Gitanの趣味

ひたすら趣味の道を走っています(ニヤリ)

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リアルと追跡 

 映画『勇気ある追跡』の中でジョン・ウェインは馬にのり、手綱を口にくわえ、右手にライフル左手に拳銃という離れ業で、一直線に敵に向かっていった。あの四対一の戦いに今の感覚で言うところのリアリティはなかったと思う。が、それでも映画的迫力に満ちていた。颯爽としたジョン・ウェインがそこにいた。いろいろと物議をかもす発言もあったが、ぼくはジョン・ウェインが好きだった。今も好きである。
『トゥルー・グリット』と名を変えた『勇気ある追跡』は、実際にあの時代がそうであったかのような画面の中で、実際にあの時代を生きていたようなならず者たち(犯罪者も保安官も)が戦いを繰り広げていた。しかし、颯爽としたジョン・ウェインの入り込む余地はそこにはなかったように思う。今は西部劇といえども絵空事は描きにくい時代になったのだろう。ジョン・ウェインが演じたルースター・コグバーンは酔いどれの中年男というわりには、いま思い返してみるとずいぶんまともに見えた。少なくとも風呂には――毎日ではないにしても週に一回くらいは、入っていそうな初老の男だった。今回、ジェフ・ブリッジスが演じたルースター・コグバーンは、ただただ薄汚く、ろくに風呂にも入らず歯も磨かない、匂ってきそうなどうしようもない酔いどれおやじだった。どちらがよりリアルか、比べるまでもない。
 映画は大好きなコーエン兄弟の作品ということもあり、しっかり楽しむことができた。
 ついでのことに原作も読んでみた。恥ずかしながらウェスタン小説にはこれまでとんと縁がなくずいぶん昔にジャック・シェーファーの『シェーン』を読んだきりだった。そもそも日本にはウェスタン小説というジャンルそのものがあまり入ってきていない印象がある。あくまでもぼくの個人的な印象で、
「いや、そんなことはない、けっこう入ってきている」
 と、いわれれば、反論のしようもないが、とにかくウェスタン小説はあまり入ってきていないということで、話をすすめることにする。
 ウェスタン小説の輸入は少ない。これを事実としても、事情はわからないでもない。たとえば時代劇小説だ。名作傑作数多あるが、日本という国の過去を描いているという点で万人受けするとはさすがに思えない。時代劇と西部劇、どちらがより広く世界に認知されているかとなると、やはりアメリカというスーパーパワーを背負った西部劇の方に軍配が上がるのだろう。とはいえ、今から百年以上前の他国の過去の物語に、人々がそれほど熱狂するとは思えない。
 しかし、今回『トゥルー・グリット』を読んでみて、ずいぶん印象が変わった。なんというか思っていたほど古くないのである。何が? 物語の背景となる時代がである。
 いつかも書いたことがあるが、西部劇の時代を日本の時代に置き換えると、天保時代のイメージがある。木枯し紋次郎や座頭市がいた時代だ。が、実際は明治の頃で、法制度もそれなりに整っていたし、警察機構もそれなりに整備されていた。開拓時代というと荒っぽいイメージがあるし、実際に荒っぽかったのだろうとは思う。とはいえ日本から比べればよほどアメリカの方が文明国だった。これもまた事実だろう。それに荒っぽいという点を誰もが銃をもって、いつどこで銃撃戦がはじまっても不思議ではないという点にだけ求めれば、アメリカは今も昔もそれほど変わっていないということになってしまいそうだ。
 たとえばこの小説の舞台を1880年代とすると明治13年ごろだ。わが日本では文明開化を寿いでいたころだ。わずか13年前はまだ立派な江戸時代だった。山田浅右衛門の九代目、山田吉亮が最後に斬首を行ったのは明治12年だったと記憶している。
 日本で斬首の刑が執行されていたころ、アメリカでは弁護士のつく裁判が当然のように開かれ、法的な駆け引きがあり、すでに麻薬を取り締まる法律まであった。民主党と共和党の対立まであったのだ。西部劇というのは実はそんなに昔のお話ではないのだということがよくわかった。
 日本人の目から見れば『トゥルー・グリット』は遠い昔の少女の復讐劇などではなく、つい最近――というのはいくらなんでも言い過ぎだが――とにかく、今の時代と地続きの時代におきた犯罪者の追跡劇という感じさえしてくる。ジョン・ウェインの入り込む余地は、原作にもなさそうな気がするのが残念だ。
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カテゴリ: 映画

