Gitanの趣味

ひたすら趣味の道を走っています(ニヤリ)

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王の剣 

 とんでもないタイトルをつけてしまったが、何のことはない大河ドラマ『平清盛』についてである。何でも初回視聴率がワースト3に入ってしまったらしい。それはかまわない。ぼくは視聴率に興味がない。視聴率が高くても面白くないドラマはいくらでもあるし、その逆も、もちろんある。
 しかし、そのことと今回の大河ドラマが面白いかどうかはまた別の話しである。
 その前に、いきなり話はかわるが王によって引き抜かれる大剣はエクスカリバーと相場が決まっている。岩に刺さった大剣を引き抜くのはもちろんアーサー王だが、今回はそれが平清盛だった。アーサー王伝説をどこかで意識していなければあんな場面は出てこない――と思うが、どうだろう。平清盛をアーサー王に重ねて描こうとした狙いが製作者にあったように思えてならない。しかし、その狙いが成功したかどうかは、微妙だと思う。
 大河ドラマが『平清盛』に決まったときいたときに、真っ先に思い出したのが黒澤明だった。黒澤明は『平家物語』を映画化したかったそうである。タイトルは忘れたが、何かのインタビューでそう話しているのを読んだことがある。
『平家物語』ときくと古色蒼然という印象がぼくなどにはあるが、黒澤明にとって平家物語は『戦争と平和』だったようだ。平家の公達が戦って戦って戦い抜いて滅びていく。ぼくなどには琵琶法師が語る陰々滅々とした物語というイメージがあるが、黒澤明の頭の中では荘厳な悲劇がダイナミックに動いていたようだ。もし映画化されていれば、豪華絢爛だった『乱』の何倍もの華麗さとリアリティを併せ持った映像だったかもしれない。そう思うと撮ってもらいたかった気がする。今回の『平清盛』を眺めつつ、その思いをいっそう強くした。
 NHK大河ドラマの『平清盛』はどこかで黒澤明が描きたかった『平家物語』を意識しているような気もするが、このあたりは素人の勝手な思い込みである。素人の勝手な思い込みであることを承知でいえば、リアリティのある平安時代を背景に荒々しい武家の棟梁としての清盛像は、もしかすると生きていれば黒澤明が描いたかもしれない『平家物語』の一場面であったかもしれないという気がするのだ。
 時代劇を観るときの僕の悪癖は、黒澤明をどこかで意識してしまうことだ。NHKが描く今回の平清盛は、黒澤時代劇テイストの背景に、アーサー王伝説からちょいと場面を拝借して、従来通りのNHK大河ドラマのストーリーで構成した。そんな感じである。従って、もしこのドラマに問題があるとすれば、汚い平安ではなく、ご都合主義のストーリーではないかと考えたりする。
 幼い清盛が屋根に上れば追いかけてきた弟が落ちて、義母の本音が剥き出しになり、傷ついて街に出れば、かつて義父が殺した盗賊の子どもにばったり出会い出生の秘密を聴く。雨にうたれてしょぼくれていると、彼の惨めさを引き立てるように野良犬が走っていく(ちなみに雨で惨めさを強調させたのも黒澤明で『素晴らしき日曜日』のときにこれをやったと記憶している)。やっと雨が上がったかと思えば今度は自分の可愛がっていた犬の死体を発見する。大泣きしていると、そこに都合よく彼を探していた義父が現れ、
「弱いから死んだのだ! お前は弱い犬だ!」
 とか叫び、いきなり大剣を引き抜いて、
「どうだ! 抜いてみろ!」
 といわんばかりに地面に突き刺して去っていく。で、後はアーサー王伝説である。いったい何をしたいのだろう……。
 ここまで材料を揃えて、この展開はないだろうと思えてくる。画面が汚いという批判もあるらしいが、リアルな平安を描こうとした心意気はけっこう好きだ。以前、このブログで実録忠臣蔵を観てみたいと書いたこともあり、リアルな時代劇――というか時代劇と歴史劇の中間に位置するようなドラマを見たいとは思っていた。
 ではあるが、せっかくここまでやって悲劇も喜劇も、あまりに都合よく訪れる展開は何とかならないかと思えてくるのだ。
 このドラマに足りないものは、本当はなんだろう。ずっとそれを考えている。
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カテゴリ: テレビドラマ

テーマ: 大河ドラマ - ジャンル: テレビ・ラジオ

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Posted on 2012/01/11 Wed. 08:58    TB: 0    CM: 0

