Gitanの趣味

ひたすら趣味の道を走っています(ニヤリ)

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ボールを消すための努力 

 消える魔球は魔送球だった。もちろん『巨人の星』の話だ。基本的にスポ根ものと呼ばれたジャンルの作品は好きではなかった。この種の作品で見ていたのは、唯一『巨人の星』だけである。
 同じ原作者の作品である『あしたのジョー』を入れるかどうか悩ましいところだが、あの作品はやはり除外するべきかもしれない。たしかにスポ根的な側面はあったが、あれはボクシングマンガという独立したジャンルに分類したい。
 消える魔球は『巨人の星』に登場する大リーグボール2号である。思えばこのころ、日本人が大リーグ(メジャーリーグ)で活躍することなど、遠い遠い未来のことか、あるいは夢物語のようなものだったのだ。大リーグボールという命名も、メジャーリーグでも通用する新変化球、というような意味だったと思う。

 ボールを消すのは大変なことである。どのようにボールを消すか、一応説明しておく。このボールは極めて特殊な変化をする。バッターボックスの手前でいったん落ちる。そして再び上昇する。この下降と上昇によって起きる風によって、グラウンドの砂を巻き上げ、その砂煙の中にボールを隠す、というわけだ。
 そして、ここがこの原作者の凄いところだが、これだけではボールは消えないとしたのだ。単に砂煙を巻き上げただけでは、完全にボールを消せない。もうひとつ秘密がある、としたことで、ストーリーに変化が生まれ、劇的要素がもうひとつ加わる、というわけだ。
 そもそもボールの風圧が巻き上げる砂煙にボールが隠れるのかという問題には目を瞑ろう。ボールを消せるほどの砂煙がたてば、消える魔球というよりも爆発魔球といわれるかもしれない。そういえば昔、《原爆直球》という物騒な名前の魔球もあった。
 百歩譲って砂煙にボールを隠せたとしよう。さらにそれを巧妙にやってのけるために、バッターにはボールが消えたとしか見えないということもあるかもしれない。が、カメラはボールの変化をものの見事にとらえるだろう。スロー再生では隠しようもなく、砂煙に隠れるボールを映し出してしまう。
 次々にわき起こる疑問にはいっさい目を瞑って、ボールは消せるということを受け入れよう。事実、ボールをどう消すのかというその方法に重点が置かれ、諸般の事情はまあいいかという気分になれるように作ってある(笑)。そういった点でもこの作品はうまくできていた。

 問題は主人公がこの奇妙な変化球をどこで身につけたかということだ。潜って浮上するという、まるで潜水艦のような軌道を描かせるには、いったいどんな回転をボールに与えればいいのか。
 これも原作者の凄いところだが、このボールの変化の根拠を、魔送球に求めたということだ。魔送球は主人公の父親が生み出した特殊な変化球だ。この父親は投手ではなく三塁手だった。魔送球その名の通り送球である。バッターを打ち取るものではなかった。父親はこの送球を編み出したことで、野球選手を断念したという、曰く因縁まで付加してある。
 ここでまたひとつドラマが生まれる。いまさらいうまでもないことだが『巨人の星』は親子二代にわたる野球との格闘を描いた物語だ。斜に構えて眺めると、野球の魔性に取り憑かれた親子の物語だともいえる。深読みすればこの作品は人間の情念を描いていたのかもしれないという気さえしてくる。
 消える魔球はこの魔送球を縦に変化させることで可能になるのである。好みは別として、この物語はほんとうによくできていた。主人公の今に、過去が重要な意味を持ってくる。すべての要素が密接に絡んでいる。そして、そのすべてがマイナスの方向に働き、主人公を泥沼に引きずり込んでいくという構造になっている。
 この作品が悲劇的な終わりかをするのは納得できる。過剰な情念が主人公と父親を最終的に滅ぼす。するとこれはスポーツを通して栄光をつかむ物語ではなく、なにかに取り憑かれた人間の悲劇の物語ということになる。

