Gitanの趣味

ひたすら趣味の道を走っています(ニヤリ)

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山崎ハコさん、『十八番』を聴かせてよ 

「十八番」と書いて「おはこ」と読むのには、もちろん理由がある。どうして「十八番」を「おはこ」と読むようになったのか、この種のことはインターネットでいくらでもひろえる情報なので、特に書きません(笑)。意味はお得意の芸といったことろ。あるいは一番得意なものといったところだ。
 だから、山崎ハコが『十八番』という名前のアルバムをだしたとき、内容は知らなくても大体見当はついた。自分の作った歌を自分でうまく歌えるのは、これは言ってみれば当然のことで、「十八番」でもなんでもない。人の唄を上手に歌えるから、得意芸ということになる。すると、これはカバーアルバムということになる。と、こんな感じの推理――って、推理ってほどのものかよ――が、成り立つわけだ。
 山崎ハコはミュージシャンだ。もちろん、誰でも知っていると思う。1975年ごろだったと思うが、TBSのパックインミュージックのイベントか何かに出たとき、彼女の歌う『さよならの鐘』を聞いた聴衆が涙を流したという伝説がある。あのユーミン(荒井由美だったころの)も泣いたと、TBSアナウンサーの林美雄氏が深夜放送で言っていたのを覚えている……おっと、歳がばれそう(笑)。
 山崎ハコを指して、歌唱力があるというのはあるいは正しくないかもしれない。そりゃまあプロの歌手だから、うまいのは当たり前――これを前提に話している。しかし、あるレベル以上の歌唱力を持った人たちの中で、山崎ハコが抜きん出た歌唱力を持っているかとなると、
「……?」
 ということになる。
 しかし、泣かせるだけの力――豊な感情表現? あるいは情念? とにかくそういったものを強烈に持っている歌手だということは間違いない。
 山崎ハコがあの強烈な個性で人の曲を歌う。一種の怖いもの見たさでアルバムを買ったようなものだった。一時期、山崎ハコが最盛期のころ、ライブにちょくちょく行っていた身としては、怖いもの見たさといいながらけっこう期待もしていた。あの激烈な個性を受け入れることのできる体質を持った者なら、聴くことも、そう苦痛ではないだろうと思ったのだ。
 で、聞いた感想――悪くはなかったです。
 収録されている曲は、

1 アカシアの雨がやむとき
2 今夜は踊ろう
3 みんな夢の中
4 上を向いて歩こう
5 再会
6 東京ブギウギ
7 圭子の夢は夜ひらく
8 さらば恋人
9 本牧メルヘン
10 時の過ぎゆくままに

 いずれ劣らぬ昭和の名曲ぞろいだ。
 ちなみにこのアルバムは1994年第36回日本レコード大賞アルバム企画賞を取っている。

 以前にもブログで歌謡曲が好きだと書いたが、歌謡曲好きのぼくにとってはまったく《とてもいい》アルバムです(笑)。どれも好きな曲ばかりだが、今回のこの一曲は『本牧メルヘン』だ。鹿内タカシが歌ったこの曲は好きだった。オリジナルの鹿内タカシとカバーの山崎ハコ、どちらがいいかなんて野暮なことは今回は言いません。とにかくこの唄は好きな歌である。
 中村中もそうだし大西ユカリもそうだが、昭和歌謡に影響をうけたミュージシャンが出てきているが、その意味でこの『十八番』は先駆的な作品だったのかもしれない。
 以前、誰かが言っていたのか、それともぼくの記憶のトリックなのか、そのあたりがいまひとつ曖昧なのだが、とにかく、歌謡曲というのは何でも呑み込んでしまうジャンルだというようなことを聞いたことがある。歌謡曲を否定するために出てきたものでも、貪欲に呑み込み、結局はそれも歌謡曲のジャンルのひとつに加えてしまうというのだ。
 しかし、そういった歌謡曲の強かさも、ある時期までのことかもしれない。歌手が自分のための唄を自分で作って歌いはじめたとき、歌謡曲はひと時代を終えたのかもしれない。そんな気がする。
 我らが中ちゃんは、確かに歌謡曲のDNAを持っているが、やはり歌謡曲そのものではない。鳥の中に恐竜の過去が眠っていても、鳥と恐竜が違うのと同じことだ。
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カテゴリ: 音楽

テーマ: 演歌&歌謡曲 - ジャンル: 音楽

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Posted on 2007/03/30 Fri. 22:39    TB: 0    CM: 0

美しい『野火』 

 先日のブログで少しだけ『野火』という小説に触れた。あるいはこの小説を知らない人もいるかもしれないから、少しだけ紹介すると、昭和二十六年に「展望」に連載され、読売文学賞を受けた大岡昇平の小説である。フィリピンの島を彷徨する、敗戦間際の日本兵の物語――あるいは体験談だろうか。著者の大岡昇平氏はフィリピン・ミンドロ島で敗戦を迎えたとある。この小説にあるような体験を、あるいはしたのかもしれない。
 余談ながら、ぼくの親戚には第二次世界大戦に兵士として参加した人がいる。いまだ存命中の人もいて、今でも時々そのころの話を聞くことがある。いまのぼくたちでは、ちょっと想像できないような悲惨な体験をしてきた人たちだ。人類は戦争をついに捨てきれないかもしれない。リアルな戦争の話を聞くたびに、戦争と手を切れない人類を思い、暗澹たる思いにかられる。それが明日は自分の体験になるかもしれないからだ。
 話を『野火』に戻すと、この小説については以前から知っていた。が、読みたいとは思わなかった。これは人を食べる話だ。それそのものがテーマではないが、結果的に人肉食にまで追い込まれていく敗兵の悲惨さが描かれている。これも前のブログで書いたことだが、ぼくが最初にカニバリズムに触れたのは『アシュラ』だった。たぶん、そのトラウマだろうと思うが、とにかくその種の物語は、理屈抜きに敬遠したい気分がある。ある状況下においては、人は何でもする可能性がある、そう思うことは、決して気分のよいものではない。
 ところがである、丸谷才一氏の『文章読本』には、この『野火』に触れられている章があった。「文体とレトリック」と題した第九章をまるまる『野火』にあてて、その文章について分析してくれている。見事としか言いようのない分析だ(と、ぼくなんぞが誉めてもいまひとつ実感がわかないかもしれないが、とにかく凄いです)。下手な小説を読むよりもはるかに面白い。この『文章読本』自体が、迫力満点、はらはらどきどき、波乱万丈の読み物で、こういう本を読んでいると、面白さというのは、何も殺人事件に巻き込まれたり、殺人鬼を追いかけたり、犯罪組織を相手に大銃撃戦を繰り広げたり、はたまた怪物に襲われたりしなくても、知的に文章の書き方を論じるだけでも、十分に感じられるものなのだということを実感できる。実力十分の書き手が書けば、きっと通販カタログでも、大エンターテイメントになるのではないだろうか。
 丸谷才一氏は、第九章のなかで、文体というのはようするに気取り方のことだと書いている。そして、『野火』については、
「レイテ島の敗兵の彷徨はずいぶん気取った文体で書かれている」
 と、書いている。そして、
「『野火』はすぐれてレトリカルな小説である」と。
 こうまでかかれると、読んでみたくなるのが人情だ。
 で、読みました。
 感想?
 凄い。
 極めつけの陰惨な話が、恐ろしいほど華麗な文章で書かれている。悲惨さは少しも軽減されていないのに、最後まで読まされてしまう。読む前は、戦争体験者が戦争の悲惨さを訴えるために書いた小説。そんなふうにたかをくくっているところがないでもなかった。もちろん、それはそうなのだが、読んだ後ではまるで印象が違ってきた。戦争の悲惨さについては十分に語っているが、それを忘れそうになる瞬間がある。誤解を恐れずあえて言えば、読み進めていくうちに、あまりにも文章表現が見事で、あの時代、あの場所で起きた悲惨で陰惨な出来事がむりなく頭に入ってくる。こういう作品を読んでいると、反対のための反対、賛成のための賛成、ただそれだけの目的で作られた教条的な作品がなんと薄っぺらいことかと思えてくる。
『野火』を読んだのは、ずいぶん前だが、また読み返してみたくなってきた。
 そうだ、不埒な願望として――怒らないでね(笑)。大岡昇平氏の書いたホラー小説を読んでみたかった。

カテゴリ: 読書

テーマ: **本の紹介** - ジャンル: 本・雑誌

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Posted on 2007/03/28 Wed. 23:43    TB: 0    CM: 0

泣ける場面、あれこれ 

 昔から映画を見てうるっと来ることがあったから、涙もろくなったのは、決して歳のせいではないと思う。

 ジョン・フォードの『荒野の決闘』のなかで忘れられない場面がある。酒場でドク・ホリディがシェイクスピアの『ハムレット』のあの名台詞を暗誦する場面だ。無法者に取り囲まれているシェイクスピア役者が恐れおののき、絶句してしまったセリフの続きをドクが語るのだ。これはじんときた。いまは無法者に成り果てたが、かつてはそれなりの教養を身につける機会に恵まれた男だったのだ。その落差に、胸が痛む。
 このドク・ホリディはもちろん史実のドク・ホリディではない。『荒野の決闘』の中でドクは医者――外科医ということになっていたが、実際は歯医者だった。さらに早内でならすガンマンでギャンブラーという設定だが、実はショットガンとナイフの使い手だったらしい。そもそもあの映画で描かれたような、教養があったのかどうか。
 しかし、ジョン・フォードの描く映画的真実は、説得力があった。ドク・ホリディは、だからいたましく切なくなるような存在だった。ドク役がビクター・マチュアというのもよかった。ジョン・フォードの映画は品が良くて好きだ。

 さてそれから『ひまわり』だ。ソフィア。ローレンがモスクワ(だと思う)の地下鉄をあがってくるあの場面。巨大な街が一気にその全貌を現すあの場面が胸をうった。ソフィア・ローレンは戦死したかもしれない夫を探しに単身ロシア(当時はソビエト)にやってくるのである。ソビエト(現ロシア)という国の広さを余すところなく伝えていた。有名なひまわり畑の場面よりも、こちら方が、広さを実感した。そこに信じる心とトランクひとつでやってくるイタリア女の心意気が泣ける。

『七人の侍』は断然、三船敏郎が赤ん坊を抱き、「これは俺だ」と泣き叫び、川の中に座り込む場面が泣ける。背後では赤ん坊がいた小屋が、野武士の襲撃を受けて燃え落ちようとしている。槍に刺されながらも母親がそこまで赤ん坊を運んだのだ。赤ん坊を受け取った三船敏郎がそこで「これは俺だ、俺もこの通りだったんだ」と叫ぶわけだ。殺伐を絵に描いたような男の、なぜ彼はそうなったのかという生い立ちを痛いほど語っている場面だった。
 黒澤明は『七人の侍』のシナリオ執筆にあたって、七人の侍それぞれの生い立ちを、ノートにびっしりと書き込んでいたという。背景をそこまで作ったからこその、あのリアリティあふれる侍たちが生まれたのだろう。

『宇宙戦艦ヤマト』はなんといってもあれです(笑)。
「地球か、何もかも懐かしい……」
 これは泣けた。
「遠く、時の輪の接するところで、再び会おう。この宇宙で命果てるまでお前のことを忘れはしない」
 キャプテン・ハーロックです。もちろん『わが青春のアルカディア』。

 そして『リオ・ブラボー』。あのウエスタン。アル中の元ガンマン、ディーン・マーチンがアラモ砦が陥落するまで吹き続けたという曲を聴く。吹くというからにはもちろんトランペットだ。そのとき、彼の禁断症状からくる震えが止まるのである。
「もっと吹け、俺はこの曲を絶対に忘れない」
 あの場面もよかった。

 他にも泣けた映画はいくらでもある。普通の意味で悲しい場面ではどういうわけか、あまり泣けないのだが、なにか妙に引っ掛かる場面があるとそこでじんとくる。また泣ける場面を集めてみたい。

