く。硬度のちがう部分にあたると刃筋が狂う。すると、刃こぼれがおき、刀身が曲がるものらしい。
 笹沢佐保氏が橋幸夫の名曲『潮来の伊太郎』を小説化したことがある。そのなかで、刀で斬るという行為は高等技術で素人にはほとんど不可能だということを書いておられた。
 津本陽氏も斬るということの難しさについて書いておられた。津本陽氏は自身も剣道三段、抜刀道五段の達人ということで、その説明には迫力があった。近代剣道の達人でも、日本刀で人を斬るということは、度胸の問題以前に技術的な難しさがあるものらしい。刃筋が狂うと、たとえば夏服のような薄物を着ているだけの人間でも切れないという。だから、実戦は突きというが、これはどうやらほんとらしい。
 誰だったか記憶にないのだが、たとえば戦国物のドラマ(NHK大河ドラマみたないなやつ)などで、ひと合戦終わった後、足軽雑兵が刀を村の鍛冶屋のようなところにもって行き、カンカンと叩いて曲がった刀身をのばしてもらい、また別の戦場に出かけて行くという場面を入れればいっそうリアリティがますのではないかと書いておられた。
 そういう場面なら、たしかに見てみたい気がする。

カテゴリ: 読書

テーマ: 本とつれづれ - ジャンル: 本・雑誌

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Posted on 2007/05/30 Wed. 21:45    TB: 0    CM: 0

三つにひとつ 

 もちろん手裏剣である(笑)。
 ここしばらく時代劇ネタが続いているが、今日もまた時代劇ネタである。
 手裏剣術というのは業界筋で「三不過術」と呼ばれている。業界筋というのは古武道業界である。手裏剣というのは三本投げて一本あたればいいという程度の命中率らしい。当てることがそれほど難しいものだったという。
 よくテレビの時代劇などで、刀の鍔に刺してある小柄という小刀を投げる場面がある。最近はそういう場面もみかけなくなったが、昔の時代劇ではけっこうあった。近衛十四郎版の『月影兵庫』にはあった気がする。ぼくは最近まで、あの小刀は手裏剣に使用するものだと思っていた。
 ところがである。あれは手裏剣ではないらしい。あれは純粋に小刀で、紙を切る、あるいは楊枝を削るという用途に使用するものらしいのである。刃の部分が軽く、小柄の部分が重く、投げたところで刺さるような代物ではないらしい。このことは時代劇の考証などをしておられる名和弓雄さんが書いておられた。
 話は変わるが、『隠し剣、鬼の爪』は、この小柄を使った暗殺剣だった。「鬼の爪」が実行可能かどうかは別にして、あの使い方は、投げるよりも理にかなっているようだ。
 さて、手裏剣だが、投げるという用途を考えると、重量が重要になってくるらしい。重量が軽くては、遠くまで飛ばないし、殺傷力も落ちる。写真を見ると、実に様々な手裏剣がある。忍者漫画でおなじみのクナイ(あれをどうしてクナイと呼ぶのだろう)のような形のものもあれば、太い針のような形のものもある。
 それにあまり高価なものも手裏剣には不向きらしい。数を持ち歩かなければならない――というのは、はじめにも書いたが、三本投げて一本中程度の命中率では、とにかく数が必要だ。
 こういう話を読んでいると、一口に手裏剣といっても、技として体系化されるためには、先人の苦労があったということがわかってくる。
 現代において手裏剣技を実用で使うようなことはまず考えられないし、そういうことがあってはならないと思うが、これもひとつの伝統芸だ。大切に伝えていってもらいたいものだと思う。

カテゴリ: 時代劇

テーマ: 読書メモ - ジャンル: 本・雑誌

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Posted on 2007/05/29 Tue. 08:29    TB: 0    CM: 4

私家版『葉隠』入門 

 驚いたことに(ってべつに驚くこともないのだが)我が家には『葉隠』という本がある。いまさら『葉隠』についての解説もどうかと思うが、この本は江戸中期頃に出て、鍋島藩でずっと読み継がれてきた武士の心得について書かれた本だ。
 そして、このことも広く知られていることだが、『葉隠』は同性愛についても多く語られている。
 ちなみにぼくの手元にある葉隠は昭和三十九年徳間書店から出版されたものだ。訳者は神子侃氏である。神子氏も解説で、
「葉隠には男女間の恋愛についての話はほとんど出てこない」
 と述べておられる。女性との接し方ということで述べられている話は、不義密通についてのことで、どうも話が明るくない。
 妻が家来と不義をしている現場に遭遇して、妻を斬り殺したが、家名を守るために病死として届けた……というような話だ。気が重くなる。

 ところが男同士の恋愛については、かなり詳しく述べられている。
 若いころには男色関係でたいていのものが失敗をする。失敗といっても「一生の恥」となるような失敗ということであるから、どんな失敗なんだろうと思わず考えてしまう。が、とにかく失敗をするというのである。そこで失敗をしないためにも、心得(男性同士の恋愛について)が必要なのだがいってきかせる人がいない。だから自分が話す、という感じではじまっている。
『葉隠』の著者はいう。情を交わす相手は一生の間にひとりにすべきだと。そうでなければ、男娼や浮気女と同じことで、恥ずかしいことだ。ただ恥ずかしいのではない、武士として恥ずかしいといっているのである。
「念友のなき前髪は縁夫をもたぬ女にひとし」
 と井原西鶴の言葉を引いている。現代語訳にすると、
「いい交わした相手のいない若者は、婚約者のいない女性と同じ」
 ということになる。断っておくがこれは昔の話だ。それにぼくがこういうことを考えているということでもない。
 しかし、あの井原西鶴がこういった発言をしているところをみると、当時同性愛はごく一般的なものだったのだということが、いまさらながらによくわかる。限られた部分ではあるが、現代よりよほど風通しのいい点もあったのだ。
 年長の相手に対しては、五年ほどつきあって気持ちを見届けるようにすすめている。気持ちを見とどけたなら、こちらから交際を申しこんでもいいのだが――ここからが凄い――「互いに命を捨てあう後見なれば」つまりお互いのために命を捨てあう間になるのだから、よく心根を見とどけよといっている。こうなってくると、好いた惚れたも命がけだ。
 さらに、さらにである――ほかに言い寄ってくる者があれば、適当にあしらい、それでもしつこくつきまとうのなら、切り捨ててしまえというのである。
 いまの感覚からするとものすごく過激である。恋愛でなにもそこまでと思うのだが、そのあたりが『葉隠』の『葉隠』たる所以かもしれない。
 訳者である神子氏は、『葉隠』における男女の関係というのは「家」を維持するためのもので、我々の感覚でいう恋愛感情が許されていたのは、同性間においてであったのかもしれないと述べておられる。だからどうしても恋愛についての話も、男同士の関係ということになってくる。男同士の恋愛のほうが、当時は一般的だったのだろうか。

 はっきりと宣言しておきますが、ぼくには同性愛を忌避する感覚はまるでない。本当です。なぜかといえば、ぼくは昔から三輪明宏という人が好きで(丸山明宏の時代から)、この人の歌や発言を感心して聞いているうちに、同性間における恋愛感情というものが決して奇異なものではないと思うようになっていた。まだ子供だった頃、深夜放送にでた三輪さんは本当にかっこよかったです。『白呪』というアルバムが出た頃だったと思う。
「白というのは黒よりも怖い」
 たしかそんなことを仰られた記憶がある(もちろん、その前から『ヨイトマケの歌』に感動したときから丸山明宏という人の存在は知っていた)。とにかくその言葉を聞いて、なんて凄い感性なんだろうと思い、そこから三輪明宏氏のファンになった。はい、CDも持ってます(笑)。

 さて『葉隠』だが、いまのぼくには評価のしようがない。衆道の心得でも、忍ぶ恋でも、あの有名な「武士道とは死ぬことと見つけたり」でも、
「そうですか」
 というしかない。ただひとつ、これはファナティックに武士道を解いた本では決してないということはわかる。
 それともうひとつ思うことは、ぼくたちがテレビや映画で観る、いわゆる時代劇が歴史劇ではないということもわかってくる。『葉隠』もそうだし、朝日文左衛門の『鸚鵡籠中記』もそうだが、そこに登場する武士たちは、当たり前の人間だということも見えてくる。鬼平でも机龍之介でも眠狂四郎でもない。そういう時代劇が、視聴率を稼げるか、あるいは観客を呼べるかという大問題(笑)はあるにしても、ひとつくらい、同性愛がごく一般的な恋愛の形として認められていた時代を、正確に描いた時代劇があってもいいような気がする。

カテゴリ: 読書

テーマ: 読んだ本。 - ジャンル: 本・雑誌

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Posted on 2007/05/27 Sun. 21:38    TB: 0    CM: 0