テーマ: 洋画 - ジャンル: 映画

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Posted on 2012/02/08 Wed. 21:31    TB: 0    CM: 2

秘剣美少女 

 美女北川景子についていつか批判的な記事を書いたので、今回はもっと好意的に彼女を眺めてみたいと思う。先日は『LADY』が好みに合わなかったために、どうしても美女北川景子に対しても点数が辛くなってしまった部分があったように思う。
 余談だが、ぼくの友だちに美女北川景子の大ファンだという女性がいる。彼女曰く、
「今度生まれ変わるなら、絶対に北川景子」
 と、いうことらしい。ぼくなどからみると彼女はそのままでも十分美しいと思うのだが、本人はなにがなんでも《目指せ! 北川景子》ということらしい。たしかに北川景子は美しいと思う。ただ、ぼくから見るとやや表情に乏しいような気がする。
 北川景子というひとはたしか明治大学の商学部商学科の卒業で、数理的理論に相当強いらしい。ようするに理系的センスを持った女優さんということなのだろう。好意的にいえば理知的な美貌の持ち主である。
 もしかするとサイボーグとかアンドロイドとかそういった役が似合うタイプの人かもしれないと、ふと思ったりもした。だからたとえば平井和正の『アンドロイドお雪』とか、そういった非人間的な美女を演じればきっともっと輝くのではないかという気がする。日本版『バイオニック・ジェミー』あたりも狙い目かもしれない。
 もちろんこれは素人の目からみた美女北川景子のキャラクターであって、実際の彼女がどういう人か全く知らない。実際の彼女は関西弁を使う《おもろい姉ちゃん》だという話もあるが、見た目の印象は才色兼備で近寄りがたい雰囲気がある(少なくともぼくにはある)。
 WOWOWで『花のあと』が放送されたとき、実はあまり期待しないで観た。暇だからぼんやり眺めていたというのが本当のところで、この映画を製作された多くの方々には誠に申し訳ないと思う。
 ただ、古い時代劇を観て育ったぼくにとって、最近の時代劇はどこか時代劇らしくない。何が原因でそう感じるのか、いろいろと思い当たるところもあるのだが、ひとつは体形の問題が大きいのではないかと思う。
 よくいわれることだが、着物というのは胴長短足だったかつての日本人に似合うもので、最近の人は女性も男性もすらりと背が高く、小顔で、これが着物を着たときのバラスンを悪くしているような感じがある。
 違和感があるのだ。江戸時代を観ている気分になれない。映画『戦国自衛隊』を見たときにも感じたのだが、自衛隊が過去にタイムスリップしたのではなく、過去が現代にやってきたような印象になってしまう。だからいっそ『必殺シリーズ』のように時代考証を大胆に無視した方が、違和感なく受け入れられたりする。
