Gitanの趣味

ひたすら趣味の道を走っています(ニヤリ)

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映画ではなく、酒と薔薇の日々 

 たとえばある本を読んでいて自分が知っている歌手やその歌手が歌った曲の名前を見つけるのはけっこう楽しい。懐かし友だちと予想もしていなかったときにばったり再会したような気持ちになる。
 と、まあちょっと気取って書いてみたが、考えてみると偏屈なぼくは友だちが少なく、懐かしい誰かとの再会というのは、現実的にはあまり起きそうもない(笑)。ただ、観念の上において確かにそういう気分になることはある。
 具体的に誰のことを書いているかといえば、クロード・フランソワのことである。正直に言うとこの名前を知ったのはそう昔のことではない。だから、旧友再会にことをたとえるのはいかがなものかという気持ちがしないでもないが、まあいいだろう。
 とにかく、最近読んだ本のなかに、ぼくはこの名前を見つけた。あっと驚いたが、考えてみるとそれも当然、読んでいたのは『サガン――失踪する生』という、フランソワーズ・サガンの伝記だ。
 その前に冒頭から名前を散々出したクロード・フランソワだが、この人はあの『マイ・ウェイ』の原曲『コムダビチュード』を歌った方である。すでに故人ではあるがフランスではいまでもスーパースターらしい。
 長谷川きよしさんのアルバム『40年。まだこれがベストではない』に収録されている。『コムダビチュード――いつも通り』というこの曲はテレビ番組『誰も知らない泣ける歌』でも放送されたことがあるのでご存知の方もいらっしゃるのではないか。

 さて、歌のお話はこれくらいにしてサガンである。フランソワーズ・サガンという作家は『悲しみよこんにちは』くらいしか知らないし、知っているといっても作品そのものを知っているわけではない。
 情報としてサガンは18歳でこの作品を書き、処女作で一気に名声を得たと知っていたがどうも殺伐好みのぼくの嗜好とは異なるような気がして、読んでみようという気になれなかった。サガンの伝記を読んだいまでも特に読みたいという気持ちにはならない。
 ただその作品は読んだことがなくても、サガンというひとがどういう人生を送ったか、おおよそのところは知っていた。作品を読んだことがない者でも作者について知っているというのは、作家冥利につきるのか。それとも、
「わたし自身じゃなくて、作品そのものを評価してよ」
 と、お叱りを受けるのか、そのあたりは微妙なところだと思うが、ぼくは作家冥利に尽きるのではないかと思う。その人の生み出す作品は結局、その人自身だという立場をぼくはとる。基本的に人間は自分について語りたくて仕方のない生き物だという思いは不動である。
 自分自身について語る、自分とは何かを知ってもらう、という立場に立てば、その作品を読んだことのない者にまで知られたということは、人生における目論見が大成功だったという証ではないだろうか……ちがうのかな(笑)。
 サガンという人の人生をひとことでいえば《破天荒》である。むちゃくちゃな人生だ。刹那にかけるという言葉があるが、この人の生き方はまさにそんな感じである。たしかにその生き方はある人間たちにとっては楽しかったかもしれない。しかし、我慢できないと思う人間もいたはずである。
 記事に『酒と薔薇の日々』というブレイク・エドワーズの名作映画のタイトルを拝借したのは、サガンの狂乱のどんちゃんさわぎのような人生を読んでいて、そんなイメージが浮かんだからである。
 ことわっておくがこれはあくまでも『酒とバラの日々』――映画のタイトルのバラは漢字ではなかったと記憶している――という語感からイメージされる華やかだが退廃的な人生を思い描いたからに過ぎない。
 映画『酒とバラの日々』はアルコールに溺れていく夫婦ものの話だった。サガンも酒に溺れ、薬に溺れた。サガンの薔薇はドラッグの香りを放っていた。この伝記の作者マリー=ドミニク・ルリエーブルはサガンのことを、
「我慢できない子どものようなものだった」
 と、書いている。サガンは頭の回転が速く、インタビューを行った誰もが、あんなに頭のいい人はいなかったと語っている。故人を悪く言うはずもないとは思うが、たしかに特殊な人ではあったのだろう。でなければ18歳であれだけの成功を収められるとは思えない。
 ただ、若くして成功したことが破滅的な生き方の引き金になったのも事実だ。若くして成功し、富と名声を得て、才能に溺れ、人生を破滅の方向に向かって舵を切る。よくある話といえばよくある話である。サガンという人はようするに『フランソワーズ・サガン』という作品を書いていたわけだ。
 何事も我慢できない子どものようだったサガン(ようするに甘やかされて育ったということなのかとも思うが)は、大酒を飲み、薬を常用し、ギャンブルに入れあげ、スポーツカーで法規を無視した速度で走り、
「あの美しい言葉は本当に素敵だった」
 と、言わせる作品を書いた。どんな欠点も覆い隠してしまえるだけの、言葉を操る才能を与えられていた。言葉を巧みに操る才能というのは、七難を隠すものかもしれないと、ときに思う。仮に、内実が伴っていなくても、お利口さんに見えてしまう場合が、あるいは、あるのかもしれない。もちろんこれは意地の悪い見方だ。
 知恵というのは平たく言ってしまえば状況判断のことではないかと思う。驚異的な記憶力で知識を蓄え、巧みな言葉で蓄えた知識を再構成して見せ、ときに数学的正確さで状況分析を行うことができても、自分の行為が周りに与える影響や、そのことによって起きる結果が見えていないのなら、世間は狭くなる一方だ。
 サガンは才能があった。それも並みの才能ではない。天才的な言葉の才能に恵まれていた。しかし、その代償のように経済観念がなく、倫理観が希薄で、堪え性がなく、衝動的だった。才能の部分を取り除けば、ようするにダメ人間と呼ばれそうな人である。
 サガンはその才能によって巨万の富を得る。しかし、晩年は住む家さえないような貧窮のうちに人生を終える。美しい箱を作り続けたアメリカの芸術家ジョゼフ・コーネルは伝記を読むのが大好きだったらしいが、その気持ちはわかるような気がする。
 サガンの伝記は非常に面白かった。ありふれた物語のようといえば、たしかにその通りなのだが、そこに現実の人間がいたということが、ありふれた物語に重みを与えている。物語(あえてそう呼ぶが)の最後の方、姪のセシルの言葉が印象に残っている。