カテゴリ: 映画

テーマ: なんとなく映画 - ジャンル: 映画

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Posted on 2007/03/27 Tue. 21:47    TB: 0    CM: 0

原作と映画――ちょこっと「好きだったころの平井和正」 

 本当は『野火』について書きたかったのだが、さすがに戻ってきて、いきなり人を食べる話もどうかと思ったので、あまり過激ではない話題で行きます(笑)。
 ただちょこっとだけこの話題に触れると、ぼくたちの世代が、一番最初に人を食べる話に触れたのは、『レッドドラゴン』でも『羊たちの沈黙』でもなかった。もっともこの二つの話は、カニバリズムの信奉者であるやたらと頭のいい犯罪者を魅力的に描いた物語ではあっても、カニバリズムそのものを描いた物語ではなかった。話を戻すと、ぼくたちが最初に触れた人食いの物語は、『野火』ではなく、さらにいえば『ひかりごけ』でもなかった。
 それはジョージ秋山の『アシュラ』だった。これは衝撃的で、読んでしばらく魘された。いや、ほんと――。

 さて、本題。
 カニバリズムの話から遠く離れて、映画と原作のお話である。原作と映画が異なるのは当たり前で、このこと自体は少しも問題ではない。というかむしろ違って当たり前だとぼくは思っている。もちろん、同じであってもかまわない。問題は単純で、その作品がおもしろいかどうか、それだけである。
 松本清張の『張込み』は刑事がひとりで行動する。映画化されるにあたって脚本を担当した橋本忍は、現実の刑事がひとりで行動するのはおかしいのではないかと原作者である松本清張に言ったらしい。すると松本清張は、自分もそのあたりのことがよくわからないといって、ふたりで警察に訊きに行ったという。行ったのは、あるいは橋本忍だけだったかもしれないが、まあこんな話だったと思う。この話はずいぶん前にシナリオ関係の本で読んだ記憶がある。原作とシナリオの関係を、橋本忍はかなり刺激的な言葉で解説していた。刺激的な言葉がどういうものか、ぼくは言えません。そんな下品な言葉はとてもとても……興味のある方は、ご自分でどうぞ(笑)。

 松本清張原作で有名な映画といえば、やはり『砂の器』だろう。この映画の脚本は橋本忍氏とあの山田洋次監督だった。山田洋次監督は彼の著作『映画をつくる』のなかでこの長大な原作をいったいどうやって映画にするのかずいぶんと悩んだと書いている。悩んでいるとき橋本忍氏が、原作の中でここが映画になるといって指した場面が、あの親子の放浪する場面だったらしい。原作では親子が放浪する場面は、簡単に短く、描かれていたはずだ。小説では短い場面が、映画では要の場面になると見抜いた橋本忍はさすがだと思う。この人は黒澤ファミリーの一人だ。あの『羅生門』のシナリオを書いたのもこの人だった(オリジナルという意味ですよ)。とにかく、『砂の器』映画化にまつわるこの話を知ったときはさすがだと思った。が、この人の最後の作品が『幻の湖』だったというのは、どういうことなんだろう。頭を抱える。う~ん、わからん。

 わからない話はさておくとして、映画と原作ということで、ここしらばくらチョコチョコと書いてきた平井和正氏のアダルトウルフガイシリーズを映画化した作品があったことを思い出した。
 これまで何度も書いてきたことだが、ウルフガイシリーズは二つある。高校生の犬神明とおっさんの犬神明が主人公のシリーズで、このふたつは、まったく別の宇宙に属する物語だ。このあたりが平井和正氏言うところの、ウルフガイシリーズはSFで、パラレルワールドを扱っているという所以だろう。少年とおっさん、シリーズは両方とも映画化されている。少年犬神明が主人公の『狼の紋章』は見たことがないので何ともいえない。しかし、アダルトウルフガイシリーズを映画化した作品は、しっかりと見ました。
 その名も『燃えよ狼男』――タイトルからして何をか言わんやだ。
 犬神明をあの千葉真一さんが演じた怪作で、はっきり言ってひどい代物だった。駄作以前の代物だ。ウルフガイシリーズの中の『虎よ! 虎よ!』と『狼よ故郷を見よ』を足したような作品で、『県警対組織暴力』だったか、そんな映画と同時上映だった。
 平井和正氏がこの作品に触れたことはあるのだろうか。ぼくは目にしたことはないが、あるいはどこかであったのかもしれない。もし触れたことがなければ、それはけなすほどの価値もない作品だったということだろか。
 平井和正氏のイメージにあった犬神明(アダルトではなく少年の方)のイメージは、松田優作さんだったらしい。
 いまならいっそアニメでやった方がいい作品だろう。しかし、その際の脚本は平井和正氏自身が書くべきだと思う。

カテゴリ: 映画

テーマ: なんとなく映画 - ジャンル: 映画

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Posted on 2007/03/27 Tue. 01:03    TB: 0    CM: 4

連絡です 

明日から三日ほど、ちょいと草鞋を履いてきます(笑)。
ですからブログの更新は、三日ほどお休みということで、よろしく。

皆さん、淋しいですか? 

さびしかねーよ

あははは、残念。

とにかく、三日ほどしたら再開しますので、よろしく。

カテゴリ: 未分類

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Posted on 2007/03/23 Fri. 08:28    TB: 1    CM: 0

ハードボイルドな平井さん……好きだったころの平井和正(3) 

 知られていることだが、平井和正氏氏はレイモンド・チャンドラーのファンで、翻訳が出る前、原書を読んでいたという。チャンドラーを原文で読める……う~ん、凄い。英語が苦手なぼくには、もうそれだけで感激ものである。
 たぶんウルフガイシリーズのあとがきだったと思うが、平井和正氏はハードボイルド小説の始祖とされるD・ハメットを、小説が下手だと書いていた。ちょっと自信がないかな……いや、書いていたことは間違いない。詳しい文章を思い出せないだけだ。加えて言えば、D・ハメットが下手だというのは、もちろん、冗談だ(ろうと思う)。

 最近は《親父のハーレクインロマンス》とこばかにされるハードボイルド小説だが、平井和正氏の作品は、当時SFハードボイルドと呼ばれていた。だが信じていはいけない(と、御本人がこう書いていたはずだ)。ハードボイルド小説というのは、1920年代にアメリカで生まれた特殊な小説形式で、自分の作品はハードボイルド小説ではない。心理描写を排し、行動を通して人物の内面を非感傷的な文体で描く云々――というたいていの人が一度は読んだことがあるだろう、ハードボイルド的決まりごとに対して平井和正氏は、チャンドラーなんて感傷でべたべたではないかと書いている。ぼくもそう思う。もしチャンドラーがハードボイルドなら、心理描写を排してというのは、《×》ということになる。そこで、ハメットが登場するのである。ハメットだけは、たしかに違うと平井和正氏は書いている。たぶんハメットは小説が下手で心理描写ができなかったのだろうと、ここで登場するわけだ。もちろんそんなことはない。平井和正氏もそんなことはないと知っている(と、思う)。二度目になるが、これは平井和正氏の冗談である(はずだ)。

 平井和正氏原作の『8マン』は諸般の事情で最終回を雑誌に発表できなかった(テレビ版は最終回が放送されて、これは今見ても傑作だと思う)。そこでこの最終回を小説化したものを発表したことがある。皆がそういい、本人も認めるとおり、平井和正という人はチャンドラーのファンだったのだということがよくわかる作品だ。もっともその前に小説『8マン』とも言うべき、『サイボーグ・ブルース』を読んでいて、『8マン』で平井和正氏が本来描きたかったものがどんなものか、おおよそわかっていたから、驚きはしなかったが、やはりそこはそれ、『8マン』に胸を震わせた世代だ。小説『8マン』は感動的でしたなあ(笑)。ちなみに『狼男だよ』のなかにもチャンドラーの文章のパロディがあったと記憶している。『夜と月と狼』の最後だったろうか。
 話は少し横道にそれるが、『8マン』はかなり苦労した作品だったらしい。少年少女が対象ということで、臨場感ばかりを求められ、SFにならなかったそうだ。スーパーロボットがつまらんギャング団相手に、能力をもてあましているという批判があったらしい。子供だったぼくは十分楽しんだが、いまならその指摘はわかる気がする。この歳で見れば、きっとそう言うだろうな(笑)。『サイボーグ009』のアニメ版を見て、一種の郷愁は感じても、ちょっと辛いと感じるのと同じ種類の感情を持ったかもしれない。

 さてハードボイルである。ぼく自身は好きでも嫌いでもない。小説に限らず、どんなジャンルに関しても、偏愛は持たない方なので、ハードボイルドであろうがなかろうが、面白いものは面白いし、面白くないものは面白くないという、当たり前の立場でいる。たとえば小説という大きな総体があるとして、そのごく一部分だけに光をあてた発言という前提でいえば――正直、チャンドラーの物語は、どこか壊れていると思う。小説としてみればハメットの方が、数段上だと思う。ハメットがしたこと、ハメットがしようとしたこ、それに比べればチャンドラーはずいぶん色あせて見える。ただ、これはほんの一部分だけの話で、しかも言っているのは市井の一小市民、無教養なそのへんのおっさんの発言だから、気にしないでください(笑)。
 第一、ぼくはチャンドラーもハメットも、日本語で書き直された物語は読めても、英語では読めないのだから、本当の評価はできない。多少の矛盾や瑕疵があっても、文章の力さえあれば、どうってことはありません。黒いカラスも白くなろうというものだ。
 最近、『ロング・グッドバイ』が村上春樹訳で出版された。読んでみたくなった。
 平井和正さんは読むのだろうか。

カテゴリ: 平井和正

テーマ: 本とつれづれ - ジャンル: 本・雑誌

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Posted on 2007/03/22 Thu. 09:14    TB: 0    CM: 0

小津安二郎のすき焼 

 ヘルシー・ドリンク……
 決して「何とか汁」の話ではない(笑)。
 この場合のヘルシー・ドリンクは、黒ビールに生卵を落とした飲み物のことだ。こんなものを飲まなくてはならないのなら――まあ、飲まなくてもいいのだが――酒を飲まないぼくは幸せだと思ったりする。
 玉子酒ならぬ卵ビールを飲んでいたのは、小津安二郎である。
 お酒を飲める人で、小津安二郎の熱烈なファンの方がいれば、一度試してみてください(笑)。感想を聞かせていただければ幸いです。
 ぼくは、酒も飲まないし、小津の熱烈なファンでもないから、こんなものは飲みません。
 これから飲もうと考えている人がいるというのに(いねーよ)、こんなことを書くのはまずいかもしれないが、実はこれを飲んだという人が、既にいる。小津安二郎があまりうまそうに飲んでいるので、試しに飲んだらしい――「マズくて、吐き出したくなった」と、その人は書いている。『小津安二郎と茅ヶ崎館』の著者石坂昌三氏である。石坂氏がその卵ビールを飲んだ場所は、大船撮影所の前にあった《グールメ》という食堂だった。グルメではなく《グールメ》ってのがいい。

