Gitanの趣味

ひたすら趣味の道を走っています(ニヤリ)

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『部屋の片隅』に気づく才能 

 中村中に『部屋の片隅』という曲がある。湿度の高い曲で、恋人の心の中に残るかつて愛した相手の面影に、ふと気づいていしまった女性の心情が綴られている。ありふれた内容といえばありふれた内容なのだが、けっこう好きである。
 中村中という人は恋愛至上主義だ。誰かを好きになることなど、考えてみれば当たり前のことだが、これほど厄介な代物も少なくない。時には命がけの修羅場が展開したりする。取扱には細心の注意が必要だ。
 中村中は人を好きになるということが思うに任せないという究極の場所にいるようなものだ。しかし、その一方で《好いた、惚れた》が思うに任せないのは、誰にとっても同じことだ。中村中の痛すぎる思い出か、あるいは現在進行形の思いが、誰の心にもひとつやふたつはある痛い思い出に響くのだろう。

 中村中が、目指している歌謡曲というジャンルは、常にありふれている。普通なのだ。普通であることの凄さが歌謡曲の命だといってもいい。社会の変革を目指したり、主義主張を声高に叫んだり、おまえたち奮い立てと煽ったりしない。いつも当たり前のことを歌っている。
 当たり前のように恋をして、当たり前のようにふられ、当たり前のように涙にくれる。それだけのことなのだ。ただそれだけのことなのに、多少の盛衰はあってもなくなりもせずに存在し続けている。求める人がいるからに決まっている。思想や主義は時代ともに変わっても、人間には絶対に変わらない感情があるのだ。

 歌謡曲というジャンルは『部屋の片隅』に気づく才能に支えられている、といっていいのかもしれない。どこにでも転がっているありふれた感情を拾い集め、言葉を与え、メロディを与える。
 部屋の片隅にあるものを皆見ている。見えているのに見えないことというのはよくあることだ。優れた歌謡曲は、部屋の片隅に転がっている感情を拾いあげて、
「ほら」
 と、目の前にぽんと置く。
 扱う題材はありふれていても、形にするには才能と訓練がいる。どれだけ売れるかは運の要素も大きいとは思うが、とにかく売り買いできるまでのものにするのは大変なことだ。いや、商売を離れてもとにかく形にするだけでも相当な才能なのだろう。
 ヤクザと兵隊をやれば、どんな役者でもうまく見えるという。泣くこと、叫ぶこと、特別な感情を表現することは、技術の巧拙を覆い隠してしまうものなのだろう。ちなみに「やくざと兵隊」云々ということを知ったのは、山田洋二監督の著書だった。『映画を作る』だったろうか。タイトルはちょっと怪しいかもしれない。
 ヤクザと兵隊をやればどんな役者でもうまく見えるに続くのは、普通の人間を演じることは難しいということだった。泣いたり叫んだりするような特別な感情を表現するのではなく、たとえば、
「このお芋、おいしいわね」
 と、いうような普通のセリフを言うことの方が難しいのだという。
 同じことが音楽――というよりもあらゆるジャンルついていえるのかもしれない。特殊なものは瞬発力はあっても、長期的に持続する感動を与えることは難しいのかもしれない。派手さはなくてもなぜか心から離れないものというのは確かにある。人は結局、ありふれたものに安心感を覚えるのだろう。
 最近、普通のものが少なくなってきたような気がする。派手さはなくても、どっしりとして安定感のる表現とでもいうか、そういったものがあらゆるジャンルから消えつつあるようながしてならない。それも時代の流れかもしれないが、少しさびしい感じがしないでもない。
 そういう意味からも、ありふれた歌謡曲を目指している(のかどうか知らないが)中村中には頑張ってもらいたいと思う。赤面しそうなほどべたな歌謡曲を堂々と作り、堂々と歌ってもらいたいものだと思う。
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カテゴリ: 中村中

テーマ: 音楽 - ジャンル: 音楽

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Posted on 2009/06/17 Wed. 09:40    TB: 0    CM: 3