「どこまでもエレガントに。それから、ユーモアのセンスも必要。晩年になっても、フランソワーズは、ずっと知的な言葉遊びを考えていた。でも昼間だけね。夜は苦痛に泣き叫んでいたわ」
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カテゴリ: 読書

テーマ: 雑記 - ジャンル: 小説・文学

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Posted on 2011/05/21 Sat. 09:29    TB: 0    CM: 0

血の匂いと文学 

 いってみれば方法論の勝利だろう。重厚な語りで荒々しい暴力を描いている。哲学的な言葉で暴力を包み込んでいるともいえる。だからといって全編を貫く暴力描写がぬるくなっているなどということはまったくない。稀代の筆力を持った著者のことだ。荒々しく残酷な暴力を、容赦なく描ききっている。
 いま話しているのはコーマック・マッカーシーの『ブラッド・メリディアン』についてである。内容には詳しく触れない。日本風に作品を分類すれば、なるほどこの作品は純文学である。が、同時にこの作品は西部劇でもある。それ以上でも以下でもない。
 開拓時代のアメリカの現実はすでに『ソルジャー・ブルー』のなかで描かれている。アメリカがその開拓史の中で先住民になにをしたのか。まともな神経の持ち主なら気が滅入る。たぶん滅入ると思う。
『ブラッド・メリディアン』は『ソルジャー・ブルー』の延長線上にある作品ではあると思うが、個人的にはあの傑作西部劇よりも『ワイルドバンチ』に近い位置にあると思う。つまりこの作品は、開拓時代の西部に生きた荒々しい人間たちの物語だ。集団時代劇ならぬ集団西部劇である。ぼくたちは工藤栄一を思い出そう。
 ありふれた西部劇のストーリーに乗せて深遠な哲学を語る。そういったところではないか。うまいやり方だと思う。思い出すのは『薔薇の名前』だ。探偵小説風の物語に、ヨーロッパにおけるキリスト教の暗黒面を描いたあの物語も、考えてみると同じ構造を持っていた。
 つくづくコーマック・マッカーシーはうまいと思う。たとえば『血と暴力の国』は犯罪小説風の純文学、あるいは純文学風の犯罪小説だった。『ザ・ロード』はSF小説と高度な純文学の合体だった。『マッドマックス』と『子連れ狼』を不条理に合体させたような物語といえなくもない。
 そして、これ『ブラッド・メリディアン』である。サム・ペキンパーが好んで描きそうな開拓時代の西部に生きた男たちの戦いの記録といった趣だ。ただ、ここにはペキンパー好みの感傷はない。殺伐とした暴力が狂ったように吹き荒れる荒野があるだけだ。
 余談だが、ペキンパーはあのブラッドベリの傑作『何かが道をやってくる』を映画化したがっていたときいたことがある。もしこの作品に出会っていれば映画化したがったのではないか。残念ながらペキンパーはこの作品が世にでる一年前、1984年に亡くなっている。
 それはさておき、売れる小説というのはさすがだと思う。作者にそういう下心があったかどうはわからないが、少なくともある程度の販売部数がなければ作家は生活していけない。どれほど重大なテーマを扱っていても、それが読者を無視したか、ひどく未熟なものならば、誰も読んでくれない。読んでくれなければただの自己満足だ。
『ゴッド・ファーザー』を書く前のマリオ・プーゾォは親戚知人に生活費を借りて、売れない小説を書き続けていたという。いくら専門家に評価されても、生活が成り立たなくては仕方がない。
 エンターテイメント大国アメリカはさすがである。純文学といえども単なる自己満足ではお話にならないようで、映画化されて、客が喜ぶ程度の物語性はどこかで保証されていなければならないのだろう。
 こういう姿勢は大好きである。売れるものが一番いいなどというつもりはさらさらないし、売れなかったからだめだなどとはさすがにいわない。ただ、ひとつの評価軸として、多くの読者を獲得し、映像作家にある種の刺激を与える作品があり、そういった作品は個人的な好みとは別に、やはり認めるべきだと思っている。
 映像作家云々と書いたが、『ブラッド・メリディアン』はその点も実にうまく、見事に絵になるように書いている。映画化の話があるらしいが、1985年の作品なら20世紀の終わりに映画化されていてもよかったような気がする。
 原文を読めるほどの語学力がないので、この文章のほんとうの味わいを知ることができないのが、まことに残念ではあるが、ひどく読みにくい文章であるにも関わらず、絵が浮かんでくるから大したものである。
 この作品を日本語で書きなおした黒原さんの筆力には脱帽である。まちがいなくこれは傑作である。