 しかし、過去の要素を絶妙に絡めることで、物語に矛盾が生じてもいる。消える魔球のもとになる魔送球だが、その原理は一応説明されていた。原作ではなかったような気がするが、アニメ版では、
「ボールにある特殊な回転を与え、物体に向かって投げると、複雑な空気の流れがおきて、ボールはほぼ直角に変化する」
 と、語られる。
 すると、魔送球はやみくもに変化するわけではなく、前方になにか物がなければいけないということになる。縦に変化させることは不可能だということになる。この種の矛盾は他にも色々とある。明らかな瑕疵と思われる部分もあるが、そういった矛盾や無理を乗り越えて、この作品はやはり名作だったと思う。
 好みの問題は確かにある。しかし、個人的にはこの作品を受け入れることができる。スポ根ものというジャンルは『巨人の星』が、もちろん最初ではない。どころかこの作品はスポ根ものと呼ばれる一連の作品群のなかで、明らかに異質だったような気がする。
 単純にひとりの人間を鍛え上げることを賛美するだけの物語ではなかったと思っている。気合と根性で鍛え抜かれた人間が栄光を掴むという物語の構造を持ちつつも、そこからはみだしていく過剰なものに満ち溢れていたような気がしてならない。
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カテゴリ: 漫画

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Posted on 2009/05/31 Sun. 09:50    TB: 0    CM: 0

闇について一言 

「『ポーの一族』は結局、拷問のお話ね。美しい拷問の物語よ」
 彼女はそんなことをいった。
 ぎょっとした。『ポーの一族』というのはもちろん、萩尾望都のあの作品だろう。それにしても、拷問というのは穏やかではない。あの作品に拷問場面などひとつもなかったはずだ。少年のまま吸血鬼になってしまった者の、いってみれば緩慢な悲劇を描いた物語だった。
「吸血鬼の話だろう」
 ぼくはいった。
「吸血鬼になるということが拷問なのか。つまり神様に背くことになるから――」
「そんなことじゃないわ」
 彼女は穏やかに否定した。
「わからないな」
「永遠に生きることよ。それって拷問でしょう」
「限りある人生にこそ価値があるってか」
「そうじゃない。長生きはするにこしたことがない。でも長生きってことと、永遠を生きるってことはまるでちがう」
 その程度のことはわかっている、そう言おうかと思ったが思いとどまった。彼女は時々、ぼくには理解できなことを真剣に語りはじめることがある。日常生活にはあまり役に立たないようなことといってもいい。そんなとき話の腰を折ろうものなら、半日、長ければ一日くらいは口をきいてくれない。黙って話を聞くしかない。
「永遠は、わたしたちには理解できない。恐竜時代は一億六千万年以上続いたわ。人間の考える永遠って、せいぜいが五千年、よっぽど長くて一万年、そんな程度じゃない? いっているのは実感できる長さのことね。頭で理解するのと、人情が届く範囲はちがう。たとえばこれから数百年生きてエンタープライズ号に乗って銀河を駆け巡ることは楽しいでしょうね。でも、そのあとはどうかしら――この世に永遠に続くものは基本的にない。人類の繁栄が終わった後、たったひとりでこの世に生きていくことは拷問と同じよ。たとえ少数の吸血鬼仲間が生き残ったとしても、数億年のながさに人の精神は耐えられない。エンタープライズ号が飛ぶ未来がほんとうにあるのかどうかもわからない。明日、世界が滅びるかもしれない」
 たしかに彼女のいうとおりだろう。数億年などという時間は、人間の感覚では理解できない。絶対にできない。それとも吸血鬼になった瞬間、永遠を理解できるのだろうか。それこそ、吸血鬼になったことがないのでわからなかった。
 映画『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア』のなかで新参者の吸血鬼ブラッド・ピットがその最初の夜、動く石像を見る。たしか、そんな場面があったはずだ。彼はあの瞬間に永遠を理解したのだろうか。その後の物語の展開を見る限り、彼が永遠を理解したとはとうてい思えなかった。
 ブラッド・ピットの吸血鬼も、彼を吸血鬼にしたトム・クルーズの吸血鬼も、えらく人間臭かった。せいぜいがミュータントだ。特殊な力を持っていても、まったく新しい価値観を持っているわけではなかった。彼らはまぎれもない人間で、とても永遠に対抗できるほどの強靭な精神と、ある種の諦観を持っているようには見えなかった。

 いったい吸血鬼のバリエーションはどれくらいあるのだろう。最近も映画化されたリチャード・マシスンの『地球最後の男』も、ようするに吸血鬼ものにSFの味付けをした作品である。
 S・キングの『呪われた町』は古典的な吸血鬼を現代(といってもすでに前世紀だが)のアメリカによみがえらせた、あるいは呼び寄せた作品だった。そのキングは、リチャード・マシスンの方法論に影響を受けたというようなことをどこかで書いていたような気がする。あるいは記憶違いかもしれない。
 他にもアニメ、ギャグ、パロディと吸血鬼ものは数えていけばとんでもない数になるはずだ。わが日本にも、彼女が美しい拷問の物語だといった『ポーの一族』という名作がある。
 しかし、『ポーの一族』が傑作であるのは、舞台が日本ではないからという気もする。吸血鬼というのは、よほど独創的な脚色を加えない限り、日本では成立させることが難しい題材かもしれない。
 世間に数多ある吸血鬼ものの原点となったブラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』は、いってみればこれ以上はないという純ヨーロッパ製で、こればかりは偉大な東洋が入り込む余地がない。
 キングの『呪われた町』にしても、アメリカに登場する吸血鬼は、なにか違和感がある。ただ文化的に近いこともあり、まったく場違いな感じはない。それでも、あのキングをもってしても、どこか吸血鬼もののパロディのような印象は拭えない。

