Gitanの趣味

ひたすら趣味の道を走っています(ニヤリ)

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影に怯える 

 彼について印象をきかれたとするとたぶんこう答えると思う。
「真面目な男ですよ、ええ、ほんと真面目。見習いたいくらいです。ちょっと変わったところはあるけれど、よくいえば天才肌ですね。悪くいうと? そんなこといえませんよ――どうしてもききたい、こまったなあ」
 たぶん、ぼくはここで苦笑いを浮かべると思う。でも結局はこう答える。
「変人ですね。中途半端なガリレオね。ガリレオ・ガリレイじゃない、ドラマのほらあったでしょう、浮世離れした物理学者が事件を解決するやつ。あそこまで賢くない。もちろん、あれはドラマですけどね、でもまあ、賢さは彼の十分の一くらいかな――とにかく変人です」
 と、まあこんな感じになるのではないだろうか。もちろん現実にこんなやり取りはしない。想像の中である状況を思い浮かべ、ドラマ風に仕立ててみただけのことだ。
 彼が真面目な男であるという一点は、彼が変人であるという事実と同じく、間違いのないことである。難しことを知っているくせに簡単なことがわからない。本当の話だ。いまは統計学に凝っていて、その関連のややこしい話ならいくらでもできるくせに、郵便局で、
「切符をください」
 と、やってしまった。局員も洒落のわかる人物で、
「切符なら駅の方でお求めください」
 と、返したらしい。
 これはその彼からきかされた話だ。
 彼は結婚している。子どもはいない。ずっと愛妻家だと思っていた。事実愛妻家なのだが、このあたりが男のばかなところで、別の女性のことを気にかけはじめた。職場の女性で、人妻である。仕事のことで話をしているうちに、もしかすると彼女はぼくに興味があるのではないかとそんな気になってきたというのである。
 このあたりのことは、しかし、あまりあてにならない。彼は非常に聡明な男だが、人の気持ちを理解することがひどく苦手なのだ。好かれていると彼は思っていても、他人から見れば別にどうということもない世間話をしているだけということもありうる。おそらくそうではないかとぼくは考えているが、二人が話している現場を見たわけではないので何ともいえない。
 とにかく、彼は相手に好かれていると思っている。勘違いだろうがとにかく彼はそう考えていた。
 人間好かれていると思うと、悪い気はしないものである。なんとなく相手のことが気になりはじめ、気がつくとしょっちゅう相手のことを考えるようになっていた。
 彼女は美人というわけではなかったが、独自の魅力のある女性だということだった。残念ながらぼくは彼女を見たことはないので何ともいえないが、彼にとってたいそう魅力的な女性なのだろう。
 彼は独自の想像力を持っている。相手の心を思いやることや相手の考えていることを想像するといったことは苦手だが、自己完結的な想像力については驚異的なものを持っていた。自分自身を主人公にした物語を考えるとき、彼の想像力は恐ろしいほど緻密に、そして鮮明に動きはじめる。この場合の物語とはなにも世間一般でいうところのドラマではない。彼にとっては――今凝っている統計学も立派なドラマなのだ。
 とにかく彼の想像力は並外れていて、どうかすると現実の方が色あせて見えるほどだった。彼女との深まっていく関係を想像すると、彼にとってそれは想像の域をあっさりと越えてしまい、あたかも未来の記憶であるかのような、定められた将来の出来事を思い出しているような、なんとも不可解な錯覚に彼を追い込んでいくのだった。
 妻はなにも気づいていないと彼は考えていた。
 そのあたりが彼のわからないところである。彼は自分が人の表情から思いを察したり、相手の立場からその思いを想像することが苦手であると知っていた。しかし、知っているからその点は注意しないといけない――といかないところが彼のような人間の厄介なところである。わかっているというのなら、彼はたぶんぼくよりも多くのことがわかっているはずだ。が、わかっているというこということと現実にそれができるということの間には、大きな隔たりがあるのもまた事実だった。
