Gitanの趣味

ひたすら趣味の道を走っています(ニヤリ)

03« 1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.»05
 

スポンサーサイト 

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

カテゴリ: スポンサー広告

[edit]

Posted on --/--/-- --. --:--    TB: --    CM: --

円月殺法の美学 

「冥途の土産に円月殺法、御覧にいれよう」
 と、いうのはもちろんあの眠狂四郎の決め台詞である。秘剣だとかなんとか殺法というのは時代劇関係のドラマや小説にはよく登場するが、やはり群を抜いているのは円月殺法だと個人的には考えている。とはいえ、この剣の技は冷静に考えてみると、効果のほどは相当怪しい。ようするに下段に構えてそこからゆっくりと切っ先で円を描いて行くというわけだが、これでどうして人が斬れるのか。
 もちろん、小説的現実の中ではその原理は細かく説明されている。ようするにこの剣術は一種の催眠術――いや、完全な催眠術で、名刀夢想正宗が描く円によって、相手の意識を拡散させ、吸い寄せるようにして斬る、ということらしい。
 眠狂四郎はこの秘剣を自分自身で会得したということになっている。自分の出生の秘密を探るために訪れた長崎(だったと思うが)からの帰路、嵐に遭遇して瀬戸内海の孤島に漂着、そこにいた一刀流の流れを汲む老剣客から剣術を習っていた際に、編み出した――そんな話だったと記憶している。何分読んだのが中学生時分のことで記憶を頼りに書いていて、細部についてはあるいは間違っているかもしれない。細部どころか、全体に大きくまちがっているかもしれない。
 とにかく狂四郎はそのとき小舟の上にいたはずである。剣の師匠から極意に関するなにか宿題のようなものを出されていたのではなかっただろうか。それを考えながら、船の上に寝そべり太陽を見ていた。そこに師匠が現れて、いきなり立会いということになる。ところがである。太陽を見つめていた狂四郎の瞳孔は窄まっていて、師匠の姿は見えない。が、師匠の乗っている船は見えた。そこで狂四郎は師匠がいそうなあたりを確かめるために切っ先で円を描き、えい! やあ! と、斬りかかった。で、師匠はこの必殺の一撃を受け止め、
「できたな」
 と、言うわけである。確か小説では鳥居の型で受け止めたとなっていたような気がするが、これはまちがいかもしれない。何度も断るあたり自信のなさのあらわれだが、本当にこうだったかどうかはかなり怪しいが、ぼくの記憶のなかでは、円月殺法誕生にはこういう経緯があったことになっている。
 どうしてこの結果が、催眠剣法である円月殺法につながるのかわからないが、もっともらしく描かれていれば何でもありだ。
 円月殺法の原理については、何でもありということで脇に置いておくとして、この作品はぼくにとって常に映像とセットになっている。正直、原作と映画の間にはやや開きがあるように思える。原作の方が、どういえばいいのか――からっとした印象があるようにも思う。言いかえると映画の方が毒々しい印象が強いのだ。
 そして、映画といえば絶対に市川雷蔵演じる眠狂四郎である。もちろん、ほかにも演じた人がいるが、やはり眠狂四郎は市川雷蔵意外にいないと思っている。西洋人との混血の剣士という設定なら、市川さんは純日本風の方で、原作とはちがうのかなと思いつつも、もうこの人以外の眠狂四郎はこの世に存在しないという印象さえぼくにはある。
 勝新太郎さんが、眠狂四郎を演じるとき、市川雷蔵の顔の相が変わるというようなことを発言していたらしい。どう変わるかと言えば、鼻の下が少し伸びる。それはつまり死相なのだという。ほんとうにそうなのかどうか知らないが、たしかに眠狂四郎というのは、名前からして不吉で、そういう演技をあの市川雷蔵ならしたのかもしれないと思ったりもする。
 市川雷蔵主演の眠狂四郎は12本ほどあるようだが、ほぼ全作観たような気もする。好きな作品は『勝負』と『魔性の肌』あたりだ。このふたつは、円月殺法の表現方法が違っていた。『勝負』のときはただ刀をまわしていただけだったが、『魔性の肌』ではストロボ撮影を駆使し、円月殺法の眩惑的な雰囲気を巧みに演出していた。円月殺法をストロボ撮影で行うようになったのは、第四作の『女妖剣』からだったらしいが、ぼくが最初に見たのは『魔性の肌』で、印象に残っているのはそのあたりのことも関係しているのかもしれない。
 やりようによっては、いくらでも深く描くことのできる作品だと思うが、なかにはちゃちな感じのするものもたしかにあった。ある作品のなかでキリスト教の宣教師を棄教させるために、女性をあてがうという場面があった。宣教師は己の肉欲に負けて女性と関係を持ち、その宣教師の首を狂四郎が馬上から撥ねる。なんともむちゃくちゃな話で、あれは観ていて凄く嫌な気がした。ぼくは別にクリスチャンではないが、遠藤周作の『沈黙』と自分のなかでどうしても比較してしまうのである。万里の波頭を越えて、キリスト教が禁止されている日本に布教にやってくるような宣教師が、こんなことで己が信ずる神を捨てるだろうか。誠にキリスト教に対して失礼なことをしていると感じた。何も宣教師が全員聖人君子だなどと言っているのではない。しかし、棄教という宣教師の人生に関わる問題を描くにあたり、その表現が安っぽかったことに憤っているだけだ。市川雷蔵さんの存在感――いかなる場合にも凛としたあの立ち居振る舞い――が安っぽい表現をずいぶん救っていたように思う。
 眠狂四郎は一歩間違えればエロ映画――最近の一般映画の方がよほどこの点は凄いが――になりかねないものもあったように思うが、市川雷蔵さんの品の良さが作品全体の格を上げていたように思えるのである。
スポンサーサイト