 それにしても、人はなぜこれほど闇のなかに生きる吸血鬼の物語を好むのだろう。擬似的な恐怖を味わいたいだけでは絶対にないはずだ。永遠に対する恐れと憧れが、新たな吸血鬼の物語を生み続けるのかもしれない。

 ちなみにぼくの好きな吸血鬼ものは、ロマン・ポランスキーの『吸血鬼』だ。

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Posted on 2009/05/07 Thu. 23:19    TB: 0    CM: 0

1960年代から来た狙撃者 

 ゴルゴ13の正体は、もちろん芹沢五郎である。そう固く信じている。だから年齢は六十歳を超えていなければならない。ことによるとすでに七十歳を超えている可能性すらある。いったい、七十歳の狙撃者というのはどんなものだろう。しかし、とにかくゴルゴ13は今も現役で、世界のどこかで仕事を続けている。
 そのゴルゴの名前の由来だが、
「主を裏切って茨の冠をかぶせ、ゴルゴダの丘で十字架にかけた13番目の男」
 と、いうのが一応定説らしい。
 しかし、初期の作品では、西ドイツ使役刑務所(だったと思う)で《ゴルゴダの棺桶》とかいう拷問を受けても平然としていたからその名がつけられたとか、囚人番号が1214であったとか、まあいろいろ理由が付けられている。
 いまうっかり《ゴルゴダの棺桶》を拷問と書いたが、拷問というよりも特殊な独房であるらしい。別の作品――後で書くが――に、確かその形状が出てきたと思う。どうも、非人道の極みのような独房であるらしい。先進国でこんなことが行われていることが公になれば、時の政権も危うくなるかもしれない。もちろん、劇画の中のお話だ。
 考えるにゴルゴ13は人間ではない。おそらくミュータントである。本気でそう思っている。ゆっくりとした年齢の取り方もそうなら、他のあらゆる属性がそれを物語っている。神がかり的な狙撃術は、おそらく念動力で弾丸をコントロールしているのだ。まちがいない。

 ゴルゴ13のルーツに関するエピソードはいくつかある。そういったルーツものではないがまったく別の作品に、ゴルゴと重なる主人公が登場する。江波じょうじに『ザ・テロル』という作品がある。
「広場の思想」という特異な思想(?)を持つ殺し屋が主人公である。もう少し正確にいうと、この思想は貴城謙介なる人物の思想ということになっていたように思う。しかし、主人公の殺し屋とこの男は結局別人ということになったのではなかったか。
 だから「広場の思想」と主人公は、何の関係ないように思うのだが……何分、ずいぶん昔に読んだ作品で、断片的にしか覚えていない。「広場」だろうが「閉所」だろうが、得体のしれない危険思想を殺し屋に重ねたのは、ようするにあの時代の気分のようなものの反映だろうという気もする。まあ、いいか(笑)。
 まちがいがあるかもしれないということを前提に続けると、ザ・テロルはかつて別の顔を持った暗殺者であったということが語られていたように思う。ライフルの持ち方を見て、それを指摘する登場人物がいたはずだ。
 さらにこの殺し屋もゴルゴ13と同じ《ゴルゴダの棺桶》の拷問を受けた経験があるということになっていた。だから作品の中で、どうもこれはゴルゴ13ではないかと思われる人物について語られる部分もあったように記憶している。
 もうひとつ、この殺し屋は特殊な麻薬によって、どこかの組織に縛られていたはずだ。それがどんな麻薬であるかは触れない。倫理規程――個人的な――に触れるので書かない、書きたくない(笑)。だが、とにかく彼は麻薬によって縛られている。後に彼は麻薬の縛りから逃れ、自由を手に入れる。文字通り、広場の男になるわけだ。
 物語のラスト、彼はセスナ機に乗って飛び立っていく。どこに行くのかはわからない。彼のパートナーが語りかける声がそこにかぶる。もちろん、劇画だから台詞が描かれているわけだが、内容はたしか、
「もう一度銃をとるために行くの、それとも捨てるために行くのか」
 と、そんな感じだったと思う。
 繰り返すが、何十年も前の記憶を頼りに書いている。断片的にしか覚えていないし、そもそも人間の記憶は曖昧なものである。自分の都合に合わせて風景を変えていくものだ。誤りがあれば申し訳なく思う。が、これはあくまでも私的な呟きということで御勘弁願いたい。

