Gitanの趣味

ひたすら趣味の道を走っています(ニヤリ)

03« 1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.»05
 

スポンサーサイト 

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

カテゴリ: スポンサー広告

[edit]

Posted on --/--/-- --. --:--    TB: --    CM: --

円月殺法の美学 

「冥途の土産に円月殺法、御覧にいれよう」
 と、いうのはもちろんあの眠狂四郎の決め台詞である。秘剣だとかなんとか殺法というのは時代劇関係のドラマや小説にはよく登場するが、やはり群を抜いているのは円月殺法だと個人的には考えている。とはいえ、この剣の技は冷静に考えてみると、効果のほどは相当怪しい。ようするに下段に構えてそこからゆっくりと切っ先で円を描いて行くというわけだが、これでどうして人が斬れるのか。
 もちろん、小説的現実の中ではその原理は細かく説明されている。ようするにこの剣術は一種の催眠術――いや、完全な催眠術で、名刀夢想正宗が描く円によって、相手の意識を拡散させ、吸い寄せるようにして斬る、ということらしい。
 眠狂四郎はこの秘剣を自分自身で会得したということになっている。自分の出生の秘密を探るために訪れた長崎(だったと思うが)からの帰路、嵐に遭遇して瀬戸内海の孤島に漂着、そこにいた一刀流の流れを汲む老剣客から剣術を習っていた際に、編み出した――そんな話だったと記憶している。何分読んだのが中学生時分のことで記憶を頼りに書いていて、細部についてはあるいは間違っているかもしれない。細部どころか、全体に大きくまちがっているかもしれない。
 とにかく狂四郎はそのとき小舟の上にいたはずである。剣の師匠から極意に関するなにか宿題のようなものを出されていたのではなかっただろうか。それを考えながら、船の上に寝そべり太陽を見ていた。そこに師匠が現れて、いきなり立会いということになる。ところがである。太陽を見つめていた狂四郎の瞳孔は窄まっていて、師匠の姿は見えない。が、師匠の乗っている船は見えた。そこで狂四郎は師匠がいそうなあたりを確かめるために切っ先で円を描き、えい! やあ! と、斬りかかった。で、師匠はこの必殺の一撃を受け止め、
「できたな」
 と、言うわけである。確か小説では鳥居の型で受け止めたとなっていたような気がするが、これはまちがいかもしれない。何度も断るあたり自信のなさのあらわれだが、本当にこうだったかどうかはかなり怪しいが、ぼくの記憶のなかでは、円月殺法誕生にはこういう経緯があったことになっている。
 どうしてこの結果が、催眠剣法である円月殺法につながるのかわからないが、もっともらしく描かれていれば何でもありだ。
 円月殺法の原理については、何でもありということで脇に置いておくとして、この作品はぼくにとって常に映像とセットになっている。正直、原作と映画の間にはやや開きがあるように思える。原作の方が、どういえばいいのか――からっとした印象があるようにも思う。言いかえると映画の方が毒々しい印象が強いのだ。
 そして、映画といえば絶対に市川雷蔵演じる眠狂四郎である。もちろん、ほかにも演じた人がいるが、やはり眠狂四郎は市川雷蔵意外にいないと思っている。西洋人との混血の剣士という設定なら、市川さんは純日本風の方で、原作とはちがうのかなと思いつつも、もうこの人以外の眠狂四郎はこの世に存在しないという印象さえぼくにはある。
 勝新太郎さんが、眠狂四郎を演じるとき、市川雷蔵の顔の相が変わるというようなことを発言していたらしい。どう変わるかと言えば、鼻の下が少し伸びる。それはつまり死相なのだという。ほんとうにそうなのかどうか知らないが、たしかに眠狂四郎というのは、名前からして不吉で、そういう演技をあの市川雷蔵ならしたのかもしれないと思ったりもする。
 市川雷蔵主演の眠狂四郎は12本ほどあるようだが、ほぼ全作観たような気もする。好きな作品は『勝負』と『魔性の肌』あたりだ。このふたつは、円月殺法の表現方法が違っていた。『勝負』のときはただ刀をまわしていただけだったが、『魔性の肌』ではストロボ撮影を駆使し、円月殺法の眩惑的な雰囲気を巧みに演出していた。円月殺法をストロボ撮影で行うようになったのは、第四作の『女妖剣』からだったらしいが、ぼくが最初に見たのは『魔性の肌』で、印象に残っているのはそのあたりのことも関係しているのかもしれない。
 やりようによっては、いくらでも深く描くことのできる作品だと思うが、なかにはちゃちな感じのするものもたしかにあった。ある作品のなかでキリスト教の宣教師を棄教させるために、女性をあてがうという場面があった。宣教師は己の肉欲に負けて女性と関係を持ち、その宣教師の首を狂四郎が馬上から撥ねる。なんともむちゃくちゃな話で、あれは観ていて凄く嫌な気がした。ぼくは別にクリスチャンではないが、遠藤周作の『沈黙』と自分のなかでどうしても比較してしまうのである。万里の波頭を越えて、キリスト教が禁止されている日本に布教にやってくるような宣教師が、こんなことで己が信ずる神を捨てるだろうか。誠にキリスト教に対して失礼なことをしていると感じた。何も宣教師が全員聖人君子だなどと言っているのではない。しかし、棄教という宣教師の人生に関わる問題を描くにあたり、その表現が安っぽかったことに憤っているだけだ。市川雷蔵さんの存在感――いかなる場合にも凛としたあの立ち居振る舞い――が安っぽい表現をずいぶん救っていたように思う。
 眠狂四郎は一歩間違えればエロ映画――最近の一般映画の方がよほどこの点は凄いが――になりかねないものもあったように思うが、市川雷蔵さんの品の良さが作品全体の格を上げていたように思えるのである。
スポンサーサイト