カテゴリ: 時代劇

テーマ: 映画感想 - ジャンル: 映画

[edit]

Posted on 2012/02/24 Fri. 17:38    TB: 0    CM: 1

私的時代劇考 

 ラ・ペッシュのモンブランについて書いているとき筆の滑りで思わず時代劇について書いてしまった。
 いまさらいうのもどうかと思うが、ぼくは時代劇が大好きである。
 だから最近テレビで時代劇が見られなくなってとても悲しい。たまに特別番組で『鬼平犯科帳』を放送することがあるが、慰めはそれくらいである。
 現実の江戸時代は性病が蔓延する、いまの感覚でいうととんでもないところだったようだが、池波正太郎さんの描く江戸は、人情があり情緒があり、なんとなくだが、
「いいなあ」
 と、しみじみと思える時代である。もちろん、その時代に戻って暮らしたいとは絶対に思わない。遠くから眺めて心をほっこりとさせるという意味の、いいなあである。
 もうひとつの時代劇といえば『必殺シリーズ』がある。しかし、あれはぼくのなかで時代劇の範疇に入っていない。以前、特番枠で仕掛人シリーズを放送していたことがあるが、あれは立派に時代劇していた。必殺ではなく、より原作に忠実な梅安さんが出てくるあれだ。
 もちろん、必殺シリーズが嫌いというわけではない。それどころか相当好きである。ただあれを時代劇と呼ぶことに抵抗があるだけだ。あれは現代劇である。もしくは、異なる次元にある日本の江戸時代を描いた物語だ、それ以外にありえない(笑)。
 他に時代劇といえば大河ドラマがある。が、あれを時代劇と呼ぶことにもいくらか抵抗を感じる。いや、かなり感じる。最近の大河ドラマは時代考証を最初から無視したおちゃらけたものもあるが、時代劇とは本質的に違う、何かが決定的に違うという気がする。
 いまさらいうまでもないことだが、黒澤時代劇が時代劇に与えた影響の大きさは計り知れない。『三匹の侍』の惨殺音。あらゆる時代劇――というか刀を振り回す場面がある映画ならそのほとんどで使われている飛び散る血飛沫は黒澤明の発明だった。さらに劇画の『無用ノ介』である。そのオープニングは、強い風が吹く宿場町に用無し犬こと無用ノ介がやってくるところから始まる。あの場面などはもろに黒澤時代劇である。はっきり言ってしまえば『無用ノ介』は『用心棒』を真似たのだと思っている。
 東映チャンバラ映画の息の根を止めたのは黒澤時代劇だったというような記述をどこかで読んだ記憶がある。歌舞伎調の東映時代劇をリアリティの黒澤時代劇が駆逐したような論調はよく見かける。黒澤以前と黒澤以後で時代劇は劇的に変わった。黒澤時代劇は東映時代劇を追い詰め、東映時代劇が変わらざるを得なくなった。確かにそういった面はあったように思う。