家政婦を見た 

 われながら実にあざといタイトルをつけたものだと、いささか忸怩たる思いがある。元ネタが見えみえだ(笑)。
 しかしそれをいえば元ネタの『家政婦のミタ』だって同じだ。タイトルだけをみれば『家政婦は見た』のパロディだ。もしかするとあのドラマは、タイトルから先に生まれたのかもしれない。
 笑われるのを承知で書くと、あのドラマ――『家政婦のミタ』をはじめて見たとき、これはSFドラマだと確信した。本当の話しである。松嶋さん演じるあの家政婦は未来からきた猫型ロボット――ではない家政婦型ロボットに違いないと信じていた。あの無表情、抑揚のない話し方、声の調子はいつも同じ、
「やりすぎだよ、松嶋さん」
 と、思わず突っ込みをいれたくなるほどにアンドロイド的だった。このドラマの松嶋さんを見ていると、美人の構成要素のなかの表情という項目は、かなり大きな比重を占めているのだとわかる。
 あの物語は色々な見方ができるが、ようするに『ドラえもん』である。のび太君はもちろん長谷川さん演じるあのダメおやじだ。家政婦型ロボットのミタさんは四次元ポケットのようなドクターズバックから、みんな(この場合は家族)が欲しがるものを何でも取り出してくれる。しかし、ただひとつ彼女にも取り出せないものがある。それは家族の絆――なんて勝手に想像していた。
 しかし、夜の十時台に『ドラえもん』を持ってくるというのはどうだろうと、観ている方としてはいささか心配していた。SFドラマである。あの時間帯に未来からやってきた家政婦型ロボットが活躍するドラマを放送して視聴率など稼げるはずがない……。
 ぼくは馬鹿である。さすがにそれはないだろうと思いつつ、しかし、半ばそういう落ちがあるのではないかと本気で考えていた。
 たしかに馬鹿ではあるが、そう思えるほどに、あの家政婦は人間離れしている。ドラマが面白くないとは決していわないが、彼女が人智を超えた存在であることはまちがいない。デフォルメされた人間像――というにも強烈過ぎて、また、
「やりすぎだよ、松嶋さん」
 と、苦笑が浮かぶ。
 ある種のスーパー家政婦さんが活躍する物語といえば、幸田文さんの『流れる』がある。もちろんこちらは小説的日常の中の住人なので、さすがに四次元ドクターズバックはもっていないが、それでも厄介な家にやってきて山積する問題をてきぱきと片づけていくあたりは、どうしてどうしてミタさんに負けない見事な家政婦ぶりである。
 こう考えてみよう。家政婦のミタさんは、ある種の理想だ。その昔、レイモンド・チャンドラーは自身が産みだしたヒーローであるフィリップ・マーローについて、存在したこともなければ存在することもできない、彼はある種の可能性であり理想である――とか、たしかそんなことを語っていた気がする。ようするに理想にトレンチコートを着せてみたといっているわけだ。理想にエプロンをつけさせたのがミタさん、そう割り切れば、家事から物真似まで何でもこなすスーパー家政婦ぶりにも納得がいく。
 理想的な家庭の裏側を描いた傑作といえば、山田太一さんの『岸辺のアルバム』を思いだす。こちらはリアリティ満載だった。ある種の理想を擬人化するような真似はせず、ひたすら生々しく崩壊していく家庭を描き切った。
 これも時代の変化だろう。ホームドラマを描いてすら、いまのドラマはどこかにSFの匂いがする。どこかに非現実の匂いがするのだ。あんな人間がいるはずがない。そう思えてしまう登場人物が少なからず登場する。
 もちろん、それが悪いといっているのではない。それはそれで結構面白い。ドラマは結局、時代のものである。たぶん、いまのドラマが一番いい(ちなみにこれは、淀川さんのパクリである)。
 あのドラマのなかで、おっさんのぼくが一番共感できるのは、やはり、長谷川博己さん演じる《のび太君》親父である。あの情けなさはぼくに通じる。そして、好きなキャラクターは《うららちゃん》だ。

カテゴリ: テレビドラマ

テーマ: テレビドラマ - ジャンル: テレビ・ラジオ

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Posted on 2011/12/03 Sat. 20:29    TB: 0    CM: 0