 妻はなにも気づいていないと彼は信じて疑わなかった。
 彼のなかで彼女への思いが日々強くなっていった。そんなある日、妻が実家に帰ることになった。彼の精神的な浮気に気づき、怒った彼女が実家に戻るということではなかった。実家に親戚たちが集まる用事があり、どうしてもそれに顔を出さなければならなくなったのだ。
 妻の帰郷は一週間ほどだった。その間、彼はひとりで過ごすことになった。ひとりになったからといって彼女との関係が特別なものになることは金輪際ないとわかっていた。それでも度々心に浮かんでくる不埒な妄想を彼は抑えようとしなかった。
 それが起きたのは、妻が帰ってから五日目の朝だった。
 その日、仕事は休みだった。その前の晩、彼は遅くまで起きていた。何かに没頭しはじめると時間を忘れてしまう癖があった。そのことではよく妻に注意されていた。
 だから、その休日の朝、彼の目覚めはいつもより三十分ほど遅かった。しかもすぐにおきなかった。冬で寒いこともあり、目を覚ましたが蒲団の中でぐずぐずしていた。目を覚ましてから二十分ほど過ぎて、彼はようやく蒲団から出ようと思った。その時だった。
「ねえ」
 間近で声がきこえた。それはいつも妻が寝ているあたりから、はっきりと聞こえた。彼は弾かれたように飛び起きて隣を見た。いつもならそこに妻が寝ている。そのときは誰もいない。空耳だったのか。しかしそう考えようとしても、聴いた声はあまりにも生々しく、とても錯覚とは思えなかった。聴いた声はたしかに妻のものだった。
 別に怖くはなかったよ。後でこの話をきたとき、彼はそう言っていた。が、その直後に起きたことは彼を少しだけ驚かせた。
 声を聴いたと思ってから、時間にして十数秒、あるいは最も短かったかもしれない。メールの着信音が、たったひとりの寝室に響いた。もちろん大きな音ではないが、それでもその電子音が、背中に突き刺さってくるように彼には感じられたという。
 メールは妻からのものだった。実は見る前に、妻からメールが届くとわかっていたような気がすると彼はいっている。
『大丈夫?』
 メールの文面はそれだけだった。
 どうして妻がそんなメールを送ってきたのかわからない。彼は少し考えて、返事を送った。
『大丈夫だよ』
 そこまで入力して彼は考えた。その一文を入れるかどうか迷ったのだという。少し考えて、彼はその一文をやはり入れることにした。結果、彼の返信の文面は、
『大丈夫だよ、ぼくはここにいる』
 と、いうことになった。
 それから二日後、妻は帰ってきた。何事もなかったかのようにそれ以前の暮らしに戻った。メールのことを妻は一切口にしたなかった。だから彼も触れなかった。どうしてあんなメールを妻が送ってきたのか、彼には理解できなかった。しかし、メールが届く前に彼は妻の声を聴き(彼は絶対に聴いたと主張して譲らない)、その直後にメールが届いたという、彼にとっての現実が、彼のなかにある何かを少しだけ変えたのはどうやら事実らしい。妻以外の女性に対する不埒な思いが、彼のなかから完全ではないが、薄らいだことはまちがいなかった。
 彼が思っている以上に妻は勘がよく、その勘はもしかする超能力の域にまで達しているのかもしれない。彼は見たままの現実を信じる男で、基本的に見えないものは信じない、あるいは信じられないタイプである。
 しかし、声とメールの一件以来、少し考え方が変わったようだ。いろいろと彼なりに考えたらしい。
 いま彼は自分のなかにある不埒な思いを懸命に抑え込もうとしている。うっかり想像力の暴走に身を委ねれば、そういった事実があるないに関わらず、災いが我が身に降りかかるような不安を抱えているらしい。彼の妻は大人しい女性だが、その大人しさの影にある、恐ろしいものを見たと彼は考えているようだ。もちろん、悪いのは彼だ。
 彼は妻の影に怯えている。
 もっとも男という生き物は、そのくらいでちょうどいいのかもしれない。
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カテゴリ: 日記