 ただ、黒澤時代劇――この場合は『用心棒』と『椿三十郎』――を指してリアル時代劇という見方は、いかがなものかと思う。時代考証などについてはリアルであったかもしれないが、お話自体は決してリアルでも陰惨でもなかった。陰惨どころか、秀逸なユーモア満載で、ほとんど喜劇映画という構造を持っていた。黒澤明は物語の肝のようなものをよく理解していた。あんな話は真面目にやってはいけないのである。
 東映チャンバラ映画の息の根を止めたと先にうっかり書いてしまったが、絶滅したわけではなかった。その後テレビで復活した。『水戸黄門』も『暴れん坊将軍』も、みな東映チャンバラ映画の末裔だ。
 しかし、そのテレビ時代劇もいよいよ終焉の時を迎えようとしている。
 あの『水戸黄門』がついに、本当の最終回を迎える。
 時代劇がかくも不人気になった理由をぼくなりに考えると、いまテレビを観る主流の人たちが時代劇に慣れていないということもあるような気がする。もちろん、これはまったく素人考えである。
 素人考えを続ける。
 この場合の時代劇というのは歴史劇ではなくチャンバラである。時代劇には歌舞伎のようなある種の決まりごとがあり、それを理解したうえで見ないことには、面白さがわからないようなところがある。平たく言ってしまえば型から入っていく物語の構造を持っている(ように思える)。
 そしてこの型というやつを理解するには、トレーニング――というか見慣れているということが重要になってくる。これまで時代劇を支えてきた世代は時代劇というジャンルの勘所を理解できる環境で育った人たちだった。子どものころから時代劇を観て、親しみ、片岡千恵蔵さん、市川右太衛門さん、近衛十四郎さん、市川雷蔵さんらの殺陣をうっとりとして眺めた経験があった人たちといってもいいだろう。
 時代劇における殺陣の重要性はいまさら言うまでもないことだが、殺陣のうまさ、美しさ、斬新さなどは興味のない者にとってただの大人のチャンバラごっこである。黒澤時代劇の殺陣の凄さ、新しさはそれ以前の時代劇の殺陣を知っている者にしか理解できない。
 そういう世代が表舞台から去って行こうとしているのかもしれない。
 やはり時代劇は消滅していくジャンルなのだろうか。何かと話題の市川海老蔵さんを主演にして「切腹」をリメイクしたりと、劇場では時代劇が上映されているが、テレビでは完全に息絶えたか、息絶えようとしている。
 今度こそ、ほんとうにおしまいかもしれない。
 なにせ、あの『水戸黄門』が本当の最終回を迎えるのだ。
 時代劇復権のためになにが必要なのか素人のぼくには分からない。
 いつかとんでもない天才が現れて、時代劇の型を残しつつ、しかも斬新で、複雑な人間像を描きつつ、しかもエンターテイメントしている、そんな時代劇を創ってももらいたいものだと切に願っている。

カテゴリ: 時代劇

テーマ: 日記 - ジャンル: 日記

[edit]