新しい器 

 原作をそのまま映像化することはもはや不可能だということはわかっていた。小説『砂の器』のもっとも重要な部分を映像化できたのは、松竹映画『砂の器』だけだった。以後の映像化はすべて物語の核ともいうべき部分にアレンジを加え映像化している。時代が変わったということもあるだろう。古典落語と同じだ。『砂の器』をそのまま映像化しても、理解できない人が今ならいるかもしれない。
 しかし、そういったこととは別に原作をそのまま映像化することで不快な思いをする人たちがいる。そんなことは鈍感なぼくでも察しがつく。表現には常に責任がつきまとう。表現の自由はもちろん大切で基本的にはどんなことを表現してもよいとは思う。が、その一方でどんなことにも限界があるような気がする。
 悪意はなくとも人を傷つけることがある。それが善意から、あるいは現状を変えたいと願う思いから出た言葉であっても、人を傷づけることがある。物語の核となる部分を変更するのは原作権を持つ松本家の意向でもあったという。
 田村正和さんが犯人を演じた『砂の器』では放浪の理由を父親が心を病んだためとしていた。1991年版は観ていない。2004年と今回の作品は親子の放浪の理由を犯罪、もしくは冤罪に求めていた。それはそれでもっともなことだと思いつつも、『砂の器』が『砂の器』である理由を放棄していることも事実だ。これは決して批判ではない。断っておくがぼくは松本家の姿勢を全面的に支持している。
 ただ――『砂の器』の映像化は諦めた方がいいのではないだろうか。映像化したくなる魅力を持つ原作ではあるが、物語を描ききれないと最初からわかっているのであれば、手を出さないほうが賢明だ。
 今回の『砂の器』を一言でいってしまえば『野良犬』である。もちろん、これはぼくの勝手な思い込みで、
「え? 違うだろう」
 と、思う人がいても別にかまわない(笑)。
『野良犬』はいうまでもなく黒澤明の名作刑事ドラマである。あのドラマの骨格はその後の刑事ドラマに大きな影響を与えた。というか日本の刑事ドラマはあの映画がはじまりだったという気さえする。ちょうど『酔いどれ天使』がその後の実録系やくざ映画に影響を与えたようなものだ。思えば黒澤明はほんとうに偉大だった。
 同じような境遇で育ったふたりが別々の人生を歩み、やがて刑事と犯罪者となって出会う。『野良犬』においてそれは復員兵だった。復員時に荷物を盗まれた二人の男がひとりは刑事になりひとりは犯罪者になる。正反対の人生を歩むのである。
 今回の『砂の器』ではそれが戦災孤児だった。
 厳密にいえばひとりは戦災孤児とは言えない。だが、幼少期に辛酸を舐めて育った二人の男の葛藤が物語の核になっていた。まさに『野良犬』の設定だ。
 物語は昭和三十五年、もう戦後とはいえないが、戦争を知っている世代がまだ現役だった時代だ。もう戦後とはいえないと書いたが、2011年――平成23年の今から見ればあの時代はまだ十分戦後である。敗戦から数えてたった十五年しか経っていない。戦後の混乱期を舞台に描いた刑事ドラマ『野良犬』の影が、物語全体に色濃く落ちているように見えてもさほど不思議ではないのかもしれない。
 どんな物語でも大きな物語の一部だというが、今回の『砂の器』を見ているとその言葉の正しさを実感する。その気になれば、どんな物語でも融合可能なのだ。既存の物語を組み合わせて、新しい物語を生み出すこともできる。というか多くの作家がそれをしている。そうやって生み出された新しい物語も、すでにある物語だ。しかし、だからこそ見る者を刺激し、感動させ、何かを気づかせ、作者が巧妙に隠したテーマを発見させる喜びを、読者や観客に与えることができる――と、そんな気がする。
『砂の器』の脚本を書くにあたってシナリオライターの頭の隅に『野良犬』があったのかどうか。
 それはわからないが、少なくともこれまで何度も映像化されてきた『砂の器』を映像化するにあたって、皆と同じことはしたくなかったのだろう。
 若くてイケメンの玉木宏さんが出演することもあり、彼をメインでという製作者側の意向もあったのかもしれない。
 背景などはぼくに窺い知る由もないが、原作では脇役だった若い刑事に人生を語らせることで、物語に強い陰影を与えようとしたのだろうか。
 それが成功したのかどうか、素人のぼくにはわからない。
 その作品が面白いかどうか、好きか嫌いかは、結局個人の好みによるところが大きい。
 松本清張という人の作品は淡々としている。どんな事件を描いても、無用に人の感情を煽り立てるような書き方をしない。小説を読んでいてもドキュメンタリー風というか、あたかも自分が足を使って調べた事実だけを書いているかのように、静かに筆を進めていく。
「好みの問題ではない、それが事実なら受け入れるしかないだろう」
 といわんばかりの、突き放した文体だ。諦観が漂っているような文体だともいえる。
 現実は劇的ではない。自分の日常を考えてみてもそれはわかる。生きるということはいってみれば一種の惰性で、であるからこそ、心穏やかに生きていられるともいえる。
 前にも同じことを書いたがもう一度――年齢がばれそうで怖いが、ぼくの周りには戦争にいって、銃をとって戦ったという人たちがたくさんいた。いまもいる。
 その人たちは特別な人間ではい。戦争という悲惨な体験をしたからといってドラマチックな人間になるとは限らない。戦争という究極の暴力行為に参加した人々でさえ、誰でもランボーになるわけではないのだ。実感としてぼくはそう思う。
 おそらく多くの人間は、たとえ刑事になったとしても取調室で自分の悲惨な人生を犯人相手に披瀝したりするとは思えないし、そういった人物像は松本清張さんの好みではないような気がするのである。普通であることを面白いドラマにする。そこに松本清張さんの真骨頂があるように思える。
 今後、何度『砂の器』は映像化されるのか、大変興味がある。ただ、何度映像化されても松竹映画『砂の器』のインパクトは超えられないような気がする。何度も映像化されるルパンⅢが、結局『カリオストロの城』の呪縛から逃れられないのと同じことだ。