 作家の長部日出雄氏が小津安二郎と黒澤明についてこんなことを書いていた。世界で最も動的なものを表現した黒澤明と最も静的なものを描いた小津安二郎という二人の監督がいた日本映画は凄かった。もちろんこの通りの文章ではない。しかし、こういう意味であったと思う。読んで、なるほどと思った。たしかにその通りだ。
 ただ先にも書いたとおり、ぼくは小津安二郎のよきファンではないから、有名なところしか見ていない。それでも、小津映画は決して嫌いではない――どころか、かなり好きである。小津作品にかんしては、ぼくなりの鑑賞法がある。まず立て続けに十本くらい、黒澤映画を見る。その後に、小津作品を見る。いいです。胸に沁みます。ずいぶん乱暴だが、ぼくとしてはこれに勝る小津映画の鑑賞法はない(笑)。冗談です……いや、そこそこ本気(^_^;)。
 小津安二郎と黒澤明を比べるなど、そもそも許されることではない。静と動の極地を、そのときの気分で楽しめばいいと思う。どちらが上でどちらが下かを考えるなど、野暮な話だ。
 しかし、それでも好みはあるだろう。たとえばぼくは黒澤派だ。同居人は小津派である。
 どこが好きか訊ねたところ、ありえない日本と日本人を描いているところが好きだという答えがかえってきた。
「小津は日本的だというけれど、少しも日本的ではない」
 と、同居人は言う。
 それは寅さんの下町とそこに住む人々が、どこかにいそうで決していないのと同じことだ。あるいは『となりのトトロ』の昭和三十年代が、過去のどの時代にも存在しなかったのと同じことである。心の中だけに存在している風景なのだ。
 あれは佐藤忠男氏だった思う。日本人の現実の暮らしは黒澤明の映画のように、狭い場所に人々がひしめきあい、わずかな成功のチャンスをめぐって競争と狂騒にしのぎを削っている――余談だが、黒澤明の映画を評して、何かが詰まっている構図といったのは若き日の大島渚監督だった。狭い場所にぎっしりと葛藤を詰め込むことが、黒澤映画のエネルギーの秘密だ――毎度のことながら、佐藤忠男氏がこの通りのことを、書いたというのではもちろんない。こういう意味のことを書いているということだ。とにかく、日本人の現実の生活は、黒澤明の映画のようだというのである。しかし、その一方で日本人は晴耕雨読的な静かな暮らしを求めている。つまり小津映画のような、静けさと穏やかさに満ちた暮らしだ。
 小津映画に感動するということは、だから、誰もがあのような暮らしを望みつつ、それが結局、夢でしかないということを知っているからかもしれない。まあ、いまは時代も変わり、小津映画のような暮らしをしてみたいと思うのは、おっさん以上の人間かもしれないが(笑)。

 延々とどうでもいいことを駄弁ってきたわけだが(汗)、さて、いよいよ奇を衒ってつけたタイトル、『小津安二郎のすき焼』についてだ(笑)。
 小津安二郎は松坂で育った。だから、すき焼には相当うるさかったらしい。では小津安二郎が作るすき焼はどんなものかというと、醤油と砂糖を大量に入れ、そこに大さじでカレー粉を入れる。辛くて、甘くて、くどくて、どうも、もの凄い代物だったらしい。出された客が「うまい」といって食べたのは、小津安二郎が作ったからだろう。卵ビールはごめんだが、これは試してみる価値があるかもしれない。もちろん、味を試すというよりも、度胸試しだ。
 もっとも、池部良という二枚の俳優さんが、
「こんなものは食べられない」
 と言って以来、作るのをやめたらしい。
 しかし、松坂で育ったはずの小津安二郎はどうしてこんなすき焼を作ったんだろう。
 もう少し、小津の話を続けたい。

カテゴリ: 映画

テーマ: なんとなく映画 - ジャンル: 映画

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Posted on 2007/03/20 Tue. 21:56    TB: 1    CM: 0

音とリズムが作る映像 

 NHKBSだったと思う。黒澤明が存命中、御本人(黒澤明)、淀川長治、井上ひさしという、まったく夢のような三人の対談が放送されたことがある(笑)。その中で、井上氏が『七人の侍』の音響について面白いことを言っていた。
 野武士が倒れる場面だったか、それとも弓矢が当たった農民が倒れる場面だったか、いまにわかに思い出すことができないが、とにかくその際の音が少し遅れて聞こえると、井上ひさし氏は言うのである。誰かが倒れる。その倒れる際の音が、画面の絵よりも、少し遅れて聞こえる。そこに迫力が生まれる。それが井上ひさし氏の発言だった。

 ぼくも『七人の侍』は何度か見ているが、はて、音と画面を意図的にずらしたような場面があったのだろうかと考えてしまう。ぼくの見た印象では、そんな場面はなかった。
 もっともぼくが見たのは、ニュープリントで、昔劇場公開されたものとは、効果音などで変化があったように思う。たとえば斬殺音である。ニュープリント版の『七人の侍』を見ていると、公開当時は入っていなかったであろう斬殺音の聞こえる場面があった。あれは明らかにニュープリントになって入れたものだろう。
 斬殺音は同じく黒澤明の『用心棒』が最初だから、それ以前に撮影された『七人の侍』に入るはずがない。
 確実にいえることは井上ひさし氏は、ぼくが『七人の侍』を見た回数の、数倍は見ているはずだから、音と映像のずれについての発言が、いい加減なものであったとは思えないということだ。それはもしかすると、公開当時の技術的な問題によって、偶発的に発生したものであったのかもしれない。その偶然の、いってしまえば事故のような音のずれを、井上ひさしという人の感性が、《凄い!》と感じさせたのかもしれない。

 ただ、そういった細かな点はさておき、黒澤明に限らず、映画監督は音(音楽も効果音も含めて)に対してそうとう神経を使うというのは事実のようだ。ようだというのは、残念ながらぼくの友人に映画監督はおらず、直接的に映像と音の関係について訊ねることができないからだ(笑)。
 黒澤明は、映画というのは映像と音の相乗効果だと『蝦蟇の油』のなかで書いていたはずだ。音の重要性を知っていたからこそ黒澤明は、鶏に割り箸を突っ込み柳葉包丁で切り、さらにそこに濡れ雑巾を切った音をかぶせるという、凝った音で人を斬る音を表現してみせた。牛肉を吊るしておいて斬ったという逸話がまことしやかに流布されていたが、牛肉を斬っても柔らかすぎて、ああいう音は出ないものらしい。黒澤映画の音響担当だった三繩氏が何かで書いていた。

 一流の監督は、みな耳がいいと言ったのも、この記事の冒頭に名前を出させていただいた井上ひさし氏だった。耳がいい――音に対する感受性が鋭く、同時にリズム感もいいと言い換えてもいいかもしれない。
 淀川長治氏はスクリーンを見ずに、壁に映る映写機の光を見ていたことがあるという。パッパパッと明滅する光には、一定のリズムがあったという。ぼくは確かめていません(笑)。
 しかし、こんな話を聞いたことがある。小津安二郎の映画の独自の間について書かれた文章だ。場面転換に使われるフィルムの長さは常に一定だったという。会話の部分は全て、セリフが終わって十コマ、頭が六コマ、間があくのだという。具体的に言うと、一人の役者のセリフが終わると十コマ顔を映し続け、別の役者に切り替わって、その役者がセリフを言い出すまで六コマ映す。合計十六コマ分のセリフの空白ができる。秒数でいうと三分の二秒の空白だそうだ。この間を、小津安二郎はどんな場合も見逃さなかったらしい。撮影時間とフィルムのコマ数、そういったものが、身体のリズムになっていたのだろう。
 やはり、一流というのは凄いものだと思う。



カテゴリ: 映画

テーマ: なんとなく映画 - ジャンル: 映画

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Posted on 2007/03/19 Mon. 21:57    TB: 0    CM: 0

情け無用の『無用ノ介』――どっこい、血も涙もあるんだぜ 

「無用の子に生まれたこの俺が、この世に無用の悪を斬る。流れ流れの無用ノ介、どうってこたぁねぇんだ……いや、ちがう!」
 と、最初から何事かと思われそうだが、これはテレビ版『無用ノ介』のはじまりの部分で流れる、無用ノ介本人の独白である。なんか凄そうでしょう(^_^;)。

『無用ノ介』
 もちろん時代劇である。四十代以上の人ならおそらく知っているだろう、これは少年マガジンに連載された劇画だった。もちろん、さいとうたかお作品である。
 それにしても無用ノ介とはもの凄い名前である。フルネームは志賀(字が今わからないので適当に書いておきます、ごめん)無用ノ介。弓矢を使う少年の仇討ちに協力する話のときにフルネームが語られた記憶がある。
 とにかく無用ノ介。つまりこれは本名らしいのだ。父親の名前は風の介――だったかな、たしか死人小左衛門(これも記憶が曖昧だなあ、今度マンガ喫茶で確認してきます……でも、凄い名前だねえ)とかいう暗黒街の大ボスが、三人の息子の誰を跡継ぎにするか、選ぶために、無用ノ介と戦わせるというエピソードに、無用ノ介の父親の名前が出てきたような記憶がある。ちなみに三人の息子の跡継ぎというパターンは『子連れ狼』のなかにもあったはずだ。
 風の介(父)→無用ノ介(息子)となると、これはまさに劇画系列の親子だ。さらに言えば、無用ノ介の職業が《賞金稼ぎ》であり、これは親の代からの職業ということになっている。しかも剣は誰かに習ったものではなく、我流である。経験と度胸に裏打ちされた、ただしく木枯し紋次郎とおなじ喧嘩剣法だ。
 無用ノ介はさむらいのような格好をしているが、実は侍でもなんでもないのかもしれない。無宿人に近い存在であるとしか思えない。

 無用ノ介は片目だ。それは父親に斬られたからだ。そして、無用ノ介は幼少時、父親が斬殺される場面を目撃している。何とも陰惨で、悲惨な生い立ちである。
 無用ノ介は、彼に追われる犯罪者《賞金首》たちから畏怖と侮蔑をこめて《用なし犬》と呼ばれている。本名が無用ノ介。父親から片目を斬られ、その父親が殺されるところを目撃したという悲惨な生い立ち、あげくに《用なし犬》と呼ばれたのでは、極北のように冷えきった性格かと思いきや、これが案外涙もろく、優しいのである。
 眠狂四郎は本名ではない。丹下左膳も本名ではない。ならばいっそ無用ノ介も本名ではないという設定であってもよかったのではないかと思う。悲惨な生い立ちを背負った男が、自嘲的に無用ノ介と名乗った――ということにしたほうが、無理がないように思う。そもそも江戸時代に《賞金稼ぎ》など言うような職業があったとは思えない。その点ですでに大嘘をついているのだから、名前だけでも説得力を持たせればよかったのではないかと思う。もっともこれはいまのぼくの感覚である。当時はこれでよかったのかもしれない。
 テレビドラマ化されたときは、オリジナルにかなり忠実だった。ただ、一部、絶対生身の人間では表現不可能な必殺技があり、この部分に関してはやや変更を加えてあった。記念すべき第一回に登場する、押崎三兄弟の次男と三男が使う双身の剣――だったかな――というアクロバット剣法は、とても撮影不可能だったのだろう。原作とは異なる形で表現されていた。いまならあるいは特殊撮影で可能かもしれない。

 ただそういった細かい点はさておくとして、無用ノ介は原作に忠実なドラマだった。無用ノ介を演じた伊吹吾郎さん(角さんですね)は、無用ノ介そっくりだった。
 いつだったかテレビのインタビュー番組で『無用ノ介』オーディションの際のことを伊吹五郎さんが話していた。絶対に「マンガ」といってはいけないと言われたらしい。原作者のさいとうたかお氏がくるからだ。「マンガ」ではなく「劇画」と言わなければならない。ところが本番で伊吹吾郎さんは思わず、
「マンガは読みませんから」
 と、やったらしい(笑)。
 プロデューサーだったか誰かに、えらく怒られたらしいが、太っ腹のさいとうたかお氏は笑っていたようだ。もっともこの話を聞いたのはずいぶん前のことで、あるいは記憶に誤りがあるかもしれない。
 とにかく、ぼくはこの『無用ノ介』が大好きだった。非情な賞金稼ぎのはずが、とにかく涙もろかった。センチメンタルだったのだ。さいとう作品のなかでは一番好きだ。ちなみに一番の苦手があの『ゴルゴ13』である(笑)。
『無用ノ介』がさいとう作品の中では、群を抜いてセンチメンタルだと、漫画家のみなもと太郎氏がどこかに書いていたと友人に教えられたことがある。本当にみなもと太郎氏がそう言ったのかどうかわからないが、感じとしてはその通りだと思う。
 テレビ『無用ノ介』のテーマを歌っていたのは、あの美空ひばりさんだった。