カテゴリ: 時代劇

テーマ: 映画感想 - ジャンル: 映画

[edit]

Posted on 2012/02/24 Fri. 17:38    TB: 0    CM: 1

リアルと追跡 

 映画『勇気ある追跡』の中でジョン・ウェインは馬にのり、手綱を口にくわえ、右手にライフル左手に拳銃という離れ業で、一直線に敵に向かっていった。あの四対一の戦いに今の感覚で言うところのリアリティはなかったと思う。が、それでも映画的迫力に満ちていた。颯爽としたジョン・ウェインがそこにいた。いろいろと物議をかもす発言もあったが、ぼくはジョン・ウェインが好きだった。今も好きである。
『トゥルー・グリット』と名を変えた『勇気ある追跡』は、実際にあの時代がそうであったかのような画面の中で、実際にあの時代を生きていたようなならず者たち(犯罪者も保安官も)が戦いを繰り広げていた。しかし、颯爽としたジョン・ウェインの入り込む余地はそこにはなかったように思う。今は西部劇といえども絵空事は描きにくい時代になったのだろう。ジョン・ウェインが演じたルースター・コグバーンは酔いどれの中年男というわりには、いま思い返してみるとずいぶんまともに見えた。少なくとも風呂には――毎日ではないにしても週に一回くらいは、入っていそうな初老の男だった。今回、ジェフ・ブリッジスが演じたルースター・コグバーンは、ただただ薄汚く、ろくに風呂にも入らず歯も磨かない、匂ってきそうなどうしようもない酔いどれおやじだった。どちらがよりリアルか、比べるまでもない。
 映画は大好きなコーエン兄弟の作品ということもあり、しっかり楽しむことができた。
 ついでのことに原作も読んでみた。恥ずかしながらウェスタン小説にはこれまでとんと縁がなくずいぶん昔にジャック・シェーファーの『シェーン』を読んだきりだった。そもそも日本にはウェスタン小説というジャンルそのものがあまり入ってきていない印象がある。あくまでもぼくの個人的な印象で、
「いや、そんなことはない、けっこう入ってきている」
 と、いわれれば、反論のしようもないが、とにかくウェスタン小説はあまり入ってきていないということで、話をすすめることにする。
 ウェスタン小説の輸入は少ない。これを事実としても、事情はわからないでもない。たとえば時代劇小説だ。名作傑作数多あるが、日本という国の過去を描いているという点で万人受けするとはさすがに思えない。時代劇と西部劇、どちらがより広く世界に認知されているかとなると、やはりアメリカというスーパーパワーを背負った西部劇の方に軍配が上がるのだろう。とはいえ、今から百年以上前の他国の過去の物語に、人々がそれほど熱狂するとは思えない。
 しかし、今回『トゥルー・グリット』を読んでみて、ずいぶん印象が変わった。なんというか思っていたほど古くないのである。何が? 物語の背景となる時代がである。
 いつかも書いたことがあるが、西部劇の時代を日本の時代に置き換えると、天保時代のイメージがある。木枯し紋次郎や座頭市がいた時代だ。が、実際は明治の頃で、法制度もそれなりに整っていたし、警察機構もそれなりに整備されていた。開拓時代というと荒っぽいイメージがあるし、実際に荒っぽかったのだろうとは思う。とはいえ日本から比べればよほどアメリカの方が文明国だった。これもまた事実だろう。それに荒っぽいという点を誰もが銃をもって、いつどこで銃撃戦がはじまっても不思議ではないという点にだけ求めれば、アメリカは今も昔もそれほど変わっていないということになってしまいそうだ。
 たとえばこの小説の舞台を1880年代とすると明治13年ごろだ。わが日本では文明開化を寿いでいたころだ。わずか13年前はまだ立派な江戸時代だった。山田浅右衛門の九代目、山田吉亮が最後に斬首を行ったのは明治12年だったと記憶している。
 日本で斬首の刑が執行されていたころ、アメリカでは弁護士のつく裁判が当然のように開かれ、法的な駆け引きがあり、すでに麻薬を取り締まる法律まであった。民主党と共和党の対立まであったのだ。西部劇というのは実はそんなに昔のお話ではないのだということがよくわかった。
 日本人の目から見れば『トゥルー・グリット』は遠い昔の少女の復讐劇などではなく、つい最近――というのはいくらなんでも言い過ぎだが――とにかく、今の時代と地続きの時代におきた犯罪者の追跡劇という感じさえしてくる。ジョン・ウェインの入り込む余地は、原作にもなさそうな気がするのが残念だ。