テーマ: 雑記 - ジャンル: 小説・文学

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Posted on 2012/01/31 Tue. 13:28    TB: 0    CM: 2

大晦日 

 いよいよ、今年も終わりである。この時期になると思いだす曲がある。『大晦日』という曲で、作詞は岡本おさみ、作曲は吉田拓郎、そして歌ったのは桜井久美さんだった。ちなみにこの方は《くみ》と読むのではなく《ひさみ》と読むらしい。
 この人が歌った曲でぼくがよく知っているのは『おはよう』という曲だが、肝心の『大晦日』という曲は、昔ラジオのCMで聴いて、それ以来年の瀬になると気になるのだが、いまだにちゃんと聞いたことがない。古い昔にCMで聴いただけの曲を好きだというのも変だが、とにかく好きである。
 では、絶対に聴くことができないかというとそうでもない。youtbeで昔『風になりたい』を歌った川村ゆう子さんが『上を向いて歩こう』と『大晦日』を歌っているから聴くことはできる。だが、こちらの方は歌詞がよく聞き取れない。そのことがとても残念なのだ。岡本おさみさんの詞はじっくりとききたい。
 それに、川村ゆう子さんはとても好きな歌手だが、ぼくが聴きたいのは、あくまでも桜井久美さんの『大晦日』であるという点も重要だ。
 とにかく今年も一年が終わる。日本にとって厳しい年だった。いや、過去形でいってはいけない。厳しさはいまも続いている。過酷といってもいい状況に、今も多くの人々がおかれ、苦痛のなかで、古い年を送りだし、新しい年を迎え入れようとしている。人の思いには関わりなく時は過ぎていく。残酷なものだと思う。
 ずっと前にFMラジオで一種の歌謡ドラマのよな番組があった。新しく発売されたアルバムを取り上げ、そこにおさめられている曲をモチーフにした物語を女性DJが語るという趣向で、厳密にいえば歌謡ドラマではないのかもしれないが、他に言いようがないからそういうことにしておく。とにかくいかにもFM(当時の)らしい番組だった。
 余談だが、その番組で長谷川きよしさんのアルバム『After Glow』が取り上げられたことがあった。
「二人は星を持たない男と女だった」
 という語りと共に短い物語が語られ、その時流れた曲があの名曲『一言』である。印象的なピアノのイントロに続き――「心配しているなんて、あなたらしくもないわ」と歌われるあの曲は掛け値なしの名曲だと、今もかたく信じている。
 それはさておき、その番組のなかで大晦日についてこんなセリフが出てくる――と、ぼくは記憶しているが、あるいは間違っているかもしれない。
 新しい年がくるといっても今日が明日になるだけのこと。
 確かにそうなのだ。新しい年を迎える。しかし、夜が来て朝が来る。ただそれだけのこと――といってしまえばその通りである。
 世間には大晦日も元旦も無関係で働き続けている人々が少なからずいる。知り合いにも12月30日まで働き、31日だけかろうじて休み、1月1日から5日まで働くという人がいる。ほんとうにご苦労様である。世界は天才によって支えられているのではなく、そういった地味に、しかもたゆまず働き続けている人々に支えられているのだとあらためて思ったりする。我が身を振り返ると実に忸怩たる思いにかられたりもする。
 とにかく、大変な年が終わる。
 来年がどんな年になるのかわからないが、
「我々にとって良い年でありますように」
 そう祈らずにいられない。

カテゴリ: 日記

テーマ: 日記 - ジャンル: 日記

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Posted on 2011/12/30 Fri. 22:47    TB: 0    CM: 2