 考えてみると昭和三十年代から四十年代ごろまで、日本人の体形はいまの基準からすれば、ずいぶんかっこ悪かった。が、だからこそ江戸の昔を再現した場合、違和感が少なかった。演者が過去の遺伝子をまだ濃厚に持っていたからだ。
 今回観た『花のあと』も違和感がまったくなかったわけではない。が、それでも藤沢周平の物語が持っている力で、そこそこ見ることはできた。美女北川景子の表情の乏しい整った顔も、武家の娘の、しかも剣術の達人である娘の、忍耐力であるとか慎み深さに見えて、それなりに様になっていた。
 江戸時代、女性で剣の達人という人が実際にいたのかどうかわからないが、もしいたならばこんな感じだったかもしれないと、若干ながら思わせてくれた。その殺陣は、たとえば松山容子さんあたりと比べると遜色はあったが、それでもよく頑張っていたと思う。それなりにかっこよく決めていた。
 しかし、これまで竹刀しか手にしたことのない女性が、重い日本刀を持ち、はじめて真剣勝負をするわけだから、ああは鮮やかに行くまい。そこは映画であるといっても、観客を納得させるために、一工夫あってもよかったような気がする。
『無用ノ介』という劇画のなかに心形刀流の達人が登場する回があった。その達人は道場剣法の達人ではあったが実際に人を斬ったことがなく、実戦の呼吸を知るために無用ノ介と果し合いをする前に、墓場に巣食う野良犬を斬る。動物愛護の時代に野良犬といえどもやたらと殺すのは問題があるにせよ、そうした場面を入れてもよかった気がする。
 それからもうひとつ、この物語を支えていたのは、その脇役たちである。特に美女北川景子の許嫁である甲本雅裕さんが秀逸だった。フィクションとしての大石内蔵助をモデルにしたのかと思わせる見事な《昼行燈》ぶりが抜群にかっこよいのである。
 切れすぎる頭脳を頼りない外見に隠し、必ずしも自分に好意を持ってくれているわけではない美女北川景子を優しく支えるというのは、いかにも日本人好み、というか時代劇好みのキャラクターである。ほんとうはこういう人間は怖いのである。
 それと悪役を演じた市川亀治郎さん。これがよかった。着物姿の立ち居振る舞いの美しさはさすがに歌舞伎の人である。またその悪役顔の作り方が感動ものだった。歌舞伎のことはよくわからないのだが、役柄による表情の作り方のようなものがあるのだろうか。いかにも腹黒い悪党といった顔で登場してくる。
『花のあと』という作品を名作とか傑作とかいう気はさすがにないが、それでもそこそこ楽しめる作品だった。美女北川景子がテレビで観るよりずっとよかったのは、やはり映画がテレビよりも手間暇をかけて作られているからかもしれない。