カテゴリ: 映画

テーマ: 洋画 - ジャンル: 映画

[edit]

Posted on 2012/02/08 Wed. 21:31    TB: 0    CM: 2

影に怯える 

 彼について印象をきかれたとするとたぶんこう答えると思う。
「真面目な男ですよ、ええ、ほんと真面目。見習いたいくらいです。ちょっと変わったところはあるけれど、よくいえば天才肌ですね。悪くいうと? そんなこといえませんよ――どうしてもききたい、こまったなあ」
 たぶん、ぼくはここで苦笑いを浮かべると思う。でも結局はこう答える。
「変人ですね。中途半端なガリレオね。ガリレオ・ガリレイじゃない、ドラマのほらあったでしょう、浮世離れした物理学者が事件を解決するやつ。あそこまで賢くない。もちろん、あれはドラマですけどね、でもまあ、賢さは彼の十分の一くらいかな――とにかく変人です」
 と、まあこんな感じになるのではないだろうか。もちろん現実にこんなやり取りはしない。想像の中である状況を思い浮かべ、ドラマ風に仕立ててみただけのことだ。
 彼が真面目な男であるという一点は、彼が変人であるという事実と同じく、間違いのないことである。難しことを知っているくせに簡単なことがわからない。本当の話だ。いまは統計学に凝っていて、その関連のややこしい話ならいくらでもできるくせに、郵便局で、
「切符をください」
 と、やってしまった。局員も洒落のわかる人物で、
「切符なら駅の方でお求めください」
 と、返したらしい。
 これはその彼からきかされた話だ。
 彼は結婚している。子どもはいない。ずっと愛妻家だと思っていた。事実愛妻家なのだが、このあたりが男のばかなところで、別の女性のことを気にかけはじめた。職場の女性で、人妻である。仕事のことで話をしているうちに、もしかすると彼女はぼくに興味があるのではないかとそんな気になってきたというのである。
 このあたりのことは、しかし、あまりあてにならない。彼は非常に聡明な男だが、人の気持ちを理解することがひどく苦手なのだ。好かれていると彼は思っていても、他人から見れば別にどうということもない世間話をしているだけということもありうる。おそらくそうではないかとぼくは考えているが、二人が話している現場を見たわけではないので何ともいえない。
 とにかく、彼は相手に好かれていると思っている。勘違いだろうがとにかく彼はそう考えていた。
 人間好かれていると思うと、悪い気はしないものである。なんとなく相手のことが気になりはじめ、気がつくとしょっちゅう相手のことを考えるようになっていた。
 彼女は美人というわけではなかったが、独自の魅力のある女性だということだった。残念ながらぼくは彼女を見たことはないので何ともいえないが、彼にとってたいそう魅力的な女性なのだろう。
 彼は独自の想像力を持っている。相手の心を思いやることや相手の考えていることを想像するといったことは苦手だが、自己完結的な想像力については驚異的なものを持っていた。自分自身を主人公にした物語を考えるとき、彼の想像力は恐ろしいほど緻密に、そして鮮明に動きはじめる。この場合の物語とはなにも世間一般でいうところのドラマではない。彼にとっては――今凝っている統計学も立派なドラマなのだ。
 とにかく彼の想像力は並外れていて、どうかすると現実の方が色あせて見えるほどだった。彼女との深まっていく関係を想像すると、彼にとってそれは想像の域をあっさりと越えてしまい、あたかも未来の記憶であるかのような、定められた将来の出来事を思い出しているような、なんとも不可解な錯覚に彼を追い込んでいくのだった。
 妻はなにも気づいていないと彼は考えていた。
 そのあたりが彼のわからないところである。彼は自分が人の表情から思いを察したり、相手の立場からその思いを想像することが苦手であると知っていた。しかし、知っているからその点は注意しないといけない――といかないところが彼のような人間の厄介なところである。わかっているというのなら、彼はたぶんぼくよりも多くのことがわかっているはずだ。が、わかっているというこということと現実にそれができるということの間には、大きな隔たりがあるのもまた事実だった。