カテゴリ: 読書

テーマ: 雑記 - ジャンル: 小説・文学

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Posted on 2011/05/02 Mon. 21:37    TB: 0    CM: 0

闇から響く言葉 

 自伝、ルポルタージュ、ノンフィクション、小説、その他諸々――『わが母なる暗黒』という作品が、いずれの範疇に含まれるのかよくわからない。ある痛ましい体験をもとに書かれたことは、おそらく事実だろうから、その意味でいえばこれはノンフィクションであり、一種の自伝であるともいえるのだろう。
 内容については詳しく触れないが、一読して非常に奇妙な印象を受けた。あるいはある種の読みにくさを感じた。理由は、ほとんどすべてが地の文で構成されているからだ。膨大な量の新聞記事を読んでいるような気分になってくる。
 作者がこの手法を選んだのは、ここに書かれたことがあくまでも、遠い過去と比較的近い過去で起きた事実の記録であるということを明確にしたかったからかもしれない。物語になってしまいそうな部分をすべて削り取ろうとした、作者の意志のあらわれだったと勝手に解釈している。
 地の文に会話文を紛れ込ませ、登場人物の立ち位置をはっきりさせることで、読み物としての形を整えるよりも、あくまでも事実を冷徹に積み重ねていこうとした。客観性の保持を最優先させるという目的がこの方法を選ばせたのかもしれない。