カレーをめぐる冒険 

 食べ物のことは取り上げないといいつつ、またも食べ物の話題である(笑)。節操がないと謗られそうだが、なんとなく頭に浮かんだもので、書いてみることにする。
 まず、我が家のカレーの作り方から――。
 用意するのは、インスタントのカレールウ(あのチョコレートみたいなやつ、メーカーは問わない)、玉ねぎ、生姜、にんにく、鶏肉、トマトの水煮缶、ヨーグルト、ガラムマサラ、そのくらいである。
 まず大量の油で玉ねぎと生姜とにんにくを炒める。ものの本にはよく、玉ねぎは茶色く小さくなるまでじっくり時間をかけて炒めると書いてあるが、特に時間をかけなくても行けるという感じはする。柔らかくなる程度でもぼく的には十分美味しくできると思うが、このあたりは好みでどうぞ――という感じである。
 とにかく玉ねぎと生姜とにんにくを大量の油で炒め、そこにカレールウを砕いて入れて一緒に炒める。そして、水煮のトマトを加える。さらにヨーグルトを加える。最後に鶏肉を入れて、水を加え煮込む。出来上がるちょっと前にガラムマサラを加えれば、一応、インド風のカレーが出来上がるというわけである。一晩じっくり煮込む必要性は、この場合ない。それから塩は多めに加えた方がいいと思う。
 かなり前になるが、とあるドラマで今は亡き谷啓さんがカレー屋さんのご主人を演じていたことがある。そのときカレーの作り方について、
「カレー作りのコツは塩を多めに入れることだ。塩は入れすぎると後で薄めることができないので、ついつい臆病になるが、勇気をもって大目に入れると美味しいカレーができるんだ」
 と、話していた。ドラマは若い二人の恋愛模様と料理を絡ませたものだった。だからカレーだけではなくイタリア料理や他の料理も登場していた。タイトルが思い出せないのだが、若いころの麻生祐未さんが出ていたはずだ。
 普通のカレールウを使ったインド風カレーの作り方は、インド料理店のコックさん(インド人です)から教えてもらった。もちろん、味は曖昧なものだし、好みもあるから、万人受けするとはいわないが、ぼくは好きである。
 余談だが香辛料というやつは種類が増えるほどにマイルドになるらしい。鋭い香辛料の味わいがほしいのなら香辛料の種類を少なくするといいのだという。インドの一般的なチキンカレーに使われている香辛料は、クミン、コリアンダー、カイエイペッパー、フェネグリーク、胡椒、ターメリックくらいだと読んだことがある。もっと少ない香辛料で作るレシピも目にしたことがある。一度、香辛料を買い揃えて作ってみたが、たしかにそれっぽい味になった。

 本場インドにはカレーという料理はないなどと野暮なことはいわない。厳密にいえばそれは正しいのだろうが、ここは一応カレーということで統一する。
 意外にもインドで暮らすインドの人たちの中にも、日本のカレーが美味しいといった方がいるそうである。日本のカレーを美味しいといってくれたインド人家族の親戚がアメリカで暮らしていて、日本のカレールウを送ってもらったのだそうだ。食べてみて病みつきになり、ずっと送ってもらっているということだった。
 いったい日本のカレーを食べているインド人がインドにどれくらいいるのかわからないが、とにかくそういった人たちがいるということはまことに心強い。超がつくほどの少数派だろうが、とにかくカレーの本場であるインドの人のなかに、その味を認めてくれる人がいるのである。別にカレールウ製造元の株を持っているわけではないが、これだって十分日本人の誇りではないか。うれしくないわけがない。
 そのインドへは、若いころにいったことがある。仕事ではなく私的な用事、ようするにカレー、というかインド料理を食べに行った。いや、そればかりが目的ではなかったが、本場のインドカレーを現地で食べるという目的が大きなウエイトを占めていたのは否定できない。
 結論からいうと三日で音を上げた。
 まず、油である。あの大量の油を使った料理を食べ続けるということは、日本人のぼくには相当きつかった。さらに強烈な香辛料の味付け、たまに食べるなら、
「ああ、なんて美味しいんだ」
 と、いうことになるが、毎日食べるとなるとあれほどきついとは、それこそ夢にも思わなかった。味噌、醤油といった大豆発酵食品のうまみを基本にした料理の体系をもつ日本料理と香辛料を基本とした体系を持つ彼の地の料理は、まるで違うものだと身に染みて――いや、胃袋にしみて理解した。もちろん、ヨーグルトという発酵食品を使う場合もあるし、南インドの方に行けばカツオの内臓を発酵させたもの――酒盗のようなものを隠し味で使う場合もあるときいたが、基本的に発酵食品が味の基本になっている料理ではないのだ。
 香辛料の強烈さや素晴らしい香りはあっても、ぼくのDNAに刻みつけられた、ある種の深みのようなものはやはりない。断っておくが深み云々はあくまでもものの喩で、インド料理の底が浅いなどとは間違ってもいっていない。長い年月をかけて作り上げられたインドの料理はまことに奥が深く、精妙な香辛料のブレンドは日本人の及ぶところではない。
 人間、やはり食べなれたものが一番おいしいという当たり前のことを、ぼくは回りくどくいっているだけのことである。