Posted on 2011/11/02 Wed. 19:17    TB: 0    CM: 2

最強の意味 

 ポスターには『最強』の二文字が躍っていた。それを見たとき、ああこの人はやっぱりわかっているんだと思った。何の話か? 今話題の座頭市である。しかし、香取君の座頭市ではなく、北野版『座頭市』である。
 今回の『座頭市 The Last』だが、申し訳ないがぼくは見たいと思わない。ぼくのなかで座頭市はとうに終焉を迎えている。座頭市の物語は、勝新太郎という天才がこの世を去ったときに終わっていたのだと思っている。切なすぎる愛に散った男なんかではない。一閃の居合で浪人を倒したあの瞬間に終わった。
「抜いたのは、そっちが先だぜ」
 市の最後のセリフだ。
 1989年、勝新太郎最後の座頭市映画が製作された。映画のラスト、向こうから浪人が近づいてくる。市がこちらから歩いていく。二人の距離が縮まり、それぞれの間合いに入った瞬間、浪人は刀を抜く。市も仕込みを抜く。一瞬だけ市のほうが早い。
 最後の市は、逆手ではなく順手で仕込み杖を抜いた。仕込み杖を肩に担ぐように持ち、身体を沈めながら順手で神速の居合を見せる。そして浪人を倒し、あのセリフである。抜いたのは、そっちが先だぜ。浪人を倒した市は遠くに去って行く。
 勝新太郎、最後の座頭市については批判的な批評も目にしたことがある。確かに最後の座頭市はそれまで作られた座頭市映画の、ダイジェストのような感じもあった。かつて座頭市映画で使われたストーリーやアイデアが随所にちりばめられていた。もしかすると、勝新太郎には、これが最後の座頭市だという意識がどこかにあったのかもしれない。

 話を『最強』に戻すと、座頭市という主人公は、多くの娯楽作品の主人公がそうであったように、基本的に過去も未来もない男なのだ。そもそも人生や愛を語らせるような人物ではない。テーマは常にひとつである。『最強』であること、そこに尽きる。それ以外、何も必要はない。
 丹下左膳が隻眼隻手でありながら最強であるように、盲目だが神業の居合を使うという座頭市の、その設定自体にドラマがあるのだと思っている。そこから想像させる彼の過去や未来がすでにドラマになっているわけで、わざわざ切なすぎる愛などを声高に語られても、こちらは白けるばかりだ。少なくともぼくは白ける。
『最強』以外の何かを描こうとすることは、愚かな試みだと思う。綾瀬はるかの『ICHI』が少しも魅力的でなかったのは、あの女性版座頭市が最強でなかったからだ。座頭市映画を見て、人生や愛を感じるのは見る側にある。作り手が、過剰にそれを訴えることをぼくは好まない。
 座頭市という物語は、盲目だが、しかし最強の男を描いた物語であって、それ以上でもそれ以下でもない。他のことはすべて見る側が感じればいいことなのである。そのあたりの割り切りが中途半端だと、どっちつかずの、フラストレーションだけがたまる作品になる。
 ポスターに『最強』の文字を入れ、石灯籠を叩き斬って、その向こうにいる敵を斬る場面を入れた北野武はそのあたりのことをよくわかっていた。物語の本質のようなものを大掴みにつかめる才能の持ち主なのだ。黒澤明が監督北野武を絶賛していた理由がわかるというものだ。