カテゴリ: 漫画

テーマ: 漫画の感想 - ジャンル: 本・雑誌

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Posted on 2007/03/18 Sun. 20:46    TB: 0    CM: 0

『S』と『M』のお洒落な世界――『春琴抄』だぜ(^_^;) 

 谷崎潤一郎というひとは脚フェチだった――と、言うのはインターネットでひろった情報である。そういえば、ぼくは谷崎潤一郎がシンクロを眺めている様子を撮影した写真を見たことがある。水中から何本もの女性の脚が出ていて、それを眺めている老人がいる、という構図だった。脚フェチといわれれば、なるほどそうだったのかと思わせる写真だった。

 がさつを絵に描いたようなぼくは、もちろん谷崎潤一郎の描く高尚な世界は縁がなくて、読んだことがない。本当だ。
 その谷崎潤一郎の『春琴抄』は何度も映画化されている。ぼくたちの世代ではなんといっても山口百恵、三浦友和ですね。いまから書くことは、よく言われていることだ。だから書く。本来のぼくは、こんなことを人前で口にするのは恥ずかしいからいやなのだが(ほんとかね)、とにかく『春琴抄』はSMである。春琴と使用人の佐助の関係は、露骨に主人と奴隷である。谷崎潤一郎の読者ですらないぼくでも、あの映画を見ていればよくわかる。
 その『春琴抄』を映画化した作品の中の一本に『賛歌』がある。新藤兼人脚本・監督になるその映画は、山口百恵と三浦友和バージョンでは決して描かれなかった二人の関係を、「どうだ!」とばかりに描いていた。
 春琴は子供を産む。そばにいる男は佐助だけだ。誰が父親かは、ぼくにだってわかる。しかし、春琴は佐助との関係を否定し、物語の中でもそれは描かれない。
『賛歌』は今まで描かれなかった二人の関係を、映像化して見せた。迫力がありました。春琴と佐助の間に愛情はあった。しかし、比較的まっとうな考え方の持ち主であるぼくには、理解できない種類の愛情である。二人はSとMの関係を続けつつ、結果として産まれた子供には、愛情の欠片も示さない。怖くもあり、それでいて人間というものの深く不気味な部分について、考えさせられもした。
 だから、ぼくにとって描かれることのなかった『春琴抄』の閨の情景が描かれたことは《○》ということになる。

 しかし、一方の考え方として、肌を見せないから春琴なのだという考え方もある。
「お琴は肌を見せてはいけないの」
 と、語ったのは、淀川長治さんである。
 淀川さんが『春琴抄』の春琴について語っているのは、大島渚の映画『マックス、モン・アムール』についておすぎと対談をしている場面でである。この映画はセレブな奥さんがチンパンジーのマックスと浮気をするというお話だ。妻は本当にチンパンジーとセックスをしたのか。覗きたい夫と覗かせたい妻がそこにいる。
 マンネリ化した夫婦の回春も、セレブともなると手がこんでくる。およそ高級とか高尚とかという世界とは縁が遠すぎて、ぼくにはよくわからないが、説明をうけると
「あ、なるほど」
 と、思わずぽんと手を打ちたくなる。
 見せないことがいいのか、見せる方もいいのか、ぼくにはよくわからない。芸術的な表現としては、どちらもありなのだろう。後は好みの問題だ。
 しかし、谷崎潤一郎は見せなかった。見せないことで妄想が膨らむのなら、そうとう高尚な世界、高級な猥褻というこになる。山田憲太郎氏ではないが長襦袢の世界、「ほのめかす」世界だ。

 話はSMからも回春からも離れるが、人間の営みはどんなことでも物語になる。SMに没頭する男女も数学者の日常生活も物語になる。SM趣味があり(どうも今回はSMからはなれられないなあ)あらたな緊縛方法を考える彼や彼女も、難解な問題を解こうとしている数学者の頭の中も、大スペクタクルなのだろう。

カテゴリ: 映画

テーマ: なんとなく映画 - ジャンル: 映画

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Posted on 2007/03/17 Sat. 09:30    TB: 0    CM: 2

好きだったころの平井和正(ウルフガイ) 

 ある年齢の人間にとってはじめての平井和正体験はおそらく『8マン』だったろう。平井和正氏はかなり漫画の原作を書いている。『エリート』『超犬リープ』『幻魔大戦』等々。他にもぼくの知らない作品がかなりあるような気がする。あの『スパイダーマン』日本版の原作も担当していた。だから、アメリカンコミックの脳天気なヒーローとは、一味も二味も違う、やや暗め――いやそうとう暗めのスーパーヒーローだった。映画版のスパイダーマンが近いと思う。平井和正氏も、原作を担当したスパイダーマンに関しては、かなり言いたいことがあったらしく、エッセイだったと思うが、色々と書いていた。それを読んでいると、創作活動というが、ああこれもた労働なんだなあ、いやなこともいっぱいあるんだなあ、としみじみ思ったものである。この平井和正原作の『スパイダーマン』の中に「ハイウェイの狂魔」という副題の一遍があった。《狂魔》読めますか? 《くるま》と読むんですよ(にやり)。

 さて、ウルフガイである。
 これははまりました。
 最初に読んだウルフガイは、少年犬神明の登場する『狼の紋章』だった。平井和正氏がアルフレッド・ベスターを読み衝撃を受けたように、ぼくはもこの小説を読んで衝撃を受けた。いや、本当に面白かった。一応SF小説ということになっているが、むしろ大薮アクションに近い印象だった。現代の日本が舞台のアクション小説なのだ。ただ主人公だけが、人間ではなかった。もっとも平井和正氏は、この作品はあくまでもSF小説で、パラレルワールドものだと書いている(どこまで本気かな)。
 この世に『狼男だよ』なる小説があることを知ったのは、『狼の紋章』だったかあるいは続編の『狼の怨歌』のあとがきだったと思う。そのどちらかであることは間違いないと思うのだが……まちがっても、まあいいでしょう。いいかげんだね、どうも(^_^;)。
 とにかく、そのあとがきで、読者の手紙か何かが紹介されていて、その中に、自分にとっては『狼男だよ』の方がもっと面白かった――というのがあり、それで知ったのだった。いや、生き埋めにされた『狼男だよ』の犬神明を早く掘り出してくれだったかな。
 とにかく、そんなわけで、どうしても『狼男だよ』を読んでみたくなった。だが、当時この本は入手できなかった。事情については平井和正氏があちこちで書かれているから、読まれた方もいると思う。とにかく『狼男だよ』をぼくが読めたのは、タイトルを知ってから二年ほど後のことだった。
 これは面白かった。凄まじく面白かった。ぼく的にはヤングウルフガイシリーズよりも、こちらのアダルトウルフガイシリーズの方が面白かった。この作品は三部構成になっていた。『夜と月と狼』『狼は死なず』『狼狩り』である。『夜と……』はプレイコミックが初出だったらしい。『狼は……』はボーイズライフが初出。『狼狩り』は書き下ろしということだった。ボーイズライフはなぜか子供のころ我が家においてあった。さいとうたかお氏の『挑戦野郎』という劇画が連載されていたことは覚えているが、はてアダルトウルフガイシリーズはあったんだろうか。残念ながら記憶に残っていない。

 平井和正氏本人が語っているところによると、この作品は主人公犬神明が夢枕に立ち、自分を主人公にした小説を書けと言ったので書いたという。ネットで拾った情報では、ウルフガイの原型を書き始める少し前、平井氏は『キャプテン・スカーレット』のマンガ版の構成をやっていたことがあるという。キャプテン・スカーレットは不死身の男だ。そしてウルフガイも不死身だ。不死身というキーワードで両者は繋がっているが、だからウルフガイが誕生したとは思わない。ぼくはあくまでも夢枕の方を信じている。
 平井和正という作家はよく情念の作家だと言われるが、『狼男だよ』を読む限りは、情念というようなどろどろしたものはあまり感じない。どちらかといえば、軽快な感じで、明るく助平な(第一作は思いっきりセクシーである)脳天気な狼男が大活躍である。アダルトウルフガイ犬神明から明るさが徐々に消えていくのは、『狼よ、故郷を見よ』あたりからではないかと思う。そう言えば、『天使よ故郷を見よ』という小説がある。作者の名前はトマス・ウルフだ。
 平井和正氏は日本版『スパイダーマン』の原作を担当していたと最初に書いた。その中のストーリーをまるまる、アダルトウルフガイシリーズの『人狼、暁に死す』に使っている。



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カテゴリ: 平井和正

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Posted on 2007/03/15 Thu. 23:39    TB: 1    CM: 2

香の魔力 

 最近、見たいなと思う映画が『パフューム』である。なんだか凄そうな感じがする。映画の宣伝でも言っているが、あのころのパリは臭かっただろうと思う。尾籠な話で恐縮だが、排泄物がたいるところに落ちていたらしいから、そんな中でグルメもなにもあったものではないと思うのだが、そのあたりどんなものだろう。排泄行為に関して無頓着なのは、かつての中国もそうだったらしい。二大グメル大国だ。食べる方には全身全霊を注いだふしのある二つの国が、出す方に関してはまったく気にしなかった(わけでもないのかもしれないが、ぼくにはそう見える)というのは、大変興味のあるところだ。

 パフューム《Per fume》は現代では香料全体を表現する言葉になっているが、ラテン語のペル・フェマム《Per fumum(煙を通じて)》という言葉から転じたものだという。
 ようするに乳香と没薬である。両方とも焚いて煙を出すものだ。香料を焚いた煙を《インセンス》という。焚香料のことであ。
「よい匂いは香料を焚いて、その煙の中に感じる。だから古代の人びとは、インセンスはペル・フェマムであると考えたのであった」
 これは、もちろんぼくの言葉ではない。
 山田憲太郎さんという方が、法政大学出版局から出している『香談』という著作の中にある言葉だ。山田氏によれば、古代の香料は宗教上の儀礼に必要だったらしい。祭壇で香料を焚くのだ。崇拝する神と自分たちを結ぶ「最上のなかだち(山田氏はこう書いている)」は、香の煙だと信じられていた。崇拝する神様に捧げる香が、悪臭であるはずがない。素晴らしい香でなければならない。天を喜ばせる香は当然礼拝する人びとにとっても芳香だった。
 人類は古くから素晴らしい香を手に入れるために、けっこうなことをしてきたらしい。この本を読めばわかる。

 いつか我らが中村中ちゃんにカバーしてもらいたい曲に『シバの女王』がある。グラシェラ・スサーナが歌った「あ~なたゆ~え、く~るおし~く」というあの曲です。この曲で歌われているシバの女王は旧約聖書の列王記に登場する。紀元前10世紀ごろイスラエルのソロモン王のもとに、香料と金銀財宝を駱駝に背負わせて訪ねてきたのがシバの女王である。出身地については諸説があるようだが、「エチオピア」か「イエメン」のどちらからしい。イメージ的にいうとシバの女王はやはり美人だったのだろう。
 しかし、シバの女王が美人であることも重要だが、シバの国は、乳香と没薬、ふたつのインセンスの供給を支配していて、こちらも相当重要だった。あるいはシバの女王が美人である以上に重要だったかもしれない。ふたつのインセンスは、当時の宗教儀式に欠かせないものだからだ。
 どうも育ちがガサツなせいか、香水とか香料とか言われてもいまひとつぴんとこないのだが、そんなぼくでもいい香とあまりよくない香の区別くらいはつく。人類にとって香というのは、相当重要なものだということもわかる。空海は嗅覚の鋭い人だった。司馬遼太郎氏がそんなことを書いていたはずだ。