 ジェイムズ・エルロイという作家は好きか嫌いか――実に微妙だ。この作家の持っている歪んだ何かに惹かれるのは事実だ。たとえば彼は10歳の時に母親を殺されている。この事件は未解決だ。そして、17歳のとき生活破綻者のような父親と死別している。以後、酒とドラッグに溺れ、警察の厄介になったことも一度ならずある。
 これらは巷間伝えられるジェイムズ・エルロイ伝説である。この来歴を読んだとき、唐突ながらS・キングの『ダークハーフ』を思い出した。あの小説に登場するジョージ・スタークを思い出す。『ダークハーフ』を読んだ方ならわかると思うが、ジョージ・スタークは純文学作家サド・ボーモンの別名である。
 もう少し詳しく説明すると、売れない純文学作家のサド・ボーモンはジョージ・スターク名義で犯罪小説を書きベストセラー作家になる。それはサド・ボーモンにとっては不本意なことではあったが、売れることは売れた。
 サド・ボーモンが生み出した架空の作家、ジョージ・スタークはたしか元犯罪者だという設定だったと思う。元犯罪者が刑務所で才能を開花させ、ベストセラー小説を書く。だから、ジョージ・スタークはキーボードを扱えない。それを学ぶ時間がなかったのだ。だから彼の原稿はすべて手書きである。
 もちろんこれはフィクションである。しかし、ジェイムズ・エルロイも犯罪者まがいの人生を送り作家となった。そして、彼も手書きで原稿を書いていると何かで読んだことがある。送られてきた原稿は異様にかさばる紙の束で、赤いインクを使って、大きな文字で書かれていたという。
 ジェイムズ・エルロイが架空の存在だとは思わない。彼は現実の作家で、かなり特殊な犯罪小説を今も書き続けている。どこかの売れない純文学作家の別名などとは考えない。ただ、その人生はあまりにも劇的で、猜疑心の塊であるぼくは、
「ほんまかいな」
 と、不埒なことを考えてしまう。特殊な犯罪小説と書いたが、特に『ホワイト・ジャズ』以降の作品は、電文体というらしいが、いったい何が書いてあるのかわからない独自の文体で、最初から最後まで喚き散らしているような作品である。
 これが素晴らしいという人もいるし、ついていけないと思うひとももちろんいるだろう。ぼくの評価はとりあえず脇においておく(笑)。ただひとつ思っていることは、小説は何をどう書いてもかまわないものだということで、この信念は確固としたものだ。
 誰かが読んでわからなくてもいっこうにかまわない。物理の法則でもなければ、宇宙を書き表す言葉、数学でもない。芸術表現なのだ。鶏が空を飛び、ある人物の正面の顔と横顔が同時に描かれていても、それが誰かの心を打つのであれば存在価値はある。
 いや、誰の心を打たなくても少しもかまわない。自分が満足できれば、それでかまわない。まあ、それでは少しさびしいだろうし、生活の糧を得ることもできないわけで、その点はつらいかもしれないが、とにかくまず自分を納得させなければお話にならない。
 心という自分自身でもコントロール不可能なものを描こうというのだ。形にとらわれていては表現しきれない。狂気の犯罪者を描こうが、恋人だか友だちだか判然としない彼女を失った深い喪失感を描こうが、結局は自分にあった表現方法を見つけるしかない。そもそも自分にあった表現方法でしか描けないものなのだろう。
 ジェイムズ・エルロイは彼だけにしかできない表現方法で彼にしか描けない世界を描き続けている。それは小説を書いても自伝を書いても変わらない。受け入れられるかどうかはこちらの問題ということだ。彼が好きなのか嫌いなのか、まだ答えは出ない。

カテゴリ: 読書

テーマ: 感想 - ジャンル: 小説・文学

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Posted on 2011/04/12 Tue. 04:59    TB: 0    CM: 0

思い残しの車 

 V型8気筒、3200CC、300馬力。いうまでもなくこれはエンジンである。さらに付け加えれば馬力荷重はたしか5.7kgだったと思う。いまならあっても驚かないスペックだがこの物語が発表された1978年となると話は別だ。
 ダットサンSR320という名前が与えられたこの車は、外観はセドリックだった。覆面パトカーである。排ガス規制といわれても、いまの時代ぴんと来ない方の方が多いのかもしれないが、とにかくあのころ、車は厳しい排ガス規制のために軒並みパワーダウンしていた。
 排ガス規制のために日産自動車は計画していた豪華なGTを断念せざるを得なくなった。そこで無用の長物と化したこの怪物を警察に提供。ありふれたセドリックのボディを被せ、当時の基準でいうと《怪物パトカー》が出来上がったというわけだ。ちなみにこのGTはシルビアの名前で発売される予定だった。
 いまなら、
「300馬力だぜ」
 と、自慢しても、
「そうなの――300馬力なんて、地球環境に負荷をかけるだけじゃない。最先端はハイブリットでしょう。電気自動車もあるし」
 なんて言われるだけかもしれないが、当時はそうではなかった。巨大なパワーを持つ車に素直に憧れを持てた時代だった。より正確にいえば、300馬力に憧れを持ちつつ、こんな車は将来もう造れないかもしれないという不安を感じはじめた時代だった。
 するとこの物語は、ひとつの時代の終わりを、化け物のような車に託して描いたのかもしれないと、穿った考えにとらわれてしまう(笑)。まさか作者にそこまでの考えがあったとは思えないが、しかし、優れた作家は無意識のうちに時代の空気を感じ取るという。矢作俊彦はもちろん優れた作家である。
 その後、技術革新により、排ガス規制をクリアしつつ大馬力の車が続々と登場するが、みんな心のどこかで夢の終わりは意外に近いところにあるかもしれないと考えていたような気がしてならない。環境問題も資源の問題も、根本的には何も解決されていなかったのだ。
『マイクハマーへ伝言』は最初に読んだ矢作俊彦氏の作品ではなかった。最初に読んだのは『リンゴォ・キッドの休日』だった。好みは後者の方だが、インパクトがあったのは『マイクハマーへ伝言』だ。
『マイクハマーへ伝言』はV8の怪物パトカーに仲間を殺された五人の若者の、奇妙な復讐劇であり、あくまでも個人的な感想だが、矢作俊彦版『アメリカングラフティ』のような印象もあった。
 この物語を読んだとき、ぼくは田舎町の少年で、ヨコハマの洗練された若者たちとはどこにも通じるところはなかった。主人公の五人はぼくよりも少し年上だった。地域性を抜きにしても、全くといっていいほどぼくに似たところはなく、この主人公たちに共感することはできなかった。それでも、この物語は印象に残った。
 今でもときどき本棚から抜き出して気が向いたページに目を通すことがある。何度か読んでいるが、さすがに今はすべてを読むこともない。それでもぱらぱらとページをめくっていると、いまでも印象的な言葉に出会うことがある。
 たとえば、環境とかエネルギー(エナジーと書かれていたような気がするが)とかそういったものを気にしなくてもよかった時代の思い残しにつくられた車。ダットサンSR320を登場人物(作者)のひとりがそう評する。こういうところがうまいなあと思う。
 もうひとつ印象に残っていることがある。この作品が最初にでたとき、本の帯の紹介文はハードロマンの雄、西村寿行氏が書いていた。矢作俊彦さんと西村寿行氏というのは、なんとも不思議な取り合わせという感じが、いまならする。