 ゴルゴ13ことデューク東郷とこの広場の男がどこかで重なる。何の根拠もないのだが、ゴルゴ13とテロルは同一人物ではないかと勝手に思っていた時期がある。もちろんそれは原作が小池一夫(この当時は一雄)さんだったからということもあるだろう。ゴルゴ13の初期には、小池一夫さんが参加していたはずである。
 もちろんゴルゴ13と『ザ・テロル』は別人なのだろう。凄腕の殺し屋という点で共通点はあるが、それを言い出せば、劇画に登場する殺し屋はみな同じようなところがある。凄腕というのは人間離れした殺人技術を持っているということで、悪人、犯罪者というよりも、ほとんど運命的な禍のような存在だ。

『ザ・テロル』のなかで語られる広場の思想がどんなものか、興味のある方はインターネットで探してみてください。検索すると出てくるはずだ。読んでいると、時代を感じさせる。中島みゆきではないが、あんな時代もあったのだ。
 ゴルゴ13のはじまりは1968年ごろだったと思う。『ザ・テロル』に関してはよくわからないが、時期的にそれほど違うとも思えない。初期のゴルゴ13や『ザ・テロル』を読んでいると、あのころが何となくわかる気がする。皆どんな気分で生きていたのか。アナーキーな時代だったのだ。
 この先、ゴルゴ13の正体が明らかになることはないのだろう。どこかへ飛び立った『ザ・テロル』は戻ってこないだろうが、デューク東郷は今も仕事を続けている。ゴルゴ13という作品は時々の時事ネタを取り入れている。
 しかし、どんなに新しい題材を取り上げても、たとえスペースシャトルに乗り込んで宇宙空間で狙撃を行ったとしても、どこかに懐かしい匂いがするのは、結局、デューク東郷が1960年代の生き残りであるからかもしれない。

カテゴリ: 漫画

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Posted on 2009/04/27 Mon. 20:35    TB: 0    CM: 1

銃と弾丸の平和について 

 こんなことを思うのは、人工衛星かはたまたミサイルか、とにかく事故であれ意図的であれ、落ちれば大事故になることはまちがいのない飛翔体を、近くの国が発射すると大騒ぎをしているからだ。
 あくまでも素人考えだが、飛翔体を迎撃するというのは、破壊力に対しては破壊力で対抗するということなのだろうと思っている。わかりやすい構図だ。それが正しいのかどうか、判断は立場によって違うだろう。そういうことが必要な場合もあることは理解している。

 で、考えている「こんなこと」というのは、『ワイルドセブン』だ。かつて少年雑誌に連載された画期的なマンガだ。望月三起也作のこの作品をいまさら説明する必要もないと思うが、主人公は七人の超法規的白バイ警官である。ただし、プロの殺人集団でもある。
 さらにいえば、彼らはただの警察官ではない。とんでもない階級を与えられている。主人公飛葉の階級は《警視長》ではなかったろうか。この上は警視総監と警視監しかない。いくらなんでも元犯罪者である。ここまでの階級を与えていいのかと思えてくる。
 何度も言うが連載されたのは少年雑誌だった。いまは白バイ警官の《警視長》でも、元は犯罪者で殺人者たちが主人公のマンガというのは、いまならとても発表できなかったのではないか。内容も過激だった。加えて、望月三起也のダイナミックでリアリティ満点の描写である。作品として見れば最高に面白い。
 ひとつ強く印象に残っている場面がある。どのエピソードだったか忘れたが主人公が、
「さっさと仕事をすませてうどんを食べるんだ」
 という場面があったような記憶がある。
『灰になるまで』のなかのエピソードだったかもしれない。この場合の仕事というのは殺人である。犯罪者(もちろん血の通った人です)を射殺して、うどんを食べるのだと彼はいっている。
 現実にこんな人間は、多分存在できない。現実にこんな人間がいるとすれば、まともな日常生活は営めないだろう。精神のどこかが壊れている。犯罪に対して実効性のある抑止力を行使することはあるにしても、血が流れたことへの後味の悪さはまちがいなく残ると思う。