再び、中村中 

 最近、中村中に触れなくなっていたが、決して飽きてしまったわけではない。一時ほどの話題性はなくなったようにも思えるが、そのことはむしろ喜んでいる。もちろん、好きなミュージシャンが多くの人々に支持されるにこしたことはないが、キワモノ的な扱いを受けるのはどうかなと思う。
 一時期ほどの話題性がなくなったからといって、中村中の個性がなくなるわけではない。これからもその個性については触れられるだろう。それも、いつかとても自然なことになっているような気がする。
 たとえば、美輪明宏さんだ。いまさら美輪さんを男性か女性か、気にする輩はいないだろう。男でも女でもない、美輪明宏という偉大な表現者がいるだけだ。中村中がひとつのジャンルになってしまえばいいと思う。

 最近、生の中村中を見ていないから何とも言えないが、テレビなどで見ていると、『汚れた下着』を歌っていたころの毒がなくなったような気がする。それが少しさびしい気もする。それともライブなどではあのころのとんがった中村中に会うことができるのだろうか。
 まあ、《毒》とか《とんがった》というのは、こちらの勝手な思い込みで、本人は周囲の変化に合わせて、ごく自然に今に至っているのだろう。いつまでもあのころばかりにしがみつくのは、どう考えても不健康だ(笑)。
 中山ラビという人に『人は少しずつ変わる』という曲がある。ほんとうにその通りだ。変化は受け入れなければならない。取り巻く状況が変われば、あるいは世の中を見る自分の目が変われば、自分自身も変わって行く。

 それにしても、この人はいい曲を書くと思う。CDやネットで動画を見ていると、素朴に才能があるんだなあと思う。それがそのままセールスにつながらないところが辛いところだが、そんな礼はいくらでもある。
 しかし、中村中の生み出す曲を聴きたいと思う人間はいるだろう。事実ここにもひとりいる。その数は多くはないかもしれないが、ミュージシャンとしての活動を支えていくには十分かもしれない。まだ若いのだし、将来大ヒットを飛ばす可能性だってある(笑)。作詞家・作曲家としての可能性も秘めている。
 音楽だけではなく、演技者としても才能があるのだろう。舞台『ガス人間第一号』のヒロインに、演出家の希望で指名されたという。もしかすると、いつかほんとうに中村中主演の『黒蜥蜴』を見ることができるかもしれない。

カテゴリ: 中村中

テーマ: 音楽 - ジャンル: 音楽

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Posted on 2009/06/14 Sun. 01:54    TB: 0    CM: 0

中村中と恨み節 

 一度もあったことはないが、とても素敵な人がいて、その人から中村中が映画『女囚701号さそり』の伝説のテーマ曲『恨み節』を歌うということを教えてもらった。
 正直なところこれは盲点だった。
 このてがあったかと、目から鱗がおちた――か、あるいは目に鱗が飛びこんだか、とにかく
「あっ!」
 と、思わず驚きと感動の声をもらし、ぽんと膝を叩いてしまった。
 何度も書いたことだが、中村中という人には一種の毒――あるいは深い闇を抱えているようなところがあり、誰が考えたのか『恨み節』を彼女に歌わせるというのは、いってみればアイデア勝ちだ。
『鳥の群れ』という曲が中村中にある。ヤフー動画で見ることもできるが、この曲を聴いていると、中村中という人は聴き手の心のなかにある怨念や情念を揺さぶることのできる歌手なのだということがよくわかる。デビュー曲の『汚れた下着』からして一種の恨み節だった。あの『友達の詩』でさえ美しくはあるが、とどかない思いに悶え苦しんでいる心の叫びのようなもので、美しいばかりではおわらないつらさがある。感動するが、その感動には、常に影がついてまわる。
 CD化される予定はないそうだが、中村中のうたう『恨み節』はやはり聴いてみたい。