 巨人黒澤明はビートたけしで座頭市を撮ってみたといっていたらしい。テレビのインタビューで黒澤監督の娘さんが話していた。ビートたけしを座頭市にと考えたのは、さすが黒澤である。もし、監督黒澤明、主演ビートたけしで『座頭市』が作られていれば、それはとんでもない作品になったと思う。
 それでも勝新太郎の座頭市には及ばなかっただろうとも思う。勝新太郎亡き後、座頭市は二本作られている。香取版をいれれば三本だ。香取版を見ていないので何とも言えないが、北野武版『座頭市』は出色のできだった。だが、大いなる番外編だった。クールでモダンな座頭市だった(古いね、どうも)。
 いったい、どうして皆、余計なことを語りたがるのだろう。最強以外ない男を描くのにどうして切なすぎる愛が必要なのか。物語を語り切る自信がないから、抒情に逃げているのかといいたくなる。
 ぼくは、表現は思想に優先するという立場をとる。優れた表現者であれば、たとえ洗濯バサミを延々と映しても、立派なエンターテイメントに仕立てることができるはずだし、深遠な哲学を語ることもできるはずだと信じて疑わない。

《追記》
 勝新太郎の座頭市映画では何度か市の過去に触れられている。兄や剣の師匠が登場したこともあった。しかし、それもこれもプログラムピクチャー的御都合主義に彩られた代物で、それ自体によりかかった物語ではなかったと記憶している。
 今回をもって座頭市映画が作られることはもうないと宣言している。ほんとうだろうかと思う。何年か経ち、ふたたび座頭市が撮られる日が来るような気がしてならない。余計な理屈をこねない座頭市が戻ってくることを期待したい。

カテゴリ: 時代劇

テーマ: ひとりごとのようなもの - ジャンル: 日記

[edit]

Posted on 2010/05/31 Mon. 10:13    TB: 0    CM: 2

憧れの人 

 だいたい、へそ曲がりな性格だから生身の人間に憧れを感じたりしない。例えば龍馬が魅力的なのは彼が過去の人で、その意味では現実の人ではなく、物語の登場人物に近い、というより物語の登場人物そのものだからだろう。歴史上の人物坂本龍馬ではなく、「坂本竜馬」のイメージだ。最近では福山雅治のイメージも加味されている(笑)。
『龍馬伝』が面白いかどうかはまだよくわからない。坂本龍馬の人生はたぶんほとんどの人が知っていると思う。何を語ったかではなくどう語ったかが試されるということだろう。もっともNHKの大河ドラマは誰でも知っている人物を取り上げることが多いわけだから、毎回どう語るかの試練に直面しているようなものである。
 もちろんそんなことはないのだが、大河ドラマはほとんど戦国時代か幕末を描いているような印象がある。何も戦国時代と幕末に題材を求めなくても、面白い題材はいっぱいあるように思う。十返舎一九や近松門左衛門などはいかがだろう。幕末と明治時代なら『清水の次郎長』や『嘉納治五郎』だって素晴らしい題材ではないか。
 たとえば、『鸚鵡籠中記』という大傑作がある。知っている方は知っていると思う。元禄時代、尾張藩で御畳奉行をしていた朝日文左衛門の日記である。ここには実際の江戸時代を生きた武士の姿が描かれている。
 と、いうか朝日文左衛門さんが自分自身のことを書いたわけだから、これ以上はない本物の武士の姿である。刀を抜くこともなく、ひたすらお酒を飲み、いまの時代から見れば随分のんびりとした生活に見えなくもない。たしか酔っぱらって名古屋の広小路通りを走ったという記述があったように記憶している。
 元禄といえば江戸時代のバブル期のような浮かれ騒ぐイメージがある。それなりに楽しそうだが、現実となると色々と大変だったようである。しかし、とにかくこういった題材を取り上げるのもありかと思う。まあ視聴率はあまり期待できないかもしれないが。