 妻はなにも気づいていないと彼は信じて疑わなかった。
 彼のなかで彼女への思いが日々強くなっていった。そんなある日、妻が実家に帰ることになった。彼の精神的な浮気に気づき、怒った彼女が実家に戻るということではなかった。実家に親戚たちが集まる用事があり、どうしてもそれに顔を出さなければならなくなったのだ。
 妻の帰郷は一週間ほどだった。その間、彼はひとりで過ごすことになった。ひとりになったからといって彼女との関係が特別なものになることは金輪際ないとわかっていた。それでも度々心に浮かんでくる不埒な妄想を彼は抑えようとしなかった。
 それが起きたのは、妻が帰ってから五日目の朝だった。
 その日、仕事は休みだった。その前の晩、彼は遅くまで起きていた。何かに没頭しはじめると時間を忘れてしまう癖があった。そのことではよく妻に注意されていた。
 だから、その休日の朝、彼の目覚めはいつもより三十分ほど遅かった。しかもすぐにおきなかった。冬で寒いこともあり、目を覚ましたが蒲団の中でぐずぐずしていた。目を覚ましてから二十分ほど過ぎて、彼はようやく蒲団から出ようと思った。その時だった。
「ねえ」
 間近で声がきこえた。それはいつも妻が寝ているあたりから、はっきりと聞こえた。彼は弾かれたように飛び起きて隣を見た。いつもならそこに妻が寝ている。そのときは誰もいない。空耳だったのか。しかしそう考えようとしても、聴いた声はあまりにも生々しく、とても錯覚とは思えなかった。聴いた声はたしかに妻のものだった。
 別に怖くはなかったよ。後でこの話をきたとき、彼はそう言っていた。が、その直後に起きたことは彼を少しだけ驚かせた。
 声を聴いたと思ってから、時間にして十数秒、あるいは最も短かったかもしれない。メールの着信音が、たったひとりの寝室に響いた。もちろん大きな音ではないが、それでもその電子音が、背中に突き刺さってくるように彼には感じられたという。
 メールは妻からのものだった。実は見る前に、妻からメールが届くとわかっていたような気がすると彼はいっている。
『大丈夫?』
 メールの文面はそれだけだった。
 どうして妻がそんなメールを送ってきたのかわからない。彼は少し考えて、返事を送った。
『大丈夫だよ』
 そこまで入力して彼は考えた。その一文を入れるかどうか迷ったのだという。少し考えて、彼はその一文をやはり入れることにした。結果、彼の返信の文面は、
『大丈夫だよ、ぼくはここにいる』
 と、いうことになった。
 それから二日後、妻は帰ってきた。何事もなかったかのようにそれ以前の暮らしに戻った。メールのことを妻は一切口にしたなかった。だから彼も触れなかった。どうしてあんなメールを妻が送ってきたのか、彼には理解できなかった。しかし、メールが届く前に彼は妻の声を聴き(彼は絶対に聴いたと主張して譲らない)、その直後にメールが届いたという、彼にとっての現実が、彼のなかにある何かを少しだけ変えたのはどうやら事実らしい。妻以外の女性に対する不埒な思いが、彼のなかから完全ではないが、薄らいだことはまちがいなかった。
 彼が思っている以上に妻は勘がよく、その勘はもしかする超能力の域にまで達しているのかもしれない。彼は見たままの現実を信じる男で、基本的に見えないものは信じない、あるいは信じられないタイプである。
 しかし、声とメールの一件以来、少し考え方が変わったようだ。いろいろと彼なりに考えたらしい。
 いま彼は自分のなかにある不埒な思いを懸命に抑え込もうとしている。うっかり想像力の暴走に身を委ねれば、そういった事実があるないに関わらず、災いが我が身に降りかかるような不安を抱えているらしい。彼の妻は大人しい女性だが、その大人しさの影にある、恐ろしいものを見たと彼は考えているようだ。もちろん、悪いのは彼だ。
 彼は妻の影に怯えている。
 もっとも男という生き物は、そのくらいでちょうどいいのかもしれない。