嗚呼! 忠臣蔵 

 知りあいのブログさんが、忠臣蔵について書いておられた。たいへん面白く、自分でも忠臣蔵について何か書いてみたくなったので、今日は忠臣蔵。
 世界の巨匠、溝口健二が忠臣蔵を撮ったことがある。あの『元禄忠臣蔵』である。この忠臣蔵のあっと驚かせるところは、完璧な時代考証、完全に再現された松の廊下……と、それもあるが、もっと驚かされるのは、討ち入り場面がなかったことである。リアリティを重んずる巨匠は、実際に体験したことのない剣戟の場面を撮ることはできないといって、討ち入り場面を撮影しなかった。どういっていいのかぼくにはわからないが、嘘でチープでもいいから、討ち入り場面のある忠臣蔵をぼくなら観てみたい。
 その忠臣蔵の討ち入り場面は、雪が降ることになっている。
 しかし、雪は降っていなかった。寒かったが快晴だったらしい。
 それから四十七士は家事装束と決まっているが、これも嘘である。服装も武器もてんでばらばらだったらしい。もちろん山鹿流の陣太鼓「一打ち、二打ち、三流れ」も嘘である。

 忠臣蔵という物語は、いってみれば絶対の矛盾の上に成り立っている。
 ことのおこりは勅旨饗応役をめぐる騒動である。勅旨饗応役の浅野内匠頭が切れて、刃傷沙汰に及んだ。結果、肝心要の勅旨饗応役はいったいどうなってしまったのか。誰かが代理を務めたのだろうか。
 問題は浅野さんが刀を振り回したことよりも重要だったはずだ。ところがその問題は刃傷事件で、どこかにすっ飛んでしまって、以後物語のなかでどうなったのか語られることもない。語られたかもしれないが、ぼくの印象に残らないほど、扱いが小さかったわけだ。
 またそこで大石さんが、
「して勅旨饗応役は?」
 ときいて、誰かがすかさず、
「そちらのほうはつつがなく」
 とでもこたえ、
「それはけっこう」
 と大石さんがうっかり返事をしてしまったら、物語はそこで終わってしまいかねない。
 高家筆頭で、ずいぶんひどい扱いを受けている吉良さんは、平たくいえば儀典長というところか。すると、浅野内匠頭にきっちりとしたことを教えなかったとなると、責任を問われる立場である。勅旨饗応役の浅野さんが粗相をすれば、いったいなにを教えていたんだと批判されるかもしれない。絶対の矛盾というのはここだ。たんに浅野さんに意地悪をしてやれだけではすまないのだ。ぼくが吉良さんの立場なら、はらわたが煮えくり返っていても、浅野さんに意地悪をすることは絶対にいない。それはそうだろう。めぐりめぐって責任を問われかねない。

 しかし、そういったことをみんな忘れさせて物語りにどっぷりと浸かれるほど、忠臣蔵という物語はよくできている。

知りあいのブログさんの忠臣蔵の記事はこちら
    ↓
http://himawari-gumi.cocolog-nifty.com/blog/2007/05/post_a439.html

カテゴリ: 映画

テーマ: 日本映画 - ジャンル: 映画

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Posted on 2007/05/26 Sat. 23:31    TB: 1    CM: 4

ペットセメタリーの不思議さ 

 S・キングの作品のなかで『ペットセメタリー』という作品がかなり好きだ。S・キングベストテンを選ぶとすれば、たぶんかなり上位に位置するだろう。もちろん、ぼくのなかでのお話だ。
 話を少しもどすが、ぼくは鈴木清順の映画を、私小説でも読むような気分で観ていると昨日書いた。それと同じ感じをS・キングという人の小説に持つことがある。
 で、『ペットセメタリー』である。
 読んだ人も多いと思うし、映画化もされているから観た人もいると思う。ようするに、これは子供が死ぬ話である。だから、極めて後味が悪い。それでもこの小説が好きなのは、人間の心の奥底にある、なにか黒々としたものを感じるからだ。
 小椋佳に『ほんのふたつで死んでいく』という曲がある。これは自分の子供が二歳のときに作った曲だという話をどこかで聞いたことがある。だから、家族の評判はすこぶる悪かったという。
 つまりそういうことだ。幸せを願いつつ、同時に幸せをぶち壊すようなことを考える。人間のなかにはたしかにそういう理解不可能、あるいは制御不能な、マイナス衝動のようなものがあるようだ。
『ペットセメタリー』に黒々としたものを感じるのは、呪われた土地に子供の死体を埋めて、甦らせようとする親の悲しい狂気を描いているからではない。子供を事故死させ、それを甦らせて、人を殺させ、親自身の手でまた子供を殺す。S・キングは二度、子供を殺し、それだけでは飽き足らず、殺人者にまでしたということだ。物語の中とはいえ、これはかなり悪趣味だと思う。黒々としたものを感じるのは、S・キングその人にたいしてだ。

 誤解を恐れずにいえば、基本的に作家はなにを描いてもかまわないと、ぼくは思っている(ただ、手塚治虫氏は基本的人権だけは踏み外してはいけないと書いていたと思う)。まして、S・キングはホラー作家だ。おどろどろしい物語はセールスポイントではないか。だから子供が人を殺し、さらにその子供を殺すという、どこか歪んだ設定であっても、それが面白いと感じさせるお話であれば、悪趣味だろうがなんだろうが、ぼくは買って読む。
 この場合の面白さというのは、物語そのものの面白さではない。少なくとも『ペットセメタリー』にかんしてはそうだ。
 物語の本筋とは別の別の物語が進行しそうになる瞬間があるのだ。そのとき、子供が事故にあわなければ、あったであろう未来を、延々と描くのである。それはたんに子供をなくし、悲しみにひたる親が、在りし日の子供を思い浮かべるというようなレベルの描き方ではなかった。それだけでひとつの物語になりそうなほど、精緻に描いていた。物語の構成上の問題からすれば、あれはあきらかにバランスを欠いていたと思う。
 ではあっても、あの部分があるからこそ、あの物語は面白い。著書『小説作法』のなかでS・キングは三度書き直すと述べている。であるならば、当然、あの作品も読み返したことだろう。読み返し、それでいいと考えたのだ。
 やはりS・キングというのはただものではないのかもしれない。読んでいて、この人はいったいなにを考えているんだろうと、考えさせられる瞬間が多々ある。物語そのものの面白さもさることながら、それ以上に、作者自身への興味が、あの長大な物語をぼくに読ませる。正確にいうと、読ませていた時期がある。

 ひとつの物語を面白いと感じさせるものは、そこに作者自身が強く反映しているときかもしれない。ストーリーが、あるいは登場人物が、題材が……と、あれこれ面白い理由を探そうとするが、そんなものは全て瑣末なことかもしれない。なにを描こうが、描いている当人のフィルターを通して世界が存在している以上、作者自身を強烈に感じさせるものが、やはり一番面白いのかもしれない。
 いってしまえば、小説はすべて私小説だ。

カテゴリ: 読書

テーマ: 読んだ本。 - ジャンル: 本・雑誌

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Posted on 2007/05/26 Sat. 00:14    TB: 0    CM: 0

鈴木清順考・その2 

「わからないから映画を撮る」
 と、鈴木清順はいっている。
 これは社会派とよばれる映画監督への批判にもなっている発言で、そこのところが面白いと思う。断っておくがぼくは社会派とよばれる監督の映画も見ます。けっこう面白いとも思う。
 しかし、そういった個人的な気分の問題とは別に、鈴木清順の発言は面白いと思う。
 社会派の監督はよくしゃべると鈴木清順はいう。それは自分の映画がわかっている、もしくはわかったつもりでいるからだという。
 比べて自分の映画で主人公がどうしてそんな行動をとったのか、監督である自分にもわからないという。登場人物の人間性とかはお構いなしである。つまり、最初から人間を描くという、ぼくなど信じて疑わない、物語の基本の基本を、鈴木清純という人は、いとも軽やかに投げ捨てる(笑)。爽快である。

 それでもぼくは鈴木清順という人は人間を描いていると思っている。登場人物の性格など描かないかもしれないが、鈴木清順という人は自分自身を描いている。そう思いませんか(笑)。
 だから、ぼくにとっての鈴木清順映画は、いってみれば私小説を読むようなものだ。あのわけのわからなさは、ようするにひとりの人間の頭のなか、思考がそのまま反映されている画面だと思えば、なんとなくわかってくる。
 桜の場面についてこんなことをいっている。二人の人間が桜の木の下ではなしあっている。ほんとうは近くにいる二人だが、片方はワシントンの桜の下にいて、もうひとりは東京の桜の下にいる、それをあたかも同じ空間にいるように見せればいいという。だが、どっこいワシントンと東京では、ぜったいに二人は同じ空間にいるようには見えないはずだ(笑)。
 絶対に見えないものを、
「いや、これは同じ空間にいる二人だ」
 といいきるのなら、それはもう監督がそうだといっているからにすぎない。
 あるいは監督がそう信じているからにすぎない。ようするに思い込みの世界だ。鈴木清順という人の頭の中では、空間はそんなふうにつながっていても、ちっともかまわないのである。
「ある人の背景と隣にいる人の背景がまったく違っていてもそれは構わない」
 と、までいう。
 人間の背景が同じだということよりも、きれいであるほうがいいというのである。
 清順美学とはよくいったものだと思う。
 現実の世界では絶対におきないであろうことも、人間の頭の中ではいつでもおきている。絶対に恋人にはなれない異性と交際し、いけそうもない別の惑星にゆき、巨大ロボット兵器に乗って戦う。もっと身近なことなら、社会的な成功をおさめることも、とりあえずはおきそうもないことだが、人はそういったことを夢に見る。
 頭の中で展開する光景を、まんま映像にすれば――あるいはそれを映像化する度胸と金があれば――あなたも鈴木清順になれます――って、そんなことはないだろうが(笑)、それでも、鈴木清順という人の試みが、なんとなく見えてくるような気がする今日この頃である。