 先にも書いたが歴史上の人物はあくまでも架空の人物のようなもので必ずしも生身の人間というわけではない。そういったことを承知の上で歴史上で興味のある人物というのはもちろんいる。『龍馬伝』も放送されていることだし、維新の人物に絞っていえば大村益次郎という人に興味がある。
 関係したものを読んで、そこから浮かび上がってくる人物像は、一言、変人である。情緒とは無関係ないところで物事を考える人だったらしい。あの西郷さんの人間的魅力に全く影響されなかった稀有の人物だったという。
 余談だが、その西郷さんについてはあの松本清張さんも批判的だった。『数の風景』という作品のなかで西郷さんについて意外に知られていない一面を登場人物に語らせている。作品を読む限り、松本清張という人も情緒に流されない部分があったのだろう。対象を見つめる冷静な目は、時に冷たいと感じさせることもある。
 歴史上の人物を描くとき、情緒に訴える描き方をしたくなる気持ちはわかる。しかし、良いこところも悪いところもあるのが人間だ。その人物をまるごと描いてこそ面白いドラマになるという気がする。その意味では作る側にも、情緒に流されない冷静な目が求められるのかもしれない。

カテゴリ: 時代劇

テーマ: NHK - ジャンル: テレビ・ラジオ

[edit]

Posted on 2010/01/21 Thu. 18:25    TB: 0    CM: 2

紋次郎の最後の物語 

 知りあいのブログさんで『木枯し紋次郎』について書いておられる方がお二人おられる。紋次郎を愛する気持ちが、ひしひしと伝わってくる内容でとても好きだ。紋次郎について知らなかった秘話や思いもよらなかった視点からの切り口など、楽しく読ませてもらっている。
 もうずいぶん前のことである。笹沢左保氏がテレビでインタビューを受けていた。木枯し紋次郎がテレビで放送され、同時進行で小説も書かれていたころのことだ。誰だったか忘れたが女性のインタビュアーが笹沢氏に、
「木枯し紋次郎は最後にどうなるんですか」
 と、尋ねた。
「死にます」
 笹沢氏がにべもなく答えたことをはっきりと覚えている。
 もう何十年も前のことである。あの時、笹沢左保氏は本気で紋次郎の死でシリーズを終わらせるつもりだったのだろう。事実、『唄を数えた鳴神峠』のラストは明らかに紋次郎の死を読者に意識させる。
 なるほど作家というのは複雑なものだと思った。自分の生み出したキャラクターに愛着がないとは思えない。しかし、インタビューのあの言葉である。木枯し紋次郎ほどのキャラクターとなると簡単には手が切れない。作家としての将来を考えたとき、木枯し紋次郎の笹沢左保で終わりたくないと思ったのかもしれない。
 S・キングの作品『ミザリー』にそういった場面がでてくる。ある作家が自分の生み出したキャラクターである《ミザリー》から何とか逃れようと思い、作中で殺してしまうのである。作家は小躍りして喜ぶ。
 現実の作家である笹沢左保氏の思いはもっと複雑だったと思うが、どこかで紋次郎から逃れたいという気持ちがあったのではないだろうか。そのインタビューを受けたころの笹沢左保氏はずいぶん若かった。
 しかし、紋次郎は死ななかった。鳴神峠の死闘を切り抜け、その後も旅を続ける。天保時代を過ぎてさらに後の時代までも。一時期は山林業などしていたようだが、たしか嘉永五年、黒船がやってきた年に渡世人に復帰する。その後も旅を続け、あるいは明治をどこかで迎えたかもしれない。
 先のインタビューから何十年か過ぎたインタビューで笹沢左保氏は、
「最終的に紋次郎はどこかに行って戻ってこなかった、そんなラストを考えている」
 と、答えていた。『木枯し紋次郎』はまだ書き続けていた。
 結局、紋次郎の、本当の最後の物語は読むことができなかった。そのことを少し残念に思い、同時に嬉しくも思ったりする。そんな個人的な気分はさておくとして、時の流れは人を変えるものだと思った。

カテゴリ: 時代劇

テーマ: 小説 - ジャンル: 小説・文学

[edit]

Posted on 2009/07/27 Mon. 20:56    TB: 0    CM: 2

プロフィール

最近の記事

月別アーカイブ

最近のコメント

最近のトラックバック

カテゴリー

FC2カウンター

メールフォーム

ブロとも申請フォーム

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。