 カレーを印象的に使った小説がある。
『ブロードウエイの戦車』という作品である。矢作俊彦、司城志朗両氏の共著になる作品で、引退寸前の傭兵の一種の復讐劇とでもいえばいいのだろうか。
 主人公のブルドックのような頬を持った傭兵の隊長――ブッラクエースのジョーこと、ジョウ・ラミレル・モルテスは戦いに赴く前にカレーライスを食べる。インド人の傭兵仲間に日本風のカレーを作らせるのである。ジョーはもちろん、日本人なのだ。
 この作品には名場面がいくつも登場するが、カレーの場面がとても好きである。

 最後に、名古屋に《幸》――ゆきと読む――というカレー屋さんがある。あの世界のイチローが卒業した名電高校の近くにあるカレー屋だが、ここのカレーは美味しい。もし名古屋に行くことがあれば、立ち寄ってみることをお勧めします。

カテゴリ: 日記

テーマ: 料理 - ジャンル: 趣味・実用

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Posted on 2011/11/12 Sat. 08:53    TB: 0    CM: 0

秋の味覚――ラ・ペッシュのモンブラン 

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 味について語ることは虚しい努力だという気がするのでこれまで食に関することは可能な限り書かなかった。が、今回だけは特別である。
 写真は奈良県吉野郡にある《ラ・ペッシュ》のモンブランだ。あまりにもおいしかったので禁を破ってついに食べ物について書くことにした(笑)。

「味というのは曖昧なものだ」
 と、いう言葉が出てくるのは小池・小島コンビの傑作『首切り朝』である。首切り役人としても有名な山田朝右衛門を主人公にした物語だった。ぼくたちがよく目にするのは山田浅右衛門という表記だが、「浅」の一字を「朝」に変えた人も実際にいたそうである。山田浅右衛門というのは歌舞伎の名跡のようなもので、代々引き継がれていくものだったらしい。このあたりのことはネットでいくらでも拾える情報だからくだくだ書かないが、とにかくこの劇画は、時代劇というジャンルのある究極を描いたようなところがあった。
 どこが究極なのか――極端なことをいえば時代劇は斬る者と斬られる者のドラマである。浪人とやくざ者が斬りあうのもそうなら、渡世人対渡世人、剣豪対剣豪も、煎じ詰めれば斬る者と斬られる者だ。あの『忠臣蔵』でも黒澤時代劇でも斬る者と斬られる者のドラマのバリエーションだといえる。だから、《首切りに役人=斬る側》と《罪人=斬られる側》を描いたこのドラマを時代劇の一種の究極だと感じたわけである。
 で、『首切り朝』のなかのひとつに味を題材にしたストーリーがあった。
 名前をはっきりと覚えていないのだが、《頭巾かぶり》だったか、そんな名前の料理が出てくる。絵で見るかぎり納豆のような食べ物だった。その味が美味いか不味いかで口論となり、殺人事件が起きる。犯人は斬首の刑になる。
 斬首の刑が決まったあと、犯人は役人に喧嘩の原因となった食べ物が美味いのか不味いのか確かめてくれというのである。
 役人は困ってしまう。実際に食べてみても美味いといえば美味いし、不味いといえば不味い。困った役人は山田朝右衛門に相談に行く。そこで出てくるのが、
「味というのは曖昧なものであろう」
 と、いう一言である。これは目から鱗だった。味の本質をついていると思う。味は千差万別である。ようするに口にあうかあわないかという一点につきる。
 もっともそれをいいだせば、創作物(料理も含めて)はすべて、最後の最後は好きか嫌いかである。だからこのブログで映画や文学、マンガ、音楽等々について語ることは虚しい努力かもしくは自己満足ということなのだが、それでもそういったジャンルは料理に比べれば、その美味しさ(面白さ)を表現しやすいように思う。