カテゴリ: 映画

テーマ: 邦画 - ジャンル: 映画

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Posted on 2007/05/24 Thu. 22:45    TB: 0    CM: 0

鈴木清順考 

 ここしばらく、鈴木清順を引きずっている。一度火がついてしまうと、中々そこから逃れらないのはぼくの特性(笑)。
 言ってみれば観念もしくは思考のストーカー状態になる(実生活ではそんなことはしません)。とにかく今日は一日中たっぷりと鈴木清順について考えることができた。

 正直に言うと、鈴木清順の映画が面白いと思ったことは一度もない。しかし、発想が斬新で奇抜で、どうかしていると思ったことは何度でもある。ほとんどその興味に引かれて、鈴木作品を見ているようなものだ。
 たとえば鈴木清順監督はこんなことを言う。
「プラトーンはつまらない」
 断っておくがこの通りのことを言っているわけではない。正確にはなんであんな映画がアカデミー賞を取ったのかわからないと言っているのだが、ようするにつまらなかったと言うことだ。賞に値するような映画ではない。理由は、
「景色がよくない」
 とこうである。ジャングルの中で葉っぱばかり二時間も葉っぱばかり見せられている。しかも物語の構造もありふれている。
 それに比べて『地獄の黙示録』は凄いという。川を遡上してついに怪物に出会う映画。それが鈴木清純という映画監督の『地獄の黙示録』の見方だ。最後に怪物に突き当たる。そうでなければ戦争映画とはいえないと言っている。
 ぼくにとって、これは新鮮だった。ジョセフ・コンラッドの『闇の奥』は、恥ずかしいがまだ原作を読んだことがない。しかし、忠実に映画化した作品と言われる『闇の奥 真・地獄の黙示録』というジョン・マルコヴィッチ主演の映画は見たことがある。映画のできはよくわからないが、とにかく『闇の奥』が人間の心の闇の奥も同時に描いていることは間違いのないところらしい。
 コッポラの『地獄の黙示録』は、その得体の知れなさが好きで、何度も見たが、いったいこの映画のどこにひかれるのか自分でもよくわからなかった。鈴木清順監督の発言を知って、なるほどと思った。戦争も人間の行いなら、それを生み出す人の心の闇の奥にあるものを、コッポラは描きたかったのか。

 鈴木清純という人をぼくは手放しで誉める気はしない。
 第一、見ていてさっぱりわからない。
 出来不出来も激しく、『ツィゴイネルワイゼン』は好きだが『陽炎座』は好きではない。『喧嘩エレジー』は大好きだが『東京流れ者』は好きになっていいのかどうか迷っている。
 ただ日活を解雇されようが、わけのわからない映画と酷評されようが、とにかく鈴木清順は鈴木清順としての映画を撮り続けている。単に奇を衒ってあんな映画を作り続けているわけではないのだということはわかる。ああいう映画にならざるを得ない何かがこの人の中にあるのだ。

 まだ鈴木清順は続く……

カテゴリ: 映画

テーマ: 邦画 - ジャンル: 映画

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Posted on 2007/05/22 Tue. 22:55    TB: 0    CM: 0

宮本武蔵は遅刻魔か? 

 昨日に引き続き、宮本武蔵である(笑)。
 その武蔵さんが戦いの場に、度々遅刻したという話の続きだ。
 武蔵がわざと遅れることによって相手を「むかつかせ」て――ようするに心を乱し、戦いに勝ったという話について、それを卑怯だという人もいるし、それが兵法だというひともいるが、どちらも間違いだというのである。
 たとえば普通の試合の場合、諸般の事情から、遅れるということはなかったそうである。相手の都合もあるし、場所の問題や、試合を見てくれる人たちの都合もある。この場合の試合というのは真剣勝負ではない。負けても命取りになることはないし、負けたことによって、武術界における名声が決定的に地に落ちるということもなかったそうである。
 しかし、これがひとたび真剣勝負となると話は変わってくる。真剣勝負をすると決まった時点から、何をしてもいいのだという。果たし状に、果し合いの時刻が書いてあったとしても、ぜんぜん気にしなくてもいいものらしい。闇討ちを仕掛けてもかまわない。だまし討ちでもいい。果し合いの前に相手を襲うのもOKなら、毒をもってもいいという。とにかく徹底しているわけだ。つまり当時の兵法者と呼ばれた人たちは、そういうことを当然のこととして生きていた。相手が遅れたくらいで心が乱れるようでは、兵法者たる資格すらない。
 光瀬龍氏は『秘伝・宮本武蔵』のなかでそう語っている。

 実際はどうだったのか、ぼくには判断できない。ただ、説得力のある話だと思っている。
 たとえば佐々木小次郎との試合でも、武蔵は遅れてやってきたようにぼくたちは思っているが、小倉碑文によれば武蔵は遅刻しなかったことになっている。
 さらに、武蔵は吉岡一門と三度戦ったことになっているが、吉岡側の記録によれば戦ったのはただの一度だ。
 本当のところ、宮本武蔵というひとはどんな人だったのだろう。
 とても興味がある。

カテゴリ: 日記

テーマ: ひとりごとのようなもの - ジャンル: 日記

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Posted on 2007/05/21 Mon. 23:56    TB: 0    CM: 2

宮本武蔵の文才 

「生国播磨の武士新免武蔵守藤原玄信歳つもって六十」
 宮本武蔵の五輪の書の冒頭にある一文である。この前にもあるが、ここのくだりが大変好きだ。ちなみに書き出しは、
「兵法の道、二天と号し、数年鍛錬のこと」
 という。
 名文かどうか、ぼくには評価できるほどの教養がないのでなんともいえないが、好きという基準で言えば、大好きである。この文章のリズムがたまらない。歳つもって六十。なんていい響きだろうと思う。
 はじめて五輪の書を読んだのは高校生くらいの時だったと思う。宮本武蔵はもちろん、前から知っていた。テレビで見る求道者宮本武蔵のイメージが強く、どうせ――というのも申し訳ない気がするが――とにかく、説教臭い本だろうと思っていた。
 ところが、読んで驚いた。これは徹底した実用書だった。意表をつかれたような思いがした。どうすば勝てるのかというその一点を突き詰めたような内容なのだ。勝つといっても競馬に勝つわけではもちろんない。命のやり取りにどうすれば勝てるのかという内容だ。宮本武蔵が過去のある時代の人だから、冷静に読むことができるが、考えてみればひんやりとさせる内容である。

 宮本武蔵を題材にした物語は、数多ある。
 吉川英二の『宮本武蔵』が結局、すべての宮本武蔵物語のDNAのようなものだろうという気がする。吉川武蔵を踏襲するにしても批判するにしても、あの作品の枠を結局出ていないような気がする。新しい解釈の武蔵像は描かれることはあっても、物語の骨格そのものが吉川英二の宮本武蔵である以上、こえることは難しいのかもしれない。
 ただ一人、光瀬龍氏の『秘伝・宮本武蔵』だけは違ったような気がする。梶原一騎・小島剛夕の『斬殺者』という作品があるが、これは言ってみればそれからの武蔵だから、ぼくたちが知っている宮本武蔵物語とは少し違う。
『秘伝・宮本武蔵』の中で面白いと思ったのは、武蔵がしばしば戦いの場にわざと遅れることによって、相手の心を乱し、勝負に勝ったという点について、光瀬龍氏が当時の兵法とか兵法者という人々について説明しつつ解説しているくだりだ。当時の兵法者というのは、相手が遅刻したくらいで心を乱されるような、生易しい人々ではなかったらしい。
 この部分は面白いので、また日をあらためて、詳しく書きたい。

カテゴリ: 日記

テーマ: ひとりごとのようなもの - ジャンル: 日記

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Posted on 2007/05/20 Sun. 23:57    TB: 0    CM: 0

潜水艦と男の世界 

 潜水艦が好きである。その潜水艦で思い出すのは映画『Uボート』における食事の場面である。揺れる艦内で、かちゃかちゃ食器を鳴らしながら男共が食事をしている場面は、食べているものが何であるかは別にして(なにを食べていたのかも興味のあるところだが)少しもうまそうに見えなかった。
 男ばかりが狭い場所に閉じ込められて、なんだか臭そうだった(笑)。
 臭いで思い出したが、もうひとつ印象に残っているのか航行中突然敵襲があり、急速潜航という運びになった。トイレに入っていた男がズボンを下ろしたままの状態で飛び出してくるのだ。彼は用をすませた後だったのだろうか。それともこれから用を足そうとしていたのだろうか。ぼく的には、これから用を足そうとしていたところだったと解釈したい(笑)。後、食料にバナナを積み込む場面があったが、あのバナナも印象に残っている。
 原潜以外では、艦内で使用できる水の量は決まっているという話を聞いたが、そのあたりのことについてはあまり知らない。