※ 女性記者についてはなにもいいません。中谷美紀さんは好きな女優さんですから(笑)。

カテゴリ: テレビドラマ

テーマ: 雑記 - ジャンル: 小説・文学

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Posted on 2011/09/17 Sat. 07:42    TB: 0    CM: 2

時の狩人 

 NHKの『タイムスクープハンター』という番組が大好きである。何が好きか。話し言葉である。登場人物たちが話しているその時代に使われていたであろう日常会話が実にわからなくていいのである(笑)。
 歴史関係の本を読んでいると、たとえば織田信長は尾張の言葉(名古屋弁)で話していたというような記述に出会うことがある。当たり前といえば当たり前の話なのだが、妙に感心してしまう。
 大河ドラマの悪しき影響だ(笑)。戦国時代の武将は全員、いまでいう標準語に近い言葉で話していたような気になるが、絶対にそんなことはなかったはずだ。都にでも行けば違ったのだろうか、普段はおそらく舌が粘るようなお国言葉で会話をしていたのだろう。
 ちょっと脇道にそれるが、以前、日本語は非常に複雑だという話をきいたことがある。複雑というのは文法的にどうこうということではなく、地域差の激し言語で、たとえば青森の方言を話す人が鹿児島の方言を聞けば、それこそ、
「異国の言葉に似て不思議」
 と、『桃色吐息』のような印象を持つのではないか。逆もありうる。これも以前きいたことがあるのだが、例えばヨーロッパの言語の中には、せいぜい東京弁と大阪弁程度の違いしかないものもあるという。
 ヨーロッパ言語の例を前提にいえば、青森の言葉と鹿児島の言葉を日本語というひとくくりで納得させるのは、実はかなり無理があるのではないか。地域によって言葉が通じなくては、近代国家など夢のまた夢だ。だから維新後、大急ぎで標準語という一種の人工語を明治政府はこしらえた。
 井上ひさしさんの『国語元年』だったと思うが、いわゆる標準語を創ろうとした官吏の、抱腹絶倒の、しかし悲しい冒険物語がある。言葉は面白い。『タイムスクープハンター』の面白さも言葉によるところが大きい。ぼくにとってはそうである。
 方言の話ではない。過去の話し言葉だ。とにかく何気に標準語かそれに近い言葉をつかって生活しているぼくには、『タイムスクープハンター』に登場する過去の話し言葉はとても魅力的だ。
 未来人(もしくは現代人)が過去にいくという物語の違和感についてはこれまでにも何度か触れた。この種の話題になると度々使わせていただいているあの『戦国自衛隊』のように(笑)、現代人が過去に行くのではなく、過去の方が現代にやってきたという居心地の悪さがこの手の物語にはつきものだった。
 そういったものは『タイムスクープハンター』には少ないように思う。なぜ少ないのか。そこに言葉の問題があると今回気づかされた。もし、『戦国自衛隊』に登場する侍や農民が、当時の話し言葉で会話し、未来からやってきた自衛隊員と簡単に意思疎通ができないという場面があれば、あるいはリアリティはぐんと増していたかもしれない。
 どんなに頑張ってみても、現実に過去の時間をそのまま再現できるわけがない。ただそこにいかにも当時いたような人々が登場すれば、飛躍的にリアリティが増す。問題は当時ほんとうにいたような人間というのはなにかという点だ。
 最初に言葉ありき――ではないが、結局、人間を形作っているのは言葉なのだろう。だから様々な時代で人々がどんなふうに話していたかは、もしかすると天正年間の山城が実際はどんな形をしていたかということよりも重要かもしれない。
 映像的リアリティというのはなにも過去をそのまま再現することではないと黒澤明が語っていたことを思いだす。どれくらいそれらしく描けるかということなのだという。その点『タイムスクープハンター』は、実にそれらしく描いているように思える。話し言葉を再現しようとすることでリアリティを生み出したのだと思う。
『のろしを上げよ』で登場人物たちが喋っていた言葉。平安時代の日本人は、なるほどあんなふうに日本語を喋っていたのかと感心して番組を観ていた。字幕が出なければわからない日本語だったが、それがよかった。
 ずいぶん前に見た映画だが、『ジパング』という作品で冒頭に登場する甦った古代の王が話す日本語を思い出した。平幹二朗氏だったと思うが、かれが演じた王は、ズーズー弁のような言葉で喋っていた記憶がある。古代日本語はズーズー弁に近かったという説は『砂の器』で広まった(と、ぼくは思っている)有名な話である。
 NHKのある意味で果敢な試みには拍手を送りたい。こういった視聴率が稼げるのかどうかわからないような、一種博奕的な番組は民放ではおそらく作れないだろう。NHKの存在価値がここにある。