カテゴリ: 日記

テーマ: 雑記 - ジャンル: 小説・文学

[edit]

Posted on 2012/01/31 Tue. 13:28    TB: 0    CM: 2

王の剣 

 とんでもないタイトルをつけてしまったが、何のことはない大河ドラマ『平清盛』についてである。何でも初回視聴率がワースト3に入ってしまったらしい。それはかまわない。ぼくは視聴率に興味がない。視聴率が高くても面白くないドラマはいくらでもあるし、その逆も、もちろんある。
 しかし、そのことと今回の大河ドラマが面白いかどうかはまた別の話しである。
 その前に、いきなり話はかわるが王によって引き抜かれる大剣はエクスカリバーと相場が決まっている。岩に刺さった大剣を引き抜くのはもちろんアーサー王だが、今回はそれが平清盛だった。アーサー王伝説をどこかで意識していなければあんな場面は出てこない――と思うが、どうだろう。平清盛をアーサー王に重ねて描こうとした狙いが製作者にあったように思えてならない。しかし、その狙いが成功したかどうかは、微妙だと思う。
 大河ドラマが『平清盛』に決まったときいたときに、真っ先に思い出したのが黒澤明だった。黒澤明は『平家物語』を映画化したかったそうである。タイトルは忘れたが、何かのインタビューでそう話しているのを読んだことがある。
『平家物語』ときくと古色蒼然という印象がぼくなどにはあるが、黒澤明にとって平家物語は『戦争と平和』だったようだ。平家の公達が戦って戦って戦い抜いて滅びていく。ぼくなどには琵琶法師が語る陰々滅々とした物語というイメージがあるが、黒澤明の頭の中では荘厳な悲劇がダイナミックに動いていたようだ。もし映画化されていれば、豪華絢爛だった『乱』の何倍もの華麗さとリアリティを併せ持った映像だったかもしれない。そう思うと撮ってもらいたかった気がする。今回の『平清盛』を眺めつつ、その思いをいっそう強くした。
 NHK大河ドラマの『平清盛』はどこかで黒澤明が描きたかった『平家物語』を意識しているような気もするが、このあたりは素人の勝手な思い込みである。素人の勝手な思い込みであることを承知でいえば、リアリティのある平安時代を背景に荒々しい武家の棟梁としての清盛像は、もしかすると生きていれば黒澤明が描いたかもしれない『平家物語』の一場面であったかもしれないという気がするのだ。
 時代劇を観るときの僕の悪癖は、黒澤明をどこかで意識してしまうことだ。NHKが描く今回の平清盛は、黒澤時代劇テイストの背景に、アーサー王伝説からちょいと場面を拝借して、従来通りのNHK大河ドラマのストーリーで構成した。そんな感じである。従って、もしこのドラマに問題があるとすれば、汚い平安ではなく、ご都合主義のストーリーではないかと考えたりする。
 幼い清盛が屋根に上れば追いかけてきた弟が落ちて、義母の本音が剥き出しになり、傷ついて街に出れば、かつて義父が殺した盗賊の子どもにばったり出会い出生の秘密を聴く。雨にうたれてしょぼくれていると、彼の惨めさを引き立てるように野良犬が走っていく(ちなみに雨で惨めさを強調させたのも黒澤明で『素晴らしき日曜日』のときにこれをやったと記憶している)。やっと雨が上がったかと思えば今度は自分の可愛がっていた犬の死体を発見する。大泣きしていると、そこに都合よく彼を探していた義父が現れ、
「弱いから死んだのだ! お前は弱い犬だ!」
 とか叫び、いきなり大剣を引き抜いて、
「どうだ! 抜いてみろ!」
 といわんばかりに地面に突き刺して去っていく。で、後はアーサー王伝説である。いったい何をしたいのだろう……。
 ここまで材料を揃えて、この展開はないだろうと思えてくる。画面が汚いという批判もあるらしいが、リアルな平安を描こうとした心意気はけっこう好きだ。以前、このブログで実録忠臣蔵を観てみたいと書いたこともあり、リアルな時代劇――というか時代劇と歴史劇の中間に位置するようなドラマを見たいとは思っていた。
 ではあるが、せっかくここまでやって悲劇も喜劇も、あまりに都合よく訪れる展開は何とかならないかと思えてくるのだ。
 このドラマに足りないものは、本当はなんだろう。ずっとそれを考えている。