 第二次世界大戦中の日本に、伊号400という潜水艦があったのは有名な話である。潜水空母と呼ばれた。ずいぶん大きな潜水艦で飛行機を三機搭載していた。
『あかつき戦闘隊』という漫画があったが、その第二部に伊号潜水艦が登場したのではなかったろうか。パナマ運河攻撃を計画したというが、理論上地球一周の航海が可能だったというから、計画したくなる気持ちもわからないではない。
 しかし、画期的な潜水艦ではあっても、実用性はほとんどなかったらしい。潜水艦としての実用性が乏しかったというべきか。パナマ運河攻撃はできなかったし、アメリカ東海岸の攻撃もできなかった。これは事実である。
『あかつき戦闘隊』のラストがどうなったのか知らない。何となく知りたくない気もする。

 潜水艦が大活躍するのは『沈黙の艦隊』だが、この作品の持つ政治的な意味についてはあまり興味がない。一隻の潜水艦が大活躍するその部分だけの面白さにひかれて読んだ。エンターテイメントとしてありがちな話だ。どういうことかというと、絶対突破不可能な状況を突破して、目的地に向う、あるいは何かを手に入れる、あるいは栄光への脱出を果たす、ずっと昔から語られ続けた娯楽の王道だ。それはつまり荒唐無稽と同義語でもある。荒唐無稽であることは少しもかまわない。ヒッチコックではないが、
「イングリット、嘘でいいんだよ」
である。思えば本当のことなど何も面白くない。
 関川夏央氏が『知的大衆諸君、これも漫画だ』の中で、『沈黙の艦隊』について書いている。潜水艦が最も恐れるのは、海中で自分の位置を見失うことらしい。あの潜水艦は奇跡的な動きをする。何せ空まで飛ぶ。奇跡的な操艦は奇跡的な人間の能力に頼っているということのようだ。するとあの奇跡を可能のしたのは、艦長の能力ではないということになるのかな。いや、奇跡的な能力の乗組員を集めたのも艦長の能力か。

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Posted on 2007/05/19 Sat. 23:09    TB: 0    CM: 0

西郷さんの光と影 

 西郷隆盛という人は「仁者」だった。司馬遼太郎さんのエッセイを読んでいて知った。西郷さんが西南戦争でなくなったとき、
「惜しき仁者をなくした」
 と、いうことを言った人がいたらしい。
 その西郷さんについて司馬遼太郎氏は、前半生は冷たい革命戦略、政略を練り、それを実行したと書いていた。決して甘い理想家ではなかったという。だが、そう言われてみても、後半生――明治維新後の西郷さんのイメージ「仁者」の部分が大きく膨らみ、どうも全体のイメージが掴みにくい。
 ほんとはどんな人だったのだろう。あれこれ考えてしまう。西郷隆盛さんの弟、西郷従道さんは人物が大きかったといわれる。しかし、その従道さんでさえ、兄の隆盛さんの前では小さく見えたという。本当に西郷さんは冷たい革命戦略を考え実行したのだろうか? という疑問がわいてくる。
 NHK大河ドラマで渡辺徹さんが演じた西郷隆盛がその意味では迫力と凄みがあった。
 江戸無血開城を前に、
「条件は満たされなければならない」
 と、将軍の命を要求する場面。あるいは、
「人を議論で屈服させることはできない。短刀一本あればすむことではないか」
 と、寝転がって傲然と言い放つ場面。
 あるいはあれが西郷さんの実像に近かったのかもしれない。理想家でもなく、人を包み込む人物の大きさも感じられない、冷たい西郷さん。この西郷さんが後に私学校の若者たちに担がれて、勝ち目のない戦いに挑むとは絶対に思えない。しかし、歴史はそれをしたと語っている。
 司馬遼太郎作品の中で『翔ぶが如く』という作品がぼくは好きではない。好きでない理由は、西郷さんという人物のわからなさに原因があるような気がする。
 松本清張に『数の風景』という作品がある。そこに、西郷さんについて「おや?」という記述がある。短い文章だが、どっきとさせる内容である。

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テーマ: 小さなしあわせ - ジャンル: 日記

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Posted on 2007/05/18 Fri. 23:28    TB: 0    CM: 0

今日は…… 

おやすみです(笑)。

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Posted on 2007/05/17 Thu. 22:53    TB: 0    CM: 0

ガンダム…… 

 映画版『機動戦士 Zガンダム』はテレビシリーズとラストが違った。ぼくは映画の方が好きだ。あのころ原作者である富野さんはなにか辛いことでもあったのだろうか。何が何でも、主人公を破滅に追いやりたがっていたように思えてならない。
 主人公がある種の挫折に遭遇するという物語はもちろんありだと思う。そうすることによって、感動が生まれる場合もある。
 しかしだ、ただ不快なだけという場合もある。たとえば、
『殺しが静かにやってくる』
 というマカロニウエスタンが昔あったが、これなど不快の極みのようなストーリーだった。幸いにしてぼくは劇場で見ていないが、見た人はさぞ不愉快だったろうと思う。
 で、ガンダム。テレビ版『Zガンダム』はこの『殺しが……』と同じような不快さを感じた。主人公はやたらと殺してはいけないし、挫折させてはいけないと思う。もしそれをしたいのなら、ロボットものでは無理だと思う。これはあくまでも私的な感想です。
 あの購買意欲をそそるようなデザインのロボット(モビルスーツ)に乗って戦う主人公は、どんな背景を与えてもヒーロー以外のなにものでもない。まして、ニュータイプと呼ばれる一種のミュータント。そんな主人公が、はずみとはいえ死ぬことがあるとは思えない。この場合は、生き残ることの悲劇だろう。愛するものを全て失い、守るべきものを全て失い、死に場所を求めて彷徨いながら、結局生き残ってしまう。それしかないだろうとぼくなどは思うのだが。

 白土三平の『サスケ』のラストがけっこう悲劇的だった記憶がある。家族をなくし、赤ん坊もなくしたサスケが荒野を流離うところで物語りは終わったような記憶があるのだが、その後、少年サンデーが何かに連載された『サスケ』はもっと明るかったように思う。アニメ版はもっともっと長閑だった。
 いずれにしても『ガンダム』シリーズで戦争の悲劇を訴えるのは無理だと思う。もしそれをしたいのなら、ガンダムのデザインを、血も涙もない兵器そのものにするべきだろう。ガンダムは戦う姿がかっこよすぎるのだ。主人公も敵役さえもかっこいい。これで戦争の悲劇はとても訴えられないだろう。戦う者のかっこよさばかりが強調されている。
 だからといって批判しようとは思わない。あれは物語なのだ。お話である。目くじらを立てて、非難するよりも、大いに楽しみたい。できのいいところも、悪いところも、全て楽しみたいと思っている。

カテゴリ: アニメ・映画

テーマ: アニメ - ジャンル: アニメ・コミック

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Posted on 2007/05/16 Wed. 22:11    TB: 0    CM: 0

原潜シービュー号の奇妙な構造 

 テレビ版『原潜シービュー号』は実に奇妙な構造を持っていた。あの潜水艦はフロント部分が透明な強化ガラスか何かの展望室になっていた。問題はコントロールルームと展望室が直結していたことだ。コントロールルームから展望室までの距離がやたらと短かった。潜望鏡があるということは、艦橋がその上にあるということだろう。すると、この原潜はもの凄く小さいということになる。そのわりにはあちこちに小部屋があり、廊下があり、階段があり、やたらと広い印象があった。
 もとは映画『地球の危機』に登場した原潜だった。シオドア・スタージョン(『人間以上』が有名)のSF小説がもともとだが、ビジュアル化したのはあの映画だった。
 映画の中では展望室とコントロールルームは直結していなかった。だとすると、この船の大きさも納得がいく。展望室の窓は上下二列にだったが、いつのまにか下一列になっていた。マイナーチェンジでもしたのだろうか。
 と、まあ粗探しのようなことばかり書き連ねてきたが、ぼくはこのTVシリーズがけっこう好きだった。映画『地球の危機』も好きだ。潜水艦ものというジャンルが好きだ。
 小沢さとるさんの漫画をまた読みたくなってきた。

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Posted on 2007/05/15 Tue. 23:44    TB: 0    CM: 0