 話は横道にそれるが、『香談』の著者の山田さんという人はかなり粋な人だと言う感じがする。香の話から入っていって女性のセックスアピールについても語っている。もちろん、山田氏は女性のセックスアピールについて語るのが目的ではなく「幽玄」というものについて語っているのだが、このくだりがわりと好きだ(決して変な意味じゃないですよ)。
 たとえば着物の長襦袢について語っている――あくまでも「幽玄」について語るために、この例を出しているんですよ――さて、山田氏によれば、女性の着物、長襦袢の魅力は、「紅袖の意を感じさせ」る「ほのめかす」ところにあるという。したがって「動物的なナマのセックス」そのもののアピールではないということだ。
 この文章を読んでいると昨今の「エロかっこいい」は開けっ広げで「ほのめかす」も何もあったものではないなと思い、思わず苦笑が漏れる。思いっきり直截的で、たぶん山田氏の好みにはあわないだろう。
 じゃあ、お前はどうなんだと訊かれる(誰も訊かねえよ)と、けっこう好きです(^_^;)。気取りがなくて、猥褻な感じよりも健康的というほうが先に立ち、それはそれでいいなと思う。「くーちゃん」はぼく的にはちっともエロではないが、潔さとかっこよさは大いに感じる。
 もし彼女が近所に住んでいて、仕事に出かける姿を見かければ、
「頑張れよ!」
 と、声のひとつもかけてやりたくなる。「くーちゃん」のエロは、ようするにスポーツ的なのだ。
 エロチックというのなら、ぼくはむしろ中村中ちゃんの方に強く感じるときがある。流し目や、艶然と微笑むときや、話している瞬間の何気ない仕草や、歌っているときの地声から裏声に変わる瞬間や、あるいはどこかの誰かを見て一瞬見せるうっとりとした表情は、たまらなくエロチックだ。ほんと、色香を感じさせます――あ、色香もかおりだ(笑)。感じることも香ということかな。やっぱり人間と香には切っても切れない縁があるんだねえ。

追伸
世の中には売れていなくても――と言うよりも、最初から売れることを度外視して書かれていても、面白い本はいくらでもある。『香談』もそういった本だ。はやくEペーパーが実用化されて、この種の超マイナーな本が、安く簡単に入手できるようになってもらいたいものである。

カテゴリ: 読書

テーマ: オススメの本の紹介 - ジャンル: 本・雑誌

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Posted on 2007/03/14 Wed. 19:22    TB: 0    CM: 0

チャンバラのリアリティ 

 あの勝海舟が話したことを聞き書きにしたものが『氷川清話』だが、その中に岡田以蔵が人を切ったときの話が書かれている。岡田以蔵というのは、あの《人斬り以蔵》である。岡田以蔵が勝海舟の警護をしていたとき、三人の侍に襲われた。そのとき、以蔵はあっというまに二人を斬り、一喝すると、残ったひとりは逃げ去ったという(Wikipediaでは斬ったのは一人だったとなっているが、二人だったような気がする)。

 司馬遼太郎氏は『翔ぶが如く』のなかで中村半次郎の人斬りについて触れている。中村半次郎も《人斬り半次郎》と呼ばれ、ずいぶん斬ったような印象があるが、記録に残っている人斬りは一人だそうだ。記録に残っていない人斬りがあったのかどうか、そこのところはよくわからない。とにかく、その『翔ぶが如く』の中で、中村半次郎は斬ろうと思った相手に対して、
「ちょっとそこまで送ります」
 と言って送りに行き、いきなり斬ったらしい。
 司馬遼太郎氏は中村半次郎がほとんど文盲に近かったと書いてるが、漢文の読み書きはだめだったが、普通の読み書きなら十分出来たという話もある。本当のところはどうだったのだろう。
『翔ぶが如く』はあくまでも小説である。それが事実と異なっていてもなんら問題はない。もっといえば面白く、説得力があり、読み手のぼくが何かを感じらればそれでいいと思っているのだが……ごめんなさい、司馬作品のなかでこの『翔ぶが如く』だけは、だめなんです。何か釈然としないものが残る。それは結局、西郷隆盛という人のわからなさかもしれないと思いつつ、いまもよくわからない。

 余談だがぼくは司馬遼太郎氏の作品を小説以上とも以下とも思っていない。何か、司馬氏の作品に小説以上のものを求めているような風潮をときどき感じることがあるが、あれはあくまでも小説で、実際の歴史とは異なるものだろう。有体に言ってしまえば、現実にあった材料を使った作り話だ。でなければ歴史があんなに面白いはずがない。学校で習った歴史が面白かったですか(笑)? ぼくは少しも面白くなかった。教え方が下手だから? それはあるかもしれない。しかし、本当の原因は、それが本物の歴史だったからだ。本物の歴史から楽しさを掴み取ろうとすれば、相当な忍耐がいると思う。細かな事実を寄せ集め、いくつかの資料を読み(この手の資料は絶対に司馬氏の小説のように面白くないはずだ)、あれこれ考えているうちに少しづつ面白さがわかってくる。そういうものだと思っている。司馬遼太郎氏の語る歴史が面白く楽しいのは、あれが架空のお話だからだ。ぼくはそう思っている。さらにいえば司馬氏の語る歴史観の楽しさと説得力は、あの語り口によるところが大きいと思う。あの人は喋りもうまく、文章は、当たり前のことだが、凄まじくうまかった。ぼくは両方好きだった。偏愛と呼んでいいほどに好きだが、それでもやはり小説でありエッセイであると思っている。そこから歴史を学び取るのではなく、学ぶなら、鮮やかな日本語の使い方だろう。

 それはともかく、中村半次郎の人斬りの話について言えば、いかにもありそうな話だと思う。
 正面きって刀を構えれば勝ち負けは、言ってみれば時の運だ。ならば、絶対に有利な条件を作ろうとすることは少しも不思議ではない。ただそれでは絵にはならないだろう。
 日本刀を使った実戦がどういうものか銃で打ち合うことよりも、イメージすることが難しい。時代劇の殺陣が、実際の斬りあいと異なることは、誰でも知っている。重い日本刀を、あんなふうに軽々と猛スピードで振り回すことは出来ない。
 津本陽氏は古武道の型を見たとき、そのゆっくりとした動きを意外に思われたらしい。しかし、すぐに早すぎては刃筋がくるって切れないのだと気づき、実戦を想定した古武道の凄みを感じたという。
 たとえばテレビドラマの『木枯し紋次郎』のチャンバラは、放送当時リアリティがあると話題になった。紋次郎は鮮やかに敵を斬らない。絡み合い、縺れ合い、のた打ち回るようにして相手を斬るのである。そういった、言ってみれば無様な斬りあいが、現実味があるというのなら、黒澤明の『羅生門』の戦いはリアリティ満点だった。『七人の侍』の中には、
「一本の刀じゃ五人と斬れん」
 というセリフがあった。だから日本刀を何本も地面に刺しておき、刀が折れれば新しい刀を取りに行っていた。
『大殺陣』も『十三人の刺客』もリアリテイィがあったかもしれない。
 本当の斬りあいを見たという作家がいる。勝目梓という人で、この人のエッセイ『いつも雑踏の中にいた』のなかにそのことが書いてある。若いころ働いていた炭鉱で、博打のいざこざがもとの喧嘩があり、そこで本物の斬りあいを見た。人を斬るときの音というのは、バットで立ち木を殴るような音だったという。
 そして、実際の斬りあいは、醜いものだったとも書いている。

カテゴリ: 日記

テーマ: ひとりごとのようなもの - ジャンル: 日記

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Posted on 2007/03/13 Tue. 21:42    TB: 0    CM: 0

好きだったころの平井和正 

「アタタタタタタタタッ!」
 ふー……(ちなみにこれ、呼吸音です)。
「お前はもう死んでいる」
「ホゲッ!」
 と、何を遊んでいるのかと思われそうだが(笑)、もちろんこれは『北斗の拳』のつもりです。似てね~(^_^;)。
 それはともかく北斗神拳だが、この我らがケンシロウの使う必殺拳は、つまり《秘孔》に力を加えることにより、内部から肉体を破壊するという拳法――というようにぼくは理解しているが、これでいいのかな? 
 とにかく、これでいいということで、話を進めます(荒っぽいね、どうも)。

 さてその経絡秘孔だが、つまりツボのことだ。
 鍼灸や指圧で使うあの《ツボ》と基本的には同じである。格闘技の技として経絡秘孔を攻撃するという、斬新な方法を最初に知ったのは、残念ながら『北斗の拳』ではなかった。この記事のタイトルにもさせていただいた平井和正氏の小説だ。
『死霊狩り・ゾンビーハンター(以下、ゾンビーハンター)』の中で、はじめてその名前を知った。
『ゾンビーハンター』がどんな物語かは説明が長くなるので省くことにするが、これは元々コミックだった。コミック時のタイトルは『デスハンター』。平井和正氏が原作を書き、桑田次郎氏が作画を担当した。そうあの『8マン』のコンビです。おそら平井氏は『ゾンビーハンター』としたかったのだろうが、《ゾンビ》という言葉がまだ一般的に認知されていなかった時代だった(これは勝手な想像です)。とにかく、その『デスハンター』を小説化したのが、『ゾンビーハンター』だ。

 この物語に登場する中国情報部の林石隆という超人的な中国拳法の達人が、経絡秘孔を攻撃する技を使ってみせるのである。
 余談だが、この林石隆は同じく平井和正氏のウルフガイシリーズにも登場する。アダルト・ウルフガイの狼男、犬神明を新月時とはいえノックアウトするのがこの林石隆だった。ウルフガイシリーズについてはいつか熱く語ってみたいが、長くなるので、これも今回はやめます(笑)。
 ウルフガイシリーズに登場する林石隆と『ゾンビーハンター』の林石隆は別人であるが、共通項は、二人とも超人的な中国拳法の達人だということだ。話をややこしくすると、少年犬神明が主人公のウルフガイシリーズにも林石隆は登場して、彼も中国情報部の人間だが、なんと虎人間である。
『ゾンビーハンター』の林石隆は、主人公の田村俊夫と相棒の美女がまるで歯の立たなかった不死身の巨漢をあっさりとKOする。そして言う。
「ハンマーで殴られても平気な奴が、経絡秘孔に小指を突っ込まれただけで気絶する」
 セリフはもちろんこの通りではないが、内容にまちがいはない。
 本当にそんな技があるかどうか知らないが、物語として、これは説得力があった。平井和正氏がどこでこんなアイデアをつかんだのか知らないが、『北斗の拳』の原作者がこのアイデアをつかんだ経緯はインターネット上で公開されている。

『ゾンビーハンター』のなかで主人公は絶海の孤島に閉じ込められて、そこで殺し合いをさせられる。サバイバル能力とどんな状況下でも生還する一種の《運》を持った人間を選別するためである。「絶海の孤島」「殺し合い」となると思い出すのは『バトルロワイアル』だ。どんな状況下からでも生還する《運》の持ち主なら『ボトムズ』のキリコ・キュービィーである。
 そうだ、この主人公にはもうひとつ面白い特徴がある。彼は戦闘の中で左目と左腕(逆だったかな……とにかく片目と片腕だ)を失う。そして特殊な義手と義眼を装着される。このアイデア、『六百万ドルの男』と『バイオニック・ジェミー』だ。アイデアは平井和正氏の方が早かった。

 平井和正という人はスーパーマンものを得意としていた(と、ぼくは思っている)。なにせあの『8マン』の原作者である。たしか豊田有恒氏の著作で読んだのだと思うが、平井和正氏はアルフレッド・ベスターを読み、小説観が変わるほどのショックを受けたという。わかる気がする。
『分解された男』
『虎よ! 虎よ!』
 ぼくはこのふたつを読んだだけだが、本当に面白かった。『虎よ! 虎よ!』は一種のスーパーマン物語だ。
 平井和正氏の物語には《虎》がよく登場する。それは虎のイメージであり、虎に変貌する人間であり、虎の模様が顔に浮かび上がる人間であり、想念の虎である……。
 今でもあのころの平井和正氏のことを思うと胸が熱くなる。ほんとうに。

カテゴリ: 平井和正

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Posted on 2007/03/12 Mon. 21:04    TB: 0    CM: 0