 今回、水野美紀主演で映画化される『女囚さそり』は香港映画だという。期待しつつも、ぼくにとっては『女囚701号さそり』だ。
《701号》が入るか入らないか、大きなちがいがある(軽い冗談です)。もちろん主演は梶芽衣子。かっこよかったです。文句なし。
 この映画のなかで主演の梶芽衣子のセリフは二つだったはずだ。主人公がこれだけ喋らない作品というのはあまり記憶にない。観客のストレスをためるためだけに制作されたとしか思えないマカロニウエスタン『殺しが静かにやってくる』の主人公は、ついに一言もしゃべらないが、この主人公は喋ることができない設定だった。『女囚701さそり』のヒロイン松島ナミは自らの意志で話さないのだ。
 原作も読んだことがある。ビックコミックに連載された原作と映画はずいぶんちがった。松島ナミは映画ほど無口ではなかった(笑)。原作の劇画は映画ほど劇画的ではなかったように思う。
 映画『女囚701さそり』が映画史にのこる傑作などとは思えないが、若き日のクールでビューティーな梶芽衣子を見るだけでも価値がある。
 主題歌『恨み節』も梶芽衣子が歌っていることは、いまさらいうまでもないだろう。
 こののち梶芽衣子はブレイクしてテレビドラマでも『戦国ロック はぐれ牙』というカルトな作品に出ていた。こちらのほうはさっぱり視聴率が稼げなかった。そうだタンラティーノをしびれさせたらしい『修羅雪姫』もあった。
 梶芽衣子の歌う『恨み節』は乾いていてハードボイルドな雰囲気があった。これはこれでよかった。
 余談だが、ハイレグの女王岡本夏生もさそりを演じて主題歌も歌っていたが、これはまあちょっとである。世間はどうでもぼくはあまり認めたくない。小声でいうが、これはお笑いだ。
 とにかく中村中さんのうたう『恨み節』を期待しよう。映画よりもこちらを期待しているくらいだ。

 ちなみに『女囚さそり 701号恨み節』もそこそこ好きだった。この映画は前半部が特に好きだ。この作品で若き日の田村正和さんを見ることができる。細川俊之さんも出ていたはずだ。

カテゴリ: 中村中

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Posted on 2008/03/17 Mon. 14:05    TB: 0    CM: 0

中村中……さよなら十代 

 中村中ちゃんが「さよなら十代、もう戻れないさ」と歌っている。
 ぼくが十代にさよならをしたのは、もうずいぶん昔のことである。黒澤明の三十郎シリーズに「椿三十郎、いやもうそろそろ四十郎ですが」と苦く笑う場面、あれが本格的に身にしみる年齢になってきました。気分だけはまだ十代、とはいわないが二十代なんだけどねえ。

 それはさておき、中ちゃんの唄を聴いていると、ずいぶん懐かしい気持ちになるのはなぜだろう。メロディが歌謡曲的で昭和の匂いを持っているからぼくのようなおじさんの胸に響く――と、いうことはもちろんあるだろうが、それだけでないように思う。メロディ、歌詞、歌唱力、それを表現するご本人の佇まい。そういったものが混然となって、ぼくの気分を懐かしい方へ止め処もなく傾斜させていく。よし、いつかじっくりと考えてみよう。

 十代の頃にあこがれた生きかたがある。現実的な意味では、ぼくは公務員になりたかった《なれなかったけど……(笑)》。
 しかし、それとは別に夢想していた生きかたがある。
 そうありたいという願望、もしくは象徴として――

『イージーライダー』
『木枯し紋次郎』
『赤い鳥逃げた』に登場する三人組。
『傷だらけの天使』の二人組み。
『新宿アウトロー、暴走集団71』の面々。
『フーテン(今度映画化される『黄色い涙』の作者永島慎二さんの作品です。名作ですよ)』

 アハハハハハ……馬鹿だねえ。
 でも、かなり真剣に考えていたんですよ。いや、ほんと。
「ああ、彼らのような生きかたができればなあ」
 と、紅顔の美少年(主観的幻想の中で)が、朝が訪れる寸前の青く澄んだ空気を眺めながら、漠然と考えていたのは事実だ。
 中でも『フーテン』に登場するサングラスのインテリフーテンには、かなり相当、憧れを持っていた。きっとインテリじゃなかったし、この先なれそうもないとわかっていたからだと思う。