禁断の惑星と怪獣映画 

 といっても、「タロス星」のことではない。
 1956年制作のSF映画の金字塔『禁断の惑星』である。これは感動した。ぼくはSFが好きだ。こう開けっ広げに書いてしまうほど、SF、ホラーといったジャンルが好きで、『ミステリーゾーン』とか『インベーダー』とか『タイムトンネル』とか、あの手のテレビ番組も大好きだった。
 で、『禁断の惑星』だが、もちろん今見ればチープな特撮だが、内容に関しては、いま映画化しても全然おかしくない充実したものだった。宇宙移民がはじまった時代、連絡を絶った移民団捜索のために、惑星に赴く宇宙船。そこには二名の生存者がいた。――と、こうくれば、まさに『スタートレック』――ぼくの世代なら『宇宙大作戦』――の世界だ。事実の、そのまんま 『スタートレック』に使われてもいいようなストーリーだった。
 冒頭で書いた「タロス星」は『宇宙大作戦』時代の『スタートレック』に登場する「禁断の惑星」だ。劇中カーク船長のナレーションに「禁断の惑星」という言葉が登場したとき、映画『禁断の惑星』をすでに観ていたぼくは、妙にわくわくしたのを覚えている。

 他にも『地球が制止する日』という作品もあった。これも面白かった。というかこれは感動した。物語りも好きだったし、登場するロボットもよかった。
 強烈な印象を残したSFというのなら、やはり『猿の惑星』だった。あの映画のラストは、今見ても凄いと思う。遠く離れた惑星であるはずの猿の惑星の猿たちがなぜ英語を喋るのか、すっきりとわかってしまう。そしてひんやりとさせられる。

 カルトっぽい作品としては『妖星ゴラス』というのがあった。日本映画である。内容は言わない(笑)。興味のある方はどうぞ。むちゃくちゃな話だが、それなりに楽しめる。しかし、というかやはりというか、怪獣が登場するあたりは日本映画である。
 怪獣物といえば『パトレイバー』の劇場版第三作に登場した怪獣が中々よろしかった。怪獣がどうというよりも、お話が結構好きで、これはいまでもDVDを見ることがある。綿引勝彦さんの声が渋くて最高だった。パトレイバーのサイドストーリーみたいな内容だが、これは好きだ。(話は変わるけれど、グエムルって、何か似てない?)。
 それはともかく、『禁断の惑星』もある意味、怪獣物といえなくもない。日本のお家芸ともいえる怪獣映画には、まだまだ可能性が残されている気がする。


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Posted on 2007/05/14 Mon. 20:40    TB: 0    CM: 12

まだまだ続く座頭市 

 まず、渥美清さんから――と、座頭市と書いておきながらいきなり渥美清さんを持ってくるのは、ようするに奇を衒っているわけだ(笑)。
 その渥美清さんは、寅さん映画について、
「自分は長い一本の映画を撮っているんだ」
 と、言っていという。
 座頭市も勝新太郎にとって同じだったのかもしれない。
「座頭市はもういやです」
 勝新太郎の言葉を、新聞か何かの記事で読んだことはあるが、最後はやはり座頭市だった。そのことが、ぼくにはとても嬉しかった。
 勝新太郎なきあと、最初に目にした『座頭市』リメイクの記事は、役所広司主演でというものだった。その後、音沙汰もなく、結局立ち消えかと思っていたころに、北野武監督、ビートたけし主演で『座頭市』だ。やったと思った。正直、役所広司さんでは「?」と、いう感じだったのだ。役所広司さんは名優だが、座頭市という感じではないように思えた。

 黒澤明監督がビートたけしで『座頭市』を撮ってみたいと言っていたという話を、監督の娘さんがテレビで話していたことがある。
 北野武監督が芸人ビートたけしの毒舌で、黒澤監督のことを、
「恐竜の化石のようなものだ」
 と言っていたころ黒澤明は、
「将来の日本映画界を背負って立つ逸材」
 と、言っていたことも監督の娘さんがテレビ言っていた。
『その男、凶暴につき』を見たときの感想だという。
 ぼくもあの映画は見た。オープニングのテンポのよさに「お!」と思ったものの、その後の展開に「何だかな~」という感じを持ったのだが、黒澤明はそうは見ていなかったのだ。
「才能のある監督の第一回作品はまとまりのない印象があるものだ」
 これも黒澤明の言葉だ。表現したいことがたくさんあるから――たしかそんな理由だったと思う。
 やはり黒澤明と言う人は直感の人だったという感じがする。映画になる題材を直感的に掴み取る。役者、風景、何気ない文章の断片、小説のタイトル、そういったものからインスピレーションを得る。同じように、北野武の才能を見抜き、彼なら座頭市ができると感じたのだろう。やはり尋常な人ではなかったのだ。

 北野武の『座頭市』は面白かった。座頭市が持っている、言ってみれば湿っぽい事情を、全て切り捨て、ひたすら強いだけの主人公を作り上げた。映画のキャッチフレーズに使われていた「最強」という言葉は、この映画の本質を言い表しているような気がする。最強の主人公が敵を倒していく。それ以上でもそれ以下でもない。前のブログでも書いた好きではな映画評論家氏はこんなことも書いていた。
「それまで絶対に強いと思われていた剣客や侠客を、ハンディキャップを持った薄汚い男が倒していくのは爽快だった」
 もちろん、この通りの表現ではないが、こういう意味であったことは間違いない。
 北野武という人は、『座頭市』という物語の持つ意味を、その才能で、瞬間的につかんでいたのかもしれない。北野武とって『座頭市』を撮るということは、どう表現するかというだけの問題だったのだろう。

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テーマ: 映画関連ネタ - ジャンル: 映画

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Posted on 2007/05/13 Sun. 21:27    TB: 0    CM: 0

座頭市 

 昨日から引き続き、時代劇だ。
 名前も忘れてしまったが好きではない映画評論家がいる。その評論家氏の映画評論で、唯一面白いと思ったのが、『座頭市』について書いた評論だった。それにしたって、全面的に好きだというわけではないが、とにかくある部分はぼくの好みにあっていた。
 座頭市は正義のために仕込みを抜いたのではなかったと、評論家氏は言う。善良な人々を苦しめるということが、×××を侮ることと同じことのように座頭市には思えたのだ。だから、まったくの私憤で仕込みを抜いた座頭市という主人公は新鮮だったと。
 主演の勝新太郎がどんな気分でこの特殊な主人公を演じたのかは知らないが、読んでいると、こういう感覚で座頭市をとらえることは面白いと思った。

 座頭市という人物は実在したといわれている。子母沢寛の『ふところ手帖』だったと思うが、ほんの短いエッセイに登場する。そのエッセイには、座頭市が仕込み杖を持っていたとは書かれていなかったはずだ。だからたぶん、普通の長脇差だったのだろう。でっぷりとした大男で、喧嘩の仲裁に入り、見事な居合の腕を披露して、喧嘩をおさめてしまったと、そんなふうに書かれていたと思おう。しかも彼は学問もあり、文字も知っていたらしいから、最初から視覚障害者ではなかったようだ。

 映画『座頭市』はそのほとんどが勝新太郎の創作のようなものらしい。いつか『座頭市』について熱く語ってみたい(笑)。

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Posted on 2007/05/12 Sat. 22:25    TB: 0    CM: 0

近くても遠くても…… 

 知りあいのブログさんで『ちょんまげ天国』という涙もののCDについての記事を読み、思わずコメントをしたためさせていただいた。以前、某所でこのCDをエンドレス状態で聞き続けていた。これはいい。ぼくのお勧めCDである。
 いまさらという感じもしないではないが、ぼくは時代劇が大好きだ。どうしてこんなに時代劇がすきなのか、じつははっきりとした理由がよくわからない。時代劇と名のつくものなら『水戸黄門』から黒澤時代劇まで好きだ。

 その時代劇だが大雑把にいうと、時代小説(いまならテレビも含む)の舞台は「古くても新しくてもだめ」だそうである。尾崎秀樹氏の著書にあるそうだ。鎌倉以前を扱った作品はさほど喜ばれないらしい。時代劇の舞台は、安土桃山時代から幕末までで、明治になるともうだめらしい。明治になると廃刀令が出たりして、刀をさせなくなり、チャンバラができにくくなったということもあるだろう。明治は感覚的にいうと現代に近い。鞍馬天狗ではないが日本の夜明のはじまりだ。
 しかし、明治と江戸は地続きである。振り向けば、そこらじゅうで斬りあいが行われていた時代が、すぐそこにあるのだ。首きり浅右衛門こと山田浅右衛門さんが最後の首切りを行ったのは明治十四年ではなかったろうか。江戸からもう十四年も過ぎたのか、それともまだ十四年しかたっていないのか、微妙なところだ。ちなみに昭和六年くらいまでのチャンバラは、ほとんどが幕末ものだったらしい。

 さて時代劇といえばチャンバラが魅力だが、津本陽氏が新撰組近藤勇の剣術の腕について興味深いことを書いていた。ドラマでも有名な池田屋事件で、獅子奮迅の大活躍をした近藤勇の刀は、ほとんど損傷がなかったらしい。この点について津本氏は、
「近藤勇は刀と刀を触れ合わせず相手を斬ったのではないか」
 というようなことを書いていた。切り落としというのだろうか。相手の攻撃をかわしつつ切るという高等技術を使ったから、刀の損傷が少なくてすんだのではないかというのだ。
『椿三十郎』の十七人斬りを思い浮かべてもらいたい。あの殺陣で三船三十郎は刀と刀をぶつけていない。チャリーンとかカキーンとかいう時代劇でおなじみの音があの画面からは聞こえない。ただ人を斬る音だけだ。抜き胴と袈裟懸けだけのような殺陣だが迫力満点だった。黒澤時代劇の殺陣のスピード感は、刀と刀を触れ合わせない殺陣から生み出されたのだろう。
 とにかく、近藤勇はそれを使ったという。
「現実にそれは無理でしょう」
 と、津本氏は剣道の師範の言葉も紹介している。
 本当は何があったのか、現実に近藤はどんな戦い方をしたのか、そういったことを考えるあたりにも時代劇の面白さがある。