カテゴリ: 読書

テーマ: 感想 - ジャンル: 小説・文学

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Posted on 2011/03/29 Tue. 23:04    TB: 0    CM: 0

とてもクールな潮来笠 

 潮来の伊太郎といえば橋幸夫さんである。懐かしの歌謡曲だが、実は小説にもなっている。作者はあの笹沢佐保さんである。このブログでもたびたび書かせてもらっている木枯し紋次郎の作者だ。
 橋幸夫さんの『潮来笠』はほのぼのとした歌謡曲だが、笹沢佐保さんの『潮来の伊太郎』は紋次郎と重なる暗さと冷たさがあったように思う。たしか劇画化もされていたはずだ。《かわぐちかいじ》さんか《ほんまりう》さんが作画をされていたと記憶している。
 小説、劇画ともに何作か読んだことがあるが、劇画のほうには紋次郎のストーリーも転用されていたような記憶がある。原作の原稿が間に合わなかったのか、それとも別の理由があったのか、そのあたりこのとはわからない。
 紋次郎のトレードマークはいわずと知れた長い楊枝である。ちなみにあの長い楊枝は歯を磨くためのものではない。歯を磨く楊枝は房楊枝といって片側が文字通り房のようになっている。口にくわえて飛ばせるような代物ではない。飛ばすどころか、口にくわえて話すこともかなり困難だ。
 都筑道夫さんの作品に時代劇のパロディ作品がある。その中に紋次郎のパロディがあり、うっかり房楊枝を加えてしまったために、まともに喋れないという抱腹絶倒の場面がある。房楊枝を加えれば、つまりそういうことになる。
 紋次郎にトレードマークがあったように笹沢氏が描いた潮来の伊太郎にもトレードマークがある。弓懸けである。弓道の弓を引くときに使う手袋のようなものを着用していたと記憶している。鹿皮製のものらしい。伊太郎が弓懸けをしている理由は、むかし負った傷がもとで時々手がしびれるというような設定ではなかったろうか。
 侍崩れで居合の達人という渡世人と伊太郎が戦うという作品があったことを覚えている。その作品の中で笹沢佐保氏は人を斬るということの難しさに言及していた。曰く、人を斬るというのは高等技術で、訓練を受けていない者にはほとんどできない技であると。侍崩れの渡世人と伊太郎の貫録比べのような描写もあり、そのたりが面白かった。
 笹沢佐保氏が潮来の伊太郎を書いた背景には、やはり紋次郎の影響が大きかったのだろう。それまでとは異なる感覚で股旅ものを描いた笹沢佐保氏に、潮来の伊太郎という古き良き時代の渡世人を再生させようとした(のだと思う)のかもしれない。企画としては面白かったと思う。
 笹沢時代劇の面白さが必ずしもリアリティにあるとは思えない。夢も希望もないあてのないさすらいが当時の世相と合致したという部分が大きかったようにも思う。今ならもっとあうような気がするが、現実の悲惨さがあまりにも重く、フィクションに自分たちの人生を重ねる余裕すらないような気もする。

カテゴリ: 読書

テーマ: 小説 - ジャンル: 小説・文学

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Posted on 2010/01/31 Sun. 18:07    TB: 0    CM: 2

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