人情のとどく時代 

 丹下左膳をあれだけ熱く語ったわけだから、いまさら言う必要もないとは思いますが――(笑)、時代劇が大好きである。
 しかし、一口に時代劇と言っても、いったいどの時代を舞台にした物語を時代劇と言うのか? 
「わかりますか?」
 たとえば昭和の時代を題材にとった物語を、誰も時代劇とは呼ばないだろう。一般的に時代劇といえば、江戸時代を舞台にした物語のことというイメージがあるのではないだろうか。でなければNHKの大河ドラマに多い戦国時代だ。すると江戸時代から戦国時代にかけてというところか。明治時代は微妙なところだと思う。たとえば西部劇がある。ぼくのイメージでは西部劇は天保時代のようだが、実際は明治時代のお話である。南北戦争を舞台にしてようやく江戸時代ぎりぎりといったところだ。西部劇史上有名なOK牧場(ガッツ石松ではありません)の決闘は1881年である。アメリカでは立派な時代劇も日本では文明開化の時代の物語である。もう刀を差して歩いている時代ではなかった。

 ぼくの好みとしては、天保時代を舞台にした時代劇が一番落ち着く。水戸黄門こと水戸光圀の生きた時代は元禄時代だが、ドラマは天保時代の風俗だといわれている(ぼくには判断のしようがないが、たぶんそうだと思う)。ぼくらが時代劇といって思い浮かべる時代は、天保時代ではないだろうか。ちなみにぼくの好きな丹下左膳は享保のころが舞台だ。
『木枯し紋次郎』の作者笹沢佐保氏は、
「天保時代と現代は似ている」
 と、言っていた。この場合の現代というのは昭和のころだ。実際に似ているのかどうかぼくは知らないが、つまりぼくにとって人情が届き、しかも多少のヨタをとばされても納得してしまう時代設定が天保時代というころになるだろうか。
 これが戦国時代になると、もうほとんどファンタジーである。知識としてはわかっていても、その時代に生きていた人間が本当はどんな人たちだったのか――NHK大河ドラマをみていると、まるで現代人のような戦国武将が出てくる。
「ほんとかいな?」
 と、言いたくなる。
 たとえば織田信長と前田利家には衆道の関係があったという。当時の日本(日本という統一国家のイメージは持っていなかったが)では男性同士の好いた惚れたは自然なことだった。有名な『葉隠』をゲイの美学書といったのは司馬遼太郎氏だ(司馬遼太郎氏は、ゲイ的なものに対して少しも偏見は持っていないと書かれているが、判断は、ぼくにはできない)。つまり、そういう人間くさい部分を全部パスした物語を見せられても、言ってみればオペラかバレエを見せられているような気がする。しかも、オペラやバレエほどの芸術性もない。となればひどく薄っぺらいダイジェストを見せられているような気になるばかりだ。そうでない場合も、まれにあるが。

 幕末はぼくにとって微妙な時代だ。時代が近いということもあり、妙な安心感は、たしかにある。たとえば坂本龍馬が十人切りをすればそりゃ嘘でしょうといえるし、戊辰戦争以前にガトリング砲が出てくれば、ちょっと待てよと言える。そういった安心感だ。
 ただ幕末を描く時、たいてい人物が変に立派で、これが引っ掛かる。人間に対してあまり夢を見ない性質だから、日本の将来を熱く語る志士なんかが出てくると、逆にいかがわしく思える。あの時代に立派な人間がいて、いまは人物がいない。そんなことがあるはずがない。あの時代もこの時代も、生きているのは同じ人間だ。打算もあれば計算もあったはずだ。賄賂も不正もあったし、徳川幕府を倒すということが、自分の立身出世に繋がると考えていた人間がいたはずだ。たぶんそんな人間ばかりだったんだろうと思う。明治維新は偶然成立して、それをなしえた原動力は、強迫観念と打算だった。ぼくはそう思っている。
 司馬遼太郎氏は坂本龍馬以外誰も新国家の青写真を持っていなかったというが、ぼく的には坂本龍馬も青写真と呼べるようなものはもっていなかったと思う。理想を語ることと――龍馬は理想すら語らなかったと思うし、ぼくはそういう龍馬が好きだ――実務をこなすことはまるで別次元のことだ。明治維新を描くのなら、へんな理想主義者など登場させずに、打算と冷酷な計算の算盤を弾いている連中ばかりを登場させれば、もっと劇的に面白くなると思う。少なくともぼくはその方が面白い。
 尾崎秀樹は時代劇について、古くても新しくてもだめだと言っている。菊池寛は江戸時代を遡ると、近代性がなくなってヨタがとばせなくなると言っている。

カテゴリ: 日記

テーマ: ▼どうでもいい話 - ジャンル: 日記

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Posted on 2007/03/11 Sun. 22:40    TB: 0    CM: 0

シナリオ作法あれこれ(2) 

 驚異的なシナリオの書き方をした監督がいる。木下恵介だ。
『小津安二郎と茅ヶ崎館』の著者石坂昌三氏は、木下恵介監督のことを日本映画界のモーツアルトと言っている。
 ぼくは見たことはないので本当かどうか知らないが(笑)、木下恵介監督は筆記係の助監督に口述筆記をさせたらしい。これが並みの口述筆記ではない。淀みなく喋り続け、喋り終わった時にシナリオは完成していたそうだ。
 もちろん、一日で出来ない場合は日をまたぐこともあったようだが、それでも書き直しなどは一切なく、ただ喋っているだけだったらしい。セリフは自分で動き、そして声色まで使ったというのだから、なんとなく見てみたい気がする。
 ぼくはこの話を信じている。このブログとちがって売られている本だから、まさかよたとも思えない。それなりの裏づけがあるはずだ。

 たしか石森史郎氏だったと思うが木下恵介監督の独特のシナリオを見習うべきだと言っていた。木下恵介監督の、そのシナリオにはたとえば《柱》も《ト書き》もなかった。まるで小説のようなシナリオだった(《柱》とか《ト書き》がどういうものかは調べてみてください)。もちろん石森史郎氏は形式を真似ろといったのではない。独創性を真似ろといっていたのだ。形にこだわっていては、新しいものは出来ない。なかんずく芸術表現は独創性が命だ。
 我らが黒澤明のシナリオもある意味で独創的だった。黒澤監督は原稿用紙の升目が嫌いだったらしい。だから原稿用紙の裏にシナリオを書いた。なぜ原稿用紙の裏かという、紙質がよくて鉛筆のすべりがよいからだったらしい。升目は縛られるようでいやなのだという。間違いなく独創的だ。

 シナリオの話から離れるが、『武士の一分』の山田洋次監督はかつて小津安二郎を嫌っていた。これはテレビで本人が話していたのを聞いたから間違いない。若い頃、小津安二郎など古臭くて駄目だと思っていたらしい。これからの時代はなんといっても黒澤明だと固く信じていた。
 それから何十年かたち、黒澤明の自宅を訪ねたとき、小津安二郎の『東京物語』をビデオで見ている黒澤明の姿を見た。若い頃、自分が否定し続けた小津安二郎をあこがれ続けた黒澤明が見ている。山田洋次監督はひどく感動したらしい。
 この話にはさらに続きがある。
 山田洋次監督は淀川長治氏にこの話をした。
 すると淀川氏は、
「それはあなた、黒澤明監督の秘密の小部屋を覗いたようなものだよ」
 と、言っていた。
 黒澤明自身は小津安二郎を否定していなかった。それどころか、大尊敬していた。自伝を読んでいるとそのことがよくわかる。やや偏執的な趣味を持つ映画評論家が、小津安二郎が一番だ、黒澤明はかなり落ちる――というようなことを書いていたが、これはどうもねえ……そもそも比べることがナンセンスだと思う。これも淀川長治氏が書いていたことだが、映画を小さな枠にはめない方がいいという。ニューシネマ全盛のころ、たとえばセシル・B・デミルのような古いハリウッドを体現したような監督の作品も楽しもうと言っていた。ぼくもその意見に賛成する。
 そうだ、淀川氏は木下恵介監督について、溝口健二と黒澤明、両方のいいところを持っているような監督だと言っていた。

 一流の監督は、やはり独創的だ。映画はシナリオで決まる。これは誰もが言っていることだ。独創的な作品は、独創的なシナリオから出来るのかもしれない。
 またまた話が横道にそれるが(笑)、作家の阿佐田哲也氏は、
「たとえば誰かがすでにやっていることを真似るならあるいは認められやすいかもしれない。誰もしていないことをするということは、認められるまでに時間はかかるかもしれないが、一度認められれば、長くその世界で活躍できる」
 と、エッセイに書いていた記憶がある。この通りではないが、このような意味だったと思う。
 阿佐田哲也氏は色川武大のときも含めて、実に独創的だった。

カテゴリ: 映画

テーマ: 映画関連ネタ - ジャンル: 映画

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Posted on 2007/03/10 Sat. 23:36    TB: 0    CM: 0

シナリオ作法あれこれ 

 願望を達成するためには努力するしかない。運や偶然で出来るというのは基本的に嘘だと思っている。あるいは照れ隠しだ。
 歌手になりたければ唄を歌い、作曲家になりたければ曲を作り、漫画家になりたければ漫画を描く。作家になりたければ小説を書き、陶芸家になりたければとりあえずろくろでも回すかということにな。あるいは粘度でもこねるか――。

 では、映画監督になりたければどうするのか。
 以前、NHKで黒澤明の特集番組があり、その中で黒澤明とファンが語り合うという企画があった。そのなかでどうすれば映画監督になれるのかという質問に対して黒澤明は、
「シナリオを書くしかないですよ」
 と、言っていた。同時に、
「どうしてシナリオを書かないんだろう。本気で監督になりたいと思うのならこれしかないですよ」
 と、嘆いてもいた。
 だから映画監督になりたければシナリオを書くしかないのだろうとぼくは思っている。ぼくは映画監督になどなりたいと思わないからシナリオは、もちろん書かない(^_^;)。
 たとえば他の監督がそんなことはないと言っても、ぼくはたぶん信じない。黒澤明がそう言ったから、その通りだと思うだけだ。以前、中嶋悟が現役だったころ、
「車の運転に関してはぼくの意見が一番正しい。なぜならF1ドライバーだからだ。しかし、たとえばセナがぼくの言っていることが違うと言えば、まあ仕方がねえなあと思う」
 と言っていた。もちろん、半ば冗談だ。が、半ば本気だったのではないだろうか。国家元首の数よりもすくないというF1ドライバーの言うことだ。こと運転に関する限りのその意見は誰よりも正しいはずだ。同じ理由で、あの黒澤明が映画制作に関していうことなら、評論家や黒澤明に比べて評価の低い監督が、がそれは違うと言っても、ぼくは黒澤明の方が正しいと思う。権威に弱いと言われればその通りです。あえて罵声も浴びます、どうぞm(__)m。
 それはさておき、そのNHKの番組には、何らかの形で映画制作に関わろうとしている者もいて、その手の人は中々一筋縄ではいかない。相手が黒澤明でもぼくのようになるほどと思ったりしない。
「監督の中には自分でシナリオを書かなかった人もいるじゃないですか」
 そう食いついたのがいた。
 黒澤監督は落ち着いたもので、
「人に書かしてもいても、それは自分で書いているのと同じことなんだよ」
 と、言っていた。質問者の彼は納得しなかったようだが、その話はそこまでということになった。