『ちょんまげ天国』についてはこちらでどうぞ。阪神タイガースファンの方も。
 ↓
http://himawari-gumi.cocolog-nifty.com/blog/2007/05/post_890e.html

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Posted on 2007/05/11 Fri. 23:00    TB: 0    CM: 0

ブライヒュン 

 陽の光に弱いのは、吸血鬼と相場が決まっているが、ブラムストーカーの『ドラキュラ』は、陽の光を浴びて塵になってしまうわけではなかった。力は弱くなるが、昼間も行動できたはずだ。1693年から1694年にかけてのフランスとオランダの大衆紙にはポーランドとロシアに現れた吸血鬼の記事が載っているそうである。『メルキュール・ガラン』紙によれば、ポーランドやロシアに現れる吸血鬼は正午から午前零時の間に現れるそうである。必ずしも日没後ではないのだ。
 いずれにしてもクリストファー・リー主演の『吸血鬼ドラキュラ』のラストは、陽の光を浴びたドラキュラが塵に変わっていく場面だった。当時の技術からするとよくできていたと思う。何よりも、ドラキュラ役のクリストファー・リーが風格があり、品格があり、原作とは異なるが、この人のドラキュラが、やはり一番印象に残っている。ウィキペディアによればこの人は193センチの長身で、母方は貴族、七ヶ国語を自在に操るそうである。
 
 吸血鬼は人気者だ。これまでも様々な形で小説や映画に登場している。漫画では『ポーの一族』という名作もある。永遠の命を持っているという設定だが、永遠とは大きく出たものだと感心する。人情の及ぶ年月とはどれくらいだろう。ぼく的にはせいぜい五千年だ。それをこえるとよくわからなくなってくる。恐竜が絶滅して六千五百万年。人類が誕生して七百万年。この先人類が滅亡するせよ繁栄するにせよ、一万年をこえた時点で吸血鬼は自滅の道を選ぶのではないかという気がする。たしか『ポーの一族』に登場する長老みたいな吸血鬼は、何百年間か眠っていたのではなかったろうか。ようするに活動していない時期が長いのだ。

 現代のアメリカに吸血鬼を持ってきたのはS・キングだった。『呪われた町』は普通に面白い吸血鬼小説だ。普通に面白いと書いたのは、吸血鬼小説の骨法に則って、きっちり書かれているからだ。十字架を恐れ、太陽を浴びれば焼け焦げ、鏡に映らず、心臓に杭を打たれて滅びる。アン・ライスの『夜明けのバンパイア』とはそのあたりが違う。なぜ、吸血鬼は鏡に映らないのか、なぜ招かれなければ家に入ることができないのか、そのあたりの説明は一切ない。新しい視点がないから面白くないなどとはいわない。この小説は本当に面白かった。こういった作品を読むにつけ、結局、お話は語り口だ思わされる。
 S・キングには『ナイトフライヤー』という吸血鬼を扱った短編もある。この作品の中には秀逸な場面があった。吸血鬼がトイレに入るのだ。それを鏡に映してみている男がいる。もちろん、吸血鬼の姿は見えない。しかし、便器には真っ赤な血が飛び散る。うまいものだと思った。この作品は映画化もされた。グロテスクな顔の吸血鬼が登場して、最後のその瞬間までクリストファー・リーのような吸血鬼が登場するのだろうと思っているこちらを仰天させる。

 さて、ブライヒュンだがS・キングの『呪われた町』に登場する吸血鬼がアメリカはロットの町に住む自分の信者と文通する時に使っていた名前だ。

カテゴリ: 読書

テーマ: 読んだ本。 - ジャンル: 本・雑誌

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Posted on 2007/05/10 Thu. 23:12    TB: 0    CM: 2

花も紅…… 

 もちろん、三四郎だ。
 しかし、どうして三四郎というと柔道なのだろうか。夏目漱石ではどうしてないのだろう――って三四郎=姿三四郎を連想するのは、ぼくだけだろうか。
 いきなり余談だが、黒澤明のデビュー作は『姿三四郎』だったが、富田常雄のこの小説を選んだ理由は、タイトルが気に入ったからだと言う。黒澤明は小説の内容を知らずに、タイトルだけを見て、映画化を決めたのだという。摩訶不思議な感覚だが、このあたりが天才の天才たる所以だろう。

 それはともかく、『紅三四郎』というアニメを知っている人が、いまこの時代に何人いるのか、とても興味がある。三四郎という名前が示すとおり、これは柔道、正確には柔術家の物語だ。もとは「少年サンデー」か何かに連載されていたと思うが、面白さから言えば、断然アニメの方が面白かった。なぜって、思いっきり荒唐無稽だったからだ。ここまで思い切りが良いとスカッとして、細かいことなんてどうでもよくなってくるからもの凄い。
 紅三四郎は紅流という柔術を使う。父が創始者なのかそれとも伝承者なのか知らないが、とにかく、その父が片目の武道家に野試合で殺される。昔の話ではない。現代、といってもまあ三十年以上前の日本ではあるが、それでも立派な昭和だ。いくらなんでも、人の生き死ににかかわる野試合が行われたとは思えないのだが、すでにここから荒唐無稽全開である(笑)。
 で、息子である三四郎は父の仇を追って世界を放浪する。日本ではない世界を放浪する。どうだ、凄いだろう(笑)。
 しかも三四郎は紅号というバイクに乗り、子供と犬を連れて、世界中を、父の仇を探して旅をする。パスポートはどうなってるんだ? 旅費は? 子供は学校に行かなくてもいいのか? 等々、数々の疑問も紅流柔術の荒業でねじ伏せ、三四郎は旅を続けるわけだが、戦う相手が凄い。
 究極の異種格闘技戦だ。武道家はもちろんのこと、ガンマンや妖怪変化とも戦う。嘘ではない。砂漠の大王とかいうこの世の者ではないミイラ男と戦ったことがあるのだ。これが妖怪変化でなければ何なのだ。一度などは地底人と戦っていた。この時地底人が使った武術が「地底マグマ流」とかいうとんでもない代物だった。虎と戦ったこともある。怪獣や宇宙人と戦わなかったのが不思議なくらいだ。
 こうなると、紅三四郎は武術家というよりも、一種の超能力者ではないかと思えてくる。
 エンターテイメントは吹っ切れることが肝要というが『紅三四郎』を思い出すたびに、その通りだと深く頷く。
『ゲゲゲの鬼太郎』もリメイクされたことだし、このあたりで『紅三四郎』も何とかとならないものかと、実は密かに期待している。
 ちなみに主題歌は最初が美樹克彦さんで、その歌詞の中に、
「花も紅三四郎」
 というのがあった。
 二代目の主題歌が、堀江美都子さん。これがデビューであったのは有名な話だ。

カテゴリ: アニメ・映画

テーマ: 日記 - ジャンル: アニメ・コミック

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Posted on 2007/05/08 Tue. 21:46    TB: 0    CM: 0

気になる色々な事柄 

 江戸の昔、天保のころの話だが、渡世人の喧嘩のコツは、一人の相手と長く争わないことだそうである。二つの集団が対立し、ついには力と力の激突となったとき――多くの場合、仲裁が入り、実際の激突に発展することは少なかったらしいが――一人の相手と長く戦うことは避けなければならない。一対一というのは、つまり決闘である。どちらかが倒されて決着がつく。それはお互いにとってまずいというわけだ。そこで二、三度長脇差をまじえると、その相手とはそれで終わり、またあらたな相手を探すわけだ。ようするにどちらかが戦闘不能になるような事態を回避するための、これは知恵だろう。誰だって痛い思いなどしたくない。まかり間違えば生死の問題だ。
 この話を知ったのは、市川崑の『股旅』という映画でだ。TVで『木枯し紋次郎』が大ヒットして、その勢いで作ったような映画で、それほど面白くもなかったが、江戸時代の渡世人という人達に関するトリビア満載の映画だった。その意味で、ぼくにとっては面白い映画だった。
 これはラジオで永六輔さんが言っていたことだ。渡世人は、出入りに行く準備として、桜の木の皮を体の前と後ろに当てて、さらしでぐるぐる巻きにしたそうである。ちょっとした防弾チョッキみたいなもので、なまなかの刀で切ろうが突こうがびくともしない。実によく出来た喧嘩支度だったようだ。
 これも渡世人ネタだが、江戸時代の渡世人のスタイルというと縞の合羽に三度笠と決まっているが、そうではなかったという話を聞いたことがある。茣蓙を二枚重ね、それを頭からかぶっていたという。ようするにサンドイッチマンのような格好だ。ほんとだろうか? 皆がみんなそうだったとは思えないが、あるいは……と思わせる類の話である。