 味はほんとうに曖昧で語ることが難しい。「まったり」として「こく」があったり、「えもいわれぬ舌触り」だったりしても、それは実に個人的なことで他人も同じように味わってくれるとは限らない。
 しかし、今回はあえていいます。
 写真のモンブランはものすごく美味しい。本当においしい。味は曖昧なものかもしれないが、このモンブランにかんしていえばまちがいなく美味である(笑)。
 ものを書く人間は筆舌に尽くしがたいことを、筆舌を尽くして書くべきだといったのは開高健さんだったと思うが、それはプロに対していったことで当方はアマチュアだから、あっさりと白旗を上げる。ただ美味しいとしかいえないものがこの世の中には確かに存在するのだ。
 もし、奈良県に行く機会があれば立ち寄ってみることをお勧めします。モンブランは期間限定です。

カテゴリ: 日記

テーマ: 日記 - ジャンル: 日記

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Posted on 2011/10/03 Mon. 21:26    TB: 0    CM: 0

声の劇場 

 密かな趣味は一人称で書かれた小説を読むことです(笑)――と、冗談のように書いてみたが、これは本当の話しである。一人称で書かれた小説が好きか嫌いか、好みの別れるところだという気もするが、ぼくは大好きである。
 なんでも昨今の懸賞小説の応募作品は一人称の作品が増えているそうだが、なんとなくわかる気がする。作家の室井佑月さんが以前テレビで小説を書くことについて、
「ようするに嘘の日記を書けばいいんだと思った」
 と、いうようなことを仰っていた。なるほどと思わず膝をたたいた。室井さんの、それが小説作法なのかと感心した覚えがある。ぼくなどはとてもそういった発想ができない。やはり作家にでもなろうかという人は違うものだと思ったことを覚えている。
 この話をもう少し詳しく書くと、室井さんがサービス業で働いておられたころ、お客さんに対して嘘ばかりついていたということだった。架空の身の上話を語って聞かせていたらしい。ならばいっそ、嘘の日記を書いてやれと思って小説を書きはじめたのだいう。作家のいうことだからどこまで本当なのかわからないが、確かにそういう部分はあったのかもしれない。
 一人称の小説というのは、ようするに嘘の日記、もしくは偽りの体験として書けるようなところがあり、その意味では自分を強く投影できる表現形式のように思える。架空の体験を綴るということは、どこか過去の体験を綴ることと似ているような気がするのだ。過去と未来は、いってみれば個人の頭の中にあるという点で、似ているような気がするときがある。
 自身の体験がはたしどこまで信用できるのか、自分では絶対にそうだと思っていても客観的事実はまた別のところにある可能性がある。思い違いも勘違いも、常に影のようにぼくたちに付きまとっている。
 ――と、考えれば、架空の体験もいってみれば自分の体験である。一人称で書くということが、過去であれ未来であれ、自分の体験を綴ることならば、書きやすいと感じることがあってもいいような気がする。もっともこのあたりはぼくの勝手な想像で、実作者の方に、
「そんな簡単なものじゃないよ!」
 と、お叱りを受けるかもしれない――が、お叱りを覚悟で続ける。一人称で書くということは、省略がふんだんに使える。そのことも、違和感のない日本語になりやすく、わりと書きやすい印象につながるのかもしれない。
 たとえばこのブログは、当たり前だが一人称で書いている。《ぼく》という主語はできるだけ使わないように心掛けている。これが日本語の凄いところで、主語(日本語にそんなものがあるかないかという議論は別にして)を削っても、行為者が誰かは明々白々であり、そこそこ意味の通った文章になる。主語を削れば日本語はぐんとよくなると井上ひさしさんも書いておられたことだし、この説はそう間違っていないと思っている。ぼくが主張しているのではなく、知の巨人井上ひさしさんが書いておられるのだ(笑)。絶対にまちがいない。
 主語を省略した、つまりぎくしゃくした日本語にならずにすむ点も書きやすさに通じるのだろう(正確にいえば、書きやすそうに見える)。
 こんな理屈はともかく一人称で書かれた作品は好きである。何でもかんでもいいというわけではないが、好きな作品が多い。いつかもこのブログで取り上げたジェイムス・フレイの『こなごなに壊れて』も一人称で書かれた作品だったし、大岡昇平の『野火』も一人称で書かれた作品だった。『不夜城』も《おれ》という一人称で書かれた作品だった。
 しかし、大岡作品やそのほかの優れた一人称作品を読んでいると、書きやすいと思うのは実はとんでもない幻想ではないかと思えてくる。確かに書きやすそうに見えるのかもしれないが、その実、これはそうとう厄介な表現形式ではないかという気もする。