 ――追伸――
 記事のタイトルに使わせていただいた『秘剣美少女』はアニメ『紅三四郎』の最終回のタイトルです。

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Posted on 2011/05/22 Sun. 12:34    TB: 0    CM: 0

徒然なるままに、いくつかの場面…… 

 映画のなかで忘れられない場面がある。映画『ガンジー』だ。最近はガンディーと表記するのかもしれないが、ここではガンジーということで話をすすめる。ヒンドゥー教徒とムスリム教徒との対立が激化し、そのことに心を痛めたガンジーは命をかけた断食に入る。
 そこにひとりの男がやってくる。そして食べ物をガンジーにさしだし、
「食べろ」
 と、いう。あんたを死なせたくない。それが食べ物を持ってきた理由である。自分の子どもをムスリムに殺された。だからムスリムの子どもを殺した。おれは地獄に落ちるという。すでに地獄に彼はいる。
「地獄から抜け出す方法を教えよう」
 と、ガンジーはいう。子どもを育てるのだという。両親をなくした子どもだ。ただし、その子どもはムスリムの子どもだ。ムスリムの子どもとして育てるのだ。断食を続け、痩せ衰えたガンジーが弱々しい声でそう男に告げる。この場面はたしかアカデミー賞授賞式のなかでも使われたはずである。
 あれは大好きな場面である。断っておくが、ぼくは凡俗の代表である。わが身を振り返ってみるとガンジーのような高貴な生き方とは対極にある実に情けない生き方をしている。『アマデウス』のラスト、サリエリが自分は凡庸なるものの王だといっているが、ぼくなどはさしずめ俗物の王にもなれない、その他大勢である。
 ではあるが、この場面はなぜか胸を熱くした。先に自分のことを情けない奴と書いたが、あまり変わりたいとは思わない。いまさら変えられないということもあるが、とにかく自分は自分のままで行くのがいい(笑)。
 それから『ガンジー』の高貴な場面とは別の意味で忘れられない場面もある。なんというか人間の奥に潜むおっかないものをたった一言のセリフで表現した場面だ。『復讐するは我にあり』という今村昌平の名作の中で清川虹子がいう――
「榎津、殺すなよ」
 あれは凄い。もともと今村昌平という監督は好きな監督だった。というか好きな作品と嫌いな作品があるというべきかもしれないが……まあ、それはいいとして、あれは清川虹子さんの貫録勝ちである。同じ画面のなかには稀代の名優緒方拳が映っていたが、あの場面の主役はまちがいなく清川さんだった。
 ああいった場面を見ていると、映画というのはつくづく感覚の芸術だと思う。筋や理屈ではない。その瞬間に人間のあらゆる面を描き出して見せる。ぼくの映画の評価軸はたったひとつである。心に残る場面があるかどうか。この作品は、名場面満載だが、このひとつの場面だけでも、ぼく的に十分名作である。
 黒澤明の『八月の狂詩曲』はたぶん失敗作だと思うが、ラスト、嵐に向かって壊れてしまった傘を持って進んでいく老女の場面だけでも見る価値があると思っている。あれはいったいなんだろうと思うことがある。黒澤作品にしてはどうもなあと思っていたところにあれである。参ったなあというのが感想である。
 決して好きではないサム・ペキンパーという監督の『戦争のはらわた』のオープニングも好きである。ぼくたちが『蝶々』という名前で知っている童謡がながれ、そこに記録フィルムが映し出される。戦時中のドイツだ。ヒトラーももちろん登場する。あのセンスは好きだ。
 この映画はラストもいい。ドイツ兵を演じた主演のジェームズ・コバーンの哄笑が響きわたるラストがいいのだ。戦争の愚劣さを思いっきり笑い飛ばしたようなラストである。そもそもがアナーキーな人間なので、メッセージ性のある場面はあまり好きではないが、例外的にこの場面は好きである。
 いつかもこのブログで書いたが、『ダーティハリー』なら夜空に向かってカメラが引いていくあの場面だ。この映画の監督ドン・シーゲルは大好きだ。好きな場面というテーマからは少し外れるが、どの作品も非常に乾いている。感傷と縁遠い殺伐とした作風が大好きである。
 バイオレンスといいつつ感傷過多なペキンパーよりも断然いい。この人の作品はB級映画の雰囲気――というかB級映画そのものみたいなところがあるが、それでもこの人は一流だと思う。 
 これはどうかなと思う作品が、たったひとつの場面で感動作に変わる瞬間が、ぼくの場合はある。だから観るのが苦痛な作品であってもついついつきあってしまう。それで結局、だめだったということも多いわけだ(笑)。
 最近の映画では『ハートロッカー』という作品のなかの狙撃兵同士の戦いの場面が印象に残っている。スコープを覗く兵士の目に虫が入っていく場面は、あれを耐えた役者の役者根性に感激である。
 遥かな距離を置いて敵と対峙し、砂漠の太陽にじりじりと焼かれ、砂まみれになりながら一撃必殺の瞬間を狙う。戦争に英雄はいないということがよくわかる場面だ。忍耐力を支えるものは恐怖だけかもしれない。
 遠方の敵に弾丸が着弾した瞬間に血が飛び散る。砂漠の静寂のなかで、ときおりひびく銃声だけがほんとうに不気味である。実際の戦争ではああいった場面がいたるところで繰り返されているのだろう。

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Posted on 2011/04/22 Fri. 21:13    TB: 0    CM: 0