 ほんとうのところ、どうだったのだろう。気になれば調べればいいのだが、なんだかかんだで、まあいいか――と、思い、それでも気になり、結局なにもせぬままいまに至っている。
 時代劇ネタで言うと、もうひとつわからないのが、十手持ちなる存在である。わけても目明しという人達。銭形平次とか人形佐七とか、いわゆる捕り物帳の主人公たちだが、彼らは本当に十手を持っていたのかという疑問がある。
 光瀬龍さんは『秘伝・宮本武蔵』のなかで、目明しは十手を持っていたなかったと書いていた。十手というのは小具足術(そういったものがあったと思ってください)で使われる特殊な武器で、目明しなどという同心の密偵が持っているはずがないというのである。なるほどと思った。
 が、別のおりにいや持っていたという話が出てきた。手製の十手を持っていたというのである。
 そもそも同心が持っている銀流しの十手は、戦うための武器ではなく、死因を調べるための道具だったという話も聞いた。殺人の捜査で重要なのは、いまも昔も死因の特定である。外傷がないとなると、可能性として考えられるのは毒殺だ。毒殺のばあい、死体に毒が残っていると銀が化学反応を起こし、変色するからわかるという。時代劇における代表的な毒物は「石見銀山猫いらず」つまり砒素だが、銀は砒素に対して化学反応を起こし、黒く変色するというわけである。これなど大いに説得力がある。
 こうなると、本当はどうだったんだと言いたくなってくる。

 そういえば、これはまったくありえない話だと思うが、劇画『無用ノ介』にこの十手使いが登場したことがある。
 強敵十手使いと戦うことになった無用ノ介が、
「刀術の動きを研究し尽くして生まれた十手術に、刀では絶対に勝てないというが……」
 と、冷や汗を流して独白する場面があった。
 危機にいたる無用ノ介は、なんと刀を捨てて、竹やりで必殺の十手術を征するのだが、これはいくらなんでも嘘だろうという気がする。この当時、さいとうプロダクションには小池一夫氏がいたのだろうか。

 と、まあこんな具合で、考えていると、気になることが色々と出てくる今日この頃である。

カテゴリ: 時代劇

テーマ: ひとりごと - ジャンル: 日記

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Posted on 2007/05/07 Mon. 21:20    TB: 0    CM: 2

一撃必殺「雷鳴撃ち」 

 というわけで今日は望月三起也さんだ。有名な漫画家で、超がつくほどのサッカー好きだ。聞くところによれば、ボウリングの腕もプロ級らしい。

 それはともかく「雷鳴撃ち」だ。はたしてあれを一撃必殺と呼んでいいものかどうか。はたまた「雷鳴撃ち」そのものが、こういう名前だったのかどうか自信がないが、まあそういうことで……(笑)。
「雷鳴撃ち」というのは『秘密探偵JA』の最終兵器だ。もう少し詳しくいうと、『秘密探偵JA』は、飛鳥次郎という少年秘密情報部員(この設定もよく考えると凄い)が活躍する望月三起也氏の漫画だが、その主人公が駆使する必殺の射撃術の名前が「雷鳴撃ち」なのだ。
 一撃必殺と書いたことに迷いを覚えるのは、この射撃術は三発で十人を倒すという荒業だからだ。一撃必殺どころではない。三撃十殺だ。具体的に言うとそれはどんな射撃方法なのか。これが凄い。激しく体を移動させながら撃つ。ようするに飛んだりはねたりしながら撃つのである。これだけでは画が思い浮かばないかもしれない。たとえばある瞬間、彼は3.3メートルの高さがある天井近くまでジャンプする。さらに空手の三角飛びよろしく壁をけり、彼は宙を舞っている。そしてさらに、彼は床を転がりながら、銃を撃つ。移動するというのは、つまりそういうレベルのことだ。すると、彼の手にある銃から発射された弾丸は、最初の標的を貫通し、さらにその後ろの相手を貫き、そしてまたさらにその後ろにいる相手に着弾する。どうももの凄い射撃術なのだ。
 しかし、どう考えても、狙いがつけにくいであろうこの撃ち方をすれば、三発の弾丸で複数の人間を倒せるのか、ぼくにはわからない。わからないがそれでもかまわない気分にさせるのが、望月三起也氏の力技だ。

 飛鳥次郎の使用している拳銃はコルトウッズマン・クイックドロー・カスタム。我らが赤木圭一郎さんも使い同じく望月三起也氏の『ワイルド7』の飛葉ちゃんも使っていた拳銃だ……いや飛葉ちゃんのはスポーツ4インチではなかったろうか。
 それはともかく、飛鳥次郎のウッズマンはそんじょそこらのウッズマンではない。銃握の部分が特殊ゴムで出来ていて、ぽんと床に投げると、ゴムマリのように大きく跳ねるのである。
 ぼくが『秘密探偵JA』で「雷鳴撃ち」を見たのはただの一度、最終回の時だけだけだった。そのとき飛鳥次郎は飛び跳ねるコルトウッズマンを追って、ジャンプを繰り返し、空中で拳銃をキャッチするやいなや、「雷鳴撃ち」を行う。たしかそんな展開だった。

 ぼくは望月三起也さんが大好きだった。
『秘密探偵JA』には同じく少年探偵スペードワンが登場する。彼はカードを使う。いわゆる殺人トランプだ。
『秘密探偵JA』は少年が殺人を行う物語でもある。その意味では、いまこの時代に、あっけらかんと読むには、多少気が引ける。ただ、それでも望月三起也氏の画力を、ぼくは楽しみたい。現実と物語りは違うと思うからだ。

カテゴリ: 漫画

テーマ: 日記 - ジャンル: アニメ・コミック

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Posted on 2007/05/06 Sun. 22:47    TB: 0    CM: 0

悪の魅力 

 悪役は主人公に倒されるそのときまで、主人公と同じ存在感を持っている。
 もちろん、ぼくはこんな言葉をひねり出せない。誰かが書いていたか、誰かが言っていたか……とにかく、どこかで読むか、聞いたかした言葉だ。
 いわれて見ればその通りだと思う。魅力的な悪役を作ることは、当たり前の主人公を作ることより難しいのだろう。魅力的な悪役のいない物語はつまらない。
『ベラクルス』のバート・ランカスターも『座頭市、血煙街道』の近衛十四郎も、最高の敵役だった。他にもかっこいい悪役は無数にいる。そういう作品は例外なく面白い。時々、主人公よりもかっこよく見えるから恐ろしい(笑)。『ベラクルス』のバート・ランカスターは主人公のゲーリー・クーパーよりもかっこよかった。間違いない。

 悪役というよりも、悪そものの魅力に心が震えるときがある。
 軽々しく言えることではないが、人間の中に負の魅力に感応する何かがあるのかもしれない。
『独裁者』という映画の中で、独裁者に扮したチャップリンが風船の地球儀で遊ぶ有名な場面は、独裁者と善良な床屋が同じ顔をしているだけにぞっとする。あれは同じ人間の表と裏だ。物語の悪役は、結局、作者の中の光と影なのだろう。
 あの場面をぼくは美しいと思うし、チャップリンの芸に感動する。すると、自分が独裁者の魅力にとり憑かれているような気がして、何となく怖くなる。本当に魅力的な悪人が登場した時、ぼくはその魅力に負けてしまうのではないかという気がするからだ。
 いま『独裁者』のことを書いてふと思い出した。『超時間対談』という本がある。すでに過去の人となった人々と有名人が対談をするという、架空対談なのだが(前にこのブログで紹介した)、その中で開高健氏と『独裁者』のモデルになった本物の独裁者との対談がある。その中で開高健氏は、
「ニューヨークのある図書館でアドルフ・ヒトラーに関する資料を調べると60万項目あった」
 と、書いている(あるいは言っている)。60万項というのはとんでもない数だ。
 負の人気だと開高健氏は言っている。こういうことをしてはいけないといいつつ悪魔の魅力を語る伝統的な作法である、とも。
 悪について語ることが伝統的にあるのなら、悪には語るに足る魅力があるということだ。
 気をつけたほうがいいのかもしれない。負の魅力に負けないように……。

カテゴリ: 日記

テーマ: ひとりごと - ジャンル: 日記

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Posted on 2007/05/05 Sat. 22:22    TB: 0    CM: 0