 自分でシナリオを書かなかった監督というのは溝口健二のことだろうと思う。溝口健二は確かに自分ではシナリオを書かなかったらしい。『小津安二郎と茅ヶ崎館』という本の中に、その話が出ている。溝口健二については美術監督をしていた進藤兼人の著作などを読んでいると、これはとんでもない人間で、こんなのが会社の上司にいたら、即会社を辞めるかもしれないと思えるほどひどい(笑)。ひどすぎて笑ってしまうほどである。でも、作品は駄作もあると言うが、ぼくの見た作品はどれも凄かったです。その溝口健二はシナリオをコンビを組んでいたライターに書かせた。第一稿はろくに見もしなかったらしい。これはストーリーです。つまりドラマではないと言うのである。書き直して持っていくと、少しは良くなったというがそれだけである。そんな感じで書き直させるから当然ライターは怒りを込めて書く。と、結局、最終的には、名作シナリオが出来ている、ということだったらしい。ただ間違えてはいけないのは、溝口健二がライターを発奮させるためにそんな態度をとったのではないということだ。進藤兼人の著作を読んでいるとそのあたりのことがわかる。溝口健二はそんな生易しい人間ではない。自分が名作をものにするためにとことん人を絞りぬき、これは駄目だとわかると非情に捨てる。実際にそういったことがあった。しかし、そんな人間でも、出来上がったものが桁外れの名作だったから、皆ついて行ったのだろう。ちなみに黒澤明、そして淀川長治、両人が最も尊敬する監督が、溝口健二だった。

 たしかに溝口健二は自分ではシナリオを書かなかったかもしれないが、自分の納得のいくシナリオが出来るまで決して妥協しないという点では、なるほど自分で書いているのと同じかと思える。なにせ撮影がはじまっても書き直しをさせた。執念である。自分で書いてまあこのあたりかと妥協するよりも、人に書かせて絞りぬく方が、名作が出来ると思っていたのかもしれない。やはり黒澤明は正しかったのだ。
『小津安二郎と茅ヶ崎館』は名監督小津安二郎について書かれた本だが、他の監督について触れた部分もある。具体的に言えば、それはシナリオ作りについてである。そういった部分も面白い本である。
 

カテゴリ: 読書

テーマ: 読んだ本。 - ジャンル: 本・雑誌

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Posted on 2007/03/09 Fri. 23:52    TB: 0    CM: 0

薔薇の名前と淀川長治節 

 我らが中村中ちゃんがそのブログの最後でいつも言う「さよなら、そよなら、さよなら」は、故淀川長治氏の決め台詞だった。一番最初にこのセリフを言ったのは『ララミー牧場』の解説をしていたときだと聞いたが、ぼくには記憶がない。ちなみにぼくは『ララミー牧場』を見たことがある。ぎりぎり第一回放送に引っ掛かっていた。歳がばれそうだ(笑)。

 ウンベルト・エコーというイタリアの記号学者が書いた小説『薔薇の名前』については御存知の方も多いと思う。ごめんなさいm(__)m。ぼくはまだ読んだことがありません。あの分厚さは、尋常ではありません。いつか読んでみたいと思いつつ、パスしています。
 しかし映画の方は見たことがある。原作と映画、どれほどの違いがあるのかわからない。J・エルロイの『LAコンフィデンシャル』は原作と映画はかなり違った。そのどちらも面白かった。
 映画『薔薇の名前』に限定して話を進めると、淀川氏の慧眼に思わず、
「あ!」
 と、膝を叩いた。
『おしゃべりな映画館』という淀川さんとおすぎの対談集の中で、淀川さんはこの『薔薇の名前』について、どんな見方も出来ると言いつつも、しかし、たった一言、
「これは薔薇族のなれの果ての映画である」
 と、ばっさりやっている。断っておくが、同性愛もしくは同性愛的なものへの侮蔑は、淀川さんには絶対にない。かつておすぎとピーコに対して侮蔑的な発言をした映画評論家に対して、そんな気持ちで映画評論などできるはずがないと怒りを込めて書いていた。
『薔薇の名前』という映画は推理劇である。十四世紀の修道院の中でおきる殺人事件を探偵役の修道士が解決するという物語だ。この点についても淀川さんはあっさりと、
「三文小説風のストーリーと中世宗教画の美術」
 と、言っている。二十何億かけて建ててしまったという十四世紀の修道院は、確かに凄い。本物かと見紛うほどだ。音まで凄い。
 殺人事件の謎を解いていく謎解きの面白さに加えて、荘厳な美術。さらに強烈にホモセクシャルの香が漂う。色々な人が色々なレベルで楽しめる映画だと淀川さんは言っている。つまり売れるということだ。

 あるいは横溝正史の描く推理劇に似ているかもしれない。横溝正史の作品に似ていると書いたが、『薔薇の名前』の中には、映画『犬神家の一族』と重なる場面があった。『犬神家の一族』の中で最も印象に残ったのは、死体の脚が水の中からにょきっと二本、突き出している場面だった。あの映画の一種シンボル的な場面として使われていたが、『薔薇の名前』の中にも同じ――と感じた場面があった。殺害された修道士が大きな瓶の中に頭から突っ込まれていて、脚が二本ぬっと出ている。偶然そうなったのか、それともジャン・ジャック・アノーが市川崑の演出に影響されたのか。
 ホモセクシャルの匂いが濃厚な映画だが、この物語には女性も登場する。貧しく、汚れているが美しい娘だ。この娘は修道院に出入りしている。つまり、この娘は修道士たちと関係を持っているのだ。そのものずばりの場面はないが、状況を考えるとそうとしか考えられない。同性愛、異性愛――愛という以前に、対象が同性であれ異性であれ、当時の修道院の内部が肉体的な欲望に、いかに餓えていたかがよくわかる(事実かどうかは別にして、この映画の中ではという意味)。主人公のウィリアムスは若い弟子を連れている。クリスチャン・スレーター演じる若い弟子は言ってみれば稚児さんだ。その若い弟子をみる修道士たちの目がもの凄い。これはおすぎの指摘だが、若い弟子の頭を撫でる長老の手の動きは、愛撫だと言っている。見直してみたが、本当にその通りだ。淀川さんが「薔薇族のなれのはて」と言った所以だ。
『薔薇の名前』の由来は、修道院に出入りしている名前も知らない綺麗な娘を、ウィリアムの弟子が《薔薇》と名付けるところからきている。それは、表のことだ。隠されている意味は、いうまでもなく同性愛だろう。
《禁欲》の建前に封じ込められた欲望がどろどろと煮えたぎっている様は、そういう意識を持たずに見ても、何かがあると感じさせられる。この映画に限らず、見ていて何か釈然としない映画はもう一度じっくりと見直したほうがいいのかなと思ってしまう。意外な発見があるかもしれない。

 ぼくにとって淀川長治という人は、映画を再構成して見せてくれる人だった。映画に限らず、芸術表現――優れた芸術表現は、パズルのようなものかもしれない。ひとつのまとまりを一度崩し、あるキーワードを元に組み立てなおすと、それまで見ていたものとはまるで違う絵が見えてくる。そのときに見えてきたものが、あるいは作家が最もいいたかったことかもしれない。
 淀川長治という人は、映画評論の持つ意味をよく教えてくれたと思う。だから映画に限らず、美術、音楽、文学、漫画、演劇、その他諸々――優れた評論は、作品の楽しみをより深めてくれると思ってつきあうことにしている。
 何もその評論に縛られることはない。それを手引きにして、自分なりの楽しみを見つければいいのだから。

カテゴリ: 映画

テーマ: 映画感想 - ジャンル: 映画

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Posted on 2007/03/08 Thu. 15:54    TB: 0    CM: 0

ヨコハマの二人の二村 二村佳代子と二村永爾 

 ヨコハマにはぼくの好きな二村が二人いる。「クールでかっこいい」男性の二村と「ウザかっこいい」女性の二村である。もう少し厳密に言うと、女性で「ウザかっこいい」二村はこれから好きになりそうな二村さんだ。
 ふたりの二村は男性と女性という以外にもうひとつ違いがある。
 二村永爾は矢作俊彦の小説の登場人物。すなわり架空の人物だ。
 二村佳代子は実在する女性シンガーだ。
 だからこういうわけ方ができるかもしれない。現実と非現実。しかし、現実も非現実も、実はそれほど大きな違いはないように感じられるときがある。
 と、こんなことを書くと、
「この人、いよいよやばくなってきたか?」
 と不安な顔で眺められるか、あるいは、
「またまた――(笑)」
 てな感じで笑われるかどちらかだと思う。
 たしかに半ば冗談で言っている。あるいは詭弁だと思ってね(^_-)-☆←可愛くねえ!
 とにかく、小説の中の登場人物と現実に生きて呼吸している人間が、同じということはありえない。

 しかし――である、残念なことにぼくは「ウザかっこいい」歌手の二村佳代子さんにあったことはない。するとぼくが彼女を知っているというのは、書物、マスメディア、このインターネット等々を媒体として知っているというにすぎない。矢作俊彦氏が創造した二村永爾も同じく、書籍、マスメディア、インターネットを媒体として知っている。つまり、両方とも様々な情報の集積の結果として知っている。この一点で、ヨコハマの二人の二村はぼくの中で同じである。実在しているかそうでないかは、その向こう側にある問題だ。仮に、
「二村永爾には実はモデルがいるんだよ」
 と、言われたとしよう。ぼくは信じるかもしれない。
「ウザかっこいい」二村佳代子女子を、ぼくは情報の集積として、
「知っている」
 と思っているに過ぎない。現実の二村佳代子さんがどんな人間か、実はまったく知らないのである。ぼくの中にある二村佳代子さんと現実の生きている人間としての二村佳代子さんは、実はまったく違う人間かもしれないのである。すると、ヨコハマのふたりの二村は、ぼくにとってフィクションとしての存在だということになる。
 いかかですか(ニヤリ)。
 ね、現実と非現実、実像と虚像、実在と非実在――そのどれも判断しているのは、このぼくという頼りない人間の認識でしょう。断っておくが、ぼくは見たいものしか見ていない。もしくは見たものをぼくの好みのものに仕立て直している。
 人は時々、それが架空であると知りつつも、熱中し溺れることがある。それが良い場合もある。良くない場合もある。好い悪いの問題ではなく、そういうことがあるということを意識しておいた方がいいのかもしれない。自分が本当はなにを見ているのか、ここは一番、じっくりと考えた方がいいのかもしれない。

 さて、ややこしい話はさておき、ぼくの好きなヨコハマの二人の二村のひとり、二村永爾は『ロング・グッドバイ』で横浜県警を辞めてしまった。ヤマトにも由にももう会えない。それとも我らが矢作俊彦は、県警を辞めた二村永爾に新たな活躍の場をいつか与えてくれるのだろうか。
 もうひとりの二村――実力派シンガーの佳代子さんは、これからの人である。地方在住のぼくは二村佳代子さんの歌声に直に触れる機会はもの凄く少ない――というか皆無に等しい。ネットとテレビで歌声を聴いた。「タバコのうた」でびびっときて、TV『デビルシャドー』のエンディングテーマを聴いて、この人はずっと聞いてくべきかもしれないなんて思った。ぼく好みです。
 二村佳代子さんがなぜ「ウザかっこいい」のか、興味のある方は、こちらへどうぞ。彼女のブログは面白いです。→http://www.p-promusic.com/artist.futamura.html 

カテゴリ: 日記

テーマ: 女性アーティスト - ジャンル: 音楽

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Posted on 2007/03/05 Mon. 16:08    TB: 0    CM: 0

食い物談義 司馬遼太郎・宮崎駿・堀田善衛『時代の風音』 

 その気になれば、政治向きの話も、社会性のある話もできます(笑)。でも、当たり障りがあるので、そういった話はしません(^_-)-☆。
 だから食べ物の話し。
 だからっておい……(^_^;)。

 宮崎駿さんは言わずと知れたあの宮崎駿さん。司馬遼太郎氏もあの司馬遼太郎氏。ひとり堀田善衛さんはちょっとなじみがないかもしれないが、有名な作家さんです。と、こう書いてみると、作家ってわりと知名度がないものなのかなっと思ってしまう。まあ、司馬遼太郎、松本清張、赤川次郎、宮本輝等々――旬の人とか、ほとんど国民作家かというほど有名な人ならともかく、ほどほどに有名な人というのは、一般的には、あまり馴染みがないのかなと思わざるを得ない。
 が、まあ有名と無名の考察はさておき、食べ物である。
 この三人の対談をおさめた本が『時代の風音』である。風音――これどう読むんだろう。《かぜおと》《かざおと》……? 音は《いん》とも読む場合があるから、じゃあ《ふういん》か? でも《ふういん》なら風韻と書くかなと思ったり……わからん。適当に行きましょう。