カテゴリ: テレビドラマ

テーマ: TV番組 - ジャンル: テレビ・ラジオ

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Posted on 2011/06/17 Fri. 17:21    TB: 0    CM: 2

パクリと才能 

 敵を作りたくないので、悪口はできるだけいわないようにしている。しかし、今回はどうしても一言いいたい。といって大したことではない。人生を左右したり、日本の将来にかかわるようなことでもない。
 テレビドラマである。先日最終回をむかえた『LADY』という美女北川景子主演のドラマだ。ちなみにこのドラマにはもうひとりの美女、木村多江さんも出ていた。いいたいのはふたりの美女のことではない。すぐれた海外ドラマがあり、その安易な日本版に対する、素人の考察だ(笑)。
 このことは以前、上戸彩さんが主演したドラマ『絶対零度』のときにも書いた。面白いドラマがどこかにあるからといって、それを安易に真似るのはどうかと思う。いや、安易かどうかはわからない。しかし、真剣に考えてこの程度であったらもっと悲しいと思うから、やはり安易に考えたのだということにしておく。
 とにかく、面白いドラマがどこかにあるからといって、真似るのは勇気がいる。あるいは本物の才能が必要だ。たとえば黒澤明の「用心棒」はダシール・ハメットの『血の収穫』と『ガラスの鍵』が元ネタになっていた。有名な話だ。
 とある対談のなかで、インタビュアーがそのことに触れたときの黒澤明の態度は立派だった。正直に、
「ほんとうなら許諾をえなければならないほどだ」
 と、いってのけた。しかし、D・ハメットの作品から着想の多くを得ていることを認めてさえ、『用心棒』は傑作だった。つまり究極に近い表現は仮に元ネタがあったにせよ、独立した名作として語り継がれることを証明してみせたわけだ。
 嘘か誠か知らないが、デュマは盗作だといわれたとき、
「お前が書いたからだめだったんだ。おれが書いて傑作になった」
 といったらしい。心意気か開き直りかは微妙だが、まあたいしたものだ。こそこそするから馬鹿にされるのだ。こういうことは姑息にやってはいけない。堂々とやろう(笑)。ただし、他人の作品をもとにあらたに物語を造るのは、ある意味、全く新しい物語を造るよりも才能が必要かもしれない。
 で、美女北川景子主演の『LADY』だ。はっきりいえば、あれはクリミナルマインドのパクリである。特に第一話は本家クリミナルマインド・シーズン5(だったと思う)の重要な部分をちゃっかりいただいていた。お断りはなかったと思う。こういうところがいやなのだ。
 上戸彩の刑事ドラマのときにも感じたことだが、オリジナルを想起させる場面を入れながら、一切そういったことに触れずにやってしまうところが、なんともやりきれない。それでも、本家をしのぐほどの面白さがあれば、まあ許せる。そうでないから、うんざりするのだ。
 上戸彩の『絶対零度』もそうだし今回の『LADY』もそうだ。本家に遠く及ばない。和歌における本歌取りには批判もあるようだが、表現技法として認められている。認められるためには、それなりの技術がいる。はっきりいえば『LADY』にはそれがなかった。少なくともぼくには見えなかった。
 脚本で負け、演出で負け、役者で負けている。物語の厚みがまるで違う。ぼくにはそう思えてならない。

カテゴリ: テレビドラマ

テーマ: テレビドラマ - ジャンル: テレビ・ラジオ

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Posted on 2011/03/28 Mon. 20:47    TB: 0    CM: 0

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