敵の血潮に濡れた肩―― 

 ――とくれば、
「地獄の部隊と人の言う」
 と、続く。
 銀河万丈の名調子だ。
『装甲騎兵ボトムズ』という作品は、ガンダム系列の作品の中で、ガンダムと同じくらい好きだ。物語が好きということはもちろんあるのだが、あの銀河万丈さんのナレーターを聞きたくて、この番組を見ていたようなところもある。これほんとの話。
 ボトムズという物語ももちろん好きだった。酸性雨の降りそそぐびしょびしょした風景は、『ブレードランナー』っぽいが、別にかまわない。『ワイズマン』を破壊する場面は、『2001年宇宙の旅』でハルを破壊する場面に似ていた。他にもどこかで見たような場面はあったが、全然かまわない。かまわないと思わせるほど、この作品は好きだった。
 キリコ・キュービーは、ハードボイルドにかっこよかった。声優の郷田ほづみさんはシュールなお笑いトリオ「怪物ランド」の一員だった。郷田さんと我らが矢作俊彦氏には繋がりがある。『酒場を巡る冒険』に郷田さんが出ていた……と思う。宍戸錠さんとちょっとした場面を作り、あの名セリフ、
「撃ってみろ。おれがなくすのは脚だ。お前のなくすのは頭だ」
 が、聞ける。
「あんたがなくすのは息子だよ……」
 と、これが郷田さんである。
 とにかく、『ボトムズ』は好きだった。
 チャーミングなココナも好きだった。声をやっていた川浪葉子さんの声が素敵だった。あの歌はもう一度聴きたい。
 フィアナもいい。
 この作品はビデオ(DVDではない)を持っていて、いまでも時々、深夜にこっそりと(別にこっそりすることもないが)見ている。

 これほど好きだったのに、じつはまだ『赫奕たる異端』を見ていない。
 しかし、赫奕とは……凄い字を持ってきたものだねえ。

カテゴリ: アニメ・映画

テーマ: 声優 - ジャンル: アニメ・コミック

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Posted on 2007/05/04 Fri. 22:19    TB: 0    CM: 0

SFセンス 

『宇宙戦艦ヤマト』……古い話で恐縮だが(そういえば、ショーケンの曲にこんな題名の曲があったような気がする)……とにかく、あの作品の原案は豊田有恒さんだ。もともと、小惑星をくりぬいて宇宙船にして飛んでいく話だったらしい。
 小説版『宇宙戦艦ヤマト』はそのあたり、豊田有恒さんの原案に忠実だったのだろうか。スターシャはイスカンダルのコンピュータネットワークシステム。ガミラスはそのスターシャの作り出した自己防衛システム。だからガミラスに女性はいない。そんな感じだったと思う。そして衝撃のラスト。悲劇というよりも、どこか救いがないと感じる終わらせ方だった。
 豊田有恒さんは著作の中で、
「宇宙戦艦ヤマトはSFではない」
 と、言っていたような気がする。
 そのことを否定するつもりはない。というかぼく程度の知識では、否定も何も、そんなものかと思うのが精一杯だ。
 SFを描くにはセンスが必要だとも豊田有恒さんは書いていたような気がする。センス、もしくは勘所、といったようなものが必要だというのだ。
 プロの作家がいうことだから、そうなのだろうと思いつつ、反面、ほんとかなあと思ったりする。
 思えば、SFというのは範囲が広い。スペースオペラからホラーまでほとんどあらゆるジャンルを含んでいる。なにを書いてもいいのなら、何でもありじゃないの、と不遜にも思ったりする自分がいる。
 エスエフ、SFと言われながら、ちっともSFらしくない作品にもお目にかかる。宇宙船や光線銃を現実にあるものに置き換えても違和感なく見ることのできる物語があるのだ。しかもその作品はヒットしている。
 すると、SFセンスや勘所というよりも、むしろあっけらかんとやってしまった者の勝ち、という気もしてくる。売れるから良い作品ということではもちろんないのだろうが、それでもたくさんの人に指示されたということは、やはり無視できない。
 笑い話の類だが平井和正氏が、
「ウルフガイシリーズをSFとは知らずに読んでいる輩がいる」
 と、書いていたことがある。
 狼男だという主人公を除けば、そのほかのものは現実にあるものばかりだった(いや、そうでもないか――コルトマグナム44という銃は存在しないはずだが、平井和正氏は作品の中に登場させていたような記憶がある)。
 半村良さんは、これからSFを書いてみようという人に、
「自由なようでいてジャンルにとらわれやすい。びびらず思い切ってやることが必要。何事によらず人を楽しませる技は、吹っ切れることが肝要」
 と、そんなことを語っていなかっただろうか。

カテゴリ: 日記

テーマ: ひとりごと。 - ジャンル: 日記

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Posted on 2007/05/03 Thu. 21:14    TB: 0    CM: 4

愛情砂漠を歩いてきたの…… 

 と、聴いて思い出を刺激される人は何人いるのだろう。
 映画『赤い鳥逃げた』の劇中歌(挿入歌というのかな)、『愛情砂漠』が大好きだ。
 決して過去形ではない。いまも時々、思い出して歌ってみることがある。映画の中で、桃井かおりさんが作曲して、それを原田芳雄さんがギターを弾いて歌う。映画の中で流れたのは、つまり劇の中で歌われるのではなく、画面にかぶるのは安田南さんが歌ったのではなかったろうか。
 映画そのもののできは「?」がつくが(個人的な意見としてですよ)、それでも出来がいいから好き、出来が悪いから嫌い、ということにならないのが、創作物の面白いところだ。いびつな作品でもいいなあと思う作品はいくらもある。完全でも面白くないものもある。
 たとえばぼくは映画の中で、一ヶ所だけ好きな場面があれば、その映画の出来不出来に関わらずファンになる。
『牙狼之介』という映画が昔あった。この映画の出来はともかく、牙狼之介さん(しかしどうも凄い名前だね)が、山盛りのご飯の上に、焼いためざしを突き刺して、もりもりと食べている場面が好きだった。だからこの映画は印象に残っている。
『赤い鳥逃げた』の中の好きな場面は、皮のジャケットを着た原田芳雄さんが桃井かおりさんを見つめている場面だった。

カテゴリ: 映画

テーマ: 映画関連ネタ - ジャンル: 映画

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Posted on 2007/05/02 Wed. 22:47    TB: 0    CM: 0

天才と準天才 

 昨日から引き続き、天才について、皆さん考えてみましょう(笑)。
 断っておくが、どう間違ってもぼくは天才ではない――って当たり前か。
 自分の周りを見回してみても、天才と呼べそうな奴はひとりもいない(笑)。けっこう長く生きているつもりだが、この人生で、身近に天才を感じたことがない。しかし、出会ったことがないからといって、この世に天才などはいない、などと言うつもりはさらさらない。きっと、この世のどこかに、天才はいるはずだ。やはり天才というのはそれほど会い難いものなのだろう。

 天才について考える時、ふたつ、気になることがある。
 まず、天才は自分のことを、天才だと思っているのか。
 その次、天才に生まれることは幸せなのだろうか。
 この二つである。
 以前アインシュタインについて取り上げたテレビ番組を見たことがある。そのなかでこんなことを言っていた。
「ある数学の問題の答えを、一瞬で見つける少年がいた。答えはあっている。しかし、彼はどうしてその答えを導き出せたのか、どうしても説明することが出来なかった」
 この話を聞いて、なるほどと思った。ちなみにこれを語ったのは、あのジュリー・ドレフィスさんだった。番組のナレーションをしていたのだ。
 アインシュタインは自分のことを、
「わたしは天才ではない。ただ普通の人よりもひとつのことを長く考えられるだけだ」
 と、言っていたらしい。
 天才は自分のことを、どうやら天才とは思っていないらしい。それはそうかもしれない。自分の中に普通にあるものを人は特別意識したりしないものだ。たとえば歌のうまい人に、音痴の気持ちがわからないのと同じことだ。

 では次の問題。天才に生まれることは幸せかということである。
 直接この件について語っていたわけではないのだが、鹿島茂という人が『パリの王様たち』という本の中でこんなことを書いていた。
 天才はガラス細工のように脆い。世の風雪に耐えて生き残るのは、天才よりもやや落ちる準天才たちだ――と。必ずしもこの通りではなかったが、意味はこういうことだ。その通りかもしれないと思う。
 人類史の中で、時節異能を発揮する人というのはたしかに存在する。
 たとえばモーツァルト、たとえばゴッホだ。
 司馬遼太郎さんに『街道を行く』というエッセイがある。そのオランダ編のなかで、このゴッホについて触れている。いま手元にその本がないので、間違っているかもしれないが、こんなような文章だったと思う。たとえばいまの時代にゴッホを連れてきて、美大を受験させれば、必ず落ちる。普通の秀才なら、教えられても、数世紀に一人という天才を教えられる人間などいるはずがない。その通りだと思う。
 ゴッホはその生涯で二枚しか絵が売れなかったという。それでも、絵を描くことをやめなかった。あるいはやめられなかったのだろう。自分が評価されるのは、自分の死後であることも予見していたらしい。売れない絵を描き続けることは、苦痛だったと思う。いや、絵を描くことは苦痛ではなかったかもしれないが、生活が成り立たないというのは、自分でどう思うかではなく、霞を食べて生きられない以上、しんどかったと思う。天才でなくてもこれでは長持ちしない。
 翻って、我が身を思うとき、つくづく天才でなくて良かったと思う今日この頃である。

カテゴリ: 日記

テーマ: ひとりごとのようなもの - ジャンル: 日記

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Posted on 2007/05/01 Tue. 20:11    TB: 0    CM: 0

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