ふたつの怪物 

 最近とんでもない勘違いに気づき、大いに恥じ入っている。何かといえば韓国映画の『グエムル 漢江の怪物』である。2006年に公開されているから、かれこれ5年前の映画だ。すでにご覧になった方もいると思う。
 公開当初からこの映画は日本のアニメ映画の剽窃であるという噂があった。怪物の造形を見たときぼくもそう思った。ストーリーがどうのという前に、物語の核となる怪物がどこかで見たとことがあると感じさせたのは、剽窃の噂を立てられる原因になったと思う。
 最初にとんでもない勘違いだったと書いたが、やや弁解すればこちらが勘違いしても致し方ないほど、両作品の怪物の造形は似ていた。その点についてだけいえば、剽窃の噂がたっても仕方がないかなと今でも思っている。なぜあれほど似てしまったのか、よくわからない。
 とにかく第一印象というのは恐ろしいもので、怪物が似ていたばかりに、《日本アニメ映画剽窃説》を頭から信じてしまった。最近になって、この作品を見る機会を得た。驚いた。これは『パトレイバー』とは全く別物である。
 確かに怪物の造形は似ていたかもしれない。だが、映画としては全くの別物、あるいは仮に似ている部分があったとしても、それを認めてさえ、この映画をぼくは支持する。回りくどい言い方はやめよう。ようするに、
「ぼくはこの映画が好きだ」
 と、いうことだ。これは非常に面白い映画だ。きわめてユニークなギャグ映画だ。すでに観られた方もいるかと思うが、ストーリーに触れることは極力避けることにする。とにかく、これは怪獣映画であると同時に、家族映画である。それも相当歪な家族映画だ(さらにいえば反米映画でもある)。
 ある日、漢江から怪物が現れる。その怪物の誕生には米軍が関わっている。怪物はひとりの娘を連れ去る。奪われた娘を取り戻そうとする家族と怪物の壮絶な闘い――ではない。滑稽な悪あがき。
 怪物誕生にかかわった米軍が、事実を隠ぺいしようとして政府にも圧力をかける。この家族は一種のドン・キホーテだ。巨大な権力に戦いを挑むといっても、この家族には戦いを支える実力などどこにもない。窮鼠猫を噛むというやつで、追いつめられ、一種の狂乱状態になっているのだ。
 この構図はよくあるパターンでもある。孤立無援で巨大な敵に挑むという物語は、目をつむって石を投げても当たるくらいたくさんある(笑)。やりようによってはどんな活劇にでもできたはずなのだ。観客に感動の涙を流させることもできたはずだった。
 が、この監督ポン・ジュノはそれをしなかった。では何をしたか。驚いたことにベタなギャグ満載で描き切ったのである。しかも凄いことにこのギャグがまったく笑えない。滑りっぱなしだ。笑えないギャグほど惨いものはない。空気がしんしんと冷えていく。
 滑るギャグの惨さは、そのまま米軍が生み出した怪物に孤立無援で闘いを挑む家族の運命の惨さに通じる。少なくともぼくにはそのように見えた。さらにこの物語に登場する出演者たちの顔が凄い。
 韓流といえば美男美女が相場だが、この映画に登場するのは美男美女とは程遠い風采の上がらない男女である。女の子は普通っぽい可愛らしさがあるが、男性陣は全滅である(笑)。いや、これも好みによるかもしれない。とにかく絶対的な美男美女でないことはまちがいない。
 たぶん、この映画は好みが分かれると思う。芸術作品はどんなものであれ、最終的には好きか嫌いかだ。この作品を認めないという方がいてもそれはそれでかまわない。ぼくは大好きだというだけのことだ。
 笑えないギャグをちりばめつつ、怪物と壮絶なのか愚かなのかわからない戦いを繰り広げ、その行き着く先に、恐ろしく苦い結末が待ち受けている。あの結末を用意しなければならなかった必然性が監督にはあったのだろうか。ぼくにはわからない。ただ、あのラストを選んだ監督のセンスはただ事ではないと思う。
 それともうひとつ、この監督は人間の顔を並べるのが好きなのだろうか。そう感じる画面がところどこに見られた。とにかく『グエムル 漢江の怪物』は、みるべき価値が十分にある作品だと思っている。