 たとえば『ゴルゴ13』は非情という二文字の体現者かもしれない。しかし、非情さの度合いを比べれば、
「いまからお前を射殺して、おれはうどんを食べる」
 と、宣言する方が、はるかに上ではないだろうか。笑いながら人を撃てるという感覚は、一年365日、自分の立場を知って、じっと歯痛をこらえているような顔の国際的テロリストより、はるかに危険な感じがする。当たり前の日常のなかに血の匂いが濃厚に漂っている。日常と非日常が、きわどく共存している。
『ワイルドセブン』はもちろんエンターテイメントだが、つきつけてくる問題はけっこう重いのかもしれない。血と鉄によってしか平和は勝ち取ることはできないのか。凶悪に対抗するには自分たちも凶悪になるしかないのか。力には力でしか対抗できないのか……難しい。

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テーマ: マンガ - ジャンル: アニメ・コミック

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Posted on 2009/04/05 Sun. 09:47    TB: 0    CM: 2

一撃必殺「雷鳴撃ち」 

 というわけで今日は望月三起也さんだ。有名な漫画家で、超がつくほどのサッカー好きだ。聞くところによれば、ボウリングの腕もプロ級らしい。

 それはともかく「雷鳴撃ち」だ。はたしてあれを一撃必殺と呼んでいいものかどうか。はたまた「雷鳴撃ち」そのものが、こういう名前だったのかどうか自信がないが、まあそういうことで……(笑)。
「雷鳴撃ち」というのは『秘密探偵JA』の最終兵器だ。もう少し詳しくいうと、『秘密探偵JA』は、飛鳥次郎という少年秘密情報部員(この設定もよく考えると凄い)が活躍する望月三起也氏の漫画だが、その主人公が駆使する必殺の射撃術の名前が「雷鳴撃ち」なのだ。
 一撃必殺と書いたことに迷いを覚えるのは、この射撃術は三発で十人を倒すという荒業だからだ。一撃必殺どころではない。三撃十殺だ。具体的に言うとそれはどんな射撃方法なのか。これが凄い。激しく体を移動させながら撃つ。ようするに飛んだりはねたりしながら撃つのである。これだけでは画が思い浮かばないかもしれない。たとえばある瞬間、彼は3.3メートルの高さがある天井近くまでジャンプする。さらに空手の三角飛びよろしく壁をけり、彼は宙を舞っている。そしてさらに、彼は床を転がりながら、銃を撃つ。移動するというのは、つまりそういうレベルのことだ。すると、彼の手にある銃から発射された弾丸は、最初の標的を貫通し、さらにその後ろの相手を貫き、そしてまたさらにその後ろにいる相手に着弾する。どうももの凄い射撃術なのだ。
 しかし、どう考えても、狙いがつけにくいであろうこの撃ち方をすれば、三発の弾丸で複数の人間を倒せるのか、ぼくにはわからない。わからないがそれでもかまわない気分にさせるのが、望月三起也氏の力技だ。

 飛鳥次郎の使用している拳銃はコルトウッズマン・クイックドロー・カスタム。我らが赤木圭一郎さんも使い同じく望月三起也氏の『ワイルド7』の飛葉ちゃんも使っていた拳銃だ……いや飛葉ちゃんのはスポーツ4インチではなかったろうか。
 それはともかく、飛鳥次郎のウッズマンはそんじょそこらのウッズマンではない。銃握の部分が特殊ゴムで出来ていて、ぽんと床に投げると、ゴムマリのように大きく跳ねるのである。
 ぼくが『秘密探偵JA』で「雷鳴撃ち」を見たのはただの一度、最終回の時だけだけだった。そのとき飛鳥次郎は飛び跳ねるコルトウッズマンを追って、ジャンプを繰り返し、空中で拳銃をキャッチするやいなや、「雷鳴撃ち」を行う。たしかそんな展開だった。

 ぼくは望月三起也さんが大好きだった。
『秘密探偵JA』には同じく少年探偵スペードワンが登場する。彼はカードを使う。いわゆる殺人トランプだ。
『秘密探偵JA』は少年が殺人を行う物語でもある。その意味では、いまこの時代に、あっけらかんと読むには、多少気が引ける。ただ、それでも望月三起也氏の画力を、ぼくは楽しみたい。現実と物語りは違うと思うからだ。

カテゴリ: 漫画

テーマ: 日記 - ジャンル: アニメ・コミック

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Posted on 2007/05/06 Sun. 22:47    TB: 0    CM: 0

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