 よくいわれることだが一人称という形式は感情表現に向いているし、物語の軸がぶれにくいという利点がある。が、その反面物語を多くの視点から語ることができない。また主人公の知らないことは基本書けないという制約もある。けっこう縛りの多い表現形式なのだ。
 しかし、ある種の不自由さはあってもその不利を補ってあまりあるほどの美質もあるようにぼくには思える。このあたりは個人の好みと関係している部分でもあり、あの自己陶酔のような独白調がたまらなく嫌だと感じる人がいても少しもかまわない。
 いまさら言うまでもないことだが、ある人物の視点を通して語られる物語というのは、ぼくたちが世界を認識する方法とおなじだ。だから、優れた一人称の小説を読んでいると、あたかもそれが作者の世界観と共通しているのではないかと強く思えるときがある。
 それは三人称で書かれた小説でもそうなのだろうが、しかし、一人称のすぐれた作品は全く架空の世界――未来とか宇宙とか超能力者とか――を描いてさえ、ある種の私小説を読んでいるような気持ちになることがある。
 一人称で書かれた物語は、物語がわき道にそれにくく、豊かな感情表現が可能である。だとすると、それは主人公の主観に満ちた世界、主観しかない世界だともいえる。つまり独断と偏見の世界である。したがって、きわめて不愉快な思いをさせられる場合も当然ある。
 しかし、たかが小説である。たとえば現実の政治を動かす人間が独断と偏見で動かれてはたまらないが、小説の登場人物が、偏向した世界観を持っていても少しもかまわない。むしろ極端に歪んだ考えかたを持った主人公が赤裸々に内面を語れば、自分のなかにもある差別や偏見、はたまた破壊衝動など、あまり見つめたくない自分に気づかされることもあり、それはそれで十分意味のあることだと思える。
 一人称という表現形式は語りのようなものだと思うことがある。誰かが話す、誰かの物語に耳を傾けるなら、語りが巧みであるにこしたことはない。印刷された、あるいはデジタル処理された言葉のなかからでも、その人の肉声が聞こえてくるような作品に出合えればとても幸運だと思っている。

※ タイトルに使わせていただいた『声の劇場』は、たしか山田太一さんの『路上のボールペン』のなかにあった言葉だと記憶しています。間違っていたらすみません。

カテゴリ: 日記

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Posted on 2011/08/08 Mon. 21:07    TB: 0    CM: 0

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