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Posted on 2011/02/10 Thu. 23:12    TB: 0    CM: 0

タランティーノの文法 

 ストーリーなんてあるのだろうか。タランティーノの作品を見るたびにそう思う。だから面白くないというわけではない。むしろその逆だ。ある作品が面白いか面白くないか。結局、ストーリーというのはあまり関係ないのかもしれない。
 タランティーノという人は変である(笑)。ぼく的にいえば彼は変人のチャンピオンだ。思い出すのはアカデミー賞の授賞式である。『パルプ・フィクション』はカンヌではパルムドールを取ったが、アカデミー賞では7部門にノミネートされたものの、とれたのは脚本賞だけだった。
 それでもずいぶん名誉なことだと思うが、タランティーノは不満だったのだろう。スピーチの壇上で、
「言いたいことはやまほどあるが、いまはいわない。ありがとう」
 みたいなことをいったように記憶している。その前にたぶん賞は取れないだろうみたいなことをいった記憶がある。が、このあたりは曖昧だ。間違いがあるかもしれない。とにかくそのときの印象は、まるで場違いなやつが紛れ込んでいるなあというものだった。猛烈にインディーズ的だった。
 ストーリーについて話を戻すと、最近観たタランティーノ作品、『イングロリアス・バスターズ』にはストーリーらしいストーリーはなかった。いってみれば断片の集積のようなもので、その意味では流れるようにスムーズなスジ運びとは対極に位置するような物語だった。
 しかし、面白かった。『パルプ・フィクション』も時系列シャッフルを使ってはいたが、お話自体は特に目新しいものはなかった。先に断片の集積と書いたが、言い直そう。意味のないお喋りの集合体のようだった。
 何を描いたかではなく、どう描いたかだとよくいわれるが、ほんとうにそうだ。物語を支えているのは、どんなスジ運びかではなく、その場面がどんな風に作られているのか、そちらの方がよっぽど重要だという気がする。つまり、どう描いたかということだ。
 どんなに凝ったストーリーを考えても、だから面白くなるということはない。すくなくともぼくは面白くない。凝ったストーリーと書いたが、そんなに斬新な物語があるはずがない。皆同じ物語を繰り返し描いている。斬新なのはいつも表現なのだ。
 シェークスピアの悲劇も、昼メロが描くどろどろも、さらにいえば自らを冤罪に陥れた者たちに復讐する美女も、思えば同じ場所に立っている。表現が斬新か、類型的か、その違いが見る者にちがう印象を与えている。つまりそういうことだと、ぼくは考えている。
『イングロリアス・バスターズ』について話せば、この作品は、マカロニウエスタン調の戦争映画だった。よく新しい発想を呼び起こすには、異質なものを結びつけよという。ながらくそれを物語のスジの発想について言われた言葉だと思っていた。
 しかし、どうやらそうではなかったらしい。いや、ストーリーを考えることも含めて、表現全般についていっている言葉ではないかと最近になってようやく気づいた。マカロニウエスタンの感覚で、戦争映画を撮るという発想だ。《戦争》+《マカロニウエスタン》=『イングロリアス・バスターズ』と、いうわけである。
 そういうことを考えること自体、思えば、タランティーノは変である。どう描くか。これは難しい。考えてできることではない。いや、考えることはもちろん必要だ。しかし、それだけでは不可能ではないかという不安を感じる。自分だけの感覚を持っていなければならない。
 すると、結局自分と向き合うしかないという結論に達する。生まれたときから自分と向き合っている人もいるだろうし、艱難辛苦の末にようやく自分と向き合える人もいる。自分を信じるしかない。
 そういえば、タランティーノは絶対に自分を疑ったりしないような感じの人物である。

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Posted on 2010/12/05 Sun. 19:22    TB: 0    CM: 0

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