 別に本一冊丸ごと、三人で食い物の話ばかりしているわけではないが、「食べ物の文化」について話し合っているところがあり、それがけっこう面白い。
 宮崎駿氏が「陸がやせると海もやせる」と言っている。凄いと思い、なるほどと思った。それはある国の料理について語っているときに出てきた言葉である。こういった感覚が『となりのトトロ』になり『風の谷のナウシカ』になり『天空の城ラピュタ』になり――という具合に、澄んだ水と空気と風が必ず出てくる宮崎アニメになるのかと思ったりした。NHK『プロジェクトX』でも同種のことを田口トモロウさんがセクシーにかっこよく言っていたような記憶がある。してみるとこれは一般的に言われ続けてきたことで、知らなかったのはぼくだけか……よくわからないが、ぼくは宮崎さんの発言ではじめて知り、目から鱗だった。
 オランダ人というと体格がいいというイメージがあるが、十七世紀ごろの身長は165、6センチくらいだったと言っているのは司馬遼太郎氏である。オランダ人の体格がよくなったのはインドネシアを植民地にしてかららしい。十九世紀になって食糧事情が好転して体格がよくなったということだ。
 とにかくジャガイモだったらしい。あまりにもありふれた食べ物すぎて、ありがたみをあまり感じないジャガイモが、ヨーロッパの食糧事情を安定させたらしい。
 堀田善衛氏では、
「ポム・ト・デール――地面のりんご」
 と、フランスでは呼んでいると話している。
 ゴッホ作の『馬鈴薯を食べる人たち』はジャガイモしか食べていない、おかずがまるでないと司馬氏が語っている。
 この本とは関係ないが、前に何かで、ヨーロッパで主食といった場合、日本人はパンを思い浮かべるが、日本人が思う主食の感覚(たとえば米)でいう主食なら、それはジャガイモだ、と読んだ記憶がある。そういえばリングスにアンドレイ・コピロフ(だったかなあ)というロシア人の選手がいたが、この人が日本に滞在中、お米が駄目で、ジャガイモをよく食べていたという話を聞いたが、この本を読んでみて、なるほどそういうものかと思った。ヨーロッパの人たちにとって、ジャガイモというのはぼくたちが考える以上のものなのかと、日本しか知らないぼくはいまさらのように感心したりした。
 宮崎さんが、これぞ業界人という話もしている。それは即席ラーメンの食べ方である。即席ラーメンを食べ続けるコツは、銘柄を変えることらしい。宮崎さんは即席ラーメンを戦後日本の最大の発明品であると宣言している――宣言まではしてないか(笑)。

 ちなみに即席ラーメンではなく、ぼく流即席焼きそばの作り方をひとつ。即席焼きそばをラーメンと同じように鍋で煮る。ほぐれ、硬さが適当になったところで、ざるに麺をあけてお湯を切る。鍋に粉末ソースを入れ、そこに先ほどの麺を入れてよくかき混ぜる。これでいけます。
*ぼく流と書いたが、実際は友人から習ったものです。ごめんなさい。嘘をつきそうになりましたm(__)m。

カテゴリ: 読書

テーマ: 読んだ本。 - ジャンル: 本・雑誌

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Posted on 2007/03/02 Fri. 18:58    TB: 0    CM: 0

右手にダイヤモンド 園田光慶『ターゲット』 

『ターゲット』という漫画あった。連載された雑誌は忘れたが、内容はふるっていた。いま読んでみても、そこそこ面白いのではないかと思う。ずいぶん前に読んだ漫画だから、ストーリーは怪しいところもあるが、復讐がテーマの物語だった。
 岩神六平と男が家族を全員殺される。犯人は六平の弟だったと思う。動機は不明。その後、どういう経緯だったかは忘れたが、家族を殺された六平は、まるでパピヨンが収容されたような南海の孤島にある刑務所に収容される。そこにはヤコブというサディスティックな所長がいて……とまあ色々あるがはしょります(笑)。六平はその刑務所で知り合った男と一緒に銃殺刑に処せられる。しかし、銃弾を浴びながら、復讐のために必ず戻ってくると言い残す。
 実際に六平は戻ってくる。

 種を明かせば、刑務所で知り合った男は只者ではなく――じゃあ何者だ(笑)――秘密情報部員のような男で、銃殺にされる前夜、こっそり牢獄を抜け出し、銃殺に使用する銃の弾丸に細工をしたのである。
 この細工がもの凄い。薬莢から弾丸を抜き取り、蝋を込めておいたのである。六平ともうひとりの男を撃った弾丸は蝋だったのだ。
 もうひとつ凄いのは、男が牢獄を抜け出すため使用した道具は、なんと彼の太股かどこかに埋め込まれていて、彼は自分の足を切り開いてその道具を取り出すのである。もの凄く痛そうである。
 とにかく、蝋の弾丸で撃たれたふたりは衝撃で気を失う。死んだと思われた二人は鮫のいる海に投げ込まれる。
 ところが(笑)なんと男は鮫避けの薬(米軍開発とかいうことになっていた)を持っていたのだ。その薬品を使って鮫を追い払いみごと脱走に成功する。
 ちょっと無理があるかなと思わせるやり方だが、とにかく二人は生き延びたのである。

 六平は復讐に戻ってくるが、怒りに燃えるだけの素人の彼は捕まってしまい、右手を切り裂かれる。この時も男の救われる。追っ手がかかる。夜半、六平たちが潜んでいる小屋に殺し屋たちがやってくる。男は「幽霊」を呼んだという。この「幽霊」というのは男の所属する国際機関に所属する、まあ言ってみれば正義の側の殺し屋だ――そんなのありかよ、正義の殺し屋なんて(ーー;)。
 とにかく、この「幽霊」は見事な手際で追っ手を皆殺しにする。おいおい、本当に正義の味方かと突っ込みを入れたくなるが、この様子を見ていた六平は自分も「幽霊」になり、復讐をしようと決意する。
 六平はトレーニングを受けて「幽霊」になる。プロの殺し屋になったのである。しかし、これはかなり危ないやつである。私憤に燃える殺し屋というのは、何とも凄い。
 いよいよ、右手のダイヤモンドが登場する。引き裂かれた右手が、人差し指から小指の、間接に大粒のダイヤを埋め込んだ凶器に変わっている。アイデアは凄いが、これ、ぶん殴ると自分の手の方にもダメージがあるように思うのだが、ま、細かいことは考えないでおこう。とにかく、六平はもの凄く高価な凶器の右手を持った殺し屋になったわけである。
 この六平の戦う相手がまた凄い。声帯に超音波発生装置を取り付け、超音波で物体を破壊する殺し屋。背中にバッテリーを背負い、指先から針金を発射して敵を感電させるという仰天するような必殺技を持った殺し屋も登場する。
 この他にも「おお!」と、思わず声を上げてしまいそうな殺し屋たちが次々に登場する。ヤコブの「芸術品」とかいう設定ではなかったろうか。これはもうなみの殺し屋ではない。てか殺し屋ですらない。こりゃサイボーグです。

 とにかくこんな感じで、一種破天荒に物語りは進み、意外性もおりこみ、そして最後はちょっぴり悲劇的な方向に物語は向う。
 作者は園田光慶氏。この方は「赤き血のイレブン」の作画を担当されていた。他にも色々あったはずだ。
『ターゲット』という作品は、少し高めの年齢層を狙っていたのかもしれない。
 今の時代の感覚から見ると、多少「あらま……」というところがないわけでもない。しかしそれでもこの作品はけっこう面白かった。殺し屋が主人公というのは、理由はともあれ、問題があるようにも思うが、それでもいまの時代にあう感覚で、この物語を書き直すことができれば、けっこう面白いものになるのではないだろうか。
『青の6号』も新しい設定で描かれた。アニメだったかな。
 あの『ウルフガイ』も、現代の感覚で描き直され、連載がはじまった。
 と、なると『ターゲット』もあるいは……

カテゴリ: 漫画

テーマ: アニメ・漫画 - ジャンル: アニメ・コミック

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Posted on 2007/03/02 Fri. 08:33    TB: 0    CM: 2

カレーと超能力 

 本物の空中浮遊を見たという人が書いた本を読んだことがある。行ったのは高齢のインド人の行者で、場所もインドだ。いまのインドは知らないが、少し前のインドならそういうことがあっても不思議ではないかなと思ってしまう。その行者は結跏趺坐し、マントラを唱え、三十分ほどすると、数十センチ浮いていたという。
 これを見た人は、疲れていたせいか、驚かなかったと書いている。
 この老行者は空中浮遊をすることになったとき、青唐辛子を丼いっぱい食べたという。そうしないと熱が続かないらしい。青唐辛子を丼いっぱい食べ、額に光の塊をこしらえる。それは集中した意識らしい。その集中した意識を、頭上一メートルあたりに投影し、その意識を追いかけて肉体が浮ぶというのが空中浮遊の原理だという。
 断っておくがぼくは試したことはない。と、いうか試そうという気もない。現実にできるかどうかという以前に、それはぼくの分野ではないと思っているからだ。第一、青唐辛子を丼いっぱいも食べられない。
 超能力とか不思議に関して、ぼくの態度は一貫している。
 よくわからない。
「あると思えばあるし、ないと思えばない」
 これを言ったのは、空中浮遊をやってのけた(と、この本の筆者は書いている)老行者である。
 この種のことには答えが出せないので、ぼくの中の《よくわからない》という引き出しに入れている。ぼくはわからないことを無理に判ろうと思わない。否定も肯定もしない。第一あなた、人間が全てをわかろうなんて、そりゃ傲慢です(^_^;)。

 この本を買ったのは、超能力について興味があったからではない。
 カレーに興味があったのだ。
 一時期、カレーにむちゃくちゃ凝っていた。スパイスを買ってきて自分で調合してつくったりもしていた。インドの人が食べているようなカレーを食べたかったのだ。最近はレトルトでも、本格的なインドのカレーが食べられるが、以前はそんなこともなかった。
 結論から言うと、頑張ってみたがインド人の食べるようなカレーはつくれませんでした(^_^;)。ですが、決してまずくはなりませんでした、名誉のために言っておきます。

 しかし、スパイスを集めてつくるのは何かと大変だし、費用もかかるので最近はそこまではしない。
 これはインド料理のコックさんがやっていた方法だが、普通のルーを使ってそれっぽくつくる方法がある。
 まず玉葱を炒める。このとき油は大目にすること。しっかりと玉葱を炒めたところで、カレーのルーを砕いて入れて、さらに炒める。そして、ヨーグルトと水煮のトマトをいれ、鶏肉を入れ、ここで水を入れる。そのまま煮込んで、食べる前にガラムマサラを入れる。辛さの調整はカイエンペッパーでするようにしている。前にハバネロを栽培したことがあり、入れてみたことがあるが、いや驚きました。ハバネロって辛いんですね。度胸試しにはいいかもしれないが、食事と考えると、ぼくにはちょっとハードルが高かったです。
 このカレーは、けっこういけます。カレーのルーに関してはどこの銘柄でもいい。二種類くらい入れてもいいかもしれない。ただ、スパイスというのは種類が多くなると、マイルドになるものらしい。鋭角的なスパイスの味を楽しみたければ、種類は少ない方がいい。
 こちらは試してみる価値があります。少なくとも、青唐辛子を丼いっぱい食べて空中浮遊を試みるより危険度は少ないと思う。

カテゴリ: 日記

テーマ: 料理 - ジャンル: 趣味・実用

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Posted on 2007/03/01 Thu. 00:39    TB: 0    CM: 0

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