カテゴリ: テレビドラマ

テーマ: 大河ドラマ - ジャンル: テレビ・ラジオ

[edit]

Posted on 2012/01/11 Wed. 08:58    TB: 0    CM: 0

大晦日 

 いよいよ、今年も終わりである。この時期になると思いだす曲がある。『大晦日』という曲で、作詞は岡本おさみ、作曲は吉田拓郎、そして歌ったのは桜井久美さんだった。ちなみにこの方は《くみ》と読むのではなく《ひさみ》と読むらしい。
 この人が歌った曲でぼくがよく知っているのは『おはよう』という曲だが、肝心の『大晦日』という曲は、昔ラジオのCMで聴いて、それ以来年の瀬になると気になるのだが、いまだにちゃんと聞いたことがない。古い昔にCMで聴いただけの曲を好きだというのも変だが、とにかく好きである。
 では、絶対に聴くことができないかというとそうでもない。youtbeで昔『風になりたい』を歌った川村ゆう子さんが『上を向いて歩こう』と『大晦日』を歌っているから聴くことはできる。だが、こちらの方は歌詞がよく聞き取れない。そのことがとても残念なのだ。岡本おさみさんの詞はじっくりとききたい。
 それに、川村ゆう子さんはとても好きな歌手だが、ぼくが聴きたいのは、あくまでも桜井久美さんの『大晦日』であるという点も重要だ。
 とにかく今年も一年が終わる。日本にとって厳しい年だった。いや、過去形でいってはいけない。厳しさはいまも続いている。過酷といってもいい状況に、今も多くの人々がおかれ、苦痛のなかで、古い年を送りだし、新しい年を迎え入れようとしている。人の思いには関わりなく時は過ぎていく。残酷なものだと思う。
 ずっと前にFMラジオで一種の歌謡ドラマのよな番組があった。新しく発売されたアルバムを取り上げ、そこにおさめられている曲をモチーフにした物語を女性DJが語るという趣向で、厳密にいえば歌謡ドラマではないのかもしれないが、他に言いようがないからそういうことにしておく。とにかくいかにもFM(当時の)らしい番組だった。
 余談だが、その番組で長谷川きよしさんのアルバム『After Glow』が取り上げられたことがあった。
「二人は星を持たない男と女だった」
 という語りと共に短い物語が語られ、その時流れた曲があの名曲『一言』である。印象的なピアノのイントロに続き――「心配しているなんて、あなたらしくもないわ」と歌われるあの曲は掛け値なしの名曲だと、今もかたく信じている。
 それはさておき、その番組のなかで大晦日についてこんなセリフが出てくる――と、ぼくは記憶しているが、あるいは間違っているかもしれない。
 新しい年がくるといっても今日が明日になるだけのこと。
 確かにそうなのだ。新しい年を迎える。しかし、夜が来て朝が来る。ただそれだけのこと――といってしまえばその通りである。
 世間には大晦日も元旦も無関係で働き続けている人々が少なからずいる。知り合いにも12月30日まで働き、31日だけかろうじて休み、1月1日から5日まで働くという人がいる。ほんとうにご苦労様である。世界は天才によって支えられているのではなく、そういった地味に、しかもたゆまず働き続けている人々に支えられているのだとあらためて思ったりする。我が身を振り返ると実に忸怩たる思いにかられたりもする。
 とにかく、大変な年が終わる。
 来年がどんな年になるのかわからないが、
「我々にとって良い年でありますように」
 そう祈らずにいられない。

カテゴリ: 日記

テーマ: 日記 - ジャンル: 日記

[edit]

Posted on 2011/12/30 Fri. 22:47    TB: 0    CM: 2

プロフィール

最近の記事

月別アーカイブ

最近のコメント

最近のトラックバック

カテゴリー

FC2カウンター

メールフォーム

ブロとも申請フォーム

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。