 考えてみると、憧れたのは現実的もしくは精神的に家庭や故郷を捨てて放浪する連中ばかりである。
 ここではない何処かへの渇望――いえいえ、とんでもございません。そんな詩的な思いからでは、多分、なかっただろう。絶対になかったな(ーー;)。
 全てを捨てて放浪するという生き方に憧れるというのは、たとえば戦前の少年が大陸に渡って馬賊になることに憧れるというような、冒険精神の所産ではない。勉強とか校則とか、そういった重苦しい現実の重圧にうんざりしていたからだと思う。正しく現実逃避だったのだ。
 つまり、中ちゃんが歌っているような「握った拳を震わせながら、血を握ったことなど」一度もないような、のんべんだらりとしたぼくだったわけである。
「いつか夢見たあの日のぼく」は、もちろん明日の自分ではない。そんなことはわかっていた。
 憧れた生きかたが、幻想でしかないこと、もしくは物語の中だけでしか成立しない生き方であることは、どんな子供にだってわかる。幻想とはいえこんな生き方に憧れるくせに、まだしも現実的に可能性があるミュージシャンとかタレントとか漫画家とか作家とか、はたまたスポーツ選手とか、そういったものはなぜか最初から無理だろうと諦めていた。

 だからかな、『さよなら十代』がちょいと胸に来るのは。

カテゴリ: 中村中

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Posted on 2007/02/13 Tue. 20:11    TB: 0    CM: 2

中村中→私の中の「いい女」の呼び出し方 

 身長が177センチで体重が58キロだった彼を知っている。過去形で書いているのは、それが二十歳前後の彼のことだからだ。女友達の一人は彼の細い脚を見て、ルパン三世の脚と言ったが、それも今は昔の物語だ。それから二十年以上が過ぎた。身長はまだ177センチを保っているが、体重はめでたく88キロになった。しかも、さらに増加傾向にある。いったいなんなんだ。二十代の頃に知り合って遂に結婚した嫁さんは、

「詐欺にあったようなものだわ」

 と、言っているらしい。確かに詐欺だな。

「そろそろ目覚めてわたしの中のいい女」と中ちゃんは歌ってくれるが、この情けない彼の変貌ぶりは、「さっさと引っ込め、おいらに重なるダサい奴」と声を限りに歌いくなってくる。

 これはまったくの偏見だと思って聞いてください。歳を取り、ひたすら情けない方へ変わっていく傾向は、女性よりも男性のほうが多いように思う。と、いうか物語などでは、しばらく見ないうちに綺麗になった女性がよく登場するが、しばらく見ないうちに落ちぶれた男は登場しても、かっこよくなった男というのはあまり登場しないように思う。ぼくが偏見を持つにいたった理由は、そんなところにあるのかもしれない。笹沢左保さんの作品に「落日に男は生きた」という作品があった。なんとなくダサい中年男がかっこよくなる話のような気もするが、読んだことがないのでわからない。
センター 実体験もある。高校時代、身長はそこそこあるがどうにもぱっとしない女の子がいた。顔色が悪く、何となく暗く、笑顔が――どうにも不気味なんだよねえ。それが高校を卒業して何年かしてばったりあったら、唖然とするほど綺麗になっていた。こんな美人が身近にいたのかと、なにやら狐につままれたような気がしたのを覚えている。

 男性が美しく変貌する物語がないわけではない。少なくともひとつは知っている。原作狩撫麻礼、画かわぐちかいじの『ハード&ルーズ』というマンガに、そういう話があったと思う。とある女性が高校生の頃の家庭教師を探してくれと主人公の探偵に依頼する。不良女子高校生だったころ、臭くてダサい大学生の家庭教師にお情けでやらせてやった。その男を探し出してほしいというのである。探偵は元家庭教師を探し出す。そして、彼女を連れて行く。彼女は愕然とする。臭くてダサかった元家庭教師は、知性的な美男子になっていたのだ。男の立場からすると、かなり小気味よい物語で、おれも努力次第ではひょっとして――と、希望を持たせてくれる話だった。

「いい女」「いい男」の定義が何であるかは難しい。人は必ずしも美男や美女を好きになるわけではない。容貌は普通でも、知性にほれ込む場合もあるだろう。心意気が好きになることもあるかもしれない。顔が悪くて、スタイルが悪くても、魅力的な俳優さんはいくらでもいる。才能が人間を輝かせることもある。人間の魅力が一筋縄でいかないものなら、個性を磨くことが、あるいは「いい女」「いい男」への道かもしれない。何事にも努力がいる。

 よし、ぼくも明日から中ちゃんの『私の中の「いい女」』のメロディに乗せて――

『とにかく出て来い、おいらの中の「凄い奴」』

 と、歌いながら努力しよう。決めた。

カテゴリ: 中村中

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Posted on 2007/02/11 Sun. 23:27    TB: 0    CM: 0

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